【文庫化】室長を懲らしめようとしたら、純愛になりました。

ひなの琴莉

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1巻

1-3


「そうですか。ではもし北海道を旅行することがあれば、ご相談させていただきます」

 加藤室長は、仕事の時よりもいくぶん柔らかい口調でそう言った。
 二時間の歓迎会を終えて自宅に帰宅した私は、洗面台の前に立ち、メイクを落とした。今日は、みなさんと色んな話ができて楽しかったなぁ。戸惑うこともあったけど、加藤室長が助けてくれたし……室長は仕事ができるだけじゃなくて、部下を気遣ってくれる人なんだ。
 改めて加藤室長のすごさを感じていた、その時。

『――ぁっ、あっん。あっ……』

 今日もお隣さんから声が聞こえてきた。女性の声は、数日前に隣から聞こえてきたものとは違う。
 色んな女性の声が聞こえてくるたびに、私は浮気をされた経験を思い出し、色々と考えてしまう。遊ばれた人がどんなに傷ついて悲しむのか、女性を取っ替え引っ替えするような男性にはわからないのだ。
 そこまで考えると、余計に苛々いらいらする。他人の事情だから気にしちゃいけないんだろうけど、なんせ壁が薄い。
 次の日の朝、出勤するために部屋から出ると、ちょうど隣の部屋からも女の人が出てきた。
 一度見かけたことがある、細くて眼鏡をかけている可愛らしい子だった。

「お、おはようございます」

 私と目が合うと、女の子は恥ずかしそうに挨拶をしてくれた。
 あんなピュアっぽい子が、遊ばれて悲しむ姿を想像すると切なくなってくる。
 ピュア子ちゃん、頑張れ、と私は勝手に彼女にあだ名をつけてエールを送った。


 歓迎会を開いてもらってから、職場のメンバーと距離が近づいたように思える。あれから一週間が過ぎ、相変わらず私は忙しい毎日を送っていた。
 職場に到着すると、最初に確認するのはみなさんのスケジュール。
 今日は、板尾リーダーも安藤マネージャーも瀬川マネージャーも外勤でいない。
 加藤室長は会議があるらしく、出たり入ったりする予定になっている。一人で電話番をするのは自信がなく、緊張しながら過ごしていたら、あっという間に昼休憩になった。
 節約のために作ってきたお弁当をロッカーから取り出して、デスクの上で広げると経営会議から加藤室長が戻ってきた。

「星園さん、お疲れ様です。お留守番ありがとうございました。何もありませんでしたか?」
「はい。特に何もありませんでした」

 私が答えると、加藤室長は頷いて、目を細めて微笑んでくれる。

「今日はお弁当なんですね」

 加藤室長はそう言って、私のお弁当を覗き込んだ。

美味おいしそうですね。手作りですか?」
「はい。簡単な物しか入っていませんけど」
「実は自分も弁当なんです」
「そうなんですね! では、一緒に食べませんか?」

 予想外の誘いだったのか、加藤室長は驚いた表情をしている。
 急に不躾ぶしつけだったかな、と慌てると、彼は優しい瞳になって言った。

「ゆっくり話す機会もなかったですしね。しかし、こんなおじさん上司と一緒に食べるなんて、嫌じゃありませんか?」
「加藤室長は、おじさんなんかじゃありません」

 私はやや強い口調で否定した。すると、加藤室長は自分のロッカーからお弁当袋を取り出し、私の隣に座る。

「ではお言葉に甘えて、ご一緒させていただきます」

 どんなお弁当なのだろう。気になって、つい彼のお弁当を見つめてしまう。
 シルバーのお弁当箱のふたを開けると、色鮮やかな野菜が入っていた。
 冷凍食品を詰めただけではないということがすぐわかった。これは間違いなく手作り弁当だ。
 ……誰に作ってもらったんだろう。彼女がいないという噂だけど、本当はいるのかもしれない。
 私があまりにも凝視しすぎたので、加藤室長が不思議そうに首を傾げる。

「何か?」
「いえっ、美味おいしそうなお弁当ですね」
「ありがとうございます」

 加藤室長は嬉しげに頬を緩めた。
 彼女の手作り弁当をめられて、いい気分なのかもしれない。

「星園さんは、料理は好きですか?」
「嫌いではありませんが、私の場合、節約するために作っているので」
「そうですか。でも、色のバランスもいいですし、美味おいしそうですよ」
「そう言っていただけると嬉しいです」

 加藤室長とは、意外にも会話が続いた。
 とても仕事ができる人なので、話が合わないかもと勝手に決めつけていたが、案外、波長が合う気がする。
 加藤室長が大人だから、話を合わせてくれたのかもしれないけれど……

「午後からも不在にしてしまいますが、留守をよろしくお願いします」
「わかりました。お任せください」

 食事を終えると、加藤室長はまた出かけてしまった。
 経営管理チームには、私ひとりぼっちだ。静かな空間の中パソコンに向かっていた。集中していると、気がつけば時間が経過しもう夕方だ。
 加藤室長は会議で遅くなるため、定時になったら上がっていいと言われている。今日やらなければいけない仕事はほとんど終わっているから、このまま定時で退社しよう。
 しかし、あともう少しで帰れるという時に電話が鳴った。

「経営管理チーム、星園です」
「Hello……」

 突然、電話の相手が英語でペラペラと話し始めたので、固まってしまう。
 何を言っているのかはなんとなくわかるが、どう答えたらいいのか咄嗟とっさに出てこない。

「ソーリー、あ……えっと」

 私がちゃんと対応できないせいで、通話相手がどんどんヒートアップしていく。

「ソーリー……、プリーズ……。コールバックオッケー?」

 自分のわかる単語を並べて話すが、相手はかなり急いでいる様子で、イライラしているのが伝わってくる。専門用語らしき英語を並べられて、動揺して心臓の鼓動が速くなる。
 ……ど、どうしよう。
 その時、タイミングよく加藤室長が戻ってきた。助けを求めて視線を向けると、彼は異変に気がついて、すぐに電話を代わってくれた。
 流暢りゅうちょうな英語で対応する姿に、安堵を覚え体の力が抜けていく。
 電話を終えると、加藤室長が安心させるように頷いた。そんな彼に、私は素早く頭を下げる。

「申し訳ありません。ちゃんと私が対応することができなかったので、怒らせてしまいました」
「いえ、一人にさせて申し訳なかったです。それに相手が怒っていたのは、あなたのせいではありません」

 加藤室長はいつもと変わらずクールだ。

「本日届いていなければいけない大事な資料を、送信していなかったらしい。それで激怒していたようです。申し訳ないですが、残業して資料作りを手伝ってもらえませんか?」
「は、はい!」

 こんな私でも役に立てるのなら、残業なんてお安い御用だ。加藤室長が私の席の隣に立ち、指示をする。

「共有フォルダーを開いてください」
「はい」
「この資料のA列とC列に数字を打ち込んでいってほしい。五千列ほどあります。これを入れ終えたら、表を作ります」
「わかりました」
「お客様はとにかく急いでいるので、二人で力を合わせてなるべく早く送信しましょう」
「はい」
「自分はもう一つのファイルから始めます」

 加藤室長はテキパキと作業に取りかかる。
 私も、眠気も時間も忘れて一心不乱に打ち込んでいく。
 メイクが落ちてボロボロの顔になっているだろうけれど、そんなこと気にしていられなかった。

「終わりました。ダブルチェック、お願いします」
「では、星園さんはこちらのファイルの確認を頼みます」

 やっと提出できる状態になった時、空はもう明るくなっていた。
 会社に泊まって残業したのは初体験だ。
 加藤室長が資料をチェックしてくれる横で、達成感と安堵でうとうととしてしまう。
 ……あぁ、もう限界。
 まぶたが下りて、頭がカクンと落ちる。
 はっと気がついた時、加藤室長がコーヒーを差し出してくれた。

「すみません、眠ってしまいました」
「朝まで付き合わせてしまって、申し訳なかったです」

 ブラックコーヒーの湯気が上がっていて、いい匂いがする。
 砂糖が二本置かれたので、弾かれたように顔を上げた。

「君は甘いのが好きそうだから」
「大当たりです。大好物はチョコレートです。いただきます」

 砂糖をたっぷり入れた甘いコーヒーを飲んで、ほっとした気持ちになる。

「相手とも連絡が取れて、怒りが収まっていたようです。星園さんがいてくれて本当に助かりました」

 彼は、席に戻ると椅子に少し深く座った。
 銀縁の眼鏡を外して、眉間にしわを寄せている。目が疲れているのかもしれない。
 それはさておき……加藤室長は眼鏡を外してもイケメンだ。
 朝起きて、こんな美しい顔が間近にあったら朝からとろけてしまいそう。

「一度家に帰って仮眠を取ってきてもいいですよ」
「お風呂に入らないと、ちょっと臭いですかね」
「え?」

 思いもよらぬ反応だったのか、加藤室長がクスッと笑った。

「面白いことを言いますね」
「……そうですか?」

 きょとんとして見ると、加藤室長は頬を少し緩めたまま、スマホを取り出した。

「近くに入浴施設があるかもしれないので、調べてみます」

 長い時間二人きりで仕事をしていたためか、なんとなく距離が縮まったような気がする。
 真面目で、優しくて、冷静で……もし加藤室長みたいな人が彼氏だったら、穏やかな時間が過ごせそうだ。
 ついそんなことを考えていると、私の視線に気がついた加藤室長が首を傾げる。

「何か?」
「い、いえ」

 何考えてるの、私! 加藤室長には、手作り弁当を作ってくれる彼女さんがいるじゃない。
 どんな人とお付き合いしているのだろうと想像し、ちくんと胸が痛む。
 私は加藤室長に近づいて、いつも携帯しているチョコレートを一つ、彼のデスクの上に置いた。
 すると彼は、不思議そうに私を見つめた。

「加藤室長も疲れていると思うので、休憩してくださいね。ではちょっと外出してきます」

 加藤室長が、ふわりと優しい笑みを浮かべ頷く。

「ああ、ありがとう」

 部署から出て廊下へ出ると、心臓がトクトクと鼓動を打っていた。
 いつも厳しい顔をしている人がたまに見せる笑顔って、破壊力がある。加藤室長の彼女は、彼のそんなギャップにれたのだろうか。
 また痛みだす胸に気づかない振りをして、私はスマホでシャワーを浴びられるところを探す。近くにシャワー室のあるネットカフェがあり、急いで向かった。
 始業時間に間に合うように会社に戻ると、加藤室長が板尾リーダーに昨日あったことを報告している。どうやら板尾リーダーの担当しているお客様だったらしい。
 自分の席に座った板尾リーダーが、申し訳なさそうに両手を合わせてきた。

「鈴奈ちゃん、残業してくれたんだってね。迷惑をかけちゃって本当にごめん」

 突然下の名前で呼ばれたのは驚いたが、そこはどうでもいい。
 いつも元気な板尾リーダーが困った顔をしている。

「いえ、お役に立ててよかったです。元気出してください」

 私はチョコレートを一つ、板尾リーダーのデスクの上に置く。ミスは誰にでもあることだし、あまり気を遣ってほしくなかった。

「ありがとう。鈴奈ちゃんっていい子だなぁ」

 感激といった様子の彼に苦笑いをして、私はパソコンに向かった。
 仕事をしながら、昨夜のことを思い出す。
 私の英語能力がもっと高ければ、電話の相手を早く落ち着かせることができたかもしれない。最近は忙しい日々を送っていて、英語の勉強から遠ざかっていた。これを機にもう一度、本腰を入れて勉強するべきかもしれない。


 早速週末にテキストを買い、休憩時間や仕事帰りを使って少しずつだが勉強を始めた。
 今日のお昼休憩は自分のデスクで過ごし、テキストを開いていた。そこへ板尾リーダーが戻ってきて、私に話しかけた。

「お疲れ様」
「お疲れ様です」

 ホワイトボードに書かれていた休憩という文字を消すと、板尾リーダーがテキストを覗き込んでくる。

「英語の勉強をしているの? 鈴奈ちゃんは偉いね」
「この前のことがあったので、しっかり学び直そうと思いまして」
「偉い」

 板尾リーダーが柔和にゅうわな笑みを浮かべて、私の頭をポンポンとでる。その時、加藤室長が入ってきた。

「加藤室長お疲れ様です。鈴奈ちゃん、英語の勉強してるんですよ」
「そうですか。頑張っていますね」

 加藤室長と目が合い、咄嗟とっさに目をそらしてしまう。
 頭をでられたところを見られてしまった。なんだか、気まずい……
 しかし、加藤室長は大して気にしていない様子で、さっさと室長室に入っていく。そんな彼の姿に、私は何故か落ち込んでしまうのだった。
 その日、仕事を終えたのは夜二十一時。
 経営企画室はほとんどの社員が帰っていて、フロアが暗くなっている。だが、室長室の明かりは煌々こうこうと輝いていた。
 経営管理チームでは、私が最後だ。
 帰る準備をしてから室長室のドアをノックし、応答の後、扉をそっと開く。中には、眉間にしわを寄せて難しい表情をしている加藤室長がいた。
 加藤室長は、元々鋭い瞳をしているので、余計に怖い顔に見えてしまう。

「お疲れ様です。そろそろ退社しようと思いますが、他にやることはありませんか?」
「ありがとうございます。本日やっていただくことはもうありませんので、気をつけて帰ってください」
「はい。失礼します」

 私は扉を閉めると廊下に出たが、数歩進んで立ち止まる。
 加藤室長って、いつも一番早く来て一番遅くに帰っている。
 いつ休んでいるのだろう。ちゃんと休息をして、いやしの時間はあるのだろうか?
 無性に心配になってしまい、再び室長室へ向かう。もう一度ドアを叩いて、中に入った。

「どうかしましたか?」

 不思議そうな加藤室長に近づき、かばんからチョコレートを取り出す。

「難しそうな表情をなさっていたので、気になってしまって……。私には想像ができないほど大変な仕事をされていると思いますが、少しだけでもいいので休憩してください」

 言い終えた後、私は顔がだんだん熱くなるのを感じた。
 私ったら、上司に対してなんてことを言っているのだろう。失礼すぎる!
 加藤室長はしばらく無言で私を見つめると、小さく笑った。

「星園さんは優しいんですね」
「あ、あの、とてもお疲れだったように見えたので……。余計なことをしてしまい、申し訳ありません」

 消えそうな声で呟く。すると、加藤室長はおもむろに口を開いた。

「先日、板尾リーダーにもチョコレートを渡していましたよね」

 とても落ち込んでいたから渡したのだけど、まさかそこも見られていたと思わなかった。

「チョコレートなんかで元気になってもらおうと考えるなんて、幼稚ようちですよね」

 苦笑いしながら私が言うと、部屋の空気が一瞬変わった気がした。

「男は優しくされると弱い。チョコレートでも他のものでも関係なく、気にかけてくれると心が奪われてしまうことがあるのですよ。板尾リーダーがえらく星園さんを気に入っているようなので……すみません。余計なことを言ってしまって」

 加藤室長が、私と板尾リーダーのことをそんなふうに見ていたとは意外だった。驚いて目をしばたたかせると、加藤室長は耳を真っ赤にして眼鏡を中指で上げる。

「星園さんは純粋で無邪気なところがあるので、親心で心配してしまいました」
「えっ?」

 ……親心って。なにそれ、変なの。
 私はおかしくなって笑ってしまう。
 クールな加藤室長と言われているけれど、今の発言、お母さんみたい。

「加藤室長って、いい人ですね」
「はい?」
「あまり無理しないでください。糖分を取ると少し体が楽になるので、もしよければどうぞ。では、失礼します」

 明るく挨拶して、私は室長室を後にした。
 家に帰る途中、私はずっと加藤室長のことを思い浮かべていた。
 いつもはクールで冷静な加藤室長だけど、時々優しい笑みを見せてくれたり、さっきみたいに少し変なことを言ったりする。毎日、彼の新たな一面を発見できるのは、正直かなり嬉しい。
 九歳も年下だと恋愛対象外だろうか。……いや、そもそも、加藤室長は部下をどうにかしようなんてきっと考えないと思う。
 どうして自分の心は、こんなにも加藤室長に支配されてしまっているのだろう。
 帰り道、ビルの間から見える狭い夜空を眺めながら、私はまた小さな胸の痛みを覚えるのだった。


 次の日は休日だったので、私は朝から出かけることにした。
 おしゃれな街並みを歩いたり、ネットで評判のカフェでお茶をしたり。
 ほとんどの友人が札幌にいるため、一人で出かけなければいけないのがちょっと寂しいけれど、東京には楽しいものがいっぱいある。
 今度、東京タワーを見たい。展望台に行って東京の景色を眺めたいな……
 それに、古い商店街にも行ってみたい。
 慣れたら新幹線で愛知あいちとか大阪おおさかとかへプチ旅行したい。
 次から次へとやりたいことが溢れてくる。
 仕事は大変だけど、楽しみが多いので張り合いがあるのだ。
 すっかりリフレッシュした私は、アパートの近くのスーパーで一週間分の食材を買って、家に戻ることにした。
 平日は忙しくてなかなか料理をする時間がないので、作り置きできるものは作って冷凍しておこう。そうすると温めるだけで食べられるから便利なのだ。
 特売品を選びながら材料を購入して、エコバッグに詰めてスーパーを出た。
 もう少しで家に到着するという時、私の隣の部屋のドアが開き、反射的に隠れた。引っ越してから大分経ったが、未だに例の隣人の姿を目にしたことはない。
 どんな人が出てくるのだろうと、私はゴクリと唾を呑み込みながらこっそり盗み見る。

「……どういうこと?」

 心臓が止まるかと思った。驚きのあまり呼吸することを忘れてしまう。
 隣の部屋から出てきたのは――加藤室長だった。
 見間違えていないかと何度もまばたきするが、間違いない。
 グレーのロングコートを着ていて、いつもと同じ銀縁の眼鏡をしている。
 駅のほうに向かって歩いていく加藤室長の背中を、物陰に隠れたまま見送った。
 夢であってほしい。
 女の人を取っ替え引っ替えしていた隣の人が、加藤室長だったなんて信じられない。
 夜を共にする大勢の女性の中にも、本気で加藤室長のことを愛している人もいるだろう。きっと、以前挨拶してくれたピュア子ちゃんがそうだ。真面目な雰囲気で、男遊びをするタイプには見えなかった。
 私は思わず自分とピュア子ちゃんを重ね、胸が痛くなる。
 加藤室長は会社ではパーフェクトな上司だ。けれど、女性を悲しませるなんて絶対にやってはいけないこと。彼の悪い側面を知ってしまった私が正さなければ、負の連鎖が続き、悲しむ人が増えてしまう。
 私は加藤室長をらしめることを誓った。



   第三章 人には言えない秘密がある


 ――加藤室長が隣の部屋の住人だった。
 一昨日見た光景が信じられないまま、月曜日の朝になってしまった。
 憂鬱ゆううつな気持ちで鏡を覗き込み、メイクをする間も私の頭の中は加藤室長のことでいっぱいである。
 お隣さんは、二日に一回程度の頻度で情事を重ねている。特に真夜中に声が聞こえてくることが多い。
 加藤室長は私よりも遅く退社している。なので、遅い時間になってしまうのだろう。
 自宅から会社まで三十分あれば出社できるので、ボロボロなアパートだが便利ではある。
 でも、加藤室長クラスの人がわざわざこんなところに住まないと思う。
 ……セカンドハウス?
 ああ、どんな顔をして加藤室長と会えばいいのだろう。
 彼は日頃ストイックに仕事に取り組んでいるから、どこかで発散しないとバランスが保てないのかもしれない。そうだとしても、彼は人としてやってはいけないことをしている。
 なんであの加藤室長がそんな最低な行為を……
 私は、絶望的な気持ちのまま家を出た。
 会社に到着して部署に入ると、加藤室長と目が合い、私は思わず後ずさりした。加藤室長は不思議そうな表情で近づいてきて、私の顔を覗き込む。
 頬が熱くなり、心臓がドクンと動く。

「お、おおお……、おはようございます」
「おはようございます。顔色が悪いようですが、大丈夫ですか?」
「ちょっと寝不足でして」

 まさか、加藤室長のことを考えていたなんて言えない。

「そうですか。だんだんと冷え込んできましたので、風邪を引かないようにしてください」
「ありがとうございます」

 加藤室長は心配そうに私を見つめると、眼鏡を中指でクイッと上げて室長室へ消えていく。
 彼とちょっとでも会話するのが密かな楽しみだったけれど、職場にいる加藤室長は仮面を被っているのだ。真面目な姿にだまされてはいけない。
 女の人を悲しませている男の人には、痛い目を見せて学習させないと。何様って思う人もいるかもしれないが、傷つく女性をもう増やしたくない。
 でも、どうやって加藤室長をらしめたらいいの?
 考えても、いいアイディアが浮かばない。


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