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執着の檻から逃げ出して、完
しおりを挟むミトがペンドリック王国にやって来てから、三度目の春がやってきた。天気はよく、空気には春の匂いが充ちている。何もかもが好転しそうに思える、丸い雲を浮かべた洗いたての真っ青の空。木々のこずえをさらさらと吹き抜けるそよ風の音を聞き取ろう、そのひとときにミトは留まろうとした。
「おい、準備は出来たのか。あとはお前だけだぞ」
「王子、もうちょっと待って!」
「ライナス、ミトちゃんはバッチリ可愛くしないと。ミトちゃんの姿を見たらきっと、ライナスは悔しくて悔しくて逃げ出しちゃうかもしれないわ」
「姉上、戯言はそれくらいにして早く準備を!僕はもう扉の前で何十分も待っているのです!」
「まったく、今日くらい大目に見てちょうだい」
自然の音に耳をすませながらエレノアに白粉をはたかれたり、髪に高級な油を塗り込められたり、真っ白な蝶ネクタイをつけられたりしていたミトは、扉を挟んだライナスの声に苦笑を溢す。
誰よりも張り切っているエレノアの暴走を止めることが出来ず、内心ではライナスに助けを求めていたミトであったが、律儀に掟を守るこの国の第一王子は決して扉を開けようとはしなかった。
春の陽だまりに包まれた今日、ミトとアルウィンの結婚式が王宮近くの教会で執り行われる。ヴァージンロードをミトと共に歩くのはライナス王子であり、神聖な準備をするこの部屋に入れるのは妻になる者と女性だけであった。
女神レティシアへの信仰心は消え、教会は神に特定の名前をつけず、神界の神そのものを信仰するようになっていた。人間にとって何に祈るかではなく、祈りの対象があることに意味があるのだ。
ミトはただ座っていただけだったがようやく準備が終わり、鏡に映る自分の見違えた姿に恥ずかしさと嬉しさを感じながら、扉を開ける。律儀に待っていたライナスは扉が開いた気配にくるりと振り返ると、ミトの姿を見て柄にでもなく一瞬見惚れた。
「お待たせ、ライナス王子。待っていてくれてありがとう」
「…!は、早く行くぞ!主役のお前が遅刻なんて笑い者にされるからな!」
普段は童顔の影響で幼く見えるミトが、つるりとした額をあらわにして髪も艶を光らせながら綺麗に整えられている。唇はほのかなピンク色に染まり、冷たい水で磨き上げたような肌は、蒼い艶を帯びている。まるで爪の先まで入念に、真珠の粉をはたいたかのようで、色気が滲み出ていた。
見慣れたミトの姿とは大きく変貌した彼をライナスは直視することが出来ず、耳を真っ赤に染めて得意の嫌味を口にしながら視線を逸らした。
教会の案内人に促され満足そうなエレノアと別れた2人は、白磁に重厚感を伴う扉の前で腕を組んだ状態で待機するよう言われる。ミトは張りがあり光沢が輝くスーツの袖を最終チェックし、ライナスの腕に手を添えた。
「お前たちは国への貢献を認められたから、同性同士で初めて教会で結婚式を挙げることを許可されたんだ。しかもこの僕と入場できるなど、これ以上の栄光はないと思え!僕の隣を歩くからには失敗は許さないぞ」
「うん、本当に感謝してる。ライナス王子やエレノア様がいろいろ細部まで拘ってくれたことも知ってるよ。本当にありがとう」
「……」
血色のいい両頬に浮かんでいる豊かな微笑みを向けられ、ライナスは思わず黙り込む。しばらく2人の間に沈黙が寄り添う。ミトは緊張から無言になっていただけだが、ライナスはまったく別のことを考えていた。
「…本当に、結婚するのか」
「え?なんて?」
ぽとり、小さく溢された言葉。いよいよだ、と背筋をピンと伸ばしていたミトの耳はその言葉を取り零し、首を傾げる。ライナスは瞼を僅かに伏せ、静かな声でもう一度言った。
「本当にあいつと結婚するのか」
「…もちろん。まだ実感がわかないけど、やっとアルウィンと結婚できる。それもこれも、特別に許可を出してくれた国王と協力してくれたライナス王子のおかげだよ」
純真無垢な言葉がライナスの胸を突き刺す。ライナスの初恋は今、もう決して彼の手が届かないところへ行こうとしている。2人の強い絆と愛を何度も間近で見せつけられ、プライドの高い彼は横槍を入れることも出来ずにただ初恋の置場所を探し求めていた。
どんな恋人同士にも別れの危機はあるもので、彼らがそうなったときにライナスは動こうと悠長に考えていた。しかし彼らはそんな危機ですら強さに変えてしまうことも、頭では分かっていた。
まだ大丈夫、まだ諦める必要ない、まだチャンスはある。そう思いながらも、実際には動けずに立ち止まっているだけだった。初めての恋に戸惑い、この恋の捨て方も諦め方も知らないだけだった。
ライナスの初恋が、結婚という大きな鎖に縛られようとしている今になってようやく、諦めなければいけないのだと実感が湧いてきた。それは彼の心を重く苦しくさせながらも、幸せを目の前にしているミトの微笑みを壊したくないのも、本心であった。
「お前のせいで僕はたくさん大変な思いをした。最初はこんなちんちくりんって見下していたが、お前の努力家なところや真っ直ぐさに僕は……救われることもあった」
「…うん。最初の出会いはお互いに最悪な印象だったよね。こうしてヴァージンロードを隣で歩いてくれる存在になるなんて思いもしなかったな」
「お前がこの世界に、この国に来てくれて良かったと…一応、思っている。だから」
教会の案内人がまもなく扉が開きますと合図を出す。ミトはごくりと唾をのみこみ、ライナスの腕に添えていた手に力を込めた。
「幸せになれ。―――ミト」
え、と小さく溢したミトの声は、勢い良く開かれた扉と共に流れる讃美歌の音にかき消された。初めてライナスに名前を呼ばれた余韻に浸る間もなく、ライナスのエスコートで慌てて一歩目を踏み出す。赤い絨毯は彼の愛する人の元へと繋がっていて、ミトはもう、少し先にいるワインレッドに釘付けだった。
一歩一歩、ライナスと共にヴァージンロードを進むミトの姿を、アルウィンは目を細めて優しげな眼差しで見守る。
多くの参列者で教会の席は埋まっており、一番前の席の左側にはドロモアとウィルマ、右側には国王とエレノアが歩む2人を目で追っている。
様々な種類の獣人の耳がピクピクと動き、妖精が光の粒を巻きながら飛んでいる。少し成長した孤児院の子供たちは瞳を輝かせ、リジーは命を宿した大きなお腹をそっと優しく撫でている。体調の良い日が多くなり、ミトとすっかり友達となったユーリス第二王子が、初めて参列する結婚式に背筋を伸ばす。
温かな眼差し、涙ぐんだ瞳、それぞれの感情を持って彼らの神聖な歩みを見届ける。
ミトが祭壇前まで辿り着くと、2人は今日この日のために着飾られたお互いの姿を初めて目の当たりにして、しばらく見つめあった。
神父の咳払いに慌てて2人が前を向くと、神父はゆったりと聖書を読む。誓いの言葉では、お互いはっきりと力強く宣誓する声が、春の柔らかな日差しが差し込む教会中に響き渡った。
「それでは、指輪の交換を」
ミトとアルウィンは向かい合い、それぞれの指に指輪を嵌めていく。左の薬指を束縛していく。きらり、ダイヤの光彩が虹色に輝き、存在感を放つ。
ここまで来るのに、決して平坦な道のりではなかった。異世界人だと偽った罪人だと罵られたり、死神の姿を知る者には目も合わせてもらえず逃げ出されたこともあった。ディラードの亡霊に追いかけられ、アルウィンの血みどろな姿に絶望する夢を何度も見て、汗と涙で濡れた夜が幾度もあった。
プロポーズをされてからも、結婚は口約束でお互いだけが知る結婚だと思っていたミトと、しっかり結婚式をやるつもりでいたアルウィンのすれ違いもあった。国王には結婚の許可がおりても、教会で式を挙げることは教会側がなかなか首を縦に振らず、正式な誓いは諦めそうになったこともあった。結婚したらペットのように引っ付いているドロモアの行方で喧嘩をしたこともあった。
それでも2人は、お互いの未来を確かなものにするために、支え合って乗り越えてきた。たくさん言葉を交わし、想いを伝え合い、未来の話をたくさんした。こんな場所にある、こんな家に住みたい。あんなことがやりたい。あそこのあの景色を一緒に見たい。あの地方のあれが食べたい。未来の話は尽きず、そのすべての背景は幸せで出来ていた。
ミトにとっては二度目の結婚だが、あのときと今では何もかもが違う。結婚する場所も、空の色も、包まれる空気感も、ミトの気持ちも、何もかもが大きく違う。
ディラードとの結婚は結婚ではなく、儀式だったのだと今なら思える。"儀式"を魔界では"結婚"と呼んだだけで、永遠の愛を誓い合う結婚とはまったくの別物だったと、そう思う。
ミトは、ディラードの執着の檻から逃げ出して、アルウィンという最愛の檻に自ら入っていく。自ら望んで、自らの意思で。
「それでは、誓いのキスを」
シルバーの瞳に漆黒が、黒い瞳にワインレッドが映る。お互いの鼓動がお互いに聞こえてきそうなほど、2人は期待と歓喜で胸を高鳴らせている。
教会に一瞬の静寂がおとずれたあと、ミトとアルウィンは誓いのキスをそっと交わした。その瞬間、割れんばかりの拍手と歓声、妖精の祝福の光が2人を包みこんだ。
教会の外に出てフラワーシャワーの中を2人は満面の笑みで歩む。生花や造花の花びらが空を舞い、虫が飛び交う羽音や一羽ずつ順に鳴く鳥たちの声、人々の祝福の声が響いていた。温かい空気に、花々の濃い香りが満ちている。太陽が空高くのぼっていた。
***
結婚式を無事に終えた2人は、手を繋ぎながら2人の愛の巣である家の庭をゆっくりと歩く。半透明の空にいくつか灯った星たちが、噴水の鏡のような水面に映る彼らの姿を、目を大きく開けて見下ろしている。乳白色の月光を浴びて、彼らの顔はオパール色に染まっていた。
「素敵な式になって良かった。ヴァージンロードを歩いているとき、実は足が震えて今にも転びそうだったんだ」
「しっかり俺の元まで歩めて偉かったな。ミトが教会の中に入ってきたとき、殿下に嫉妬したんだ。あんなに美しいミトの姿を一番最初に目にしたのがなぜ俺ではないんだって」
「ふふっ、それは俺も同じ。アルウィン、いつにも増してすっごくかっこよかった。こんなかっこいい人が俺の夫になったなんて夢みたい」
「夢ではなく現実だ。やっとミトを法的にも俺のものに出来た。俺は世界一、幸せ者だ」
「俺も世界一、幸せ!」
心地よい春の宵の風が、ミトの黒髪を吹き上げる。アルウィンはその髪を優しく撫でつけ、月明かりに照らされる愛おしい童顔を見下ろした。
「仕事と合わせて結婚式の準備は大変だっただろう。式前に倒れやしないかと冷やひやしていた」
「確かに招待状作りや獣人を教会に入れたくない派閥とすったもんだあっていろいろと準備は大変だったね。でもやっと仕事にも慣れてきたところだし、楽しみながらやってるよ。いつもアルウィンが護衛してくれているしね」
「虎と殿下がどちらがヴァージンロードを歩くかで喧嘩したときは完全に元に戻った王宮がまた破壊されるかと思ったな。俺としてはどちらとも嫌だったから、子虎を推薦しようとしていたくらいなんだが」
「えぇ!?ウィルマと歩かせたかったの?確かにウィルマと歩いたら緊張は解れてたかも。まぁ、教会側が獣人はまだ歩かせたくないってごねたから王子で丸くおさまったけど…早く、獣人への差別もなくなるといいな」
「そんな世界を作るために今の仕事を選んだミトを深く尊敬している。立派なことだ」
「いろんな人の協力あってこそだよ」
ミトは、獣人が獣人村だけではなく人間と共に街で暮らしていける整備を整えるために特別役職官吏となった。アルウィンとドロモアの護衛のもと獣人村に足を運び、獣人の習性や習慣をまとめて注意事項や懸念点を1つずつ消し、それぞれの街の伯爵や子爵、男爵の協力を得て少しずつ共存出来るように進めている。
生半可な気持ちで出来ることではなく、当初は獣人への恐怖心から中々理解を得られなかったが、ドロモアやウィルマを筆頭に獣人のことをよく知る人間が増えていくに連れ、先入観は薄れつつある。逆に獣人の並外れた力が人間の助けになる機会が増えてきており、共存を受け入れる派が多数派に変わろうとしていた。
「この国で生きていくと決めたから、より良い国にしたいしね」
「陛下もミトの働きぶりには驚いていたぞ。あまり無理をさせるなともよく言われるが」
「国王は心配性だからなぁ。でもお父さんみたいでちょっと嬉しい」
「…それだと殿下と結婚したみたいだからやめてくれ。ミトは俺の妻だろう?」
「当たり前でしょ!俺の夫はアルウィンだけだし、アルウィンの妻も俺だけ。俺たちはもう、夫婦なんだから」
「あぁ、その通りだ。こんなに可愛いくて素晴らしい妻を持てたこと、毎日が鮮やかな幸せで彩られていることに感謝している。ミトの母上に向かって、毎日祈っている」
「うん、知ってる」
「きっと母上も俺たちの結婚を喜んで、祝福してくれているだろう」
「…アルウィンのご両親も、そうだといいな」
「きっと祝福しているだろうさ」
顔も知らない、会ったことのない天界人だった母親の存在と自分のせいで命を落としてしまったアルウィンの両親に、ミトは思いを馳せる。彼らの命があってこそ、今のミトとアルウィンは存在している。
「失った命の分まで、ミトを幸せにすると誓う」
「俺はもう十分に幸せ。アルウィンも一緒に幸せになるんだよ」
「俺だって毎日が幸せすぎて怖いくらいだ。幸せが逃げないように、しっかりミトの心を俺の心に繋いでおきたい。何があっても、ミトを離さない」
「俺も絶対に手離さない。アルウィン……大好きだよ。2人でずっと幸せでいようね」
「あぁ、幸せの中で共に生きていこう」
白に近い月がたたずむあたたかな春の夜。新しい幸福の予感を含んだ風がさらりと通り過ぎていく中、月明かりに照されている夫婦となった2人の影は、1つになった。最後に彼は、そっと甘やかな声で夜月のように囁く。
「死ぬほど愛している。―――ミトの魂に触れたときから、ずっと」
そうして、冥界の記憶を持つ男は、幸福に満ちた笑みを浮かべた。
清らかな魂を持つ天使は、魔王の執着の檻から逃げ出して―――
新たな執着の檻に、捕まった。
END.
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