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二章
しおりを挟む豪与华は馬から降り、数歩進んで立ち止まった。
「将軍?」
不思議に思った浚龙も立ち止まり、大きな背を丸めて主人の反応を伺う。
豪与华は何故か、殿へと続く道を逸れた。
そのまま人目につかない庭の影に行くと、突然自分の襟を開く。
日に焼けていない白磁の肌が光に晒され、浚龙は目を逸らすことなく凝視してしまう。
すると豪与华の手が伸び、彼の首を胸元に抱き寄せた。
「忘れていた。つけろ」
「え?」
「早く。鬱血痕だ」
浚龙は主人の意図を理解できなかったが、彼は絶対に意味のないことをしない。
その為特に理由を尋ねることはなく、言われた通り肌に唇を寄せた──
・・・
二人が殿の中に入ると、ざわざわと落ち着きがなかった。
まだ皇帝は来ておらず、朝政は始まってすらいない。だというのに、臣下達はあちこちで囁き合っていた。
豪与华は前世のことを思い出し、人知れずため息を吐いた。今日のことが明確なきっかけとなり、前世は颜睿との仲が完全に崩壊したのだ。
それよりも前から──いつの頃からか気まずくはあったが、少なくとも幼馴染みという繋がりは微かにあった。
「おや豪将軍、珍しいですな。貴殿が朝政に出られるとは。何か気になることがありましたかな」
豪与华は話しかけてきた男を見遣り、無表情のまま儀礼的な挨拶をする。
「左丞相、ご健在のようでなによりです。今朝方何かあったようだが、私は何も」
「そうかそうか……実はな、昨夜颜将軍府で人攫いがあった」
豪与华はちらりと左丞相の脂ぎった顔を眺め、胡散臭い芝居を、と内心悪態をつく。しかし彼は顔に感情を出したことは一度もなく、普段通りの態度で対応した。
「そのようなことが」
「ああ。颜公主が攫われたのだ」
「颜公主が?」
「ふむ。豪将軍は昨夜どこで何を?」
途端、殿内の目が一斉に豪与华に向いた。
眉を顰めた浚龙は、さりげなく主人を庇うように前に立つ。
豪与华が口を開きかけた時、落ち着いている低い声が響いた。
「左丞相。私が居ない場で犯人探しはやめて頂きたい」
殿内に入ってきたのは、品がある体格の良い美丈夫── 颜睿だ。
豪与华は、突然現れた彼に僅かに動揺した。湧き出す感情を堪えようと、ゆっくりと瞬きをする。
颜睿は長い髪を高い位置で一つにまとめ、寸分の狂いもない端正な顔を露わにしていた。
実直で汚い策略を嫌う、穢れのない男だ。彼の真っ直ぐ過ぎる眼差しは、いつも豪与华の心を燃やし尽くしていた。
豪与华の前まで来た颜睿の目線が、左丞相から彼に移る。しかし豪与华は、それとなく目を逸らした。
「左丞相は私を疑っているようだが、私は昨夜自身の将軍府に。そのようなことをする暇はありません」
それを聞いた颜睿は眉を寄せ、左丞相に目線を戻した。
「豪将軍にこれ以上の質問は不要です」
「いや、まだ何をしていたかは聞いていないでしょう」
豪与华は前世のこの日を思い出し、覚悟を決めた。
有耶無耶にしたところで、得るものは何もない。余計に疑われるくらいなら、本当のことを言ってしまった方が良い。
それに、こんなことをしている場合ではない。記憶が新鮮な内に、死んだ時のことを振り返りたかった。
豪与华は煽るように薄く笑みを浮かべ、さらりと言い放つ。
「私は昨夜、私の副将と袖を切りあっていた。先程も言った通りそのような暇はありませんよ」
途端、騒がしかった殿内が水を引くように静まり返った。
颜睿の顔には僅かな驚きが浮かび、口を硬く引き結んだ。
彼が握り締めた拳には青筋が浮かんでいるが、豪与华がそのことに気づくことはなかった。
「はは、面白い冗談だな。確かに豪将軍は美しい。しかし剣神とも呼ばれる貴殿が男に組み敷かれるとでも?」
弾けたように笑う左丞相に、豪与华もふっと笑いかける。
「その私が許している。何か問題が?」
彼は自身の襟に手を掛け、軽く横に引く。するとその隙間から、赤黒い鬱血痕が現れた。
見え隠れする豪与华の艶かしい夜の残り香に、それまで黙っていた臣下達の言葉が止まらなくなる。
「豪将軍が断袖……」
「あの顔なら……」
「一体何人……」
豪与华はひそひそと話す彼らを全く気にせず、しかし颜睿を見る勇気はなく。普段通りの顔で踵を返した。
「朝政前だが、私は公務がある為失礼する。行くぞ、浚龙」
「はい」
浚龙は大きな扉を開き、豪与华を通すと共に将軍府へ戻る。
殿内の颜睿は暫くの間、外へ消えていく背を追っていた。
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