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首の後ろにつけられた知らない痕
しおりを挟む馬車に揺られ続け、辿り着いた頃には空は白み始めていた。軋む音を立てて止まった馬車から降りると、冬の凍てつく空気が容赦なく肌を刺す。その中で学園は変わらぬ威容を保ったまま、夜明け前の空に黒々とそびえ立っていた。
――ああ、本当に帰ってきたのだ。そう思ったはずなのに、胸の奥ではまだ現実が輪郭を結ばない。
思考が定まらないまま立ち尽くしていると、フィリオン様の手が腕を掴んだ。強くもなく、しかし逆らう余地もない力で引かれ、俺はそのまま歩き出す。廊下を抜け、階段を上がり、扉が開く音がしたとき、ようやく違和感に気付いた。
そこは、俺の部屋ではなかった。いつの間にか彼の部屋に通されており、窓に白い海が映っている。
状況を理解するより先に、長い夜の疲れがどっと押し寄せる。現実に戻ったはずなのに、どこかまだ夢の中にいるような、そんな心地で俺はその場に立ち尽くしていた。
「疲れただろう?もう休もう。私が温めてあげるからね」
眠気で限界を迎えた頭に、低く柔らかな声が染み込んでくる。内容をきちんと理解する前に、手際よくマフラーが解かれ、防寒着が一枚ずつ外されていった。
差し出された寝巻きを受け取り、言われるがまま着替える。その間ずっと、突き刺さるような彼の視線を感じていたが、体を隠す力すら残っていない。
やがて再び手を取られ、半ば導かれるようにベッドへと横になる。沈み込む感触と同時に、微かに漂う匂いで悟った。
これは俺のベッドじゃない。彼のものだ。そう分かったところで、意識を繋ぎ止める糸はすでに擦り切れており、言葉にする余裕はなかった。
背後でシーツがわずかに軋み、彼が隣に身を横たえる気配がする。次の瞬間、背中から抱き締められるはずだった腕が、途中で止まった。彼が息をのんだのが、はっきりと分かった。
何かあったのだろうか、と一瞬だけ思う。だが問いを投げる力はなく、意識はそのまま深い闇へと滑り落ちていった。
***
何かの腕の中で目が覚めた。胸元に額を預けるような体勢で、包み込む熱がじんわりと伝わってくる。
最近はずっと背中を温められる形で起きていたから、今日は前からなんだな――そんなことを、まだ眠りに沈んだままの頭でぼんやり考えていた。
だが次の瞬間、鼻腔をくすぐる匂いが違うことに気付く。ここ数日で嗅ぎ慣れたヒューゴの匂いとも、実家の匂いともまるで別のもの。その違和感が引き金となり、意識が一気に浮上する。
――そうだ。ここは実家じゃない。学園の寮だ。しかも……彼の部屋。
そこまで思い出した途端、胸の内で何かが弾けた。俺は反射的に頭を跳ね上げ、慌てて周囲を見渡す。心臓が早鐘を打ち、先ほどまでの温もりが、別の意味を帯びて肌に残っていた。
「おはよう、ロラン。よく眠れたかい?」
「…お、おはようございます」
頭上から、掠れて落ちてくる声。同時に彼の吐息が前髪を揺らし、その距離の近さに思わず息をのんだ。
反射的に身を引こうとする。だが、逃げようとした体はすぐに現実を思い知らされた。腕はしっかりと抱き締められ、背後には柔らかな布団しかない。ベッドの中に、逃げ場など最初から存在しなかった。
近すぎる。近すぎて、彼の体温も鼓動も、否応なく伝わってくる。その圧に耐えきれず、俺は彼と視線を合わせ続けることが出来なかった。
咄嗟に視線を落とし、絡まりそうになる思考を必死にまとめながら、動揺を隠しきれない声で、ようやく言葉を絞り出した。
「あっ、あの…!申し訳ありません!俺がフィリオン様のベッドを使うなど、あってはならないのに…っ」
「おかしなことを言うね。私が君をここに誘導したのだから、君は何も気負うことはないんだよ。それよりロラン……寝起き早々で悪いとは思うけど、聞きたいことがあるんだ。いいかな?」
「も、ちろんです…何でしょう?」
優しく穏やかな声でそう言われてしまえば、否など唱えられるはずがなかった。耳に届く響きは柔らかいのに、その奥に含まれる熱が、胸の内をざわつかせる。
彼の纏う雰囲気に、微かな違和感が混じっているのを感じ取ってしまい、俺は身を強張らせた。次に吐き出される言葉を待つあいだ、時間が不自然に引き延ばされたように思える。
部屋を満たす静寂の中、呼吸の音だけがやけに大きく響き、見えない緊張感が肌にまとわりついた。
「――この、首の後ろにつけられた痕たちは…何かな?」
穏やかなはずの声なのに、その響きはあまりにも冷たかった。まるで冬の底から掬い上げたような冷気を帯び、鼓膜を通して体の芯にまで染み込んでくる。
直後、ぐいっと首の後ろの襟を指で下げられた。逃げる間もなく、露わになった皮膚の一部を、彼の親指がなぞる。
触れているだけのはずなのに、その感触には明確な意図が宿っていて、背筋が粟立つ。優しさの仮面を被ったその動きは、撫でるというよりも、刃物を突きつけられているかのような鋭さを孕んでいた。
「……これ。この、忌々しい痕の説明を…してもらえるかい?」
彼が低く指摘した"痕"が、何を指しているのかが分からない。記憶を辿ろうとしても思考は絡まり、頭の中が白く濁っていく。心臓の音だけがやけに大きくなり、混乱が一気に押し寄せた。
何の痕だ――?問いは喉元までせり上がるのに、声にならないまま、ただ彼の指先の冷たさだけが、現実としてそこにあった。
「分からない、って顔に書いてあるね。そうか……君も知らないうちにつけられたんだね。でも、だとしたらおかしいよね。こんな痕を首の後ろにつけられても気付かないなんて」
彼の声から、少しずつ優しさが抜け落ちていくのが分かった。一言、また一言と重ねられるたびに声は低く沈み、重みを帯びていく。
澄んでいたはずの響きは次第に濁り、底の見えない水のように淀んでいく。その声が空気を圧し、逃げ場のない距離で胸に落ちてくる。
「君が寝ているときにつけたのだろうけど……あいつと、こんな風に毎日一緒のベッドで寝ていたのかい?無防備に、この首筋を晒したんだね?」
優しさの名残は、もうどこにも見当たらない。
ただ抑え込まれた感情と、静かな怒りだけが、低い声となって滲み出ていた。
「っ…あ、痕って…どんな…」
「口づけの痕だよ。吸われて赤紫に変色している箇所がいくつもある」
「えっ」
「無垢なロランが無防備に眠っている間にこんなものを残す男が、危険じゃないわけないだろう?私が迎えに行っていなければ、これだけでは済まなかったかもしれないね」
「う、嘘…なんで…」
「だからあいつはそういうやつなんだよ。手が早く、目の前に美味しそうな獲物がいたら我慢できない。君をいつ食べてやろうか、虎視眈々と狙っていたに違いない」
そんなまさか、と思うと同時に、あんなにもマフラーを巻きたがり、俺の後ろに立つようになった謎が解けていく。
兄たちに見つかったら、大騒ぎになる。それを見越して、ヒューゴは俺につけた痕を必死に隠そうとしていたのか。
そもそもなぜそんな痕を俺に残したのかという新たな疑問が浮かび上がる。女を抱けず、欲求不満だったのだろうか。彼自身も寝ている間に無意識にしてしまったことなのだろうか。
「まさか…」
「…あぁ、可哀想なロラン。怖かったね」
驚きと動揺で固まった俺の頭を、彼はまるで子供を宥めるかのように、優しく撫でた。その仕草だけを切り取れば、どこまでも穏やかで慈しみに満ちているように見えるのに、胸の奥に走る不安は消えない。
やがて彼は静かに体を起こし、逃げる間も与えず、俺の両手首を布団へと押し付けた。そのまま覆い被さるようにして、俺を見下ろす体勢になる。
視線が絡む。怪しい光を帯びた彼の瞳が、窓から差し込む淡い光と重なり合い、不思議な色を宿していた。宝石のように美しく、息をのむほどに澄んでいるのに――同時に、底知れぬ恐ろしさを孕んでいる。
その矛盾した輝きから、目を逸らすことが出来ず、俺はただ息を詰めて見つめ返すことしかできなかった。
「君は純粋ですぐに信じてしまうから…私のそばを離れてはいけないんだよ。悪いものに汚されてしまう」
「…でも、ヒューゴはっ」
「しーっ……静かに。あいつの名前なんか呼ぶな。ここは私の部屋だよ?私のベッドの上だ。君は私の領域にいるんだと、自覚しなさい」
「フィリオン、様…」
「あいつに触れられてしまった君を…汚されてしまった君を、浄化しなくてはいけない。私が塗り替えてあげるから、安心して」
そう言って、うっそりと微笑んだ彼の顔が、ゆっくりと近づいてくる。
影が落ち、視界が彼一色に塗り替えられた瞬間、次に何をされるのか――確かに予想はできたはずだった。それでも俺の体は言うことをきかず、逃げるどころか、全身に力が入らない。
彼の唇が首筋に触れる。ちゅう、と小さな音を立てて吸われ、直後、ちくりとした痛みが走った。
思わずきつく目を瞑る。視界を閉ざしたはずなのに、感覚だけは鮮明で、得体の知れない何かが背筋を一気に駆け上がっていった。
内臓が、震えていた。恐怖なのか、別の感情なのか、自分でも判別がつかない。
ただ、逃げ場のない現実だけが、熱を伴って体の奥に刻み込まれていくようだった。
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