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九章
しおりを挟む──良い天気だ。
敖暁明は活気的な市場の中、眩しさに目を細めた。ちらりと隣に目をやると、普段より質素で地味な面と衣を身につけた上背のある男が居る。
朱丽は面の下で大きな欠伸をして、敖暁明の方を向いた。
「暁明、買い物が済んだら永月楼に来い。小二にはもう一人来ることを伝えておく」
「うん」
朱丽と银义が二人きりになるのは気になったが、物を買う貴重な機会を逃す手はない。
敖暁明は懐にしまった銀貨の袋を触り、一人で市場に溶け込んで行った。
・・・
敖暁明と別れた二人は、街で一際大きく、そして人気がある妓楼──永月楼に辿り着いた。
永月楼の入り口はざわめき、男達が次々に入っては出てくる。
银义は苦虫を噛み潰したような顔をして、高い楼を見上げていた。
「落ち着かぬか」
「はい。嫌な場所です」
朱丽は彼を小突き、入り口へ向かう。
「相も変わらず京は狂っているな」
煌びやかな永月に足を踏み入れた二人だったが、間を置かずに小二が駆けつけて来た。
彼らの装いは地味ではあったが、柔らかく光沢のある生地には同色の刺繍が施されているなど、見る人が見ればかなり凝った作りの衣だ。
故に、彼らには金があると踏んだ小二はにこにこと愛想の良い笑みを浮かべ、お客様、と声をかけた。
「どのような娘をご所望でしょうか」
「この楼で一番高い娘を呼んでくれ」
朱丽はじゃらっと重い音をたてる銀貨の袋を、彼へ丸々渡す。
色をつけた金を受け取った小二は満面の笑みで、彼らを最上階の部屋へ案内した。
・・・
「姐姐」
書店でぼんやりと店番をしていた娘が呼ばれて振り向くと、上品で美しい青年が立っていた。
彼の目はぱっちりとした杏眼で、目力がある。薄い唇の横には黒子があり、若々しくも色気があった。
彼女は薄く頬を染め、慌てて髪の毛を整えるとはにかむ。
「公子、何かお探しですか?」
「戦闘民族の伝説に関する本を探していて」
「戦闘民族ですか?そうですね……不老不死の一族の伝説に関する本なら。ただ子供騙しな本だから、公子にはあまり合わないかも」
そう言って娘が差し出した本を敖暁明は受け取り、ぱらぱらと捲る。
頁数が少ない割に表紙は硬く凝っていて、まあいいかと懐の銀貨を取り出した。
「じゃあこれをください」
「ありがとうございます」
書店の娘は銀貨を受け取った後も、ちらちらと敖暁明を見つめる。
彼は母に似た形の良い唇を曲げ、目を細めた。
「そうだ、永月楼の近くに香の店はありますか?」
「あっ、香でしたらここを背に右に進んで、左にある路地を入って、二回角を曲がれば店がありますよ」
「ありがとう」
敖暁明は渡された本を受け取り、娘のまた来てください、という声を背に書店を出た。
その途端、美しい顔から笑みが消えてなくなる。
馬鹿馬鹿しい。だけどやはり、この顔には価値がある。
敖暁明は懐に買った本をしまい、教えられた道を進んだ。
今日計画通りに事が進めば、否が応でも私を──例え朱丽に犬だと思われていても、雄犬くらいには認識が上書きされるだろう。あの鈍さは少し厄介だが……
敖暁明が頭の中で計画の模擬行動していると、気づけば目的地の敷居を跨いでいた。
「こんにちは。どんな香をお探しで?」
彼に近寄って来たのは、かなり儲かっているのだろう恰幅のいい店主だ。
敖暁明はゆったりとした余裕のある表情で、口を開く。
「永月楼で使われている香を」
彼がそう答えると、店主は驚いたのか目を瞬かせた。
「おや、公子もお目が高い。永月楼の香をご存知で?」
にやりと笑った店主に敖暁明もにこやかな笑みを浮かべ、さらりと答える。
「勿論」
──否、知る筈もない。
なぜなら私は永月楼どころか、一度も妓楼など行った事がないのだから。しかし、妓楼の側にある店なら、欲しい香があるだろうと踏んだだけだ。
しかし店主は将来上客になるかもしれない敖暁明に、満足そうな笑みを浮かべる。
「本当なら一見さんには出さないんですがね。公子には特別ですよ」
彼は奥の戸棚から、敖暁明の目的だったものを取り出す。その手には、赤茶色の袋が握られていた。
──催淫香だ。
それもかなり強く、値が張る、上等な香。
「量には気をつけてください。よく効きますからね」
店主は丁寧に使用量の説明をしてから、銀貨を受け取った。敖暁明は頷き、もう一つ探している香を伝える。
「ああ。それから──」
店から出た敖暁明の手には、二つの香が握られていた。
あとはこれを焚くだけだ。
これがあれば、何かしらのきっかけにはなる。
敖暁明は確かな期待と僅かな不安を心の内に隠し、息を吐く。
細心の注意を払いながら香を懐にしまい、朱丽と合流する為に永月楼に向かった。
・・・
「申し訳ございません。ただいま陵玉が向かっておりますので、今しばらくお待ちください」
「構わぬ、気にするな」
朱丽は榻に寝そべりながら、謝罪をしに来た小二に答える。
どうやら永月楼で一番の妓女、陵玉はまだ来れないらしい。
彼女を待ち続けて、既に半刻が経っていた。
しかし朱丽は気にしておらず、まだ暁明も来ていないから丁度良いか、と考える。
银义も朱丽と目線を合わせ、同意を示した。
すると小二は、ではこれだけ……と豪奢な香炉を置く。彼は丁寧に香具で粉を乗せ、火を灯して部屋を出て行った。
部屋の中に少しずつ、甘い香りが広がり始める。
朱丽は鼻腔を突く嫌な香りに、面の下で目を細めた。
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