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1巻
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怖い人だと言われているけれど、上から物を言うようなことはないし、おにぎり一つ作るだけでもこんなに喜んでくれる。それに、私に不利益がないようにきちんと対価を払おうとしてくれる。
(きっと河原社長は、恋人や奥さんにもすごく優しいんだろうな)
食事の準備や洗濯など、一つ一つの家事に対して、必ずありがとうと言ってくれそうだ。
こうして朝からともに食事をしていると、まるで夫婦みたいでつい想像が広がってしまった。
(私、なんてことを考えてるんだろう)
気持ちを切り替えようと頬を軽くはたいていると、社長がこちらを見て微笑む。
「これから金曜日が楽しみで仕方がない」
「そんなこと言ってくれるのは社長だけですよ。こうして自分の作った物を美味しいと食べてもらえることって嬉しいものですね」
嬉しい気持ちを隠しきれずに笑顔で返すと、社長は驚いた表情を浮かべた後、真顔で見つめてきた。
「……食べてくれる人はいないのか?」
「恋愛らしい恋愛もしてこなかったので、恋人もいませんし、料理を食べてくれる家族もいません」
余計なことまで話してしまったと私は顔が熱くなった。
社長がじっと私の顔を見つめていることに気がつき、恥ずかしくなって頭を下げた。
「変なことまで話してしまって……申し訳ありません」
「いや。話してくれてありがとう」
まさかお礼を言われるなんて思ってもいなかった。
(社長ってやっぱり優しくて素敵な人だな)
一緒に過ごす時間が増えていくほど、自分の心が奪われていく気がする。気づかないふりをしていたけれど、私は河原社長のことを好きになりかけているのだろう。
でも、少し不安だ。だって、社長と清掃員だなんて、あまりにも身分が違いすぎる。間違っても恋をしてはいけない相手なのだから……
第二章
「宮本ゆめ……」
毎朝社長室に掃除に来てくれる可愛らしい人。
彼女が出て行った後は、部屋の空気がとても澄んでいるように感じる。掃除をして綺麗になったからだけではなく、彼女が明るい雰囲気を残してくれているのかもしれない。
こちらからのお願いで週に一回焼きおにぎりを作ってもらうようになった。
彼女には味噌焼きおにぎりのうまさに感動したからと伝えたが、それだけではない。宮本ゆめと関わりたいという下心があったからだ。
色白の肌に、二重が印象的な大きな目、長いまつ毛に小さな口。彼女に笑顔を向けられると、胸が温かくなる。性格は明るくて気が利いて、人懐っこいところも可愛い……
外見も性格も魅力があってまいってしまう。
彼女のことを考えていると、ドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは新田だった。
「先ほど依頼されていた資料ができたので、共有フォルダに入れておきました」
「ありがとう」
「今夜は会食がキャンセルになりましたが、他に何かご予定を入れましょうか?」
「久しぶりに店に視察に行こうかと思っている」
「お供してもよろしいでしょうか?」
「構わない」
彼女は頭を下げて社長室を出て行った。
俺は女性が苦手だ。大企業の一人息子として生まれた俺には、子どもの頃からいつも女性が近づいてきた。
俺の性格をろくに知りもしないくせに、『カワラ食品の息子』というだけで告白されることもあった。小学校から大学卒業までずっとそんな感じだった。
高校時代に一度だけ女性と付き合ったことがある。腰まで伸ばした綺麗な黒髪ストレートの女性だった。ピアノが弾けていつも穏やかで、優しく笑っているところに惹かれて、彼女からの告白を受け入れた。
ところがある日、教室に忘れ物を取りに行ったとき、彼女が友達と『お金持ちの息子だから付き合ってるだけだよ』と話しているのを聞いてしまった。
『無駄に背が大きくていかついでしょう。私、ああいう人はタイプじゃないの』
彼女の言葉を聞いて俺は完全に心を閉ざし、そのせいでより一層、無表情に拍車がかかったのかもしれない。
三十歳を過ぎても一向に結婚しない俺のことを、母親はかなり心配している。
立場上、跡継ぎを残す必要はあると考えて、何度もお見合いを重ねた。
だが、笑顔を作るのが苦手な上この容姿だ。お見合いはすべて失敗に終わった。
それでも母親は俺を何とか結婚させようとして、あれこれ縁談をもちかけてくる。
正直今は誰とも結婚する気がない。
現在三十二歳。
この年齢までろくに恋愛をしてこなかったんだ。今さら誰かと恋愛をして、夫婦になることは不可能に近いだろう。
そんな事情がある俺に対して、新田は色目を使ってこないのでとても仕事がやりやすい。信頼している秘書だ。
その日、仕事が終わって系列店の居酒屋『味噌晩菜』に足を運んだ。
ここ数年は飲食業も業績を伸ばしており、抜き打ちでチェックしに行くことも増えた。
店長以外のアルバイトは、俺が社長だということを知らない。もちろん会社のホームページには俺の名前と写真が載っているが、俺はほとんどメディアに顔を出さないので認知されていないはずだ。
そのほうが気づいたことを指摘しやすいから好都合である。
店に入ると「いらっしゃいませ」と明るい声で迎えられた。合格だ。
「二名様ですね。こちらの席へどうぞ」
案内されたのは二名がけのテーブル席だった。俺と新田は向かい合って座る。生ビールを注文して料理を何品か選んだ。
「お待たせしました。生ビール二つです」
聞き覚えのある声だと思って視線を動かすと、そこにいたのは宮本さんだった。
目が合って一瞬固まってしまう。
「河原社長……お疲れ様です。新田さんもお疲れ様です」
「ここでアルバイトをしているのか?」
「はい。契約社員の副業は禁止されていませんよね?」
「あぁ。問題ない」
夜遅くまで働いて朝早く掃除の仕事をしているのか。金が必要なのだろうか?
そんなに忙しい彼女に無理なお願いをして、おにぎりを作ってもらっていたのか。申し訳ない思いが広がり、胸が痛んだ。
「まさかここで働いているとは驚きました」
新田が話しかけている。
「事情がありまして……」
「今日は抜き打ちのチェックで来たんですよ」
「そうだったんですね」
「社長だということを知らない従業員もいるので、他の方には内密に」
「わかりました。ごゆっくり」
居酒屋で見る宮本さんもとても明るくて笑顔が溢れていた。
自然と彼女のことを目で追ってしまうが、どのお客様に対してもとても対応がいい。
「……彼女はとても接客業に向いている」
「そうですね。アルバイトなんてもったいないですね」
「あぁ」
そのうちに別の従業員が料理が運んできた。食べているうちに、いつの間にか宮本さんの姿は見えなくなっていた。
*
「ゆめちゃん、休憩に入っていいよ」
「はい!」
店長に言われてバックヤードに入る。ロッカーに囲まれた部屋で、休憩用に小さなテーブルが置いてある。
河原社長が視察に来ているなんて驚いた。しかも終業後のはずなのに新田さんが同席していた。仕事としてついてきているのか、それとも本当はプライベートなのだろうか?
二人はお似合いで、少し羨ましくなってしまう。
(やっぱり秘書として社長をサポートしながら働くなんて、かっこいいな)
今は祖母も入院して落ち着いているし、そろそろ私も正社員として働ける仕事を探そう。ダブルワークはやはり身体にも無理があるようで、ここ最近疲れが溜まっている気がする。
でも、自分にはどんな仕事が合っているのだろう、やれることは何なのだろう。
「ゆめちゃん、まかない」
「ありがとうございます!」
店長がまかないをもってきてくれたので、休憩室で食べさせてもらう。その料理が美味しいったらありゃしない。今日は味噌カツ丼だ。
食べようとしたときスマホに連絡が入った。北海道の夏江おばさんからだ。
『今大丈夫?』
「ちょうど休憩中だったので大丈夫ですよ。何かありましたか?」
『実はね……』
言いにくそうにしているので悪いことがあったのではないかとヒヤッとした。おばさんの言葉に注意深く耳を傾ける。
『おばあちゃん、二週間前に亡くなって、もうお骨になっているのよ』
「え?」
一瞬、何を言っているのか理解することができなかった。あまりの内容に、信じられずに頭が真っ白になる。
次の瞬間、怒りが込み上げてきて、私は手に握りこぶしを作った。
連絡をしてこなかった理由がわからない。
少しでも冷静になろうと息を深く吐く。
「なぜもっと早く教えてくれなかったんですか?」
自分の声だと思えないほど低い声が出た。怒鳴ってしまいそうだったけれど、まずは話を聞こう。
『突然容態が悪くなって、亡くなってしまって』
「そんなことを聞いているんじゃないです。なぜ連絡をしてくれなかったのかって聞いているんです」
『お葬式とかバタバタして忙しかったのよ。ようやく落ち着いたから連絡したの。遅くなっちゃってごめんなさいね』
大事なことを教えてくれなかったのに、おばさんに悪びれた様子はない。
「『遅くなっちゃってごめんなさい』じゃないです!」
あまりにもショックで私は思わず大きな声を出してしまった。
『お金、いくらかかったと思っているの。お金だけじゃないわ、手間もすごくかかった。何度も病院に呼び出されたり洗濯物を洗ったり。火葬だってお金がかかったのよ。面倒を見てやったお礼はないわけ?』
悲しみを通り越して感情がぐちゃぐちゃだ。まだアルバイト中だというのに涙がポロポロと溢れてきた。
『うちも余裕がないけど最低限の葬儀をさせてもらったわ。そうね……分割でもいいから五十万円振り込みなさい』
私はあまりにもショックで言葉が出てこなかった。
『私の母と同じお墓に埋葬したから。こちらに来ることがあったらお参りしてあげたらいいんじゃないの?』
「……ひどすぎます」
『誰に向かって言っているの? 今まで面倒を見てあげたんだから感謝の言葉の一つや二つぐらいないのかしら。本当ならもっとお金を請求したいところよ。感謝もできないひどい娘に育ったのね。まあそういうことだから。じゃあ』
ツーツー。
電話が切れてしまった。
(おばあちゃんが……死んじゃった……)
「ゆめちゃん、ごめん。ちょっと混んできたから手伝ってもらえるか……え? どうした?」
休憩室に入ってきた店長が泣いている私を見て驚いている。
「……祖母が亡くなってしまって」
「そうだったのか。お葬式はいつ? 休みにしてあげるから」
「もうお骨になってしまったようです……」
店長は眉間にシワを寄せ、何とも言えない表情をした。
「いろいろ事情があるんだね……」
「……ごめんなさい。お店、混んでいるんですよね。出ます」
料理を運ぼうと立ち上がったが、足元がふらついて上手く歩けない。
「無理はしないで」
何とか涙を我慢して、ホールへと向かった。
たしかに店内は満席で、注文が厨房にたくさん貼られていてスタッフ全員が忙しそうにしていた。
今ここで穴を開けるわけにはいかない。
気持ちを引き締めて料理を運ぶが現実だと受け止めることができず、気を抜くと倒れてしまいそうだった。
「ゆめ」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、常連のサラリーマンだった。
名札に「ゆめ」と書いてあるが、気安く名前を呼ばれる間柄ではない。
「会いに来たよ」
「……ありがとうございます」
「今日は笑顔を見せてくれないんだね。冷たいな」
一方的に親しげに話され、正直気持ちが悪いと思った。
感情がぐちゃぐちゃになって涙が流れてきてしまう。その様子に気がついた店長がさっと近づいてきて、私に耳打ちをした。
「帰ってもいいよ」
「こんなに忙しいですし、大丈夫です」
「さっきから様子を見ていたけど、働ける状態じゃない。まずは休んで、元気になったらまた頑張ってくれれば大丈夫だから」
「申し訳ありません」
私はバックヤードに戻り、すぐにエプロンを外して帰宅することにした。
外に出ると蒸し暑い。騒がしい歓楽街なのに、私だけが無音の中にいるようだった。
胸のあたりが鋭利な刃物で切りつけられているように痛くて、どんどん呼吸が荒くなっていく。
大事なおばあちゃんと、最後の別れをさせてくれないなんて……。どんなに大変でも、私のそばで暮らしてもらうべきだったのかもしれないと、後悔の念が襲ってきた。
貧乏だったけれど節約をしながら二人で頑張って生きてきた。
私には絶対に幸せになってほしいというのが祖母の口癖で、その幸せになった姿を見せたいと頑張ってきたのに……
涙を止めようとしても次から次へとこぼれてきて、頬を濡らしていく。
「体調が悪いなら送ってあげるよ」
突然男の人の声が聞こえて振り返ると、常連のサラリーマンが立っていた。いつの間に店の外に出てきていたのだろう。
「結構です」
「元気がないから心配なんだ」
そう言われ、腕をガッチリとつかまれてしまった。
(どうしてこんなときに絡んでくるの?)
「一人で帰れるので大丈夫です!」
「ゆめ、恥ずかしがらなくていいんだよ」
「恥ずかしがってなんかいません! 迷惑だと言っているんです」
私が強い口調で言うと、彼は驚いたように目を見開いた。ものすごく傷ついた様子だったが、すぐに優しい笑顔を向けてくる。でも、瞳の奥は笑っていない。
「ごめんね。僕が傷つけるようなことをしてしまったんだね。守りきれなくてごめんね。ちゃんと大事にするから、まずはゆっくり二人で話をしよう」
この人は何を言っているのだろう?
いつもお店に来ているただの常連だと思っていたのに。そういえば、前に店の裏口に立っていることもあった。今も何か勘違いしているのか、よくわからないことを言っている。全身が恐怖心で包まれる。
こういう場合、どう対処したらいいのだろう。
「ゆめ、さぁ……家に一緒に帰ろうか。ゆめはオレンジ色が好きなんだよね。だって部屋のカーテンもオレンジだもん。僕も好きだよ、オレンジ色。結婚したら絨毯もオレンジにしようか」
(部屋に来たことがないのに、なんでカーテンの色まで知っているの……?)
「さあ、行こう」
「……大丈夫です。失礼します」
帰ろうとすると、反対の手首もキュッとつかまれた。
「もう二年だよ。付き合いが長い僕に頼ってよ」
「……二年?」
「ほら、二年前のあのとき助けてくれただろ」
そう言われて、ふと記憶が蘇ってきた。
この店でバイトを始めたばかりの頃、帰り道でゴミ袋の上に倒れているサラリーマンを見かけた。
心配で近寄って声をかけると、その人は唇から血を流していた。話を聞くと、襲われそうになっている女性を助けようとしたら殴られてしまったのだという。
放っておくことができず、タクシーに乗せて近くの病院まで送り届けた。
『お礼がしたい』と言われたが、私は大したことをしていないからと断り、その場を去ったのだ。
「あれは、運命の出会いだったんだよ」
「違います……!」
「ゆめ、早く一緒になろう」
「やめてっ」
サラリーマンは私を自分のほうへと引き寄せようとしている。
(私の部屋のカーテンの色まで知っていたし、もしかして、ストーカー?)
もしそうだとしたら突き放すようなことを言ったら、逆上させてしまうかもしれない。
考えすぎかもしれないけれど……怖い。私は全身に震えが走っていた。
「宮本さん」
声が聞こえて振り返ると、そこに立っていたのは河原社長だった。
「おい、嫌がっているだろう。その手を離せ」
「俺のゆめだ。絶対にこの手は離さない」
サラリーマンの目の色が変わった。
社長が私に視線を向けたので、こんな人知り合いじゃないと伝えようと必死で頭を左右に振る。
「いいからその手を離せ」
身体が大きく声も低い河原社長が睨みつけると、ものすごい迫力がある。
「宮本さんは俺の大事な人だ」
「何だって……!」
サラリーマンの息が荒くなっている。
「うるさい! 僕のゆめなんだぁああああ」
急に大きな声で叫ぶと、私の手を放し、社長に向けて手を振りかざした。どこから取り出したのか、その手にはナイフが握られていた。
「河原社長! 危ない」
私が声を出すのと同時に、社長はサラリーマンの手首を強く握った。
「誰かのことを好きだと思う気持ちは素晴らしい。しかし、一方的ではいけないんだ。冷静になって考えてみろ」
「……っく」
「こんなところで犯罪者になってしまったら、君の人生はめちゃくちゃになってしまうんだ。君にしかできないことが絶対にある。彼女のことは残念ながら諦めてくれ」
その言葉に反応して、サラリーマンは再びナイフを振りかざそうとする。
「うりゃああああ」
社長はサラリーマンの手首をさらに強くつかんで捻った。ナイフが手から落ちる。
「警察に連絡してくれ」
新田さんへ指示を出す。
連絡を終えると、彼女は震える私の背中をさすってくれた。
店の前が騒がしくなっていたため、店長が出てくる。社長が事情を説明して、店の客に迷惑がかからないように落ち着かせてほしいと指示を出していた。
そして、すぐにパトカーがやってきてストーカーは確保された。
警察に捕まったストーカーの様子をうかがうと、こちらを見ていたようで目が合う。
彼は瞳に涙を浮かべて私にすがるような目線を向けていたが、あんなことをされた以上可哀想だとは思えない。
そのままストーカーは警察に連れられ、現場には私と河原社長、新田さんが残された。
「新田は先に帰ってくれ。協力してくれてありがとう」
「私に協力できることがあれば言ってください。今夜は連絡がつく状態にしておきますので」
そう言うと、新田さんは私に向かって微笑んだ。
新田さんを見送ると、私と社長は警察署で事情聴取を受けた。
警察署から出るとすっかり深夜になっていて、外は静まり返っていた。
「私のせいで変な事件に巻き込んでしまって、申し訳ありません」
「気にすることはない。これから裁判など忙しくなるかもしれないな」
「いえ……訴えるつもりはありません。いろいろありまして裁判で立ち向かう気力がなくて……」
「そうか」
彼はしばらく黙り込んでいたが納得したように頷いた。
「宮本さんの気持ちを尊重しようと思うが、万が一、また同じようなことがあったら、その時は徹底的に訴えていかなければならない」
厳しい言葉だったが、それほど私のことを考えてくれているのだろう。
「そうですね。河原社長に守っていただいたこと感謝します」
「俺は大したことはしていない」
「いえ、本当にありがとうございました」
お礼を言って、社長に頭を下げる。
「大丈夫か?」
祖母が亡くなったことと、ストーカー被害に遭ったことが重なり、私は身体が小刻みに震えていた。
「……はい」
「誰かご家族か、頼ることのできる人に迎えに来てもらえないのか?」
今まで誰にも弱音なんて吐きたくなかった。でも、今日だけはあまりにもショックが大きすぎて、誰かに頼らなければ生きていけない気がした。
「……私はもうこの世の中に一人なんです」
本当にそんな気持ちになってしまい、思わずつぶやいていた。
「突然変なこと言ってしまってごめんなさい。実は……祖母が二週間前に亡くなっていたことがわかったんです。事情があり、北海道の親戚に預かってもらっていたのですが、葬儀の連絡もなく、今日突然電話で『もうお骨になった』と言われて混乱していて……」
私はお世話になったことだし、社長に事情をすべて説明した。
「信じられない。何ということだ」
話を聞いて、社長は自分のことのように一緒に怒ってくれた。それだけで私はどれほど救われただろうか。
「ご両親は?」
「両親は私が子どもの頃に他界していて、祖母がずっと育ててくれたんです。でも、祖母が病気になってからは介護と入院費調達のための仕事の両立がどうしても難しくて、親戚に面倒を見てもらっていたんです……」
ストーカーから助けてもらった上に、こんなプライベートな話まで聞かせるなんて、私はものすごく失礼なことをしてしまっているに違いない。
もう平気だと伝えるように私は笑ってみせるが、その拍子に瞳から涙がこぼれた。
社長は自分の着ている上着を脱ぐと、慰めるようにそっと私の肩にかけてくれた。
(きっと河原社長は、恋人や奥さんにもすごく優しいんだろうな)
食事の準備や洗濯など、一つ一つの家事に対して、必ずありがとうと言ってくれそうだ。
こうして朝からともに食事をしていると、まるで夫婦みたいでつい想像が広がってしまった。
(私、なんてことを考えてるんだろう)
気持ちを切り替えようと頬を軽くはたいていると、社長がこちらを見て微笑む。
「これから金曜日が楽しみで仕方がない」
「そんなこと言ってくれるのは社長だけですよ。こうして自分の作った物を美味しいと食べてもらえることって嬉しいものですね」
嬉しい気持ちを隠しきれずに笑顔で返すと、社長は驚いた表情を浮かべた後、真顔で見つめてきた。
「……食べてくれる人はいないのか?」
「恋愛らしい恋愛もしてこなかったので、恋人もいませんし、料理を食べてくれる家族もいません」
余計なことまで話してしまったと私は顔が熱くなった。
社長がじっと私の顔を見つめていることに気がつき、恥ずかしくなって頭を下げた。
「変なことまで話してしまって……申し訳ありません」
「いや。話してくれてありがとう」
まさかお礼を言われるなんて思ってもいなかった。
(社長ってやっぱり優しくて素敵な人だな)
一緒に過ごす時間が増えていくほど、自分の心が奪われていく気がする。気づかないふりをしていたけれど、私は河原社長のことを好きになりかけているのだろう。
でも、少し不安だ。だって、社長と清掃員だなんて、あまりにも身分が違いすぎる。間違っても恋をしてはいけない相手なのだから……
第二章
「宮本ゆめ……」
毎朝社長室に掃除に来てくれる可愛らしい人。
彼女が出て行った後は、部屋の空気がとても澄んでいるように感じる。掃除をして綺麗になったからだけではなく、彼女が明るい雰囲気を残してくれているのかもしれない。
こちらからのお願いで週に一回焼きおにぎりを作ってもらうようになった。
彼女には味噌焼きおにぎりのうまさに感動したからと伝えたが、それだけではない。宮本ゆめと関わりたいという下心があったからだ。
色白の肌に、二重が印象的な大きな目、長いまつ毛に小さな口。彼女に笑顔を向けられると、胸が温かくなる。性格は明るくて気が利いて、人懐っこいところも可愛い……
外見も性格も魅力があってまいってしまう。
彼女のことを考えていると、ドアがノックされた。
「どうぞ」
入ってきたのは新田だった。
「先ほど依頼されていた資料ができたので、共有フォルダに入れておきました」
「ありがとう」
「今夜は会食がキャンセルになりましたが、他に何かご予定を入れましょうか?」
「久しぶりに店に視察に行こうかと思っている」
「お供してもよろしいでしょうか?」
「構わない」
彼女は頭を下げて社長室を出て行った。
俺は女性が苦手だ。大企業の一人息子として生まれた俺には、子どもの頃からいつも女性が近づいてきた。
俺の性格をろくに知りもしないくせに、『カワラ食品の息子』というだけで告白されることもあった。小学校から大学卒業までずっとそんな感じだった。
高校時代に一度だけ女性と付き合ったことがある。腰まで伸ばした綺麗な黒髪ストレートの女性だった。ピアノが弾けていつも穏やかで、優しく笑っているところに惹かれて、彼女からの告白を受け入れた。
ところがある日、教室に忘れ物を取りに行ったとき、彼女が友達と『お金持ちの息子だから付き合ってるだけだよ』と話しているのを聞いてしまった。
『無駄に背が大きくていかついでしょう。私、ああいう人はタイプじゃないの』
彼女の言葉を聞いて俺は完全に心を閉ざし、そのせいでより一層、無表情に拍車がかかったのかもしれない。
三十歳を過ぎても一向に結婚しない俺のことを、母親はかなり心配している。
立場上、跡継ぎを残す必要はあると考えて、何度もお見合いを重ねた。
だが、笑顔を作るのが苦手な上この容姿だ。お見合いはすべて失敗に終わった。
それでも母親は俺を何とか結婚させようとして、あれこれ縁談をもちかけてくる。
正直今は誰とも結婚する気がない。
現在三十二歳。
この年齢までろくに恋愛をしてこなかったんだ。今さら誰かと恋愛をして、夫婦になることは不可能に近いだろう。
そんな事情がある俺に対して、新田は色目を使ってこないのでとても仕事がやりやすい。信頼している秘書だ。
その日、仕事が終わって系列店の居酒屋『味噌晩菜』に足を運んだ。
ここ数年は飲食業も業績を伸ばしており、抜き打ちでチェックしに行くことも増えた。
店長以外のアルバイトは、俺が社長だということを知らない。もちろん会社のホームページには俺の名前と写真が載っているが、俺はほとんどメディアに顔を出さないので認知されていないはずだ。
そのほうが気づいたことを指摘しやすいから好都合である。
店に入ると「いらっしゃいませ」と明るい声で迎えられた。合格だ。
「二名様ですね。こちらの席へどうぞ」
案内されたのは二名がけのテーブル席だった。俺と新田は向かい合って座る。生ビールを注文して料理を何品か選んだ。
「お待たせしました。生ビール二つです」
聞き覚えのある声だと思って視線を動かすと、そこにいたのは宮本さんだった。
目が合って一瞬固まってしまう。
「河原社長……お疲れ様です。新田さんもお疲れ様です」
「ここでアルバイトをしているのか?」
「はい。契約社員の副業は禁止されていませんよね?」
「あぁ。問題ない」
夜遅くまで働いて朝早く掃除の仕事をしているのか。金が必要なのだろうか?
そんなに忙しい彼女に無理なお願いをして、おにぎりを作ってもらっていたのか。申し訳ない思いが広がり、胸が痛んだ。
「まさかここで働いているとは驚きました」
新田が話しかけている。
「事情がありまして……」
「今日は抜き打ちのチェックで来たんですよ」
「そうだったんですね」
「社長だということを知らない従業員もいるので、他の方には内密に」
「わかりました。ごゆっくり」
居酒屋で見る宮本さんもとても明るくて笑顔が溢れていた。
自然と彼女のことを目で追ってしまうが、どのお客様に対してもとても対応がいい。
「……彼女はとても接客業に向いている」
「そうですね。アルバイトなんてもったいないですね」
「あぁ」
そのうちに別の従業員が料理が運んできた。食べているうちに、いつの間にか宮本さんの姿は見えなくなっていた。
*
「ゆめちゃん、休憩に入っていいよ」
「はい!」
店長に言われてバックヤードに入る。ロッカーに囲まれた部屋で、休憩用に小さなテーブルが置いてある。
河原社長が視察に来ているなんて驚いた。しかも終業後のはずなのに新田さんが同席していた。仕事としてついてきているのか、それとも本当はプライベートなのだろうか?
二人はお似合いで、少し羨ましくなってしまう。
(やっぱり秘書として社長をサポートしながら働くなんて、かっこいいな)
今は祖母も入院して落ち着いているし、そろそろ私も正社員として働ける仕事を探そう。ダブルワークはやはり身体にも無理があるようで、ここ最近疲れが溜まっている気がする。
でも、自分にはどんな仕事が合っているのだろう、やれることは何なのだろう。
「ゆめちゃん、まかない」
「ありがとうございます!」
店長がまかないをもってきてくれたので、休憩室で食べさせてもらう。その料理が美味しいったらありゃしない。今日は味噌カツ丼だ。
食べようとしたときスマホに連絡が入った。北海道の夏江おばさんからだ。
『今大丈夫?』
「ちょうど休憩中だったので大丈夫ですよ。何かありましたか?」
『実はね……』
言いにくそうにしているので悪いことがあったのではないかとヒヤッとした。おばさんの言葉に注意深く耳を傾ける。
『おばあちゃん、二週間前に亡くなって、もうお骨になっているのよ』
「え?」
一瞬、何を言っているのか理解することができなかった。あまりの内容に、信じられずに頭が真っ白になる。
次の瞬間、怒りが込み上げてきて、私は手に握りこぶしを作った。
連絡をしてこなかった理由がわからない。
少しでも冷静になろうと息を深く吐く。
「なぜもっと早く教えてくれなかったんですか?」
自分の声だと思えないほど低い声が出た。怒鳴ってしまいそうだったけれど、まずは話を聞こう。
『突然容態が悪くなって、亡くなってしまって』
「そんなことを聞いているんじゃないです。なぜ連絡をしてくれなかったのかって聞いているんです」
『お葬式とかバタバタして忙しかったのよ。ようやく落ち着いたから連絡したの。遅くなっちゃってごめんなさいね』
大事なことを教えてくれなかったのに、おばさんに悪びれた様子はない。
「『遅くなっちゃってごめんなさい』じゃないです!」
あまりにもショックで私は思わず大きな声を出してしまった。
『お金、いくらかかったと思っているの。お金だけじゃないわ、手間もすごくかかった。何度も病院に呼び出されたり洗濯物を洗ったり。火葬だってお金がかかったのよ。面倒を見てやったお礼はないわけ?』
悲しみを通り越して感情がぐちゃぐちゃだ。まだアルバイト中だというのに涙がポロポロと溢れてきた。
『うちも余裕がないけど最低限の葬儀をさせてもらったわ。そうね……分割でもいいから五十万円振り込みなさい』
私はあまりにもショックで言葉が出てこなかった。
『私の母と同じお墓に埋葬したから。こちらに来ることがあったらお参りしてあげたらいいんじゃないの?』
「……ひどすぎます」
『誰に向かって言っているの? 今まで面倒を見てあげたんだから感謝の言葉の一つや二つぐらいないのかしら。本当ならもっとお金を請求したいところよ。感謝もできないひどい娘に育ったのね。まあそういうことだから。じゃあ』
ツーツー。
電話が切れてしまった。
(おばあちゃんが……死んじゃった……)
「ゆめちゃん、ごめん。ちょっと混んできたから手伝ってもらえるか……え? どうした?」
休憩室に入ってきた店長が泣いている私を見て驚いている。
「……祖母が亡くなってしまって」
「そうだったのか。お葬式はいつ? 休みにしてあげるから」
「もうお骨になってしまったようです……」
店長は眉間にシワを寄せ、何とも言えない表情をした。
「いろいろ事情があるんだね……」
「……ごめんなさい。お店、混んでいるんですよね。出ます」
料理を運ぼうと立ち上がったが、足元がふらついて上手く歩けない。
「無理はしないで」
何とか涙を我慢して、ホールへと向かった。
たしかに店内は満席で、注文が厨房にたくさん貼られていてスタッフ全員が忙しそうにしていた。
今ここで穴を開けるわけにはいかない。
気持ちを引き締めて料理を運ぶが現実だと受け止めることができず、気を抜くと倒れてしまいそうだった。
「ゆめ」
不意に名前を呼ばれて振り返ると、常連のサラリーマンだった。
名札に「ゆめ」と書いてあるが、気安く名前を呼ばれる間柄ではない。
「会いに来たよ」
「……ありがとうございます」
「今日は笑顔を見せてくれないんだね。冷たいな」
一方的に親しげに話され、正直気持ちが悪いと思った。
感情がぐちゃぐちゃになって涙が流れてきてしまう。その様子に気がついた店長がさっと近づいてきて、私に耳打ちをした。
「帰ってもいいよ」
「こんなに忙しいですし、大丈夫です」
「さっきから様子を見ていたけど、働ける状態じゃない。まずは休んで、元気になったらまた頑張ってくれれば大丈夫だから」
「申し訳ありません」
私はバックヤードに戻り、すぐにエプロンを外して帰宅することにした。
外に出ると蒸し暑い。騒がしい歓楽街なのに、私だけが無音の中にいるようだった。
胸のあたりが鋭利な刃物で切りつけられているように痛くて、どんどん呼吸が荒くなっていく。
大事なおばあちゃんと、最後の別れをさせてくれないなんて……。どんなに大変でも、私のそばで暮らしてもらうべきだったのかもしれないと、後悔の念が襲ってきた。
貧乏だったけれど節約をしながら二人で頑張って生きてきた。
私には絶対に幸せになってほしいというのが祖母の口癖で、その幸せになった姿を見せたいと頑張ってきたのに……
涙を止めようとしても次から次へとこぼれてきて、頬を濡らしていく。
「体調が悪いなら送ってあげるよ」
突然男の人の声が聞こえて振り返ると、常連のサラリーマンが立っていた。いつの間に店の外に出てきていたのだろう。
「結構です」
「元気がないから心配なんだ」
そう言われ、腕をガッチリとつかまれてしまった。
(どうしてこんなときに絡んでくるの?)
「一人で帰れるので大丈夫です!」
「ゆめ、恥ずかしがらなくていいんだよ」
「恥ずかしがってなんかいません! 迷惑だと言っているんです」
私が強い口調で言うと、彼は驚いたように目を見開いた。ものすごく傷ついた様子だったが、すぐに優しい笑顔を向けてくる。でも、瞳の奥は笑っていない。
「ごめんね。僕が傷つけるようなことをしてしまったんだね。守りきれなくてごめんね。ちゃんと大事にするから、まずはゆっくり二人で話をしよう」
この人は何を言っているのだろう?
いつもお店に来ているただの常連だと思っていたのに。そういえば、前に店の裏口に立っていることもあった。今も何か勘違いしているのか、よくわからないことを言っている。全身が恐怖心で包まれる。
こういう場合、どう対処したらいいのだろう。
「ゆめ、さぁ……家に一緒に帰ろうか。ゆめはオレンジ色が好きなんだよね。だって部屋のカーテンもオレンジだもん。僕も好きだよ、オレンジ色。結婚したら絨毯もオレンジにしようか」
(部屋に来たことがないのに、なんでカーテンの色まで知っているの……?)
「さあ、行こう」
「……大丈夫です。失礼します」
帰ろうとすると、反対の手首もキュッとつかまれた。
「もう二年だよ。付き合いが長い僕に頼ってよ」
「……二年?」
「ほら、二年前のあのとき助けてくれただろ」
そう言われて、ふと記憶が蘇ってきた。
この店でバイトを始めたばかりの頃、帰り道でゴミ袋の上に倒れているサラリーマンを見かけた。
心配で近寄って声をかけると、その人は唇から血を流していた。話を聞くと、襲われそうになっている女性を助けようとしたら殴られてしまったのだという。
放っておくことができず、タクシーに乗せて近くの病院まで送り届けた。
『お礼がしたい』と言われたが、私は大したことをしていないからと断り、その場を去ったのだ。
「あれは、運命の出会いだったんだよ」
「違います……!」
「ゆめ、早く一緒になろう」
「やめてっ」
サラリーマンは私を自分のほうへと引き寄せようとしている。
(私の部屋のカーテンの色まで知っていたし、もしかして、ストーカー?)
もしそうだとしたら突き放すようなことを言ったら、逆上させてしまうかもしれない。
考えすぎかもしれないけれど……怖い。私は全身に震えが走っていた。
「宮本さん」
声が聞こえて振り返ると、そこに立っていたのは河原社長だった。
「おい、嫌がっているだろう。その手を離せ」
「俺のゆめだ。絶対にこの手は離さない」
サラリーマンの目の色が変わった。
社長が私に視線を向けたので、こんな人知り合いじゃないと伝えようと必死で頭を左右に振る。
「いいからその手を離せ」
身体が大きく声も低い河原社長が睨みつけると、ものすごい迫力がある。
「宮本さんは俺の大事な人だ」
「何だって……!」
サラリーマンの息が荒くなっている。
「うるさい! 僕のゆめなんだぁああああ」
急に大きな声で叫ぶと、私の手を放し、社長に向けて手を振りかざした。どこから取り出したのか、その手にはナイフが握られていた。
「河原社長! 危ない」
私が声を出すのと同時に、社長はサラリーマンの手首を強く握った。
「誰かのことを好きだと思う気持ちは素晴らしい。しかし、一方的ではいけないんだ。冷静になって考えてみろ」
「……っく」
「こんなところで犯罪者になってしまったら、君の人生はめちゃくちゃになってしまうんだ。君にしかできないことが絶対にある。彼女のことは残念ながら諦めてくれ」
その言葉に反応して、サラリーマンは再びナイフを振りかざそうとする。
「うりゃああああ」
社長はサラリーマンの手首をさらに強くつかんで捻った。ナイフが手から落ちる。
「警察に連絡してくれ」
新田さんへ指示を出す。
連絡を終えると、彼女は震える私の背中をさすってくれた。
店の前が騒がしくなっていたため、店長が出てくる。社長が事情を説明して、店の客に迷惑がかからないように落ち着かせてほしいと指示を出していた。
そして、すぐにパトカーがやってきてストーカーは確保された。
警察に捕まったストーカーの様子をうかがうと、こちらを見ていたようで目が合う。
彼は瞳に涙を浮かべて私にすがるような目線を向けていたが、あんなことをされた以上可哀想だとは思えない。
そのままストーカーは警察に連れられ、現場には私と河原社長、新田さんが残された。
「新田は先に帰ってくれ。協力してくれてありがとう」
「私に協力できることがあれば言ってください。今夜は連絡がつく状態にしておきますので」
そう言うと、新田さんは私に向かって微笑んだ。
新田さんを見送ると、私と社長は警察署で事情聴取を受けた。
警察署から出るとすっかり深夜になっていて、外は静まり返っていた。
「私のせいで変な事件に巻き込んでしまって、申し訳ありません」
「気にすることはない。これから裁判など忙しくなるかもしれないな」
「いえ……訴えるつもりはありません。いろいろありまして裁判で立ち向かう気力がなくて……」
「そうか」
彼はしばらく黙り込んでいたが納得したように頷いた。
「宮本さんの気持ちを尊重しようと思うが、万が一、また同じようなことがあったら、その時は徹底的に訴えていかなければならない」
厳しい言葉だったが、それほど私のことを考えてくれているのだろう。
「そうですね。河原社長に守っていただいたこと感謝します」
「俺は大したことはしていない」
「いえ、本当にありがとうございました」
お礼を言って、社長に頭を下げる。
「大丈夫か?」
祖母が亡くなったことと、ストーカー被害に遭ったことが重なり、私は身体が小刻みに震えていた。
「……はい」
「誰かご家族か、頼ることのできる人に迎えに来てもらえないのか?」
今まで誰にも弱音なんて吐きたくなかった。でも、今日だけはあまりにもショックが大きすぎて、誰かに頼らなければ生きていけない気がした。
「……私はもうこの世の中に一人なんです」
本当にそんな気持ちになってしまい、思わずつぶやいていた。
「突然変なこと言ってしまってごめんなさい。実は……祖母が二週間前に亡くなっていたことがわかったんです。事情があり、北海道の親戚に預かってもらっていたのですが、葬儀の連絡もなく、今日突然電話で『もうお骨になった』と言われて混乱していて……」
私はお世話になったことだし、社長に事情をすべて説明した。
「信じられない。何ということだ」
話を聞いて、社長は自分のことのように一緒に怒ってくれた。それだけで私はどれほど救われただろうか。
「ご両親は?」
「両親は私が子どもの頃に他界していて、祖母がずっと育ててくれたんです。でも、祖母が病気になってからは介護と入院費調達のための仕事の両立がどうしても難しくて、親戚に面倒を見てもらっていたんです……」
ストーカーから助けてもらった上に、こんなプライベートな話まで聞かせるなんて、私はものすごく失礼なことをしてしまっているに違いない。
もう平気だと伝えるように私は笑ってみせるが、その拍子に瞳から涙がこぼれた。
社長は自分の着ている上着を脱ぐと、慰めるようにそっと私の肩にかけてくれた。
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