俺の好きな人は誰にでも優しい。

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恋は空虚を特別に変える

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 フィリオン様が年越しパーティーに参加するという噂は瞬く間に学園内に広がった。夕方には、もう皆が知っている。
 けれど誰も"最初"を覚えていない。どこで聞いたのか、誰からだったのか、答えはいつもぼやけている。噂は責任を持たない代わりに、群れの中で居場所を得た。

 あの下劣な男がおもしろおかしく噂を流したのだろうかと思ったが、どうやら違うらしいと知ったのはその日の夜。
 フィリオン様にダンスタイムのパートナーを申し込んで承諾されたと自慢気に豪語する侯爵令息が現れ、彼が発端だとすぐに理解した。

 侯爵家の三男であり、伯爵家のフィリオン様より高位貴族である侯爵令息。そんな彼からパートナーを申し込まれたらさすがのフィリオン様も断れないのは明々白々だった。
 周囲は鼻高々と言いふらす侯爵令息を冷たい視線で囲みながらも、嫉妬と羨望の眼差しを浴びることに快感を覚えている様子の彼には何のその。
 その日の食堂は異様な空気に包まれていたとピートから聞いた俺は、食堂に行かなくてよかったと胸を撫で下ろした。
 ずっと参加してこなかった年越しパーティーになぜ参加することになったのか、侯爵令息と本当にダンスを踊るつもりなのか、噂が波を打って広がる学園内は授業や講義が休みである次の日も騒然としていた。

 俺は昨日から引き続き食欲があまりわかず、ピートが持ってきてくれたパン一つを無理やり口につめ、机に向かってひたすら鉛筆を動かす。
 勉強をしていないと余計なことを考えてしまい気分が落ち込む一方だし、予習復習に時間を費やせる休日を無駄にするわけにはいかない。
 いつもならば図書室で勉強をするところだが、今日は学園内を歩きたくなかった。ピート以外の誰にも会いたくないし、どうせフィリオン様の噂が勝手に耳に入って勉強の邪魔になる。

 室内には冬だというのに春のような光が差し込んでいて、床やベッドに歪んだ窓枠の形を落としている。二重になっている窓を開けなければ、晴れている日の室内は暖房をいれなくても昼間はとても暖かい。
 そんな暖かさに眠気を誘われないよう頬を叩いてそれから数時間、いつの間にかピートが帰ってきていたことにも気付かないほど勉強に集中していた。
 朝のお祈りだけでは全く足りないのか、休日になると彼は小さな教会で同じく神学科の生徒たちと長時間お祈りをしているそうだ。
 いるのかいないのかも不確かな存在に祈るくらいなら、フィリオン様に跪いて祈るほうがご利益がありそうだけどなと毎回思ってしまう。
 そんな失礼なことを考えているとは知らないピートが、聖書を片手に俺の肩を叩いた。

「そろそろ夕食の時間だぞ。その様子だと昼間も食べていないだろ?昨日の昼食も夕食もまともに食べていないんだし、いい加減食堂に行くぞ」
「…食欲がないんだ」
「あのヒューゴ・ファレルと会ったから?それともフィリオン様の噂のせい?」
「前者はどうでもいい」
「昨日は驚いたぞ。いつの間にあの遊び人と知り合ったんだ?関わるだけ損だからもう関わるなよ」
「フィリオン様と同じこと言わないでくれる?彼を思い出して苦しくなるから」
「お前……重症だな」

 一見目を瞑っているようにも見える細い垂れ目をわずかに見張ったピートは、俺の肩をポンポンと慰めるように叩き、それ以上はなにも言わず夕食を食べに言ったのか、部屋を出ていった。
 扉はためらうように一度きしみ、それから静かに閉じると鍵が外からかけられる音が聞こえた。乾いた音が空気を切り、残響だけが部屋に置き去りにされる。大きな音ではなかったのに、その一瞬で、向こう側とこちら側ははっきりと分かたれた。
 それは恋をしていない人間と、恋をしている人間の心の境目のようで、俺も向こう側に行きたいと思うのに椅子の上から動けずにいる。恋心は頑丈で重い鎖のように、俺を決して離さない。

 フィリオン様が年越しパーティーに参加して侯爵令息とダンスを踊る姿を見るくらいなら、今年は実家に帰ろうかなと考え始めていた、とき。
 静まり返った室内に、こつり、と音が落ちた。最初は気のせいかと思うほど控えめで、空気に溶けかけたその音はすぐにもう一度、はっきりと形を持って戻ってくる。扉をノックする音だった。

 ピートではない誰かが訪問してきたことを知らせるその音は、夜の点呼以外では初めてのことで緊張が背筋をつたう。
 ゆっくりと忍び足で扉に近付き、木製の扉にそっと耳をつけると、耳のすぐ横でコンコンとハッキリとした音が鳴り肩を跳ねさせた俺は、体を扉にぶつけてしまう。
 その音が扉の前にいるであろう人物に伝わったのか、みじろぐ音がかすかに聞こえたあと、くぐもった声が扉越しに聞こえてきた。

「ロラン、いるよね?少し、話がしたいんだ」

 聞こえてきた声はこの部屋で聞くことなんてあり得ないと思っていた声。俺を恋の鎖に縛り付けている、誰にでも優しい彼の声だった。
 鍵に指をかける手が震え、うまく回らない。焦りが熱となって指先に集まり、金具が甲高い音を立てる。ようやく外れた瞬間、勢いのまま扉を引き開けた。木が壁に当たり、冷たい空気が一気に流れ込む。
 開いた先に立つ影を見て、ようやく現実が追いつく。驚きはまだ胸に残ったまま、呼吸だけが先に落ち着こうとしていた。慌てて開けた扉は、こちらの動揺をすべて曝け出したようで、今さら取り繕う術もなかった。

「な、なんで…」
「驚く君の気持ちは分かるが中に入ってもいいかい?誰かに見られる前に」
「どど、どうぞ…!」
「ありがとう」

 彼は自然に部屋へと歩み入り、扉を閉める。その音が、外の世界を切り離す合図のように響く。何気ない会話が始まるまでのわずかな間、言葉にならない感情が胸に満ちていく。好きだという事実だけが、静かに、確かにそこにあった。
 彼の優雅な匂いが室内に充満していく。いつもより大袈裟に部屋の空気を吸い込みたくなるのをおさえる。

 彼がこの部屋に入ってきた。それだけで、さっきまで空虚だった今日という日が、特別になる。


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