100日後に〇〇する〇〇

Zazilia

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3 出張

12日目 お客さん

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4時


 ぼくは、徹夜をしたことがない。
 夜明け前まで起きていたとしても、1度は眠ってからでないと、学校に向かったり、職場に向かったりと行ったことが出来ない。
 1時間ぽっち眠ってしまっては、逆に朝が辛いだけだと知っていても、寝ないわけにはいかないのだ。
 先日の朝、朝日を見ながら、ハリエットさんとともに帰路についたぼくは、シャワーを浴びてから、泥のように眠ってしまった。
 お酒を飲みすぎてしまったとき特有の気だるさを抱えながら、何度か寝たり起きたりを繰り返した後、ぼくは、いつも通りの時間に目を覚ました。ストレッチをして、プロテインを飲んでから、リビングのローテーブルにメモを置き、シャワーを浴びた。外着に着替えて、早朝の静かなベネチアの街へ繰り出す。
 運河沿いを歩き、レンガ造りの短い橋を渡り、回転の準備をはじめているカフェやバールの前を通り過ぎて、ぼくは、再びサン・マルコ広場にやってきた。
 広場には、誰もいなかった。
 星空は少し暗くなっている。
 広場のあちらこちらにある小さなアックア・アルタは、どこかへ消えてしまっていた。
 人っ子一人いない広場を、ゆったりと歩き、サン・マルコ大聖堂の前を右に通り過ぎ、2つの塔の間を通り過ぎて、湾へ向かう。
 右を見ても、左を見ても人はいない。
 ヴァポレットの乗り場には明かりが点いていなかった。
 湾沿いに腰掛け、瞳を閉じて、耳を澄ます。
 波の音やそよ風の音、海鳥の囁くような小さな鳴き声に混じって、木のきしむ音が聴こえてくる。ヴァポレット乗り場の木製の足元が波に揺れているのだ。
 ぼくは、ゆっくりとまぶたを上げた。遠く離れた先には、島の明かりが見える。
 今日はあそこに行ってみようか。
 あそこはジュデッカ島だったか、それともリド島だったか。
 ベネチアは細い路地を歩くのが楽しいので、まだ本島から出たことがなかった。
 せっかくの休暇。
 次はいつ行けるかもわからない。
 ぼくは、ヴァポレットの乗り場まで向かい、時刻表を確認した。
 船が出るまでまだ時間がある。
 ぼくは、それまでの間、静かさ朝のベネチアを散策することにした。


7時5分


「やあ」ジュデッカ島に行く前にもう一度シャワーを浴びようと思い、宿泊したホテルのロビーに入ると、ボーイッシュな女性に声をかけられた。
 真っ白な肌、波打つショートブロンドの髪、豊かな金色のまつ毛に脂肪のない薄いまぶた、物憂げな感じを醸し出しながらもキラキラと輝いている灰色の瞳はまるで、ダチョウの目のように美しかった。彼女がすくっと立ち上がると、天井に届きそうなほどに背が高く、肩幅は狭くほっそりとしていた。彼女は、懐から国際魔法犯罪課のバッジを取り出した。シェルナーさん。知らない人だ。「ソラだね。ハリエットを待っているんだが、もしもまだ部屋にいるようなら呼んで来てくれないかな」訛りのないドイツ語。落ち着いていて、重みのある女性の声。なんだか、出来る女のオーラがむんむんだった。
 ぼくは首を傾げた。人に指示を出し慣れている声色と口調が、なんだか少し怖かった。シェルナーさんの全身を巡る魔素、体表から漂う魔素に意識を傾けるも、敵意や悪意は感じられない。「あの、すみません。どこの誰ですか? もう一度バッジを見せていただいても?」
 シェルナーさんは、無表情で頷くと、もう一度こちらにバッジを見せてきた。
 本物のバッジだ。
 ぼくは、頷いた。「なぜぼくを?」
「有名だよ。魔法界を救った英雄の1人だ」
 またこの手の人か……、ぼくは少しうんざりした気持ちで曖昧に微笑んだ。
 曖昧に、程良く愛想良く微笑むことは、大人の世界で役立つ処世術の1つだ。
 シェルナーさんは、こちらに右手を差し出してきた。「済まない。挨拶が先だったね。失礼した。シェルナーだ。きみならディートって呼んでくれても良いぞ」
「空です。空って呼んでください」
「よろしく。ソラ、お願いしても良いかな」
「呼んできますね」
 シェルナーさんは、頷いたあとで、口を開いた。「あ、ついて行っても良いかな」
「えっと」ぼくは、リビングの様子を頭に思い浮かべた。下着を脱ぎ散らかすのが趣味のアナちゃんだが、このホテル内においては、その習性を目の当たりにすることはなかった。たぶん自室で脱ぎ散らかしているんだろう。ぼくの部屋は散らかっているけれど、テーブルの上は綺麗にしておいたし、大丈夫だろう。「すみません、少し待っていてください。見てきます」
「頼んだよ」
 ぼくは、階段を早足で、音もなく駆け上がり、最上階の部屋に戻った。
「ハリエットさん?」
「ああ、ここだよ」ハリエットさんは、コーヒーを啜っていた。スーツを身にまとっている。良い匂いもする。シャワーも浴びたようだ。身なりを整えていたようだ。
 ぼくは眉をひそめた。
 気のせいかも知れないけれど、いつも自然体でゆったり堂々としているハリエットさんが、今は少し緊張しているようだった。
「ロビーに人が来てます」
「あぁ、ディートに会ったんだね」彼女は、カップを置いた。
「はい、部屋に上がっても良いかと」
「1杯飲んでしゃきっとしてから行こうかと思ったんだが……」ハリエットさんは腕時計を見た。「7分か。待ってもらいすぎてしまったな。すまないがソラ、お願いしても良いかな」
「わかりました」
「わたしの大切な客人なんだ。申し訳ないが、執事になった気持ちでこちらに連れてきてくれ。くれぐれも粗相は無いようにな。もちろん、きみには言う必要もないだろうが、念の為さ。それほど大事な人なんだ」
「恋人ですか?」
 ハリエットさんは、朗らかに笑った。「違うよ。仕事関係だ。よろしく頼むよ」
 ぼくは頷き、部屋を出て、音もなく階段を駆け降りた。
 ロビーに戻れば、シェルナーさんが姿勢良く、しかしリラックスした様子で立っていた。
 黒いコートに身を包んだ彼女は、光沢のある黒いブーツを、静かに鳴らして、こちらを見た。「どうだったかな?」
 なんだか少し緊張しているようでした、というセリフが真っ先に浮かんだけれど、それは飲み込んでおいた。「身だしなみを整えていました」
「そうか、緊張させちゃったか」シェルナーさんの灰色の瞳がぼんやりと光った。灰色の瞳は、精神の魔素をその身に宿していることを表す。ぼくのような生命の魔法使いが、周囲の感情や思考を漠然と感じ取るのに対して、シェルナーさんのような精神の魔法使いは、周囲の感情や思考をくっきりはっきりと、まるで手に取るように、目で見るように、耳で聞き取るように、舌で味わうように、鼻で嗅ぎ取るように感じ取る。触覚、視覚、聴覚、嗅覚、味覚に咥えて、精神の魔法使いたちは精覚というものを備えているのだと、友人の精神の魔法使いは言っていた。ただ、別の精神の魔法使いに精覚と言ったとき、その単語を使っているのはその子だけだということがわかった。「ハリエットは、私のことを大切に思ってくれているようだね。だが、執事を演じる必要はないよ。その心遣いだけ受け取らせていただこう」シェルナーさんは、ぼくに優しく微笑んだ。「案内してくれるかな」
 ぼくは頷いた。
「仕事は楽しんでいるかな?」階段を上がりながら、シェルナーさんは言った。
「ほどほどに。やりがいを感じてます」
「そうか。良かった」シェルナーさんは頷いた。「きみは、思いがけず強大な力を手にして、あちらの世界を救ったわけだけれど、私個人としては、きみにはきみの生きたいように生きて欲しいと考えている。そのためのサポートも、出来る限りするつもりだ」
「ありがとうございます。でも、あまり戦争の話は蒸し返さないでください。褒められると居心地が悪くて。そもそも、なにも褒められるようなことはしてませんよ。あのときあそこにいたのはぼくじゃなくても良かったはずです」
「そんなことないさ。きみと同格の同級生312人の中で、同じことが出来たのは、たぶん数えるほどしかいない」
「それなら、ぼくがあの場に言わせたのは運が良かったっていうことですね」
 シェルナーさんは、小さく笑った。「自分は特別ではないと?」
 ぼくは頷いた。
「きみが手にした力は一朝一夕で身につくものではないよ。雨はどこにでも降るが、恵みとなるのは耕された畑に降った雨だけだ」シェルナーさんは首を傾げた。「ちょっと違うかな、この例えは」シェルナーさんは照れたように笑った。
 ぼくも笑った。
「わたしがきみの立場ならこう思う。自分は生まれたときから15年間、努力を続けていた。そしてついに、その成果を試すチャンスに巡り合ったんだって。そして、きみは自分の力で勝利を勝ち取った」
 ぼくは、あえて困った素振りを見せて、小さく微笑んだ。「努力をしていたという認識もなかったんです。それが当たり前だったから」ぼくは、最上階、スウィートルームのドアの前で立ち止まった。
 シェルナーさんは、ぼくの一歩後ろで立ち止まった。「時間があれば、ゆっくり話したいな」
「ありがとうございます」ぼくは、2回ノックをした。「その、光栄です」
 シェルナーさんは、にっこりと頷いた。
「入ってくれ」ハリエットさんの声。
 ぼくは、押し開けたドアの脇に立ち、シェルナーさんを迎え入れた。
 そういえば、ここにはなにをしに来たんだっけ。シャワーを浴びに来たんだ。どうしよう。
「やあ、ハリエット」
「シェルナー。待たせてすまなかったね」
 ハリエットさんとシェルナーさんはハグをした。
 シェルナーさんは、ハリエットさんの髪に鼻を埋めた。「素敵な香りだ。これが嗅げたなら、10分程度待たされたところでなんてことないさ」
 ハリエットさんは笑った。「コーヒーを入れてある。ソラ、すまないが、仕事の話をしたいんだ。外で待っていてくれるかな」
「待ってくれ」シェルナーさんは人差し指を立てた。「ソラはインターンなんだろう。同席してもらっても良いんじゃないか?」
 ハリエットさんは、笑顔を引っ込めて、シェルナーさんを見た。「巻き込むことにはならないか?」
 シェルナーさんは、自然な感じで、リラックスした様子で肩を竦めた。「協力してインターンとしての株を更に上げるか、協力せずに休暇を楽しむかを選ぶことになる。どうせほとんどのところはすでに終えているんだ。問題ないだろう」
 ハリエットさんはぼくを見た。「ソラ、どうする?」
 ぼくは、返事をする上で、シェルナーさんとハリエットさんの関係性を判断材料にすることにした。
 ハリエットさんの様子を観るに、シェルナーさんに対しては丁寧に接している。
 一方、シェルナーさんは、ハリエットさんに対して遠慮のない立ち振舞をしている。
 たぶん、シェルナーさんの方が目上なのだろう。
 それなら、シェルナーさんの提案に従う方が良いのかも知れない。
 ハリエットさんの目には、特に不安や心配と言った感情は浮かんでいないように見えた。
 ぼくは、頷いた。「じゃあ、お邪魔します」言って、ぼくは、ハリエットさんの隣に座った。
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