弱気な男爵令嬢は麗しの宰相様の凍った心を溶かしたい

灰兎

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4、無敵のイケメン宰相様に苦手科目はありませんでしたが、かくれんぼはお嫌いな様です

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「行ってらっしゃいませ、宰相様」

「行ってきます、シェリルさん」

宰相の朝のお見送りを初めて3日目。慣れないながらも初日ほどの恥ずかしさはない。

ヴィンセントはちょっと視線を泳がせた後に、シェリルの頬にキスをした。

シェリルと、その場に居た数名の使用人の驚きで、玄関ホールの空気が無音のまま揺れる。

「今日は少し早く帰れるかもしれません」

「はい、お待ちしております」

シェリルは今のキスは何ですか?と聞きたい気持ちを押し殺して微笑んだ。




城からさほど遠くない場所に、ブランデンブルグ家が所有する屋敷の中では比較的こじんまりとした屋敷があり、アーサーと賭けの密約を交わした翌日から、シェリルとヴィンセントはここで暮らすことになった。

ヴィンセントは相変わらず有能で、屋敷でも仕事をしている時は無駄も容赦も無いのに、終わってシェリルと夕飯を食べている時に急に手を繋いできたりと、少しだけ大胆な行動をしてくる。そのどこまでが意図的でどこまでが無意識なのかは分からないけれど、その度にシェリルの心臓は限界を迎える。






シェリルは一人での昼食を済ませると、ヴィンセントとの夕食時に着るドレスを決めた。

部屋に誰も居ないのは、シェリルがメイドに囲まれるのに慣れていないからだ。

服を決め終えると、昨日ヴィンセントに許可を貰った温室に行く為に部屋を出る。

ぽつぽつと雨が降って来ていたが、雨音を聞きながら薔薇を眺められるなんて素敵だと思った。

屋敷の裏手にある温室へ入ると、そこだけ時間が止まった様に、静かだった。

シェリルは何をするでもなく、近くにあった鋳物のガーデンチェアに座る。




小さい頃から自分で出来ることは自分で、が当たり前だった。

ドレスだって、それ程凝っていなければ一人で着られるし、身の回りの事をするのに何も不自由はない。そうなるように小さい頃から自分なりに努力してきた。

優秀な兄に少しでも追い付きたい、と言うのが大きな理由だったけれど、「女の子は勉強なんかしなくていい」、「人に頼らなくて可愛げがない」等と両親からは残念がられて、一度もシェリルの頑張ったことは評価されなかった。

今思うと両親は、もっと人に頼っていいよ、とか、そのままで良いんだよ、とか、そう言う事を伝えたかったのかもしれない。

それでもどんどん出世して行く兄を見て、自分はせめて結婚することで実家に貢献しなくちゃいけないと、それが自分の存在意義なんだと思うようになっていた。

だから、たまたま助けて貰ったこの国の中枢に居るヴィンセントに淡い恋心を抱くなんて、意味の無いことなのだと、自分の愚かさを恥じた。

それがアーサーからの提案で、どちらにしても両親の為になる報酬が得られるのだから、後一ヶ月はこの夢みたいに幸せで、行き止まりの毎日を過ごしても良いと思い込める材料が出来たと思った。

多分これからの人生で、こんなにときめく瞬間はもう訪れない。

けれど段々と、自分の存在意義とか諸々の事情の為にヴィンセントを巻き込んでもいいのか、疑問に思い始めた。

それに正直ヴィンセントの心を溶かすなんて、どうやったらいいか分からない。彼の心の何処が、何が、どうして凍っているのかすら知らないのに。

「何やってるんだろ、私……」

急に虚しさが込み上げてきた。数日前はあんなに意気込んでいたのに。

シェリルは少しだけ泣いた。

いつもはもうちょっと楽天的なのに、今日はなんだか心が晴れない。



「シェリルさん、探しました」

もう少し落ち着いたら屋敷に戻ろう、そう思っていたら、急に後ろからヴィンセントの声が聞こえてシェリルの瞳に溢れていた涙は急停止する。

素早く袖で涙を拭いてから振り向こうとしたのに間に合わず、前に回り込まれたヴィンセントに、抱きしめられた。

今朝見送った時と同じ爽やかで優しいコロンの香りがする。

ヴィンセントは屈んでいる体勢なので、せめてこちらも立ち上がろうとするも、きつく抱きしめられて、身動きが取れない。

「宰相様……」

「居なくなってしまったかと思いました。私の居ない間に──」

ヴィンセントの低い声がシェリルの耳元で深く響く。

「そんな! こんなにお世話になっているのに、宰相様やお屋敷の皆さんにお礼を申し上げずに急に居なくなったりしません」

「あなたは時々遠い目をするから、いつか突然居なくなってしまいそうで──」

「そんなこと無いです。それに昨日温室を使っても良いか、宰相様にお尋ねしました」

「そうでしたね、私としたことが、うっかりしていました」

ヴィンセントは少し落ち着いたのか、シェリルを腕から解放した。

改めて顔をまじまじと見られる。

「泣いていたのですか? 何か辛いことが?」

「いえ、眠くてあくびしたら涙が出ただけです」

こんな時「そうなの。なんだか悲しくて……」と男性の胸に飛び込める女の子だと可愛気があるのかもしれない。

涙の訳を話さないシェリルに視線を投げ掛けながら、椅子を一脚持ってきて隣に座るとシェリルの膝の上の小さな両手に自分のそれを重ねた。

一瞬間があってから、ヴィンセントの形の良い唇が開く。

「シェリルさんは、陛下のおっしゃった事を聞かれないのですね」

「陛下の? 宰相様のお心の事ですか?」

ヴィンセントは静かに頷く。

「それは……気にならないと言ったら嘘になりますけど、宰相様の個人的な事をうかがうのは憚られると思いまして……」

「陛下がどういうつもりであの時話したのか分かりませんが、私は貴方になら話しても良いと思えました。いえ、むしろ貴方には聞いて頂きたいと──」

すぐ近くにあるヴィンセントの輪郭が美しくて、指でなぞったらどんなだろうと思う。

「私なんかで良ければどうぞ、いくらでもお話下さい」

シェリルが答えると、ヴィンセントはサファイアの瞳でシェリルを見つめた。

それは鋭い物でも、何か含みのある物でもなく、心が少し揺れているような、そんな視線だった。

「昔、私が十六の頃に婚約者が居ました」

突然の告白にシェリルは心がきゅっと締め付けられる。

「いらっしゃった、と言うのは……?」

「相手の方は十八歳で、とても綺麗な方でした。社交界でいつも嫉妬や妬みの対象になる程に」

(そんなに綺麗な女性ってどんな方だろう……)

「当時の国王は非常に有能なお方でした。ですが女性がとてもお好きで、美しい女性がいると放っておけなかった。それが当時、お妃と四人いらした側室の悩みの種でした」

「その方は、今の国王陛下の……」

「お父君です。実際の所、国王陛下がニーナ──私の元婚約者をどうこうしようとしていたかは分かりません。ですが彼女の美しさに嫉妬した側室の一人の謀略にはまり、結局、彼女は修道院に入る道を選びました」

「そんな!」

「ニーナは元々欲の無い人で、貴族社会の生き馬の目を抜く様な残忍さや、醜い足の引っ張り合いにはうんざりしていました。なのである意味良かったのかもしれません」

初めて見るヴィンセントの少し歯切れの悪い笑顔と、その彼から発せられた『ニーナ』と言う女性の名前に、心のモヤモヤが増していく。

「宰相様は、その方を今も愛していらっしゃるのですか?」

聞いてはいけないと思いつつ、自分を止められない。

「いえ、もう遠い昔の事です。ですが、あの時の私は彼女に恋をしていたのだと思います」

ヴィンセントはひたすら淡々と続ける。

「当時の私はとんでもなく思い上がった愚か者でした。
生まれた時から欲しい物は大抵貰えたし、何でも持っていると思っていました」

(さすが公爵家の御子息。生まれた時からスケールが違う……)

ヴィンセントの発言に、一瞬モヤモヤも忘れて妙な感心をしてしまう。

「それが人生で初めて、欲しくても手に入らないものに出会いました。それが彼女の心です」

「なるほど……」

「彼女は私を弟の様に可愛がってくれましたが、男としては見ていませんでした。
そんな時に事件は起きました。私は何も出来なかった自分を恥じ、後悔しました」

「それは宰相様のせいではないし、どうにかするのは、まだお若かった宰相様には難しいお話では……」

「それでも、何かしらは出来たはずです。私は心のどこかで、彼女が自分を好きになってくれないのなら、これからずっと誰のものにもならない修道女で居てくれたらいい、と最低な事を思っていたのかもしれません」

「……それが陛下のおっしゃっていた、宰相様の凍ったお心の原因ですか?」

「私の心は凍っていません。陛下がそう思い込まれているだけなのです。私がこの年になっても所帯を持たないので」

ヴィンセントはやっといつもの様な笑顔を取り戻した。

「私が宰相様にこんな事を申し上げるのは失礼だと重々承知の上なのですが、今からでも、ニーナさんに会いに行ってみるのはいかがでしょうか?」

「会いました。八年程前の事ですが、ニーナの方から会いに来てくれました。伴侶を連れて」

「えっ!」

シェリルは思わず淑女としてではない、地の反応が出てしまう。

「彼とは教会で出会ったそうです。ニーナは私が一度も見たことが無い程に幸せそうでした」

「……」

(国王陛下ですら上手くあしらっていらっしゃる宰相様でも、どうにもならないことがあるのね……)

シェリルはヴィンセントの初恋(推定)の傷が長い時を経ても癒えていないのを知って愕然とする。

(陛下はこの事をご存知なんだわ。でも私には何も出来ない……)

「聞いて下さってどうもありがとうございました。誰かにこんなに自分の事を話したのは初めてです」

ヴィンセントの笑顔を見るのが少し辛くて、目線をそらした。

ヴィンセントの両手がシェリルの手をぎゅっと握る。その指先が少し冷たい。

「私の心は凍っていませんが、ずっと、どこか時が止まっているような感覚でした。でもあの夜、貴方に出会って心の時が再び動き出したような気がしました」

「宰相様──」

「シェリルさん、私は貴方にどこにも行って欲しくありません。我が儘なお願いですが、ここにずっと、居て下さいませんか?」


    
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