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第七章:弱小国家の逆襲と反乱皇子
第一節:見覚えのある名前
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ヴェステラ発の共栄連合構想は、いまや現実となりつつあった。
公開株式制度の導入、新興企業の台頭、そして学院と直結した人材育成。
若き経営者たちは民間投資家の信頼を集め、都市の顔ぶれさえ変え始めている。
国は、変わり始めていた。──だが、すべてが順風ではない。
制度が整えば、入り込む者もいる。
開かれた都市の“懐”に、何かが潜むこともある。
──公都の加賀谷の執務室にて
午後の陽光が、静かに差し込んでいた。
加賀谷の執務室。主の不在中、ノアはいつものように机を整えていた。
淡々とした日課。だが今日は、胸の奥が少しだけざわついていた。
きっかけは、一枚の紙だった。
数週間前にも見た――〈学院講義用・出席予定者名簿〉。
加賀谷が出張授業に行く前、机に広げていたものの控えだ。
その中にあった、ひとつの名前。
──ユリス・アーヴェル。
最初に見たときは、ただ引っかかりを覚えただけだった。
でも今は違う。記憶の奥底に、ぼんやりと閉じ込めていた映像が浮かんでくる。
逃げた夜。
暗い廊下。誰かが無言で手を引いてくれた。扉の鍵が、音もなく外れた。
助けてくれたその人は、たった一言も発さなかった。でも、たしかにあの夜、確かに存在していた。
──あれがユリス、だったのかもしれない。
名簿を閉じる手が、ほんの少し震えた。
* * *
「……で、報告ってのは?」
戻ってきた加賀谷に、ノアは湯を淹れて手渡しながら、小さく告げた。
「……あの名簿にあった、“ユリス・アーヴェル”。もう一度見たの」
「帝国の属州出身だったよな。講義のとき、提出物が妙に良くてさ。発言は控えめだったけど、資料の作り込み方が完全に実務寄りだった」
加賀谷は湯をひと口啜りながら、穏やかに話す。が、ノアの表情は曇っていた。
「……スパイかもしれない」
加賀谷が湯呑を持ち上げかけた手を止める。
「……理由は?」
ノアはしばらく黙っていた。
けれど、やがてゆっくりと口を開く。声は静かで、どこか乾いていた。
「……わたし、帝国にいたの。
スラムの孤児で、魔導適性があるって理由で、研究施設に連れて行かれて……。
“役に立つなら、生かしてやる”って、それだけの場所。
人の心を読め、顔色を盗め、弱点を覚えろ――それが教育。
だからわたし、誰かの命令を聞くのは……得意。ずっと、そう育てられてきたから」
加賀谷は湯をそっと机に置いた。その動作は慎重だった。
ノアは続ける。声に感情はなかったが、言葉のひとつひとつは真っ直ぐだった。
「……逃げられたのは偶然。あの夜、誰かが手を引いてくれたの。
顔も覚えてない。覚えてたら、たぶん殺されてた。
でも、その人の背中は今でも覚えてる。……たぶん、ユリスって人だったんだと思う」
加賀谷はしばらく黙っていた。
静かな空気の中で、ノアは初めて自分から、自分の“出自”を語った。
そして――
「……そうか」
加賀谷の声は、静かだった。けれど、そこに含まれる重みは、ノアの胸に深く届いた。
「ずっと……そんな環境で、生きてきたんだな」
ノアは、かすかにうなずいた。
加賀谷は手の中で湯呑を回しながら、ぽつりと続けた。
「それでも今、お前はここにいる。命令じゃなく、自分の意思で動いて、考えて、俺に伝えてくれた。それがすごいよ」
「……べつに」
「いや、すごいんだよ。
過去がどうだろうと、今を選んで動いてる。
それができるやつは、そう多くない」
ノアはほんの少しだけ、息を吐いた。
「話戻るけど、ユリスが本人だって確証はない。……ただの同姓同名かもしれない。
でも……もしスパイだったら、ここに潜り込むために、わたしを逃がした可能性もある。だから……警戒は、しておくべきだと思った」
ノアの声は落ち着いていた。だが、その目はわずかに揺れていた。
加賀谷はしばらく黙って考え、そして――ふっと笑った。
「スパイでも、優秀な若者なら、話してみたい」
ノアが驚いたように顔を上げる。
「仮に刺客だったとしても、講義の場に来て、あんな資料を出すなら──少なくとも“話が通じるやつ”だろ」
「……カガヤは怖くないの?」
「怖くないわけないよ。でもな、たとえ危険でも“知る価値がある”人間なら、俺は向き合う。
それに――お前を逃がしてくれたのが本当にそいつなら、感謝もしてる。
お前が今ここにいるのは、そいつが命かけてくれたかもしれないってことだろ?」
ノアは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
何かを否定しようとしたわけでもなく、ただ――心のどこかに溜まっていたものが、少し溶けていくような気がした。
「……じゃあ、どうするの?」
「本人に会う。まずはそれからだ。
今の立場がどうであれ、“過去”と“今”を並べて見れば、答えは出る」
「……わたしも、行く」
そう口にしてから、ノアはふと、窓の向こうに目を向けた。
柔らかな日差しの先に見える学院──
あの場所に、“あの人”がいるかもしれない。
敵かもしれない。でも、恩人だったかもしれない。
あの手に導かれた記憶は、今でもぼんやりと胸に残っている。
ノアは胸の内でそっと呟いた。
(……確かめたい。あの人が、何者だったのか)
机越しに、加賀谷が静かに頷いた。
公開株式制度の導入、新興企業の台頭、そして学院と直結した人材育成。
若き経営者たちは民間投資家の信頼を集め、都市の顔ぶれさえ変え始めている。
国は、変わり始めていた。──だが、すべてが順風ではない。
制度が整えば、入り込む者もいる。
開かれた都市の“懐”に、何かが潜むこともある。
──公都の加賀谷の執務室にて
午後の陽光が、静かに差し込んでいた。
加賀谷の執務室。主の不在中、ノアはいつものように机を整えていた。
淡々とした日課。だが今日は、胸の奥が少しだけざわついていた。
きっかけは、一枚の紙だった。
数週間前にも見た――〈学院講義用・出席予定者名簿〉。
加賀谷が出張授業に行く前、机に広げていたものの控えだ。
その中にあった、ひとつの名前。
──ユリス・アーヴェル。
最初に見たときは、ただ引っかかりを覚えただけだった。
でも今は違う。記憶の奥底に、ぼんやりと閉じ込めていた映像が浮かんでくる。
逃げた夜。
暗い廊下。誰かが無言で手を引いてくれた。扉の鍵が、音もなく外れた。
助けてくれたその人は、たった一言も発さなかった。でも、たしかにあの夜、確かに存在していた。
──あれがユリス、だったのかもしれない。
名簿を閉じる手が、ほんの少し震えた。
* * *
「……で、報告ってのは?」
戻ってきた加賀谷に、ノアは湯を淹れて手渡しながら、小さく告げた。
「……あの名簿にあった、“ユリス・アーヴェル”。もう一度見たの」
「帝国の属州出身だったよな。講義のとき、提出物が妙に良くてさ。発言は控えめだったけど、資料の作り込み方が完全に実務寄りだった」
加賀谷は湯をひと口啜りながら、穏やかに話す。が、ノアの表情は曇っていた。
「……スパイかもしれない」
加賀谷が湯呑を持ち上げかけた手を止める。
「……理由は?」
ノアはしばらく黙っていた。
けれど、やがてゆっくりと口を開く。声は静かで、どこか乾いていた。
「……わたし、帝国にいたの。
スラムの孤児で、魔導適性があるって理由で、研究施設に連れて行かれて……。
“役に立つなら、生かしてやる”って、それだけの場所。
人の心を読め、顔色を盗め、弱点を覚えろ――それが教育。
だからわたし、誰かの命令を聞くのは……得意。ずっと、そう育てられてきたから」
加賀谷は湯をそっと机に置いた。その動作は慎重だった。
ノアは続ける。声に感情はなかったが、言葉のひとつひとつは真っ直ぐだった。
「……逃げられたのは偶然。あの夜、誰かが手を引いてくれたの。
顔も覚えてない。覚えてたら、たぶん殺されてた。
でも、その人の背中は今でも覚えてる。……たぶん、ユリスって人だったんだと思う」
加賀谷はしばらく黙っていた。
静かな空気の中で、ノアは初めて自分から、自分の“出自”を語った。
そして――
「……そうか」
加賀谷の声は、静かだった。けれど、そこに含まれる重みは、ノアの胸に深く届いた。
「ずっと……そんな環境で、生きてきたんだな」
ノアは、かすかにうなずいた。
加賀谷は手の中で湯呑を回しながら、ぽつりと続けた。
「それでも今、お前はここにいる。命令じゃなく、自分の意思で動いて、考えて、俺に伝えてくれた。それがすごいよ」
「……べつに」
「いや、すごいんだよ。
過去がどうだろうと、今を選んで動いてる。
それができるやつは、そう多くない」
ノアはほんの少しだけ、息を吐いた。
「話戻るけど、ユリスが本人だって確証はない。……ただの同姓同名かもしれない。
でも……もしスパイだったら、ここに潜り込むために、わたしを逃がした可能性もある。だから……警戒は、しておくべきだと思った」
ノアの声は落ち着いていた。だが、その目はわずかに揺れていた。
加賀谷はしばらく黙って考え、そして――ふっと笑った。
「スパイでも、優秀な若者なら、話してみたい」
ノアが驚いたように顔を上げる。
「仮に刺客だったとしても、講義の場に来て、あんな資料を出すなら──少なくとも“話が通じるやつ”だろ」
「……カガヤは怖くないの?」
「怖くないわけないよ。でもな、たとえ危険でも“知る価値がある”人間なら、俺は向き合う。
それに――お前を逃がしてくれたのが本当にそいつなら、感謝もしてる。
お前が今ここにいるのは、そいつが命かけてくれたかもしれないってことだろ?」
ノアは、ほんの一瞬だけ言葉を失った。
何かを否定しようとしたわけでもなく、ただ――心のどこかに溜まっていたものが、少し溶けていくような気がした。
「……じゃあ、どうするの?」
「本人に会う。まずはそれからだ。
今の立場がどうであれ、“過去”と“今”を並べて見れば、答えは出る」
「……わたしも、行く」
そう口にしてから、ノアはふと、窓の向こうに目を向けた。
柔らかな日差しの先に見える学院──
あの場所に、“あの人”がいるかもしれない。
敵かもしれない。でも、恩人だったかもしれない。
あの手に導かれた記憶は、今でもぼんやりと胸に残っている。
ノアは胸の内でそっと呟いた。
(……確かめたい。あの人が、何者だったのか)
机越しに、加賀谷が静かに頷いた。
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