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フィリオンの決意
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教会を出たフィリオンは、ふらふらと石畳を歩きながら、自分でも驚くほど心が軽いことに気づいていた。冬の空気は冷たいはずなのに、胸の奥はどこか温かい。
それはきっと、長いあいだ、自分の内側でゆらゆらと揺蕩っていた正体不明の感情に、ようやく名前を与えられたからだ。
恋。
その二文字を、自分の感情に当てはめる日が来るとは思ってもみなかった。
誰かのためなら何でも出来るだとか。その人のことばかり考えて他のことが手につかなくなるだとか。想いが強すぎて、理性を手放し、気持ちを押し付けてしまうだとか。
そんなものは、理性を本能に喰われた、野蛮で愚かで馬鹿馬鹿しい人間が抱く感情だと、ずっと信じていた。
愛とは、見えない凶器。人を狂わせ、判断を鈍らせ、時に破滅へ導くもの。
だから自分は、決して支配されない。そう自負していた。
だからこそ、ロランへの想いも、きちんと枠に押し込めていたのだ。
――家令として気に入った。
ただ、それだけ。
家令として優秀だから、そばに置きたい。
家令として忠実だから、ずっと一緒にいたい。
家令として有能だから、誰にも渡したくない。
すべては合理的な理由。
そう、思っていた。
だがよくよく考えれば、ロランは家令として優秀でも忠実でも有能でもなかった。
フィリオンの命令には従わないし、平気で隠し事をしようとするし、主人になるはずのフィリオンから逃げ出すし。どう思い返しても、家令としては未熟で、扱いづらい子だった。
けれど、あの、綺麗なお辞儀を見た瞬間から。無駄のない所作と、真っ直ぐで純粋な瞳に射抜かれた、あの日から。フィリオンの思考は、少しずつ、侵食されていた。
朝、目が覚めた瞬間に思い浮かぶのは、彼の顔。ふと耳に残るのは、あの高くも低くもない中性的な声。他の誰かがロランに親しげに話しかけるだけで、胸の奥がざわつく。
それをすべて、「家令としての評価」だと片付けていた自分が滑稽に思える。
――家令として、か。
苦く笑う。
あれほど恋を否定しておきながら、気づけば、自分こそが一番、理性を侵されていたのではないか。
あれほど愛を否定しておきながら、気づけば、自分こそが一番、狂い始めていたのではないか。
だが不思議と、嫌悪はなかった。むしろ胸の奥に、すとん、と何かが落ち着いた感覚がある。
名前のなかった感情に、名前がついた。それだけで、こんなにも世界は静かになるのか。
フィリオンは立ち止まり、空を仰いだ。冷たい空気が肺に満ちる。
愛は凶器だと、思っていた。だが今、胸にあるこの感情は――誰かを傷つける刃ではなく、ただひとりを想う、どうしようもなく、あたたかな衝動だった。
「……ロラン」
そっと、その名を口にする。
音にした瞬間、胸が甘く疼く。
ああ。
これは、恋なのだ。
否定し続けてきた感情が、ようやく彼の中で形となり、息をし始めている。
もっと早く、気づいていれば。もっと早く、自分の感情と向き合っていれば。
いま、教会の中でロランの隣に立っていたのは、自分だったのかもしれない。
フィリオンはその苦い思いを胸に、石畳を一歩一歩、踏みしめるように歩いた。
靴音がやけに重い。遅すぎた自覚は、鋭い刃のようにじわじわと胸を裂く。
ロランが、自分に恋をしている。そんな可能性を、フィリオンは一度も考えたことがなかった。
声をかけるたび、あんなにも純粋で、澄みきった眼差しを向けてくれるのはロランだけだった。
濁りのない、まっすぐな光。だがそれを、恋情と結びつけたことはなかった。
自分に恋をしていると告げてきた人間たちとは、全く違っていたからだ。
甘い言葉を口にしながらも、瞳の奥に滲む計算。執着。欲望。打算。
あの男爵令嬢も、表面上は真っ直ぐに見えながら、どこか恐ろしかった。何かを得ようとする光が、確かにあった。
だがロランの瞳には、それがなかった。ただ誠実で、ただ清らかで。フィリオンという人間を、肩書きも地位も抜きにして、真っ直ぐ見つめてくる。
だからこそ、フィリオンは思いもしなかったのだ。ロランが自分に恋をしているなどと。考えもしなかった。
もし気づいていたら、あの時の自分は、どう感じただろう。
結局ロランもこれまで近づいてきた者たちと同じなのか。そう思って、失望しただろうか。
それとも、衝撃は受けながらも、胸の奥がかすかに熱を帯びて、その熱に戸惑いながら、自分の感情の正体に気づけただろうか。
想像してみる。失望する自分。嬉しさを覚える自分。どちらもあり得る。どちらも、自分らしい。そしてどちらも、決定的な答えにはならない。
「……愚かだな」
小さく呟く。
結局のところ、フィリオンは常に、安全な場所から他者の感情を値踏みしていた。
愛を凶器と決めつけ、自分はそれに傷つかない側にいると信じていた。
だが本当は、一番臆病だったのは、自分だ。
ロランの真っ直ぐな瞳に、恋の色を見出してしまうのが怖かった。
もしそれが事実なら、自分の心もまた、揺らがざるを得なくなるから。
歩みを止め、ぎゅっと拳を握る。もう遅いのだと分かっている。もう戻れないのだと知っている。
もう元には戻れないほどの、出会った頃のふたりには戻れないほどの、大きな過ちを犯してしまったと分かっている。
それでも、胸に芽生えたこの感情は、消えてはくれない。どちらが正解だったのかは、もう分からない。だがひとつだけ、確かなことがある。
自分は、ロランしか愛せない。
それだけは、疑いようがなかった。
最初で、そして最後の恋。胸の奥に灯ったこの熱は、もう他の誰にも向かないだろうと、はっきり分かる。
だが――ロランは、そうではない。
たしかに3年ものあいだ、自分に想いを寄せていたのだろう。3年。その重みを思うと、胸が軋む。
けれど今、彼の心にいるのは自分ではない。あの憎たらしい異母兄弟、ヒューゴだ。名を思い浮かべるだけで、わずかに奥歯を噛みしめる。
それでもフィリオンは、奪われたとは思っていなかった。奪われたのではない。自分が、気づくのが遅かっただけだ。
ロランはずっとそこにいた。真っ直ぐな瞳で、惜しみなく心を向けて。それを見ようとしなかったのは、自分だ。
だから、気づけたのなら、やるべきことはひとつしかない。
フィリオンがロランから奪ったものは、戻らない。
チロの命。失わせた信頼。踏みにじった尊敬。壊してしまった羨望。そして――恋心。
どれも、時間を巻き戻しても返ってはこない。ならば、新しく作るしかない。
すべての罪を明かす。逃げずに背負い、償う。自分の手を血で汚した事実から目を逸らさず、まっさらになるまで。
何年かかるのか、何十年かかるのか、分からない。だがそのとき、ようやく胸を張って、ロランの前に立てる。
――もう一度、出会い直すのだ。
あの日のように。
肩書きも、過去も、罪もなく。
ただひとりの男として。
そのとき、ロランの隣に忌々しいヒューゴがまだ居座っているかもしれない。想像すると、胸の奥がじり、と焦げる。
もし他の男なら、問答無用で拐っているだろう。だがヒューゴ相手では、そう簡単にはいかない。あの男の手強さは、誰よりも自分が知っている。
執念深さも、独占欲も、そして一度守ると決めたものを決して手放さない性質も。
それでも、たとえ再び会いに行ったとき、ロランの隣にヒューゴが立っていたとしても。
たとえロランの心が、完全にヒューゴのものであったとしても。
フィリオンは、諦めるつもりはなかった。
愛とは凶器だと思っていた。
だが今、その凶器を自ら握る覚悟はある。
正面から。正しく。罪を背負ったままではなく、償いを終えたその手で。
ロランが墓に入るとき。
その隣に入れたほうが、勝ちだ。
それまでは、今はただ、ロランを"預けている"という感覚でいる。必ず、ロランの信頼も恋心も取り戻す。新しい形で、新しい色として、作り直す。
最後に笑うのは、自分だ。
そう静かに決意し、フィリオンは前を向く。冷たい風が頬を打つ。
それでもその瞳には、消えない炎が宿っていた。
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