2 / 8
みらいをきみと
しおりを挟む
3月。厳しい冬を越え、暖かい春の日差しが射すような季節だった。
彼女は無事に進級が決まっていて、大学の非常勤講師だった僕は、正式に常勤講師にならないかという打診を受けている頃だった。
いつものように、アルバイトを終えた彼女が自宅にやって来たある日のこと。
地方から上京してきて一人暮らしをしている彼女は、週末はほぼ決まって僕のマンションに足を運ぶ。他愛もない話をしたり、僕が仕事をする隣で静かに本を読んだりしながら過ごす。その時間が大好きなのだと話していた。
そんな風に緩やかに時間が過ぎていくと思っていたが、その日、勝手知ったるうちの台所で、彼女は自分で淹れた紅茶を一口飲んでから、開口一番に言った。
「私、進路を変えました」
教育学部で、教職までとっている彼女が、採用試験を受けないという。それまで教員を目指していると聞いていたし、学生ボランティアなどで奮闘している彼女を見て、向いていると感じていたから、正直驚いた。また、一般的に‘センセイ’と言ってもいろいろあるが、彼女が目指していたのは、公立の学校の職員。所謂、教育公務員だ。確かにとても大変だけれど、福利厚生の面でも比較的きちんとしているはず。
「ずっと悩んでいたんですけど、今日、圭一さんの顔を見たら決心がついたんです」
やけにきっぱりとそう言う彼女を見ながら、自分は何かしてしまったか?と少し不安になる。しかし、大人ひとり養うくらいならなんの問題もないくらいの年収はあるから大丈夫だろうと頭の中で勝手に計算したことは言わずに、とりあえず頷く。働くことそのものに対してとても意欲的で、在学中も様々なアルバイトをしていた彼女に、その話は失礼かもしれないと思ったからだ。勤労に前向きな意思があることは非常に大切だから、僕はその思いを大いに評価していた。
それにしても付き合い始めた当時は大学2年生だった彼女も、もう本格的にそんなことを考えなくてはいけない時期にさしかかったのかと。なんとなく感慨深い思いになりつつ話を聞く。
「もちろん、教育関係の仕事はすごく魅力的なんだけど、それ以上に今、やりたいことがあって」
飲みかけだったコーヒーのカップを持って隣に座ると、彼女は少し改まったように僕の方へ身体を向ける。リビングのラグマットに座ったまま、鞄をごそごそやり、これ、と言って差し出した本には、見覚えがあった。
「これ…」
「本棚に置いてあったやつ、勝手に借りて読んじゃいました。ごめんなさい」
「いや、それは構わないけど…」
それは、自分が師と仰いだ先生と、何年か前に共著で出版した本だった。
「私、図書館で働きたいんです」
そう言って彼女は手元の本に目を落とす。
「この本、すごく面白くて、夢中になって読んじゃいました。中でも特に面白いって思ったのが第4章で、執筆者がなんと圭一さんだったんです!」
大発見!とでも言いたげなその様子が可愛くて、顔が緩みまくりそうになるのを我慢する。それは、精神的にもやもやしていた時期に、たまたまお世話になった教授に「ちょっとお願いできない?」などと軽い感じで依頼されたものだった。著した内容は、今読み返したらもしかすると突っ込みたくなるところもあるかもしれない。けれどその本自体は、尊敬している人と一緒に作った、思い出深いものだった。
それにしても、彼女が部屋に来るようになってから、いろいろな本を読み漁っているのは知っていたけれど、まさかこんな専門的なものにまで手を出していたとは、感心する。
「彩花がそう思ってくれたなら、ありがたいよ」
「はい。想像が広がって、読んでいて わくわくしちゃいました。あと、難しい事柄について説明してるんだけどわかりやすいっていうか、圭一さんが説明してくれてるみたいで素敵だったっていうか…」
はにかみながら、ごく自然にそんなことを言ってのける。彼女の素直な感情表現は、いつも本当に魅力的だと感じる。僕にはないものだ。「説明なんて、いくらでもしてあげるよ」と頭を撫でると、嬉しそうに微笑んだ。
「読書って、その本を書いた人との対話だと思うんです。だから私、圭一さんの書いた本を読んで特別感動できたことが、嬉しくって。すごくすごく、不純な動機だなって自分でも思うんですけど、でも自分の中でその選択が、すとんと落ちたんです」
それから、働く上で必要な資格のとり方や仕事内容、採用されることの難しさなどを話す様子を見ていて、あぁ、いろいろ考えた上での選択なのだな、と少し納得した。そしてそれを、わざわざ僕に説明してくれる生真面目さも、なんだか彼女らしくて。
しかし、最後に何気なくぼそりと呟かれた言葉を聞いて、僕は金槌で頭を殴られたような衝撃を味わうことになる。
「それと、もし一緒にいられなくなっちゃっても、一生懸命お仕事する中で、圭一さんの名前を見つけたら、なんだかすごく綺麗な思い出として思い出すことができそうで、いいかなって」
…一緒にいられない?
唐突に飛び出した不穏な言葉に、表情筋がびしりと固まったのがわかる。
「一緒にいられなくなるっていうのは…?」
「あっ、ううん!あの、えっと、もしも!もしもの話です!だから、その…」
一応は教員と学生という立場だったから、正直なところほとんど外でのデートは出来ていない。どうにか出かけようと計画を立てる時にも、学生が集まりそうもないようなスポットを選んだり、集合場所を最寄り駅から大きくずらしたりと、その逢瀬は人目を忍ぶようなものではあった。
けれど、その辺りはお互いに納得していると思っていた。また、だからこそ合鍵も渡し、半同棲のような状態になっていた中での発言に、とんでもない焦りが生まれる。
先のことを考えていたのは自分だけだったのだろうか、と。
肝心の彼女はというと、若干の気まずさを滲ませた表情。ぴりっとした空気を感じ取り、不安だったのか近くにあったクッションを引き寄せて膝の上に乗せた。
「…君は、僕との別れを考えてるの?」
「か、考えてません!考えたことないです!」
「それじゃどうして…」
暫くの沈黙。
先を促すように手を握ると、彼女は観念したようにしょんぼりと俯く。
「馬鹿だなって思われるかもしれないんですけど」
「そんなこと思わないよ。話してみて」
「……雑誌を、読んで…」
「うん」
「環境が大きく変わると、別れるカップルが多いって…」
そこから彼女がぽつぽつと話した内容は、実に信憑性の乏しい情報からの発想で。
たまたまうちにあった本を読んで僕の専門分野に興味をもち、書店に行ってみたけれど、どの本を買うべきか悩んでしまった。
しかしよく考えたら、自分で適当な本を選ぶよりも、僕から借りた方が内容的にもレベル的にも適切なものを提示してもらえると思った。(既読の書籍がもうかなり専門的ではあるが。)
だから結局、何も買わずにその場を後にしようとしたとき、よくある若い女性向けの情報雑誌が目に止まった。
「『出会いと別れの季節』っていう恋愛の特集の中に、別れのきっかけっていうページがあって…そこに、『立場の違い』とか『環境の変化』とか『煮え切らない関係』とか書いてあって、それで…」
「それで?」
「もしかして、私が就職したら、それがきっかけになりうるのかもって…でも、私にとって圭一さんとのことってどれも綺麗にとっておきたくなるようなものばっかりだったから、せめて前向きに振り返りたいって思って」
僕は心の中で盛大に溜め息をついた。
そんなことを考えるほど、この先のことが見えていなかったのか、と。
いや、違う。
見えないような状況に置いていた自分が悪い。一回り近くも年が離れているのだ、恋愛の感覚にだって違いが生まれる。
聡い子だから、話さなくてもわかっていると思っていた。でも、聡い子だからこそ、見ないように、考えないようにしてきたのかもしれない。きっと。おそらく。
……きっと。おそらく。
曖昧な憶測ではあったけれど。
確証がない、という不安を振り切ってでも、失いたくない存在なのは確かだ。
「彩花、よく聞いて」
こちらの言葉に顔を上げる。一体何を言われるのかと、少し不安そうに揺れる大きな瞳をしっかりと見つめながら、どうにかひとつひとつ落ち着いて話す。
「立場の違いは、君が無事に大学を卒業することで解決される。『学生と社会人』ではなくなるからね」
「う……はい」
「環境の変化がきっかけになる場合は、おそらく付き合っている両者の環境が同時に変化した場合が、可能性としては1番高いと思う。けれど、僕は来年も同じ大学で仕事を続けることが決まっている。もしかすると急に忙しくなることがあるかもしれないけれど、君の新生活のサポートをすることは出来る。君の目指す職種と重なることもあるかもしれない」
「はい…確かに」
「煮え切らない関係については、しっかり僕の意思を伝えれば問題ない」
「はい…?」
うんうん、と納得するように頷いていた彼女が首を傾げる。
「君が大学を卒業したら、きちんと、一緒に暮らさないか」
「え?」
「僕と結婚してほしいと思っている」
彼女の表情が固まった。
1年も先のことが、唐突な口約束で保証されるかと聞かれたら首をかしげる。指輪もなければ、婚姻届だって用意していない。どれだけ焦っているのかと、自分の行動の突飛さに呆れもする。今だって、すぐに返答がないのを心から不安に思っているし、そもそも本当はこんな風に伝える予定ではなかった。
イレギュラーな展開にたくさんの言い訳をしたかった。けれど、今言うべきだと本能が告げた。本能。予測できないものだ。
長い長い沈黙。
彼女の真っ直ぐな視線が痛くて、情けないけれど逃げるように視線を外した。
「君はまだ若いし、僕は君より結構年上だ。急にこんなこと言われて迷惑かもしれないけど、」
「……ないです」
「え?」
「迷惑じゃない…迷惑なわけないじゃないですか!」
目に涙をいっぱい溜めた彼女が、持っていたクッションを横にぽいと投げ、直後、突進するように抱きついてくる。頭が胸の辺りに思い切り当たり、「ぐふっ」という間抜けな声が出た。
でもその後に聞こえた涙声に、そんな痛みも吹き飛ぶ。
「圭一さんのことが、大好きなんです…」
「…うん。僕も君のことが大好きだ」
「ずっと、一緒にいたいけど、これからどうなっていくんだろうって思っちゃって…」
「うん。そりゃ、進路のことを…未来のことを考えたら誰だって不安になるよ」
手を回して落ち着かせるように背中をさする。「むしろ、一人で悩ませていたんだとしたら 悪かった」と伝えると、その言葉を否定するように彼女は頭を振ってから、腕の拘束を静かに解いた。
「私の人生だもん。それに、頼ってばかりじゃなくて、ちゃんと並んで歩きたいから」
睫毛を濡らしながら言うセリフにしては逞しい。それなのに、目元をごしごし擦りながら、「恥ずかしい」と、あどけなく笑う。それはどこか子どもっぽい仕草なのに、何故か胸が高鳴る。それから彼女は、照れ隠しなのか、再び僕の胸に顔を埋めてから言った。
「やだなぁ。一人で勝手に盛り上がって、不安になって、慰めてもらって」
「…慰めるのは、僕にしかさせないでほしい」
「圭一さん以外のことでこんなに悩みません」
「僕は君の悩みの種?」
「んー…そうかも」
それから彼女は「でも、元気の源でもありますから」とふんわり花びらが綻ぶように微笑む。
自分以外の男にこんな顔を見せていたとしたら、そいつを死ぬまで呪ってしまうだろうなと、己の強い嫉妬心を押し隠しながら微笑み返すけれど、そこで気付く。肝心なことを聞いていない。
しがみついてくる彼女から少し身体を離し、その頬に両手を添えた。額を合わせて、あくまでも冷静を装って尋ねる。
「それで、返事は?」
彼女は、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
「これからも、よろしくお願いします」
*
「圭一さんって真面目な話をするとき、私のこと‘君’って呼ぶ回数が増えるんです。気付いてました?」
「そうかな?自分では意識していないけど」
「あれ、私結構好きなんです」
「へぇ、そうなんだ…」
ソファにもたれたままタブレットで本を読んでいたけれど、うふふ、とクッションを抱き締めながら、彼女がこちらをちらちらと伺う様子が視界に入ってきては集中することができない。日々を共にする妻のことだ。何を求めているのかは大体見当がつく。
彼女でなければ一笑に付してしまいそうだが、それは出来ないし、しようとも思わない。人との関わり合いにおいて、自分も随分成長したものだと思う。それに、いつか大切な話をしたときも、彼女はこうしてラグマットに座ってクッションをぎゅっと抱いていたな、と思い出す。
「おいで」
僕の声に、彼女はクッションを床に置いてから、嬉しそうにソファの隣に座る。
そっと肩に手を回し、抱き寄せ、耳元で囁く。
「君が、大好きだよ」
耳まで真っ赤にして、両手で顔を覆う姿を見て、何だかこちらまで恥ずかしくなる。
でも、これが‘きっと。おそらく。’の判断から繋がった、幸せというものなのだと。
僕は日々、一回り近く年下の恋人に教えてもらっている。
彼女は無事に進級が決まっていて、大学の非常勤講師だった僕は、正式に常勤講師にならないかという打診を受けている頃だった。
いつものように、アルバイトを終えた彼女が自宅にやって来たある日のこと。
地方から上京してきて一人暮らしをしている彼女は、週末はほぼ決まって僕のマンションに足を運ぶ。他愛もない話をしたり、僕が仕事をする隣で静かに本を読んだりしながら過ごす。その時間が大好きなのだと話していた。
そんな風に緩やかに時間が過ぎていくと思っていたが、その日、勝手知ったるうちの台所で、彼女は自分で淹れた紅茶を一口飲んでから、開口一番に言った。
「私、進路を変えました」
教育学部で、教職までとっている彼女が、採用試験を受けないという。それまで教員を目指していると聞いていたし、学生ボランティアなどで奮闘している彼女を見て、向いていると感じていたから、正直驚いた。また、一般的に‘センセイ’と言ってもいろいろあるが、彼女が目指していたのは、公立の学校の職員。所謂、教育公務員だ。確かにとても大変だけれど、福利厚生の面でも比較的きちんとしているはず。
「ずっと悩んでいたんですけど、今日、圭一さんの顔を見たら決心がついたんです」
やけにきっぱりとそう言う彼女を見ながら、自分は何かしてしまったか?と少し不安になる。しかし、大人ひとり養うくらいならなんの問題もないくらいの年収はあるから大丈夫だろうと頭の中で勝手に計算したことは言わずに、とりあえず頷く。働くことそのものに対してとても意欲的で、在学中も様々なアルバイトをしていた彼女に、その話は失礼かもしれないと思ったからだ。勤労に前向きな意思があることは非常に大切だから、僕はその思いを大いに評価していた。
それにしても付き合い始めた当時は大学2年生だった彼女も、もう本格的にそんなことを考えなくてはいけない時期にさしかかったのかと。なんとなく感慨深い思いになりつつ話を聞く。
「もちろん、教育関係の仕事はすごく魅力的なんだけど、それ以上に今、やりたいことがあって」
飲みかけだったコーヒーのカップを持って隣に座ると、彼女は少し改まったように僕の方へ身体を向ける。リビングのラグマットに座ったまま、鞄をごそごそやり、これ、と言って差し出した本には、見覚えがあった。
「これ…」
「本棚に置いてあったやつ、勝手に借りて読んじゃいました。ごめんなさい」
「いや、それは構わないけど…」
それは、自分が師と仰いだ先生と、何年か前に共著で出版した本だった。
「私、図書館で働きたいんです」
そう言って彼女は手元の本に目を落とす。
「この本、すごく面白くて、夢中になって読んじゃいました。中でも特に面白いって思ったのが第4章で、執筆者がなんと圭一さんだったんです!」
大発見!とでも言いたげなその様子が可愛くて、顔が緩みまくりそうになるのを我慢する。それは、精神的にもやもやしていた時期に、たまたまお世話になった教授に「ちょっとお願いできない?」などと軽い感じで依頼されたものだった。著した内容は、今読み返したらもしかすると突っ込みたくなるところもあるかもしれない。けれどその本自体は、尊敬している人と一緒に作った、思い出深いものだった。
それにしても、彼女が部屋に来るようになってから、いろいろな本を読み漁っているのは知っていたけれど、まさかこんな専門的なものにまで手を出していたとは、感心する。
「彩花がそう思ってくれたなら、ありがたいよ」
「はい。想像が広がって、読んでいて わくわくしちゃいました。あと、難しい事柄について説明してるんだけどわかりやすいっていうか、圭一さんが説明してくれてるみたいで素敵だったっていうか…」
はにかみながら、ごく自然にそんなことを言ってのける。彼女の素直な感情表現は、いつも本当に魅力的だと感じる。僕にはないものだ。「説明なんて、いくらでもしてあげるよ」と頭を撫でると、嬉しそうに微笑んだ。
「読書って、その本を書いた人との対話だと思うんです。だから私、圭一さんの書いた本を読んで特別感動できたことが、嬉しくって。すごくすごく、不純な動機だなって自分でも思うんですけど、でも自分の中でその選択が、すとんと落ちたんです」
それから、働く上で必要な資格のとり方や仕事内容、採用されることの難しさなどを話す様子を見ていて、あぁ、いろいろ考えた上での選択なのだな、と少し納得した。そしてそれを、わざわざ僕に説明してくれる生真面目さも、なんだか彼女らしくて。
しかし、最後に何気なくぼそりと呟かれた言葉を聞いて、僕は金槌で頭を殴られたような衝撃を味わうことになる。
「それと、もし一緒にいられなくなっちゃっても、一生懸命お仕事する中で、圭一さんの名前を見つけたら、なんだかすごく綺麗な思い出として思い出すことができそうで、いいかなって」
…一緒にいられない?
唐突に飛び出した不穏な言葉に、表情筋がびしりと固まったのがわかる。
「一緒にいられなくなるっていうのは…?」
「あっ、ううん!あの、えっと、もしも!もしもの話です!だから、その…」
一応は教員と学生という立場だったから、正直なところほとんど外でのデートは出来ていない。どうにか出かけようと計画を立てる時にも、学生が集まりそうもないようなスポットを選んだり、集合場所を最寄り駅から大きくずらしたりと、その逢瀬は人目を忍ぶようなものではあった。
けれど、その辺りはお互いに納得していると思っていた。また、だからこそ合鍵も渡し、半同棲のような状態になっていた中での発言に、とんでもない焦りが生まれる。
先のことを考えていたのは自分だけだったのだろうか、と。
肝心の彼女はというと、若干の気まずさを滲ませた表情。ぴりっとした空気を感じ取り、不安だったのか近くにあったクッションを引き寄せて膝の上に乗せた。
「…君は、僕との別れを考えてるの?」
「か、考えてません!考えたことないです!」
「それじゃどうして…」
暫くの沈黙。
先を促すように手を握ると、彼女は観念したようにしょんぼりと俯く。
「馬鹿だなって思われるかもしれないんですけど」
「そんなこと思わないよ。話してみて」
「……雑誌を、読んで…」
「うん」
「環境が大きく変わると、別れるカップルが多いって…」
そこから彼女がぽつぽつと話した内容は、実に信憑性の乏しい情報からの発想で。
たまたまうちにあった本を読んで僕の専門分野に興味をもち、書店に行ってみたけれど、どの本を買うべきか悩んでしまった。
しかしよく考えたら、自分で適当な本を選ぶよりも、僕から借りた方が内容的にもレベル的にも適切なものを提示してもらえると思った。(既読の書籍がもうかなり専門的ではあるが。)
だから結局、何も買わずにその場を後にしようとしたとき、よくある若い女性向けの情報雑誌が目に止まった。
「『出会いと別れの季節』っていう恋愛の特集の中に、別れのきっかけっていうページがあって…そこに、『立場の違い』とか『環境の変化』とか『煮え切らない関係』とか書いてあって、それで…」
「それで?」
「もしかして、私が就職したら、それがきっかけになりうるのかもって…でも、私にとって圭一さんとのことってどれも綺麗にとっておきたくなるようなものばっかりだったから、せめて前向きに振り返りたいって思って」
僕は心の中で盛大に溜め息をついた。
そんなことを考えるほど、この先のことが見えていなかったのか、と。
いや、違う。
見えないような状況に置いていた自分が悪い。一回り近くも年が離れているのだ、恋愛の感覚にだって違いが生まれる。
聡い子だから、話さなくてもわかっていると思っていた。でも、聡い子だからこそ、見ないように、考えないようにしてきたのかもしれない。きっと。おそらく。
……きっと。おそらく。
曖昧な憶測ではあったけれど。
確証がない、という不安を振り切ってでも、失いたくない存在なのは確かだ。
「彩花、よく聞いて」
こちらの言葉に顔を上げる。一体何を言われるのかと、少し不安そうに揺れる大きな瞳をしっかりと見つめながら、どうにかひとつひとつ落ち着いて話す。
「立場の違いは、君が無事に大学を卒業することで解決される。『学生と社会人』ではなくなるからね」
「う……はい」
「環境の変化がきっかけになる場合は、おそらく付き合っている両者の環境が同時に変化した場合が、可能性としては1番高いと思う。けれど、僕は来年も同じ大学で仕事を続けることが決まっている。もしかすると急に忙しくなることがあるかもしれないけれど、君の新生活のサポートをすることは出来る。君の目指す職種と重なることもあるかもしれない」
「はい…確かに」
「煮え切らない関係については、しっかり僕の意思を伝えれば問題ない」
「はい…?」
うんうん、と納得するように頷いていた彼女が首を傾げる。
「君が大学を卒業したら、きちんと、一緒に暮らさないか」
「え?」
「僕と結婚してほしいと思っている」
彼女の表情が固まった。
1年も先のことが、唐突な口約束で保証されるかと聞かれたら首をかしげる。指輪もなければ、婚姻届だって用意していない。どれだけ焦っているのかと、自分の行動の突飛さに呆れもする。今だって、すぐに返答がないのを心から不安に思っているし、そもそも本当はこんな風に伝える予定ではなかった。
イレギュラーな展開にたくさんの言い訳をしたかった。けれど、今言うべきだと本能が告げた。本能。予測できないものだ。
長い長い沈黙。
彼女の真っ直ぐな視線が痛くて、情けないけれど逃げるように視線を外した。
「君はまだ若いし、僕は君より結構年上だ。急にこんなこと言われて迷惑かもしれないけど、」
「……ないです」
「え?」
「迷惑じゃない…迷惑なわけないじゃないですか!」
目に涙をいっぱい溜めた彼女が、持っていたクッションを横にぽいと投げ、直後、突進するように抱きついてくる。頭が胸の辺りに思い切り当たり、「ぐふっ」という間抜けな声が出た。
でもその後に聞こえた涙声に、そんな痛みも吹き飛ぶ。
「圭一さんのことが、大好きなんです…」
「…うん。僕も君のことが大好きだ」
「ずっと、一緒にいたいけど、これからどうなっていくんだろうって思っちゃって…」
「うん。そりゃ、進路のことを…未来のことを考えたら誰だって不安になるよ」
手を回して落ち着かせるように背中をさする。「むしろ、一人で悩ませていたんだとしたら 悪かった」と伝えると、その言葉を否定するように彼女は頭を振ってから、腕の拘束を静かに解いた。
「私の人生だもん。それに、頼ってばかりじゃなくて、ちゃんと並んで歩きたいから」
睫毛を濡らしながら言うセリフにしては逞しい。それなのに、目元をごしごし擦りながら、「恥ずかしい」と、あどけなく笑う。それはどこか子どもっぽい仕草なのに、何故か胸が高鳴る。それから彼女は、照れ隠しなのか、再び僕の胸に顔を埋めてから言った。
「やだなぁ。一人で勝手に盛り上がって、不安になって、慰めてもらって」
「…慰めるのは、僕にしかさせないでほしい」
「圭一さん以外のことでこんなに悩みません」
「僕は君の悩みの種?」
「んー…そうかも」
それから彼女は「でも、元気の源でもありますから」とふんわり花びらが綻ぶように微笑む。
自分以外の男にこんな顔を見せていたとしたら、そいつを死ぬまで呪ってしまうだろうなと、己の強い嫉妬心を押し隠しながら微笑み返すけれど、そこで気付く。肝心なことを聞いていない。
しがみついてくる彼女から少し身体を離し、その頬に両手を添えた。額を合わせて、あくまでも冷静を装って尋ねる。
「それで、返事は?」
彼女は、そっと僕の手に自分の手を重ねた。
「これからも、よろしくお願いします」
*
「圭一さんって真面目な話をするとき、私のこと‘君’って呼ぶ回数が増えるんです。気付いてました?」
「そうかな?自分では意識していないけど」
「あれ、私結構好きなんです」
「へぇ、そうなんだ…」
ソファにもたれたままタブレットで本を読んでいたけれど、うふふ、とクッションを抱き締めながら、彼女がこちらをちらちらと伺う様子が視界に入ってきては集中することができない。日々を共にする妻のことだ。何を求めているのかは大体見当がつく。
彼女でなければ一笑に付してしまいそうだが、それは出来ないし、しようとも思わない。人との関わり合いにおいて、自分も随分成長したものだと思う。それに、いつか大切な話をしたときも、彼女はこうしてラグマットに座ってクッションをぎゅっと抱いていたな、と思い出す。
「おいで」
僕の声に、彼女はクッションを床に置いてから、嬉しそうにソファの隣に座る。
そっと肩に手を回し、抱き寄せ、耳元で囁く。
「君が、大好きだよ」
耳まで真っ赤にして、両手で顔を覆う姿を見て、何だかこちらまで恥ずかしくなる。
でも、これが‘きっと。おそらく。’の判断から繋がった、幸せというものなのだと。
僕は日々、一回り近く年下の恋人に教えてもらっている。
0
あなたにおすすめの小説
隣で眠るなら
篠宮華
恋愛
上原咲(うえはらさき)と及川千晃(おいかわちあき)は、高校の同窓会の後、二人で打ち上げをしていた…はずだったのだが。
『朝起きて、隣にお前がいなかったときの俺の気持ち考えろよ』
幼馴染みの二人がそういうことになるまでの話。
※本編完結しました。
ちゃんとしたい私たち
篠宮華
恋愛
小さい頃からずっと一緒に過ごしてきた幼馴染み同士の若菜と宏隆。付かず離れずの距離で仲良く過ごしてきた二人だったが、あることをきっかけにその関係は大きく変化して…
恋愛にあまり興味のなかった女子と、一途な溺愛系幼馴染み男子のお話。
※ひとまず完結しました。今後は不定期に更新していく予定です。
彼と私と甘い月
藤谷藍
恋愛
白河花蓮は26歳のOL。いつも通りの出勤のはずが駅で偶然、橘俊幸、31歳、弁護士に助けられたことからお互い一目惚れ。優しいけれど強引な彼の誘いに花蓮は彼の家でバイトを始めることになる。バイトの上司は花蓮の超好みの独身男性、勤務先は彼の家、こんな好条件な副業は滅多にない。気になる彼と一緒に一つ屋根の下で過ごす、彼と花蓮の甘い日々が始まる。偶然が必然になり急速に近づく二人の距離はもう誰にも止められない?
二人の糖度200%いちゃつきぶりを、こんな偶然あるわけないと突っ込みながら(小説ならではの非日常の世界を)お楽しみ下さい。この作品はムーンライトノベルズにも掲載された作品です。
番外編「彼と私と甘い月 番外編 ーその後の二人の甘い日々ー」も別掲載しました。あわせてお楽しみください。
甘い束縛
はるきりょう
恋愛
今日こそは言う。そう心に決め、伊達優菜は拳を握りしめた。私には時間がないのだと。もう、気づけば、歳は27を数えるほどになっていた。人並みに結婚し、子どもを産みたい。それを思えば、「若い」なんて言葉はもうすぐ使えなくなる。このあたりが潮時だった。
※小説家なろうサイト様にも載せています。
若社長な旦那様は欲望に正直~新妻が可愛すぎて仕事が手につかない~
雪宮凛
恋愛
「来週からしばらく、在宅ワークをすることになった」
夕食時、突如告げられた夫の言葉に驚く静香。だけど、大好きな旦那様のために、少しでも良い仕事環境を整えようと奮闘する。
そんな健気な妻の姿を目の当たりにした夫の至は、仕事中にも関わらずムラムラしてしまい――。
全3話 ※タグにご注意ください/ムーンライトノベルズより転載
ヤクザの若頭は、年の離れた婚約者が可愛くて仕方がない
絹乃
恋愛
ヤクザの若頭の花隈(はなくま)には、婚約者がいる。十七歳下の少女で組長の一人娘である月葉(つきは)だ。保護者代わりの花隈は月葉のことをとても可愛がっているが、もちろん恋ではない。強面ヤクザと年の離れたお嬢さまの、恋に発展する前の、もどかしくドキドキするお話。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる