香散石

ぬくぬくココナッツ

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五章 喜罰

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 敖暁明は今となっては見慣れた朱丽の部屋の、見慣れた床を見つめていた。

「言った筈だがなあ。岁族同士で抜剣するのは御法度だと」

「うッん、ごめんなさい……朱丽」

 敖暁明は罰として四つん這いになり、椅子にされていた。
 朱丽は不安定な椅子の臀部を叩き、卓上の遁甲盤を回す。青年の背に腰掛けたまま日課の占いを始めた。

 敖暁明は背に乗る臀部の感触に、歯を食いしばった。
 朱丽が足を組む度、押し付けられている臀部が形を変え、不埒な想像が思考を支配する。

 敖暁明にとってこれは罰でも何でもなく、寧ろ興奮を煽るものとなっていた。欲情を堪えるという意味では、拷問のようなものだったが。

 剣舞を教わった三年前から、私はこの人に懸想している。どうしようもなく──

「殴り合うのは構わん。だがそなたは戦闘民族である我らからすると弱過ぎる。下手にやると死ぬぞ」

 敖暁明は反芻していた記憶から引き戻され、顔を上げた。
 彼の薄い唇は、楽し気に弧を描いている。

「朱丽が武術を教えてくれてるのに?」
 その言葉に、朱丽は遁甲盤から目を離す。這いつくばっている青年に目線を移すと、強く耳を引っ張った。
「口答えするでないわ」
「あたたっ」
 耳を引っ張られたにも関わらず、敖暁明は甘い声を出す。

 心配されているのだ。嬉しくて堪らない。私の身を案じてくれるのは、この世で朱丽しかいない。

「朱丽、許して」
 朱丽は遁甲盤を片付けると、専用の椅子から立ち上がり榻へ移動する。
「これからどうするんだ」

 敖暁明の双眸が密かに、形の良い臀部を追う。外衣で隠されてしまったことを少し残念に思いながら、彼も立ち上がった。
「どうって?」
「そなたを拾って三年になる」
 榻に寝そべった朱丽は、だらしなく足を投げ出した。頬杖をつき、流れ落ちた長髪が床に波紋を描く。

 どこか艶かしい姿に、敖暁明の喉仏が上下した。

「国を奪りに行かなくてよいのか」
「……私は朱丽の犬だ。朱丽の許可なしに何処かへ行ったりしないよ」
 ──犬でも何でも構わない。側に居れるなら。朱丽の唯一になれるなら。朱丽が、私のものになるなら。

 敖暁明の宵のような瞳が、確かな欲を孕んだ。

 彼は、身を起こした朱丽にゆっくりと近づく。今や敖暁明の身長は、朱丽よりも僅かに高くなっていた。

 敖暁明は成長した長い腕を駆使して、背後から面の男に覆い被さる。細く引き締まっている腰に腕を絡ませ、均等に筋肉がついている背に頬を押し付けた。

「それに、国を奪るつもりはない。全部壊して更地にするから」
 ──そして、朱丽に捧げたい。
 土地も、民も、私も、朱丽の物になる。喜んでくれるだろうか?

 敖暁明は緩く口角を上げ、じっと朱丽の様子を窺っていた。すると朱丽は、邪魔だ、と腰に絡む手を叩き落とした。
「であれば少々手を貸してやろう。もうすぐ宮中に潜らせていた男が帰って来る。戻ったら話を聞くといい」
「うん」

 敖暁明は、普通の人であれば魅入ってしまうような笑みを浮かべる。目力のある二重が弧を描き、涙袋が強調された。

 敖暁明は部屋の銅鏡に映り込んだ己を見つめ、目を細める。

 私は死んだ母妃に似て、容姿も悪くない。悪くない、というのは過小評価ですらある。そして朱丽に拾われたお陰で、恵まれた体格に育った。あと二年もすれば一国の将軍にも引けを取らないだろう。そしたら、朱丽も好きになってくれるだろうか?

「占いの結果は?」
「悪くない。三日後は吉日だ」
 三日後に、例の男が帰って来るらしい。
 敖暁明は一を聞いて十を察し、軽く頷いて見せた。

 ──別に、占いなんて信じていない。

 だけど、朱丽が占ったのなら話は変わって来る。もし朱丽が五日後に人が死ぬと言ったら、私が誰かを殺してみせるし、もし明日皇帝が崩御すると予言したら、私が直ぐにでも殺しに行く。

 朱丽の為なら、白を黒にすることなど容易い。
 敖暁明は仄暗い情欲を柔らかい笑みと、甘い言葉でひた隠しにした。

「そう。よかったね」

 今はまだ、伝える時ではない。

 朱丽は彼がそんなことを考えているとは露知らず、榻から立ち上がると新しい衣を取り出した。
「全く、そなたの所為で湯が冷めた」
「……もしかして、沐浴しようとしてた?」

 予想外の文句に、敖暁明の杏眼が瞬く。そして、ちらりと衝立を見遣った。
 そんな彼を尻目に朱丽は歩き出し、扉に手を伸ばす。
「ああ。だがもう入れ直すのも面倒だからな。外の──」

 その言葉が落ちた途端、バンッと凄まじい勢いで扉が押さえられた。朱丽は意味がわからないと立ち止まり、顔を後ろに向ける。

「何だ?」

 敖暁明はむっと口を引き結び、一気に捲し立てた。
「っ待って。そしたら、私がもう一度桶を準備するから。朱丽はこのまま待ってて」

 そう言って部屋から飛び出て行ってしまった従順な犬を見送り、朱丽は腕を組んだまま首を傾げる。
「今日はやけに元気だな」


 長い廊を若い青年が走り抜けた。

 敖暁明は本殿を駆け抜けながら、一人なのをいい事に、普段見せることのない苛立った表情を露わにする。

 彼の瞳は仄暗く、業火のような独占欲に満ちていた。


 ──他の男に朱丽の肌が晒されるなど、冗談じゃない。

 近い将来、朱丽は私のものになるのだから。
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