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知らない話のすり合わせ
しおりを挟む耳を疑うような話を、ヒューゴはあまりにもさらりと言った。俺は目を見張り、口は半開きの状態で固まる。
――侯爵令息が、エヴァドネ様を階段から突き落とした……?
意味を結ぼうとする言葉が、頭の中で空回りする。そんなまさか、と否定する感情だけが先に胸を満たし、喉の奥がひりついた。気づけば声が震え、抑えきれない動揺と心配が滲み出る。
「……エヴァドネ様の容態は?無事なの?」
問いかけは自分でも驚くほど弱々しく、信じたくない気持ちをそのまま乗せて、彼へと向けられた。
「ピンピンしてるぜ。階段から突き落とされたのに受け身を取ったらしい。そのまま逃げようとする侯爵令息を自分の手で捕まえたっつーんだから大したもんだよな」
「よ、よかった…怪我はないんだよね?」
「あったら隣国との国際問題に発展してただろーし、大丈夫だろ。学園の中だけでおさまりそうだぜ」
「それって侯爵令息はどうなるの?」
「あの女が取っ捕まえてフィリオンと共に学園長に突き出したんだと。で、侯爵令息はそのまま退学手続きが取られたらしいからあんたが学園に戻る頃には侯爵令息の影もねぇよ」
「退学!?…随分と早い対応だね。侯爵家が黙ってるわけないと思うんだけど」
「さすがに隣国とはいえ侯爵家より公爵家の方が上だし、自分よりも上位貴族に手出ししたとなりゃ、引っ込むしかねぇんじゃね?ごねれば国際問題に発展させる、とかあの女なら言いそうだしな」
「…強いご令嬢だからね」
彼女の強さを、思い出す。背筋を伸ばした凛とした佇まい。人の声や世論に揺らがされることのない、静かで確かな芯を宿した振る舞い。
俺には持ち得ない、眩しいほどに自立した強さを、彼女は当たり前のように身にまとっていた。
――だからこそ、彼女は彼に選ばれたのだ。
その事実が遅れて胸に甦ってきて、鈍い痛みとなって広がる。認めたくないのに否定できない想いが、息をするたびに心臓を締めつけた。
ただ不思議と、前に感じた痛みよりかは幾分かマシになっているように思う。時間は失恋の痛みを癒すとは言うけども、俺もこのまま時間が経てば、痛みも何も感じなくなるんだろうか。
それにしても本当にエヴァドネ様がご無事でよかった。もし万が一、大怪我でもしていたら、学園に呼びつけたフィリオン様も責任を問われるし、婚約話はなかったことになっていたかもしれない。
エヴァドネ様が転入してきた初日から敵意を剥き出しにしていたという侯爵令息。彼の怒りを刺激しない方法が他にもあったのではないかとフィリオン様に疑念を持ったが、今なら分かる。
きっと彼は、彼女なら今回の侯爵令息のような行動も跳ね返すと分かっていて彼女を選んだのだろう。そして彼女は期待通りの動きをした。
今後も、彼女が"正解"を引くたびに、フィリオン様は彼女を選んで良かったと思うのだろう。
彼女ほどフィリオン様の婚約者にふさわしい人はいないと、俺はすでに思い始めていた。思いながらまだ微かに痛む胸にうんざりとする。
「あんた、オレが学園にいない間、どうやって過ごしてた?アイツの部屋にいたわけじゃねぇよな?」
「…元の部屋に戻ったよ。実はフィリオン様ともあの日から全く会えてなかったんだ。侯爵令息の動きが怪しくてエヴァドネ様に付きっきりだったみたいで」
「ふーん?じゃあ、オレと会ってなかった分、アイツとも会ってねぇってことだな?特に何もなかったってことだろ?」
「うん、そう」
「…ならいいや。それにしても変だな、アイツが付きっきりなら侯爵令息はどうやってあの女を突き落とせたんだ?」
俺の答えを聞いたヒューゴは、ほんのわずかに嬉しそうな顔をした。そんな気がした。だが、それが本当だったのか確かめようとする間もない。
間髪入れずに投げかけられた次の問いに、意識はあっさりと引きずられ、思考の軌道がずれていった。
「確かに…いや、でも本当にずっと付きっきりなんて無理だろうし、お手洗いに行く時とか寮の部屋に帰る時を狙われたんじゃない?」
「そうかぁ?アイツらのことだから、わざと侯爵令息を挑発して学園から追い出すために仕組んだと言われたほうが納得いくわ」
「なっ…そ、そんなわけないよ!勝手なことを憶測だけで言わないで。何のために侯爵令息を学園から追い出すのさ」
「そりゃ――」
そこで彼は、不自然なほど唐突に言葉を切った。
続きを待っても、その先はいつまで経っても紡がれない。代わりに彼は、ふいっと視線を逸らし、何もなかったかのように口を結ぶ。
自分で作った沈黙に耐えかねたのか、彼は立ち上がると俺のベッドへ歩み寄り、断りもなく無作法にどさりと身を投げ出した。軋む音だけが部屋に残り、言葉にされなかった謎が、宙に浮かんだままだった。
「ちょっと、俺のベッドなんだけど!話の続きは?フィリオン様たちが侯爵令息を学園から追い出す理由に心当たりがあるの?」
「…知らね。興味ねぇし。つーか、よくこんな固いベッドで寝れんな。あ、そういやオレの寝る場所ってあんの?」
「外にある雪の布団なんかはどう?」
「死ぬわ!チッ、しょうがねぇからこのベッドで我慢してやる。ロランちゃんは抱き枕な」
「はぁ!?勝手に決めないでよ!」
さりげなく話を逸らされた気もするが、彼と同じベッドで寝るなんて兄たちが許すはずもない。そんな場面を見られたら、明日の朝にはこの家中、血の海になっている可能性がある。
「あ、そういやさ」
「なに」
「あんたの同室者っていう…プータ?アイツ、薄々前から思ってたが、きな臭くねぇか?」
「ピートね。…そういえば、まだ話してなかったっけ」
さすがは野生の感が冴え渡っている男。彼はピートの違和感に気付いたというのか。
ヒューゴの部屋で彼の過去についてや、今後お互いの恋心と復讐心を捨てようと話し合ったあと、フィリオン様とピートが繋がっていたことを知ったのだ。
あの日のうちにヒューゴが学園から去っていたため、この件について報告する暇もなかったことを思い出し、俺はあの日廊下で聞いたやり取りをかいつまんで彼に説明する。
するとヒューゴは露骨に嫌悪を滲ませた。眉をひそめ、口元を歪めたかと思うと、次の瞬間には意味を測りかねるように首をひねる。不快と怪訝が入り混じったその仕草に、俺も首を傾げた。
「あんたの同室者まで手篭めにしてあんたを利用しようとしてたとか、マジでアイツ、性根が腐ってんな。だがオレがプータだかピートだかに感じたのはそういうもんじゃなかったんだよな…」
「そうなの?ピートはああ見えてしたたかだから、フィリオン様の言いなりになっておけば、良い教会の修道士になれると思って俺のことを報告してると思ってるんだけど」
「んー…あんたをアイツと同室にするために追っかけ回すフリをしてたときも、あんたの部屋で何度か顔を合わせて追い払われたけどよ。そんときからどっかで見覚えある顔だなーって思ってたんだよな。
ただどこにでもいそうな顔だし気にしてなかったんだが…アイツと繋がってるとなると、オレも伯爵家かどっかですれ違ってたのか?」
その言葉を聞いた途端、困惑と同時に「あり得ない」という感情が胸に湧き上がった。
最初から彼が俺を騙していたなんて筋書きは、記憶のどこを探しても見当たらない。出会いから、ピートがフィリオン様と会ったいう報告を聞くに至るまでの一つ一つを辿っても、疑いを差し込む隙はない。
「ちょっと待って。フィリオン様とピートが学園に入学する前から繋がりがあったと思ってるの?それはさすがにないよ。ピートがたまたま俺の同室者だったからフィリオン様は目をつけたんだろうし、ピートは平民だから貴族の家に出入りしたことなんてないと思う」
「へぇ…ま、そりゃそうだよな。さすがのアイツでもあんたが入学する前から知ってるわけないし、知ってたとしても同室者を選んで仕組めるほどの権力もねぇしな」
「うん、絶対そう。今のピートは俺に内緒で俺の行動をフィリオン様に報告してるんだろうけど、最初は絶対に何もなかった。
じゃなきゃ、あんな神経質っぷりを見せたりしない。兄たちのおかげで変人耐性がついている俺じゃなかったら、ピートの同室者はやってられないほどの極度の神経質だからね」
「あっそ」
途端に興味が薄れたのか、くわっと欠伸をひとつ溢してヒューゴは俺の枕に顔を埋める。スゥーッと凄い音を立てて吸うものだから、羞恥と驚愕で俺は咄嗟に体が動いた。
「へ、変態!俺の枕を嗅ぐな!返せ!ってか俺のベッドからおりろ!」
「いでっ!んだよ、長旅のあとにカロリーの高いあんたの兄貴たちのせいでこちとら疲れてんだよ。少しくらい休ませろ」
「…それはお疲れ様、だけど!先に風呂…こら!寝るな!」
「ん~…ロランちゃんも一緒に寝ようぜ…」
「寝るかばかー!」
俺の枕に顔を埋めて目蓋を閉じ、寝る体勢に入ったヒューゴの背中をバシバシと叩く。しかし彼はよっぽど疲れていたのか、そのままうとうととし始めて、俺は耳元で叫んだ。
兄たちにこんな光景を見られる前に彼をここから離れさせなければ、という危機感が募る。しかし、一足遅かった。
「ロラたん!?どうし……あ?」
「…ちびランラン、そこのゴミを雪の中に捨ててくるからどいてなさい」
「い、いや…!にぃにたち、お願い、一旦落ち着こ?ね?ヒューゴは疲れて寝ちゃいそうなだけだからさ…あ、ヒューゴの寝る部屋ってある?なければさ、今日はこのベッドをヒューゴに貸して、それで」
この家に血を流さないための、苦渋の決断だ。
「……ヴィスにぃとラスにぃ、どっちかのベッドで寝ようかな?」
「えっ」
「えっ」
「あ!やっぱり3人で雑魚寝しない?うん、そうしよう!」
「えっ」
「えっ」
妙案を思い付いた俺。どちらかと寝ようとすればまた別の諍いが起きる。だから一番平和な選択肢を選んだ。
この年で兄たちと寝るなんて恥ずかしさはあるが、俺のベッドは野生児に占領されてしまったので致し方ない。
よっぽどの衝撃からか、固まる兄ふたりの腕を引いて、俺は自分の部屋の扉を閉じた。夕焼け色の彼が、少しでもよく眠れますようにと思いながら。
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