53 / 102
彼女が彼らに遺したものの大きさ ※R18
しおりを挟む一体、何が始まったのか。何が起こっているのか。
理解が追いつかないまま、俺の心だけが置き去りにされ、彼の行動は次第に歯止めを失っていく。
首筋を執拗に舐められ、吸われ、時折、きつく噛まれる。そのたびに、ビリビリとした何かが体の内側を震わせ、抑えきれない熱が込み上げる。思わず漏れた吐息が、熱を帯びたまま唇の隙間から零れ落ちた。
恐ろしい。それなのに――気持ちいい。
相反する感情が、同じ場所で絡み合い、逃げ場を失ったまま膨らんでいく。理性は警鐘を鳴らしているのに、体はそれに従わず、ただ彼の存在を強く意識してしまう。
恐怖と快感が同居する。その矛盾した感覚に、俺はただ翻弄されるしかなかった。
「君は私の家令なのだから…ほかの男に触らせたらダメだろう…?君の肌も体温も、髪の毛一本すらも、私に忠誠を誓ったのなら私のものだ」
「っあ、フィリオン、様…おやめ、下さ、…っ」
「やめないよ。君が悪い子だから。私のものだとこの体に刻み込まなければ、私の言いつけを守らないようだからね」
「…!」
ちゅ、ちゅ、とやけに生々しい音が、静まり返った室内に響く。まだ暖炉の火も入っていないはずの部屋は、本来ならひどく寒いはずなのに、体の内側に溜まり始めた熱のせいか、じわりと汗ばんでくるのが分かる。
彼の唇は首元だけに留まらず、耳朶へ、耳の後ろへ、さらにこめかみへと滑るように移ろっていった。その動きは執拗で、しかしどこか丁寧で、まるで愛撫されているかのようだった。
触れられるたびに、羞恥が胸の奥で膨らみ、同時に状況が飲み込めない困惑が広がっていく。
冷え切ったはずの空気の中で、俺だけが取り残されたように熱を帯び、身動きの取れないまま、その感覚に翻弄される。
「お、俺はただの…家令の分際なのにっ、こんなこと…」
「知っているかい?貴族の中には家令に欲を発散させる人も多いらしい。女性相手では出来ないことも、男の家令になら出来る。正妻や側室はわざわざ会いに行かなければいけないけど、常に近くにいる家令とならすぐに事に及べるからね」
「なっ…」
絶句した。
まさか、あの品行方正を絵に描いたような彼の口から、そんな言葉がこぼれ落ちるとは思いもしなかった。
正妻や側室ではなく、男である家令に欲を向ける――そういう貴族が存在すること自体は、知識として知ってはいる。
噂話や陰口の形で、耳にしたこともあった。だが、それはどこか遠い世界の出来事で、彼とは決して交わらないはずの話だった。
それを、彼自身がしようとしている。その事実を理解した瞬間、衝撃は驚愕を通り越し、思考を根こそぎ奪っていった。
頭の中が一気に白く塗り潰され、言葉も、感情も、何一つ掴めなくなる。
ただ、目の前にいる彼の存在だけが、異様なほど鮮明に迫ってきていた。
「フィリオン様…?ほ、本気ではないですよね…?あなたはそんなこと…しない、ですよね…?」
「私も心苦しいんだよ。でもロランが私を怒らせるようなことばかりするから…少しは主人として躾ないといけないだろう?君はこれから一生、私の家令としてそばにいるのだから、肌の触れ合いがあっても何もおかしなことはない」
「で、ですが…!エヴァドネ様との正式な婚約も控えていることですし、いま不貞を疑われるような行為はお控えにならなければ…」
「不貞?なにを言っているんだい?」
呆れを滲ませた嘲笑が返ってきて、喉の奥がひゅっと鳴った。空気が詰まり、息の仕方を忘れたように胸が強張る。
自分の口から出た言葉を、遅れて反芻する。音も意味も、ひとつずつ噛み締めるたびに、浅はかさが露わになっていく。
「君と私のあいだで起こるすべてが、不貞になどなるわけないだろう?主と家令なのに」
何を期待し、何を分かったつもりでいたのか――そのすべてが、急にひどく滑稽に思えた。
理解した途端、遅すぎる羞恥が込み上げる。自分の愚かさを、逃げ場のない距離で突きつけられ、俺はただ黙り込むしかなかった。
「性行為など、ただの子孫を残すためか性欲処理のためでしかないんだよ。不貞もなにもない。よく恋愛感情の先に性行為があると思われるが、貴族にそんな常識はない。
そもそも私は、恋愛感情などという抑制のたがを外す感情を疎んでいる。理性を一瞬で吹き飛ばすほどの恋情など、人間には必要ない。だからこそ、性欲と婚姻は無関係なのだよ」
――彼も、ヒューゴと同じなのだ。そう、瞬時に悟った。
男爵令嬢のフィリオン様への強い恋情は、彼に嫌悪感を残した。彼に恋情の愚かさと恐ろしさ、そして滑稽さを教えた。植え付けた。
「ロランは、私にたいして恋愛感情などという即物的な、醜悪に満ちた感情を絶対に抱かないだろう?君はずっと…私を眩しいもののように見つめて、温かな忠誠心を向けてくれていたもの」
俺が、彼にたいして向けていた感情すら、彼にはそう映っていたのか。俺が、彼に恋をしていた顔は、彼にとって、忠誠心に見えていたのか。
もしも俺が……彼に、告白でもしていたのなら、俺はひどく気持ち悪い害虫を見たときのような顔で一蹴されていたのだろうか。
「そんなロランと私なのだから、主従関係としてお互いの性欲処理をお互いがするのは当たり前だと思わないかい?それともロランはそういった欲が薄かったりする?」
「……人並み、かと」
「なら私が発散させてあげよう。そもそもこれまではどうしていたんだい?……まさか、ほかの男にさせてたわけではないよね?」
「あり得ません。人とするものではなく…自分一人でおさめるものだと認識しておりました」
「良かった。これからは私と共に発散しようじゃないか。一生一緒にいるのだから、ロランのことはすべて知っておきたいからね。どんな風に射精して、どんな顔で欲を発散させるのか…知りたいな」
優しさの上に、どろりと濁った声が乗っていた。甘く撫でるようでいて、その底に沈んだものは重く、冷たい。その声を発する目の前の彼が、まるでまったく知らない別人のように見えて、背筋がひやりとする。
彼が誰にでも向けていたあの柔らかな態度は、この異常な価値観を覆い隠すための仮面だったのだろうか。
人当たりの良さも、穏やかな微笑みも、すべては一線を引かせるための手段に過ぎなかったのではないか――そんな考えが、遅れて胸に落ちてくる。
もしそうだとしたら。
彼の本質は、誰の体温も拒むような、氷の塊のような冷たさだったのだろうか。
触れれば傷つき、踏み込めば凍えつく。その中心にあるものを、これまで誰も見抜けなかっただけなのかもしれない。
そう思った瞬間、目の前の彼との距離が、物理的には近いまま、決定的に遠ざかった気がした。
「…やめて、下さい。俺はフィリオン様にそのようなことはさせたくありません」
「どうしてだい?私が貴族だから?たとえ貴族と平民という身分の差があっても、私もただの一人の男なんだよ。それなりに欲求はあるし、溜まるものは溜まる。ロランを見ていると、尚更ね」
「フィリオン様は…これまでどのようにその欲求を発散されて来たのですか?今後も俺ではなく、今まで通りのやり方で問題がなければそのままでいいと思います」
「これまでは定期的に実家に帰っているときに閨の教育係を使って発散していたよ。学園内でそういうことをする相手を作れば、足元を掬われかねないからね。でも君なら大丈夫。……そうだろう?」
貴族であるなら閨教育があることは分かっている。しかし定期的にその教師と関係を持っていたという事実は、俺に衝撃をもたらした。どこかで純潔な彼を期待してしまっていたのだ、俺は。
しかし、何が俺なら大丈夫なのだ。彼の考えていることがよく分からない。
俺を"利用価値のある道具"だと思っているから"性欲処理の道具"としても使おうということなのか。
彼の不利になるようなことを周囲に言いふらす心配もなく、一石二鳥の役割を果たせるから俺を使おうとしているのか。
「ほかの女性や侯爵令息のような男を相手にしてしまえば、第二の男爵令嬢を作ってしまう。その点、君の私への感情は憧れと尊敬、そして忠誠心だけだろう?」
そういうことか、と腑に落ちる。
俺なら、彼に抱かれても彼が嫌悪する恋愛感情を抱かないと思っているのだ。俺なら、一線を踏み越えないという安心があると思い込んでいるのだ。最初から、その前提は間違っているとも知らずに。
ヒューゴと同じく、男爵令嬢の自殺が彼に深い影を落としているのだ。そしてヒューゴ以上に、自分に向けられる恋情というものに嫌悪感を抱き、拒絶反応を示している。
だから俺が必死に取り繕ってきた、憧れや尊敬の眼差しに彼は安心感を覚えたのかもしれない。
どんなに優しくしても、どんなに交流を深めていっても、男爵令嬢のように爪入りの手作りクッキーや髪の毛で編まれた腕輪を渡したりしない。小鳥の死骸やくりぬいた動物の目玉を送り付けたりしない。
侯爵令息のように嫉妬にまみれた顔で彼の前に現れたり、婚約者候補を傷付けるようなこともしない。
このふたりが異常なだけで、俺もそれなりに嫉妬心を抱えて恋に苦しんでいたのに。彼はそれを、何一つ知らない。
「ロランは人として無償の愛で私のそばにいてくれる。だから……人間の本能としてある欲求すべてを、君と発散したいんだ」
男爵令嬢でありヒューゴの義姉が遺していったものは、フィリオン様とヒューゴの恋愛への価値観に、思っていた以上に複雑で暗い影となって彼らにこびりついてしまっている。
俺は今さら、俺もあなたに始めて会ったときから恋をしていただなんて、口が裂けても言えなくなった。いま、一生口に出してはいけない言葉となった。
「私を、受け入れてくれるね?」
受け入れてしまったのは、同情か。それとも、同じ恋をした彼女が残した、贖罪の肩代わりか。
「あっ…だめ、ッ」
「大丈夫。私に任せて。気持ちよくなるだけだよ」
「んんっ、あぅ」
「ふふ、すごい濡れてる。ぐちょぐちょだ」
信じられない。あのフィリオン様が、性の匂いなんて微塵もさせたことのない彼が、こんな卑猥な手付きで、こんな卑猥なことを言うなんて。
彼の手が俺のペニスを撫で上げ、亀頭を親指でぐりぐりと弄ぶ。それだけで背筋に快感が走り、聞いたことのない自分の声が耳の奥で木霊する。
「あぁ…ロラン、君が気持ちよくなってる顔は、どうしてこんなにも私を熱く、幸せな気持ちにするのだろうね」
「はっ、ぁ、や」
「ロラン…私のロラン…一緒に気持ちよくなろう」
彼のペニスが、俺のと重ね合わされた感触を感じたが、俺は目をギュッと瞑って何も見ようとはしなかった。唇を噛みしめ、必死に声を抑えようとするが隙間から溢れ落ちていく。
ただ快楽を追い求めるだけの行為。そこには、恋も愛も、何もない。触れあっていても、俺たちの距離は決定的に遠い。
「うぅ、はぁ…あぁっ、もう…!」
「…イきそうかい?いいよ、イってごらん。私も一緒に…」
「あぁぁっ――…!」
「…ッ」
視界が白む。強い快感が全身を稲妻のように駆け抜けるのに、心はどこまでも冷えきっていた。
フィリオン様の手が俺の頬を撫でる。その手の温度すら、感じなかった。涙が一筋、こめかみを伝って落ちた。
「ロラン…」
思考を放棄した。もう、なにも考えたくなかった。どこまでいっても、俺という人間は無色透明で――顔も知らない彼女の亡霊が、取り憑いているようだった。
156
あなたにおすすめの小説
【完】君に届かない声
未希かずは(Miki)
BL
内気で友達の少ない高校生・花森眞琴は、優しくて完璧な幼なじみの長谷川匠海に密かな恋心を抱いていた。
ある日、匠海が誰かを「そばで守りたい」と話すのを耳にした眞琴。匠海の幸せのために身を引こうと、クラスの人気者・和馬に偽の恋人役を頼むが…。
すれ違う高校生二人の不器用な恋のお話です。
執着囲い込み☓健気。ハピエンです。
【本編完結】才色兼備の幼馴染♂に振り回されるくらいなら、いっそ赤い糸で縛って欲しい。
ホマレ
BL
才色兼備で『氷の王子』と呼ばれる幼なじみ、藍と俺は気づけばいつも一緒にいた。
その関係が当たり前すぎて、壊れるなんて思ってなかった——藍が「彼女作ってもいい?」なんて言い出すまでは。
胸の奥がざわつき、藍が他の誰かに取られる想像だけで苦しくなる。
それでも「友達」のままでいられるならと思っていたのに、藍の言葉に行動に振り回されていく。
運命の赤い糸が見えていれば、この関係を紐解けるのに。
君に捧げる紅の衣
高穂もか
BL
ずっと好きだった人に嫁ぐことが決まった、オメガの羅華。
でも、その婚姻はまやかしだった。
辰は家に仕える武人。家への恩義と、主である兄の命令で仕方なく自分に求婚したのだ。
ひとはりひとはり、婚儀の為に刺繡を施した紅の絹を抱き、羅華は泣く。
「辰を解放してあげなければ……」
しかし、婚姻を破棄しようとした羅華に辰は……?
先輩のことが好きなのに、
未希かずは(Miki)
BL
生徒会長・鷹取要(たかとりかなめ)に憧れる上川陽汰(かみかわはるた)。密かに募る想いが通じて無事、恋人に。二人だけの秘密の恋は甘くて幸せ。だけど、少しずつ要との距離が開いていく。
何で? 先輩は僕のこと嫌いになったの?
切なさと純粋さが交錯する、青春の恋物語。
《美形✕平凡》のすれ違いの恋になります。
要(高3)生徒会長。スパダリだけど……。
陽汰(高2)書記。泣き虫だけど一生懸命。
夏目秋良(高2)副会長。陽汰の幼馴染。
5/30日に少しだけ順番を変えたりしました。内容は変わっていませんが、読み途中の方にはご迷惑をおかけしました。
【完結】妖精姫と忘れられた恋~好きな人が結婚するみたいなので解放してあげようと思います~
塩羽間つづり
恋愛
お気に入り登録やエールいつもありがとうございます!
2.23完結しました!
ファルメリア王国の姫、メルティア・P・ファルメリアは、幼いころから恋をしていた。
相手は幼馴染ジーク・フォン・ランスト。
ローズの称号を賜る名門一族の次男だった。
幼いころの約束を信じ、いつかジークと結ばれると思っていたメルティアだが、ジークが結婚すると知り、メルティアの生活は一変する。
好きになってもらえるように慣れないお化粧をしたり、着飾ったりしてみたけれど反応はいまいち。
そしてだんだんと、メルティアは恋の邪魔をしているのは自分なのではないかと思いあたる。
それに気づいてから、メルティアはジークの幸せのためにジーク離れをはじめるのだが、思っていたようにはいかなくて……?
妖精が見えるお姫様と近衛騎士のすれ違う恋のお話
切なめ恋愛ファンタジー
【完結】恋人から試し行動され続けるけど僕の愛は揺らがない。
u
BL
元タイトル『恋人から試し行動され続けるのがそろそろ辛い。』から結末が予定と大きく変わりましたのでタイトルを変更させて頂きます。
ビリンガム王国騎士団に所属しているロナ・バイアットとウォーレン・コークは、騎士学校時代に寮の同室をきっかけに恋人同士となり2年半が経つ。
ロナは騎士団にはあまり向かない小柄な体型だったがウォーレンと同じ職場にいたくてひたすら努力していた。
大好きなウォーレンと恋人同士になれて幸せな日々かと思いきや、ロナはウォーレンからたびたび試し行動のようなものをされていた。
飲み会に行ったりロナの前でご令嬢と親しげに話していたり…そのたびに指摘すると「嫌なら別れる?」と聞かれる。毎回「愛してるから別れないよ」と答えていたロナ。しかし試し行動をされるたびに何かが確実にすり減っていく。
そこへ留学していたという幼少時代の学友でありビリンガム王国第三王子のカーティス・ビリンガムが帰国し、ロナの現状を知ると……。
完結しました!ありがとうございました!
美澄の顔には抗えない。
米奏よぞら
BL
スパダリ美形攻め×流され面食い受け
高校時代に一目惚れした相手と勢いで付き合ったはいいものの、徐々に相手の熱が冷めていっていることに限界を感じた主人公のお話です。
※なろう、カクヨムでも掲載中です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる