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【第一章】 『帰路』
一話
しおりを挟む「誰か・・・助・・・」
山の麓で男が一人、道の真ん中で行き倒れている。
つい先ほど山から降りてきたばかりのこの男の足元には、凶器とみられる小石が一つ。
昔と違い、人通りは多いのに誰も彼もが男の風貌に怪しみを感じ、素知らぬ顔で通り過ぎ助けようとしてはくれない。
昔と違い、世知辛い世の中になったもんだ…と男――雷は思う。
「はっ、腹が・・・減った・・・」
代々、名だたる仙人を輩出してきた蓬莱山の麓には、大きな道沿いに飯屋や宿屋が軒を連ね、旅人や行商人が行き交い賑わっている。
雷がこの地へ来た時には道はおろか建物の一軒も無く、蓬莱山は人の寄りつかない静かな霊山だった。
山に籠り、いつしか時間の感覚を失った雷には、突然現れたこの町はキツネの化かしのように映るのだが、運ばれた先の飯屋の年季に、確かな歴史を感じ、ひとり寂しさを覚えた。
「村の外れに大きな鉄の球の御神体がありましてね…」
曽祖父の代からこの地で飯屋を営んでいるという店主が、十五杯目の白米を雷に渡しながら話しを続ける。
「祖父さんの話だと、ある日、大きな轟音と共にその鉄の球が蓬莱山から降ってきて、偶然通りかかった旅人の目の前に落ちたんですよ。その時、落ちてきた鉄の球が地を割って、噴き出たのが温泉っていうのがこの湯治場の始まりでしてね…」
「ブーーーーッ、ゴホッ、ゴホッ」
「ちょっ、ちょっと、アンタ大丈夫かい!?」
いきなり米粒を飛ばし、咽せ上がった雷の背中を心配そうに叩く店主をよそに、雷の脳裏にある記憶が甦る。
それは、雷にとっては少し前。蓬莱山での修行に飽き飽きしていた頃のこと。
暇つぶしに修行場としていた洞窟内にあった鉄鉱石を溶かして幾つかの鉄の球を作っては、指一本で割る…という遊びに興じていた。
だが、ある日、洞窟の通路を塞いでしまっていた鉄の球を退かそうと、ちょっと、ほんのちょっと、いつもより力を入れすぎてしまったのか、家一棟分ほどの大きさの鉄の球を退かすのではなく、弾いて飛ばしてしまったのである。
その時雷は空いてしまった大穴のせいで崩壊寸前だった洞窟の修繕に追われ、鉄の球の行方を気にかける余裕はなかった。
―― まさか、山の麓に落ち、人様に迷惑をかけていたとは…。
(こんなこと、師兄に知られたら・・・)
一瞬、浮かびそうになった彼の人の顔を、頭を振って消し去ると、目の前に差し出された茶を一気に飲み干す。
「アンタ、本当に大丈夫かい? 結構な歳なんだから、無理しちゃ…」
空になった湯呑みに、もう一杯茶を並々と注いでくれながら、心配そうに気遣ってくれる店主に礼を述べ、それをまた一気に飲み干すと、ようやく落ち着きを取り戻した雷は、店主の「歳」という部分にだけ反応を示した。
「歳? 俺は十八です・・・」
と答えて、雷はハッとした。十八は修行前の年齢であるということに。
けれど、自分が何年あの山に籠り修行をしていたのかは皆目見当もつかない。初めの頃は“正”の字を岩に削っては日数や年数の把握はしてきていたが、それも百年が過ぎたあたりで面倒くさくなって止めてしまった。変わり映えのない毎日に数は必要ないと思えたからである。
けれど正確な年齢を答えられたところで、人を捨てた者の事情などは常人には理解しがたく、ならば、十八との答えは嘘ではないのだから、無難だったのではないかと雷は思った。
一方で店主は、何がどうあってそうなったのかわからないが、急に告げられた十八という年齢に驚き、疑惑の目を向けていた。
目を引く長く垂れた白髪とボロボロの古臭い衣装は、到底今時の若者とは程遠く…どちらかと言えば、田舎から這い出てきた年寄りの方がしっくりくる。
十八なんかと嘯きやがって――と、とてつもない年齢詐称に、白髪で隠されたシワシワの顔でも拝んで笑ってやろうかと覗き込んだ瞬間、目を掠めた黒曜石の輝きに店主の頬が朱に染まった。
「?」
目が合ったきり、急によそよそしくなった店主の態度に、雷は混乱と戸惑いの中で、年齢の話になるといつも実年齢よりも老けて見られるということを思い出した。
(じゅっ、十九と言えばよかった・・・)
嘘…を吐いたつもりはないが、店主の態度はあからさまで、目も合わせてもくれず、顔を真っ赤にさせ、口は開いたり閉じたり。今にも「この嘘吐きめ」と怒鳴られそうだ。
今さっきまでの和やかな雰囲気はどこへやら…。
客のない店は、より一層お互いの沈黙が際立ち、静寂に居心地の悪さを感じた雷はとうとう堪えきれずに懐から小さな巾着を取り出すと、「飯代は要らない」と言ってくれた店主に、助けてくれたお礼を述べ、無理矢理巾着を握らせると、逃げるように店から立ち去った。
あまりに素早く店から立ち去った雷に、少しの間店主の思考が止まってしまったが、そのうちハッと気づくと、雷の置いていった巾着の中身を見て、驚きの声を上げ、急いで店の外に出ると、町中を駆けずり回り、雷の姿を探すが見つからず、途方に暮れてしまった。
「…どうすんだよ、この古銭。あの若いの一体何者だよ。こんなの八代は食える価値があるぞ・・・」
―― その頃、店から飛び出した雷は、軽快に空に駆け上がり、そのまま町の外れまで飛んだはいいが、今現在橋の袂で口を押さえている。
「うぇっ、せっかくの美味い飯が、うぅ、出てきそうだ・・・」
空を飛ぶ浮遊術は、修行の初歩の初歩で会得する術だ。
蓬莱山での修行を終えた者は皆、頂上から飛び立ち故郷に帰るのが慣わしになっているのだが、雷にそれができない理由がこれである。
全てをぶち撒けて、楽になる方法もあるのだが、それでは店主の親切を裏切ることになる。そう考えた雷は、呑みすぎて胸に不快感を感じた時は、身を水に沈め、体を冷やすことで不快感を鎮めていた過去を思い出し、目の先で流れる川に躊躇なく身を投じた。
冬先の川の水は凍えるように冷たく、普通の人間なら内臓が凍りつき命の保証はないであろう。過去の雷も流石に季節を選び、浸かる時間は考えていた。
―― が、今や雷は人ではない。
一刻ほど暗い水底の深みに身を置いた雷は、逆に内臓を凍りつかせることで、ようやく胸の不快感から解放された。
(・・・あと、五杯はいけたな)
水面から顔だけを覗かせた雷は、体を川の流れに乗せて、先ほどの美味い飯を空に描く。
―― 甘辛く味付けた煮魚は、箸を止まらせないほど絶品だった。
焼いた鳥も、漬けた野菜も、出汁の効いた汁物も、素材の味を生かしつつ、濃い味付けが好みで…思い出すと腹が減ってくる。
(・・・そういえば、師兄の飯は・・・)
同じ煮魚でも、師兄の作る煮魚は、なぜかいつも百花繚乱の如く色艶やかな色をしており、匂いは師匠の褌の臭いなのだが、食感は石のように固く香ばしく、味というよりも、倒れそうなくらいの痺れを堪能する逸品だった。
―― 懐かしいな・・・泥団子が浮かぶ藤色の汁や苔色のブルブルした謎の肉。味覚が戻るのに数日要した、椿色のネバネバした蒸し野菜…。
師匠と師弟が居ない日はいつも師兄が竈門の前に立ち、雷はその凜とした背中を眺めながら、叶わぬ願いを胸に灯していた。
遠い故郷の、質素な小屋で、贅沢だった二人だけの食卓。
(俺が褒めると、師兄、顔には出さなかったけど、…あれ絶対、照れてたよな…)
日が隠れた後の瞬く星屑も、静かに輝く月も、あの頃と何も変わっていないのに、川の流れは緩やかだが止まることなく雷を遠い故郷へと運んでいく・・・。
「帰りたい・・・」
水は冷たく、痛みを与えながら凍りついていく体。
けれど、その痛みから逃れようと陸に上がり、自分の足で歩く方がもっとずっと苦痛を伴う。
「帰りたくない・・・」
人ではなくなった雷には無限の時間がある。故郷も逃げはしない。
ならば今は、ゆっくりと、自然の流れに身を任せ、川のせせらぎを耳に、瞼の裏に過去を映そう――。
続く。
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