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本編
2.先生の目的
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「行かない方がいいです、小和ちゃん。小和ちゃんだけ呼び出すなんて、怪しすぎます」
「私もそう思う。なんか小和をロックオンしてる感じがして……心配だよ」
「ロックオンって。私も正直行きたくないんだけど、先生を相手に無視もできないし、行ってこようと思う」
「でも、どうして呼び出されたか分からないんですよね?」
その通り。どうして私が佐伯先生に呼び出されなくてはならないのか、理由がさっぱりわからない。
が、今は放課後。先程帰りのHRが終わったところだから、ああだのこうだの考える前にそろそろ行かないとまずい。
……なんだか笑えてきてしまった。ただ先生に会いに音楽室に行くだけなのに、大魔王を倒すため立ち上がる村人のような扱いを受けている。思わずふふ、と出た笑い声を二人は聞き逃さなかった。
「小和は楽観的すぎるよ」
「あの人、顔は美形だけれど腹黒さはここに極まれり~!って感じだったじゃないですか」
「ぷっ……ちょっと、私まで笑わせないでよ、百合!」
「二人ともありがとうね。じゃあ、そろそろ行ってくる」
「……ん。わかった、いってらっしゃい」
「何の話だったのか、後でしっかり聞かせてもらいますからね!」
第一音楽室は中が防音になっているため扉が重い。第二のほうは防音じゃないのか、といえばそうではないけれど。どちらも防音だか、第一のほうがすこし部屋が広い。たまに時間割変更で音楽の授業がかぶった時に、二つの教室を使うことになる。
ギギィ……とゆっくりとドアを押すと、手前にグランドピアノが見え、その隣には合唱台、奥には私たちの座る椅子や黒板、教壇がある。
鍵が開いていたから先生もいるのかなと思ったけれど、まだ来ていないみたいだ。鍵だけ開けてどこかへ行ったのだろうか、それともずっと開いていたのだろうか?どちらにしても、少し不用心だなと思ってしまう。
自然と足はピアノの方へ向かった。
椅子を引いて、ゆっくりと座る。
さっきは、ここに棗くんが座っていたんだ。
みんなの笑顔の中で、ひときわ輝いていたように見えた彼。その姿を瞼の裏に思い描いていくうちに、はっと我に返った。
異性のことをこんなに考えるなんて、私らしくない。こう言ってはなんだけれど、私は初恋もまだの青春未経験女である。でも、あの笑顔は頭から離れない。
先生はまだ来ないみたいだ。
私は暇になって、ピアノを弾こうかななんて考えた。
しかし学校のピアノには鍵がかかっている。さっきは授業中だったから開いていたけれど、今は閉じていてカバーを上げることができないだろう、と思いつつもカバーに手をかけると、鍵盤が見えた。
「……不用心すぎる」
思わず独り言が漏れたのも仕方ないだろう。さっきの扉のこともあるけれど、佐伯先生、もう少し気をつけた方がいいですよ。ここの管理責任者はあなたでしょうに。
はあ、と思わずため息をついてしまった。まあいいか、ピアノ弾こう、と思い直す。
棗くんとは違う、流行りの曲ではないけれど。指に馴染んだクラシック曲を奏でる。昔から何回も何回も弾いている曲だ。
その音の中で揺られるように、私は昔のことを考えていた。
昔から、ピアノを弾くことが私のすべてだった。
お父様もお母様も、普段から私のことを大切にしてくれているというのは分かっていたけれど、コンクールで賞をとったりした時に褒めてもらえることで、よりいっそう愛を感じていた。
このピアノという武器がなくなったら、私はきっと生きていけないだろうと。
今も昔も、変わらずそう思っている。
そういえばお母様は、ピアニストであり歌手でもあるからか、自分で弾きながら歌う時が一番素敵だ。ドラムやギターの鳴るような曲を歌っている様子も見たことがあるけれど、やっぱりピアノの方がお母様の声に合う。
落ち着いた、暖かい歌声。
ああ、私も歌えたらなあ。
とっくに諦めたはずの願いが、つい頭に浮かんでしまった。
歌っているお母様や、授業中の皆を見ていると、歌うのは楽しいんだろうな、と思う。
私には苦しいばっかりだから。だから、もう諦めた。別に歌えなくたって生きていけないわけではない。人間諦めが肝心なのである。
そもそも私だって昔は歌えていたはずだった。
昔がいつかというと、それはあまりはっきり覚えていないが、たぶん小学校低学年くらいのときまでは歌えていたと思う。
実は私は、そのあたりくらいまでの記憶がぼんやりと曖昧だ。小四のときに、ものすごい高熱をだしたらしく、起きた時に軽い記憶喪失となっていた。
中学の時にこれを気にしていた私に、お兄様が、
「昔の記憶なんて俺だって曖昧だよ。無理に思い出そうとする必要なんてない」
と言って励ましてくれたことは、ずっと忘れない。私はお兄様が大好きだ。
と、いろいろ考えながら弾いていると、耳元で「篠宮さん」と甘い声がした。
「ひいっ!?」
振り向くと、声の正体は佐伯先生だった。ちょっと笑っているみたいだ。
「そんなに驚かないでよ。傷つくなあ」
「いらしたならすぐに声をかけてください!」
それから、この距離は先生と生徒の距離ではありません。背後に立たないでください。そう言わんとする目線に気づいたのか、先生が少し離れてピアノの横に立つ。
「ごめんごめん、素敵なピアノだったよ」
「先生、鍵が開けっ放しでしたよ。イタズラをする生徒もいるかもしれないんですから。もっと用心するべきです」
「いやあ、先生隣の準備室にずっといたからなあ」
ならもっと早く声をかけてください!準備室まで見なかった私が悪いんですか。そうですか。
「それで、君をここに呼んだ理由なんだけど、君のお母様に頼まれたんだよ」
「え?」
お母様が?何を?
「これ、見てくれる?」
先生は写真を取り出した。お母様と佐伯先生、それから知らない方々数人が映っている。パーティの写真のようだが、私が行った覚えはない。私もよく連れていかれるのだが。というか、先生の格好がとても上品で驚いた。しかし佐伯先生にパーティでお会いした覚えはない。あまり家とは縁がないのだろうか。
「君のお母様とは、十年になる付き合いなんだ」
「え!十年もですか!?」
ご縁ありまくりじゃないだろうか。だが私は紹介されなかったのか。まだ家に相応しい実力と態度が備わっていないからとかだろうか。勝手に推測して傷ついてしまった、情けない。
「君にも、君が幼い時会っているんだけど……覚えてないかな?」
なるほど。私の記憶が無い時期に会っていたのだろう。
「すみません」
「そっか、やっぱり覚えていないんだね」
先生は眉を下げて笑った。なんだか、さっきまでの印象と違う。今朝百合が騒いでいた時、去年大学院卒の新任でやって来たと言っていた。ということは今24歳だろうか。その表情は、もう少し若く見える。私はどうやら、なにかとんでもない意地悪をされるんじゃないかと疑心暗鬼になっていたようだ。
「先生は、私の母に何を頼まれたんですか?」
「小春さんは、君が歌えないことを気にしていらっしゃるんだよ。歌えるようにしてあげてくれって」
「待ってください。先生、私が歌えないこと知っていてあんなふうに追い詰めたんですか」
じろりと目を向けると、たじたじと効果音が聞こえてきそうだ。
「ごめんよ。いろいろあって君に歌わせる状況にしたかったんだ」
「……まあ、いいです。なぜ母は、佐伯先生に頼んだんでしょうか?」
「僕は、大学で音楽心理学を専攻していてね。歌うことが人体に与える影響を研究していたんだ」
「音楽心理学……結構マニアックな学科ですね」
「さすが篠宮さん、知っているんだね。」
「人間の心理と音楽の関係には、私も興味がありますから。けれど、私はプロのピアニストになるつもりですよ」
音楽心理学科に進むつもりは毛頭ない。
「ふふ、分かっているよ。でも、それを研究していた僕にとっては、君が歌えないということはとてももったいないことだと思うんだ。歌が君に与える素敵な影響のことを考えるとね」
「まあ、よく分からないですけど、歌うことができたら表現力も高まりそうですし、楽しそうですしね」
「実際にいろいろあるんだよ。良い影響が。
まあそれはおいておいて、僕は今日思ったんだけど、君は歌うことに恐怖を感じているんじゃないか?」
恐怖、ですか。私は恐怖を感じているのだろうか?歌おうとするとむせるだけのような気もする。でも今日、息苦しくなったり、頭がぼんやりした、あれは、恐怖だったのかもしれない。
「……そうですね、恐怖を感じているみたいです。歌おうとすると声が出せなくなるので、昔は歌えたはずなんだと思っても、もうすっかり諦めていました」
「諦めているんだ?」
「え?はい、私には歌えないんだって諦めています」
「ふむ……」
先生は口に手を当ててなにか考えているようで、とても様になっている。この姿を百合が見たら無言でシャッターを切るんだろう。スマホが残像で見えないくらい早いスピードで。彼女のスマホはそのスピードに耐えうる手ブレ補正を備え付けた高性能なスマホである。
そういえば、第一音楽室は広いと言えど密室に2人きりなのだが、大丈夫だろうか。
まあ先生の様子を見るに、なにかひどいことをしようなんて気はなさそうであるから、心配ないと思われる。
この部屋に来るまでの先生への疑いや不安は、さっぱり消え去っていた。
「篠宮さん、僕は、君は『イップス』なんだろうと勝手に思っていたんだ。なにか、心理的要因があるんじゃないかって」
「イップスとは?」
「スポーツ選手に使われることが多い言葉だけれど、歌手や演奏家にもしばしば使われる。主に精神的なところが原因で、思うような行動が取れなくなる運動障害のことだよ」
「なるほど」
「でも君はさっき、歌うことを諦めたと言っていた。僕の目から見ても、それが強がりじゃないような気がする。どちらかというと、吹っ切れているような」
「まあ、歌えなくても生きていけますし」
「う、もったいない!
つまりは、今君が吹っ切れているのなら、心理的に君の喉を邪魔するものは無いはずなんだよ」
そもそもわたしが歌えない理由を、心理的原因だと考えたことがなかった。声帯が弱いのかなとか、そんな程度だった。歌えるのは羨ましいけど、病院に行くほどではないし、何度も言うようだけど生きていけるから問題ないし。
「でも、原因の無いところに結果はない。君が歌えないことにはなにか理由があるはずなんだ。だから、僕に君のリハビリをさせてほしい。小春さんに頼まれたからというだけでなく、僕個人としても、歌うという素晴らしい行為を行えるようになってほしいんだ……!」
かなり先生の願望入ってますよね。この人もしかして、私のこと睨んでいたのも、歌えないなんてもったいない子なんだ、なんて思っていたとかじゃないだろうか。
佐伯先生とお母様の善意は、はっきりいってしまえば押し付けだ。私は無条件に歌えたらなあと思ったことはあれど、努力するので歌えるようにしてください!なんて頼んだ覚えはない。そもそも普通に歌える人には分からないのだ。私が歌のために声を出そうとした時、どれくらい苦しいのか。どれくらい嘔吐感がこみ上げてくるのか。卑屈になっているようだけれど、一生分かってはもらえないだろうな、と思う。
「まあ、無理やり歌わせようなんて気は僕には無いよ。あ、今日の授業のことは本当にごめんね?あれは本当、いろいろあって。琥太郎がああやってくれることも分かってたし」
優しく言う先生に、ちょっと笑ってしまった。歌うことが苦手といえど、憧れていたのは事実。それに彼の『押し付け』を無下にしたくない。無理そうなことはちゃんと断ればいいし、リハビリを受けることでもし、もしも歌えるようになったら万々歳じゃないか。
「先生」
「うん」
「これからよろしくお願いします」
「それは、」
「リハビリ、やらせてください」
ぱああ。あ、また向日葵が咲いたな。
今日二回目だ。向日葵の笑顔を見るのは。
「よかった、断られたら小春さんになんて言われるか……本当によかった、これからがんばろうね」
お母様……佐伯先生になにを言ったんだろうか。お母様には無意識に恩を売るくせがあり、それは言い換えれば借りを作らせるということだ。
「ちょっとずつでいいから、声を出せるようにしていこう。大丈夫、必ず歌えるようになるよ」
そう言った先生には、妙な説得力があった。
「失礼ですが、先生はもう少しきつい感じの方なのかなと思ってました」
「え、どうして?」
「今日、先生は私のことを睨んでいるような気がしたもので」
「睨む!?そんな失礼なこと僕はしませんよ」
テンパって敬語になってしまったようだ。あ、ちょっと照れてる。……かわいい。
と、先生相手に何を考えているのだろうか。いけない、女性はしゃんとしなければならないものです。
「あ、僕ほんとはメガネなんだ」
「え?」
「今日が皆との初対面だからって気合入れてコンタクト入れてきたら、朝どうしても痛くて外して……だから、目をしかめていたかも」
やっぱり、かわいい。
思わず笑ってしまって、先生がちょっと怒ったような顔を見せる。
佐伯先生となら、もしかして、本当に、歌えるようになるかもしれない。
根拠の無い自信が少し湧いてきたのは、先生の醸し出す雰囲気のせいだろう。
私は知らなかった。廊下の窓から、音楽室の中をしっかりと見ている人がいることを。
_________________
作者は、音楽心理学についても、イップスについても、この作品を書くにあたり戸惑わない程度に調べただけの知識しかありませんので、変に誤解していたり、理解が足りないところがあるかもしれません。
また、気をつけてはいるのですが、本当に声の出ない方や、似たような症状を持つ方に対して配慮の足らない表現があるかもしれません。
気づいたことがありましたら、教えてくださるとうれしいです。よろしくお願いします。
「私もそう思う。なんか小和をロックオンしてる感じがして……心配だよ」
「ロックオンって。私も正直行きたくないんだけど、先生を相手に無視もできないし、行ってこようと思う」
「でも、どうして呼び出されたか分からないんですよね?」
その通り。どうして私が佐伯先生に呼び出されなくてはならないのか、理由がさっぱりわからない。
が、今は放課後。先程帰りのHRが終わったところだから、ああだのこうだの考える前にそろそろ行かないとまずい。
……なんだか笑えてきてしまった。ただ先生に会いに音楽室に行くだけなのに、大魔王を倒すため立ち上がる村人のような扱いを受けている。思わずふふ、と出た笑い声を二人は聞き逃さなかった。
「小和は楽観的すぎるよ」
「あの人、顔は美形だけれど腹黒さはここに極まれり~!って感じだったじゃないですか」
「ぷっ……ちょっと、私まで笑わせないでよ、百合!」
「二人ともありがとうね。じゃあ、そろそろ行ってくる」
「……ん。わかった、いってらっしゃい」
「何の話だったのか、後でしっかり聞かせてもらいますからね!」
第一音楽室は中が防音になっているため扉が重い。第二のほうは防音じゃないのか、といえばそうではないけれど。どちらも防音だか、第一のほうがすこし部屋が広い。たまに時間割変更で音楽の授業がかぶった時に、二つの教室を使うことになる。
ギギィ……とゆっくりとドアを押すと、手前にグランドピアノが見え、その隣には合唱台、奥には私たちの座る椅子や黒板、教壇がある。
鍵が開いていたから先生もいるのかなと思ったけれど、まだ来ていないみたいだ。鍵だけ開けてどこかへ行ったのだろうか、それともずっと開いていたのだろうか?どちらにしても、少し不用心だなと思ってしまう。
自然と足はピアノの方へ向かった。
椅子を引いて、ゆっくりと座る。
さっきは、ここに棗くんが座っていたんだ。
みんなの笑顔の中で、ひときわ輝いていたように見えた彼。その姿を瞼の裏に思い描いていくうちに、はっと我に返った。
異性のことをこんなに考えるなんて、私らしくない。こう言ってはなんだけれど、私は初恋もまだの青春未経験女である。でも、あの笑顔は頭から離れない。
先生はまだ来ないみたいだ。
私は暇になって、ピアノを弾こうかななんて考えた。
しかし学校のピアノには鍵がかかっている。さっきは授業中だったから開いていたけれど、今は閉じていてカバーを上げることができないだろう、と思いつつもカバーに手をかけると、鍵盤が見えた。
「……不用心すぎる」
思わず独り言が漏れたのも仕方ないだろう。さっきの扉のこともあるけれど、佐伯先生、もう少し気をつけた方がいいですよ。ここの管理責任者はあなたでしょうに。
はあ、と思わずため息をついてしまった。まあいいか、ピアノ弾こう、と思い直す。
棗くんとは違う、流行りの曲ではないけれど。指に馴染んだクラシック曲を奏でる。昔から何回も何回も弾いている曲だ。
その音の中で揺られるように、私は昔のことを考えていた。
昔から、ピアノを弾くことが私のすべてだった。
お父様もお母様も、普段から私のことを大切にしてくれているというのは分かっていたけれど、コンクールで賞をとったりした時に褒めてもらえることで、よりいっそう愛を感じていた。
このピアノという武器がなくなったら、私はきっと生きていけないだろうと。
今も昔も、変わらずそう思っている。
そういえばお母様は、ピアニストであり歌手でもあるからか、自分で弾きながら歌う時が一番素敵だ。ドラムやギターの鳴るような曲を歌っている様子も見たことがあるけれど、やっぱりピアノの方がお母様の声に合う。
落ち着いた、暖かい歌声。
ああ、私も歌えたらなあ。
とっくに諦めたはずの願いが、つい頭に浮かんでしまった。
歌っているお母様や、授業中の皆を見ていると、歌うのは楽しいんだろうな、と思う。
私には苦しいばっかりだから。だから、もう諦めた。別に歌えなくたって生きていけないわけではない。人間諦めが肝心なのである。
そもそも私だって昔は歌えていたはずだった。
昔がいつかというと、それはあまりはっきり覚えていないが、たぶん小学校低学年くらいのときまでは歌えていたと思う。
実は私は、そのあたりくらいまでの記憶がぼんやりと曖昧だ。小四のときに、ものすごい高熱をだしたらしく、起きた時に軽い記憶喪失となっていた。
中学の時にこれを気にしていた私に、お兄様が、
「昔の記憶なんて俺だって曖昧だよ。無理に思い出そうとする必要なんてない」
と言って励ましてくれたことは、ずっと忘れない。私はお兄様が大好きだ。
と、いろいろ考えながら弾いていると、耳元で「篠宮さん」と甘い声がした。
「ひいっ!?」
振り向くと、声の正体は佐伯先生だった。ちょっと笑っているみたいだ。
「そんなに驚かないでよ。傷つくなあ」
「いらしたならすぐに声をかけてください!」
それから、この距離は先生と生徒の距離ではありません。背後に立たないでください。そう言わんとする目線に気づいたのか、先生が少し離れてピアノの横に立つ。
「ごめんごめん、素敵なピアノだったよ」
「先生、鍵が開けっ放しでしたよ。イタズラをする生徒もいるかもしれないんですから。もっと用心するべきです」
「いやあ、先生隣の準備室にずっといたからなあ」
ならもっと早く声をかけてください!準備室まで見なかった私が悪いんですか。そうですか。
「それで、君をここに呼んだ理由なんだけど、君のお母様に頼まれたんだよ」
「え?」
お母様が?何を?
「これ、見てくれる?」
先生は写真を取り出した。お母様と佐伯先生、それから知らない方々数人が映っている。パーティの写真のようだが、私が行った覚えはない。私もよく連れていかれるのだが。というか、先生の格好がとても上品で驚いた。しかし佐伯先生にパーティでお会いした覚えはない。あまり家とは縁がないのだろうか。
「君のお母様とは、十年になる付き合いなんだ」
「え!十年もですか!?」
ご縁ありまくりじゃないだろうか。だが私は紹介されなかったのか。まだ家に相応しい実力と態度が備わっていないからとかだろうか。勝手に推測して傷ついてしまった、情けない。
「君にも、君が幼い時会っているんだけど……覚えてないかな?」
なるほど。私の記憶が無い時期に会っていたのだろう。
「すみません」
「そっか、やっぱり覚えていないんだね」
先生は眉を下げて笑った。なんだか、さっきまでの印象と違う。今朝百合が騒いでいた時、去年大学院卒の新任でやって来たと言っていた。ということは今24歳だろうか。その表情は、もう少し若く見える。私はどうやら、なにかとんでもない意地悪をされるんじゃないかと疑心暗鬼になっていたようだ。
「先生は、私の母に何を頼まれたんですか?」
「小春さんは、君が歌えないことを気にしていらっしゃるんだよ。歌えるようにしてあげてくれって」
「待ってください。先生、私が歌えないこと知っていてあんなふうに追い詰めたんですか」
じろりと目を向けると、たじたじと効果音が聞こえてきそうだ。
「ごめんよ。いろいろあって君に歌わせる状況にしたかったんだ」
「……まあ、いいです。なぜ母は、佐伯先生に頼んだんでしょうか?」
「僕は、大学で音楽心理学を専攻していてね。歌うことが人体に与える影響を研究していたんだ」
「音楽心理学……結構マニアックな学科ですね」
「さすが篠宮さん、知っているんだね。」
「人間の心理と音楽の関係には、私も興味がありますから。けれど、私はプロのピアニストになるつもりですよ」
音楽心理学科に進むつもりは毛頭ない。
「ふふ、分かっているよ。でも、それを研究していた僕にとっては、君が歌えないということはとてももったいないことだと思うんだ。歌が君に与える素敵な影響のことを考えるとね」
「まあ、よく分からないですけど、歌うことができたら表現力も高まりそうですし、楽しそうですしね」
「実際にいろいろあるんだよ。良い影響が。
まあそれはおいておいて、僕は今日思ったんだけど、君は歌うことに恐怖を感じているんじゃないか?」
恐怖、ですか。私は恐怖を感じているのだろうか?歌おうとするとむせるだけのような気もする。でも今日、息苦しくなったり、頭がぼんやりした、あれは、恐怖だったのかもしれない。
「……そうですね、恐怖を感じているみたいです。歌おうとすると声が出せなくなるので、昔は歌えたはずなんだと思っても、もうすっかり諦めていました」
「諦めているんだ?」
「え?はい、私には歌えないんだって諦めています」
「ふむ……」
先生は口に手を当ててなにか考えているようで、とても様になっている。この姿を百合が見たら無言でシャッターを切るんだろう。スマホが残像で見えないくらい早いスピードで。彼女のスマホはそのスピードに耐えうる手ブレ補正を備え付けた高性能なスマホである。
そういえば、第一音楽室は広いと言えど密室に2人きりなのだが、大丈夫だろうか。
まあ先生の様子を見るに、なにかひどいことをしようなんて気はなさそうであるから、心配ないと思われる。
この部屋に来るまでの先生への疑いや不安は、さっぱり消え去っていた。
「篠宮さん、僕は、君は『イップス』なんだろうと勝手に思っていたんだ。なにか、心理的要因があるんじゃないかって」
「イップスとは?」
「スポーツ選手に使われることが多い言葉だけれど、歌手や演奏家にもしばしば使われる。主に精神的なところが原因で、思うような行動が取れなくなる運動障害のことだよ」
「なるほど」
「でも君はさっき、歌うことを諦めたと言っていた。僕の目から見ても、それが強がりじゃないような気がする。どちらかというと、吹っ切れているような」
「まあ、歌えなくても生きていけますし」
「う、もったいない!
つまりは、今君が吹っ切れているのなら、心理的に君の喉を邪魔するものは無いはずなんだよ」
そもそもわたしが歌えない理由を、心理的原因だと考えたことがなかった。声帯が弱いのかなとか、そんな程度だった。歌えるのは羨ましいけど、病院に行くほどではないし、何度も言うようだけど生きていけるから問題ないし。
「でも、原因の無いところに結果はない。君が歌えないことにはなにか理由があるはずなんだ。だから、僕に君のリハビリをさせてほしい。小春さんに頼まれたからというだけでなく、僕個人としても、歌うという素晴らしい行為を行えるようになってほしいんだ……!」
かなり先生の願望入ってますよね。この人もしかして、私のこと睨んでいたのも、歌えないなんてもったいない子なんだ、なんて思っていたとかじゃないだろうか。
佐伯先生とお母様の善意は、はっきりいってしまえば押し付けだ。私は無条件に歌えたらなあと思ったことはあれど、努力するので歌えるようにしてください!なんて頼んだ覚えはない。そもそも普通に歌える人には分からないのだ。私が歌のために声を出そうとした時、どれくらい苦しいのか。どれくらい嘔吐感がこみ上げてくるのか。卑屈になっているようだけれど、一生分かってはもらえないだろうな、と思う。
「まあ、無理やり歌わせようなんて気は僕には無いよ。あ、今日の授業のことは本当にごめんね?あれは本当、いろいろあって。琥太郎がああやってくれることも分かってたし」
優しく言う先生に、ちょっと笑ってしまった。歌うことが苦手といえど、憧れていたのは事実。それに彼の『押し付け』を無下にしたくない。無理そうなことはちゃんと断ればいいし、リハビリを受けることでもし、もしも歌えるようになったら万々歳じゃないか。
「先生」
「うん」
「これからよろしくお願いします」
「それは、」
「リハビリ、やらせてください」
ぱああ。あ、また向日葵が咲いたな。
今日二回目だ。向日葵の笑顔を見るのは。
「よかった、断られたら小春さんになんて言われるか……本当によかった、これからがんばろうね」
お母様……佐伯先生になにを言ったんだろうか。お母様には無意識に恩を売るくせがあり、それは言い換えれば借りを作らせるということだ。
「ちょっとずつでいいから、声を出せるようにしていこう。大丈夫、必ず歌えるようになるよ」
そう言った先生には、妙な説得力があった。
「失礼ですが、先生はもう少しきつい感じの方なのかなと思ってました」
「え、どうして?」
「今日、先生は私のことを睨んでいるような気がしたもので」
「睨む!?そんな失礼なこと僕はしませんよ」
テンパって敬語になってしまったようだ。あ、ちょっと照れてる。……かわいい。
と、先生相手に何を考えているのだろうか。いけない、女性はしゃんとしなければならないものです。
「あ、僕ほんとはメガネなんだ」
「え?」
「今日が皆との初対面だからって気合入れてコンタクト入れてきたら、朝どうしても痛くて外して……だから、目をしかめていたかも」
やっぱり、かわいい。
思わず笑ってしまって、先生がちょっと怒ったような顔を見せる。
佐伯先生となら、もしかして、本当に、歌えるようになるかもしれない。
根拠の無い自信が少し湧いてきたのは、先生の醸し出す雰囲気のせいだろう。
私は知らなかった。廊下の窓から、音楽室の中をしっかりと見ている人がいることを。
_________________
作者は、音楽心理学についても、イップスについても、この作品を書くにあたり戸惑わない程度に調べただけの知識しかありませんので、変に誤解していたり、理解が足りないところがあるかもしれません。
また、気をつけてはいるのですが、本当に声の出ない方や、似たような症状を持つ方に対して配慮の足らない表現があるかもしれません。
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