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六章 裂开
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衣擦れの音が敖暁明の熱を上げる。
敖暁明の視線の先には、床に点々と落ちる衣があった。
彼は朱丽が歩きながら脱いで行った衣を一枚ずつ拾い上げる。
最後の一枚を手にすると、衝立越しに話しかけた。
「朱丽、手伝うよ」
「要らぬ」
返ってきたのはそっけない声だ。
敖暁明は期待を打ち砕かれ、この機会をどう活かせるかを考え始めた。
「じゃあここに居るから、用があったら呼んで」
「ああ」
ばしゃ、と湯が跳ねる軽い音が響く。
敖暁明は衝立に寄りかかり、膝を抱えて座り込む。そして目を閉じた。
……静かだ。
今は、世界に私と朱丽しか存在しない。この世で最も尊い、私の朱丽。彼以外の人間に存在価値はない。
敖暁明の杏眼が穏やかに細められる。
彼は快い静寂に身を任せていたが、男の落ち着いた声に顔を上げた。
「暁明、浴布をくれ」
「うん」
敖暁明は衝立を回り、天蓋越しに桶へ近づく。
すると透けた薄布の向こうに、剥き出しの白い肌が現れた。
敖暁明は舐めるように、肩甲骨がはっきりと浮かぶ背を見つめる。渇き切った喉を潤すように、幾度か唾液を飲み込む。
朱丽の鍛えられている背に広がる数多の傷跡は、まるで羽の管のようだ。
──こうしてみると、彼は想像よりも若いんじゃないだろうか。
相変わらず面の下を見せてくれないから、その他で年齢を測る他ない。朱丽が朱丽であるなら、彼の歳など些細なことではあったが。
「朱丽……」
敖暁明が微かに掠れた声を出すと、天蓋の隙間から長い手が差し出された。
「ありがとう」
浴布を受け取った朱丽は桶に浸かったまま、着けている面を拭う。
「……沐浴の時も面はつけたままなんだ?」
「そなたがおるからな」
そう答えた彼は桶の淵に膝裏を引っ掛け、美しく筋肉がついた下腿を桶の外にぶら下げていた。すらりとしている脹脛を水滴が伝い、桃色に染まった爪先から床に滴る。
濡れた二色の長髪は、色が濃くなっていた。
朱丽は重くなった髪を乱雑に払い、水飛沫が天蓋に散る。
「暁明、やはり髪をなんとかしてくれ。面倒だ」
「うん」
敖暁明は縫い留められていた足を動かし、天蓋を除けると朱丽の背後に回った。
二枚目の浴布を手にして、散らばる絹をかき集める。髪を一つに纏め、優しく水気を取った。その最中、今度は剥き出しの背に目線を遣る。
敖暁明はちらりと朱丽の様子を伺った。そして堪え切れなくなった衝動のままに、身を屈めた。
朱丽の肌の熱を感じる程近くに顔を寄せると、背の傷跡に唇を押し付けた。
ちゅ、と吸い付く音がして、朱丽はうん? と軽く後ろを振り向く。
すぐに離れた敖暁明は顔を薄く上気させながら、何でもないと首を振った。
「暁明、逆上せたなら出て良いぞ」
「大丈夫。髪油はどこにある?」
「髪油?その辺りに沢がないか」
ああ、それだ。と言われた壺を覗き込んだ敖暁明は、はにかんでいた顔を顰めた。
「空だよ。もしかして最近使ってなかったの?」
「ああ。そういえば、ここ暫く使った記憶がないな」
朱丽は顎に手を当てて、軽く首を傾ける。
敖暁明の顔に呆れが浮かび、足が衝立の外へ向かった。
「ちゃんと手入れしないと髪が傷む。新しいの探してくるから」
「はは」
お小言を言って部屋から出て行った敖暁明を見送り、朱丽は瞼を閉じてゆったりと湯に浸かった。
「甲斐甲斐しい犬だ」
独り言が湯煙に溶ける。
彼は暫くの間一人の時間を楽しんでいたが、新しく現れた人の気配に薄く目を開く。
そして確認することもなく、人の名を呼んだ。
「银义、構わん。入って来い」
・・・
洗い場から出て来た敖暁明は、新しい沢を手にしていた。
彼は再び朱丽の私室に向かい、辿り着いた最奥の扉に手をかける。そのまま扉を叩くこともなく、足を踏み入れた。
「朱丽、お待たせ……?」
しかし部屋の奥、衝立の向こうから返事が返ってくることはなく、彼の瞳が細められる。
その時、初めて聞く男の声が響いた。
「朱丽様──」
敖暁明の瞳孔が開き、持っていた沢に亀裂が入る。
この一族の中で、王である朱丽のことを『朱丽』と呼ぶのは、敖暁明だけだ。他の者たちは皆、『王』と呼ぶ。
──それを許されているのは自分だけだと、自惚れていた。だが実際にはぬか喜びだったらしい。ならば、今度こそ本当の喜びに変えなければならない。
唯一、私以外に朱丽の名を口にする男を殺して。
胸の内で、煮えたぎる苛烈な憎悪が湧き上がる。
敖暁明は顔に作られた笑みを貼り付けた。ゆっくりと、衝立の向こう側へ歩みを進める。
そして目に入ったのは、天蓋の中で床に落ちた面──紅と黒の二色の長髪が、床に波紋を描いていた。
中途半端に衣を羽織っただけの朱丽は男に押し倒され、その陰で素顔が隠されている。
敖暁明の手から、沢が滑り落ちた。
床にぶつかった壺が割れ、破片が飛び散る。
敖暁明の視線の先には、床に点々と落ちる衣があった。
彼は朱丽が歩きながら脱いで行った衣を一枚ずつ拾い上げる。
最後の一枚を手にすると、衝立越しに話しかけた。
「朱丽、手伝うよ」
「要らぬ」
返ってきたのはそっけない声だ。
敖暁明は期待を打ち砕かれ、この機会をどう活かせるかを考え始めた。
「じゃあここに居るから、用があったら呼んで」
「ああ」
ばしゃ、と湯が跳ねる軽い音が響く。
敖暁明は衝立に寄りかかり、膝を抱えて座り込む。そして目を閉じた。
……静かだ。
今は、世界に私と朱丽しか存在しない。この世で最も尊い、私の朱丽。彼以外の人間に存在価値はない。
敖暁明の杏眼が穏やかに細められる。
彼は快い静寂に身を任せていたが、男の落ち着いた声に顔を上げた。
「暁明、浴布をくれ」
「うん」
敖暁明は衝立を回り、天蓋越しに桶へ近づく。
すると透けた薄布の向こうに、剥き出しの白い肌が現れた。
敖暁明は舐めるように、肩甲骨がはっきりと浮かぶ背を見つめる。渇き切った喉を潤すように、幾度か唾液を飲み込む。
朱丽の鍛えられている背に広がる数多の傷跡は、まるで羽の管のようだ。
──こうしてみると、彼は想像よりも若いんじゃないだろうか。
相変わらず面の下を見せてくれないから、その他で年齢を測る他ない。朱丽が朱丽であるなら、彼の歳など些細なことではあったが。
「朱丽……」
敖暁明が微かに掠れた声を出すと、天蓋の隙間から長い手が差し出された。
「ありがとう」
浴布を受け取った朱丽は桶に浸かったまま、着けている面を拭う。
「……沐浴の時も面はつけたままなんだ?」
「そなたがおるからな」
そう答えた彼は桶の淵に膝裏を引っ掛け、美しく筋肉がついた下腿を桶の外にぶら下げていた。すらりとしている脹脛を水滴が伝い、桃色に染まった爪先から床に滴る。
濡れた二色の長髪は、色が濃くなっていた。
朱丽は重くなった髪を乱雑に払い、水飛沫が天蓋に散る。
「暁明、やはり髪をなんとかしてくれ。面倒だ」
「うん」
敖暁明は縫い留められていた足を動かし、天蓋を除けると朱丽の背後に回った。
二枚目の浴布を手にして、散らばる絹をかき集める。髪を一つに纏め、優しく水気を取った。その最中、今度は剥き出しの背に目線を遣る。
敖暁明はちらりと朱丽の様子を伺った。そして堪え切れなくなった衝動のままに、身を屈めた。
朱丽の肌の熱を感じる程近くに顔を寄せると、背の傷跡に唇を押し付けた。
ちゅ、と吸い付く音がして、朱丽はうん? と軽く後ろを振り向く。
すぐに離れた敖暁明は顔を薄く上気させながら、何でもないと首を振った。
「暁明、逆上せたなら出て良いぞ」
「大丈夫。髪油はどこにある?」
「髪油?その辺りに沢がないか」
ああ、それだ。と言われた壺を覗き込んだ敖暁明は、はにかんでいた顔を顰めた。
「空だよ。もしかして最近使ってなかったの?」
「ああ。そういえば、ここ暫く使った記憶がないな」
朱丽は顎に手を当てて、軽く首を傾ける。
敖暁明の顔に呆れが浮かび、足が衝立の外へ向かった。
「ちゃんと手入れしないと髪が傷む。新しいの探してくるから」
「はは」
お小言を言って部屋から出て行った敖暁明を見送り、朱丽は瞼を閉じてゆったりと湯に浸かった。
「甲斐甲斐しい犬だ」
独り言が湯煙に溶ける。
彼は暫くの間一人の時間を楽しんでいたが、新しく現れた人の気配に薄く目を開く。
そして確認することもなく、人の名を呼んだ。
「银义、構わん。入って来い」
・・・
洗い場から出て来た敖暁明は、新しい沢を手にしていた。
彼は再び朱丽の私室に向かい、辿り着いた最奥の扉に手をかける。そのまま扉を叩くこともなく、足を踏み入れた。
「朱丽、お待たせ……?」
しかし部屋の奥、衝立の向こうから返事が返ってくることはなく、彼の瞳が細められる。
その時、初めて聞く男の声が響いた。
「朱丽様──」
敖暁明の瞳孔が開き、持っていた沢に亀裂が入る。
この一族の中で、王である朱丽のことを『朱丽』と呼ぶのは、敖暁明だけだ。他の者たちは皆、『王』と呼ぶ。
──それを許されているのは自分だけだと、自惚れていた。だが実際にはぬか喜びだったらしい。ならば、今度こそ本当の喜びに変えなければならない。
唯一、私以外に朱丽の名を口にする男を殺して。
胸の内で、煮えたぎる苛烈な憎悪が湧き上がる。
敖暁明は顔に作られた笑みを貼り付けた。ゆっくりと、衝立の向こう側へ歩みを進める。
そして目に入ったのは、天蓋の中で床に落ちた面──紅と黒の二色の長髪が、床に波紋を描いていた。
中途半端に衣を羽織っただけの朱丽は男に押し倒され、その陰で素顔が隠されている。
敖暁明の手から、沢が滑り落ちた。
床にぶつかった壺が割れ、破片が飛び散る。
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