彼と彼女の話

篠宮華

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かれとわたしのはなし

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 重い瞼をどうにかこうにか開けると、窓の外の明るさに、カーテンが薄明るく発光して見えた。壁に掛けてある時計に視線をやると、7時を過ぎたところ。
 夜中まで体を繋げ合いながら、泥のように眠った割にそれほど寝坊せずに目を覚ますことができた。きっと、時間は短いけれどものすごく深く眠れたのだと思う。
 隣を見ると、まだぐっすり眠り込んでいる圭一さんの姿があった。昨日はお酒も飲んでいるから、まだしばらく起きなさそうだ。
 なんだかちょっぴり下半身がだるいけれど、起き上がれないほどではない。そっと腕枕から抜け出して、近くでくしゃくしゃに丸まっていたキャミソールとショーツ、パジャマのズボンだけ身につけてから寝室を出る。

 リビングに行くと、ソファの背凭れに、圭一さんの通勤鞄とスーツの上着が無造作に掛けられていた。いつも自分できちんとハンガーにかけているのに、面倒だったのだろうか。
 やや皺の寄ってしまったスーツの上着を玄関横のクローゼットに掛けてから、顔を洗おうと洗面所に向かう。すると。

「わ…すごい」

 洗面所の大きな鏡に映った自分の鎖骨から胸元にかけてを思わず二度見する。そこには何ヵ所もキスマークが散らされていた。昨日はあまりにもぐいぐいくる圭一さんに応えることに精一杯で気付かなかったけれどこれはなかなか…。
 最近肌寒くなってきたし、日頃からあまり胸元の開いた服は着ないのでさほど困ることはないけれど、これまであまりなかったことだったので内心ちょっと驚く。
 …それほど酔っていたということかしら。
 どちらにせよ、いつもの圭一さんらしくないそれを、感慨深く眺めた。こんなことする人だったんだなあ、と。

 顔を洗って、歯も磨いて、髪を櫛で丁寧に梳いた。
 太めのデニムにキャミソール、上に大きいサイズのカーディガンを羽織る。圭一さんがどんな反応をするか興味があって、わざとキスマークが見えるような服を着たけれど、もし出かけるとなったら着替えるつもりだ。静かに部屋のカーテンを開ける。

「いい天気…」

 この部屋に初めて来たときに、その広さと日当たりの良さに驚いた。
 本当は親子3人で住む予定で購入したけれど、圭一さんが大学生の時に両親共に遠方への転勤が決まったのだそうだ。売却を検討したのだけれど、手続き関係のことが面倒だったから、結局そのままもらったなどと言っていた。「本当にうちの両親みたいな人たちのことをワーカホリックっていうんだなと思うよ。あまり家族での思い出はないけれど、金銭面で全く不自由なく生きられたのは彼らのおかげだ」とも。実際に、結婚の挨拶をしに行ったときも「結婚します。一応両親だから式には参列してね」くらいのあっさりしたものだった。でも、ご両親に対して、さほどマイナスに感じているようにも見えなくて。そのことになんとなくほっとしたのを覚えている。大好きなこの人の少年時代が、寂しくて孤独で、悲しくなってしまうような荒んだものでなかったならいい。ちゃんと成立している、「そういう形」なのだと。
 うちはどちらかというと、帰省するとなったら、私の好物を大量に用意して、盛大に迎えてくれてしまうような家だ。まだ実家に住んでいる双子の弟たちも、必ず家で待っていてくれる。そういうところを圭一さんはどう思うかなとちょっと心配していたけれど、結婚の挨拶をしに行ったときは、「これまでの人生の中で一度にこんなに笑ったのは初めてかもしれないくらい、すごく楽しい」と、終始にこにこしていたから安心した。圭一さんは考えていることが割とわかりやすいので、それが嘘ではないこともよくわかったから。

 窓を開けるとそよそよと柔らかな風が吹き込んでくる。ちょっとだけお腹が空いたけれど、朝食を作る気にもなれなくて、ソファに座って目を瞑りながら考える。
 私が今ここにいること。大切な彼のそばにいられることの幸せ。







「ん…」

 目なんか閉じていたから、いつの間にか二度寝をしてしまったらしい。ソファに横になっていて、体には寝室においてあったはずのブランケットが首元までしっかりとかけられていた。そのままゆっくりと伸びをすると珈琲の香りと、圭一さんの気配が近付いてきた。

「おはよう」
「おはようございます。ごめんなさい、こんなところで寝ちゃって」
「全然。体は大丈夫?」
「うん。あ、これ、かけてくれてありがとうございます」

 ブランケットを畳みながらそう返す。彼の手には当たり前のように湯気を立てる二つのマグカップ。珈琲とカフェオレ。
 座ったまま じぃっとそれを見つめると、圭一さんは微笑む。

「たまには違うものにする?」
「ううん、これがいいです」

 以前、ブラックの珈琲を一緒に飲めたら…と挑戦したことがあったけれど、やっぱりカフェオレの方が飲み易くて、「そんなところで頑張らないで」と笑われてから、これがお決まりになった。彼と私にだけわかる、暗黙の了解的なもの。そういうものがあることを私は嬉しいと思う。
 そんなことを考えながらカフェオレを一口飲むと、圭一さんは床に膝をついて、跪くように私を見上げる。「それ…」と、ちょっとバツが悪そうな顔をするから、ローテーブルにカップを置いた。

「それ、って?」
「その跡だよ、この辺りの」

 私を見ながら、自分の胸元を指差す。
 どんな反応をするのか気になって、ああ、とか、うん、とか、敢えてさらっと返すと圭一さんはぽつぽつと続ける。

「酔っていたのもあるんだけど、その…ちょっと初めての感覚で」
「初めての感覚?」

 一体どういうことなのかよくわからず首を傾げると、圭一さんは考え込むように眉間に皺を寄せる。

「こう…この人は僕の、僕だけのものだっていう…なんだろうな、独り占めというか…絶対に誰にも渡したくない独占欲のようなもので頭がいっぱいになってしまって…。君が可愛くて愛おしくて仕方ないのはいつものことなんだけど、それで気付いたら……でもごめん。やり過ぎた、かもしれない」

 そんなことをあまりにも大真面目に言うから、思わず笑ってしまう。
 初めての感覚なんて言うから何かと思ったけれど、それってもう。

「圭一さんって」
「うん?」
「私のこと、すごく好きですよね」
「うん。誰よりも愛してるよ」

 何を今更と言わんばかりに大きく頷く様子を見て、ソファから降りてその体にぎゅっと抱きつく。広い背中に手を回すと同じように抱き締められる。それが、何より嬉しい。
 私は、少し体を離して、彼の着ていたシャツの第一ボタンと第二ボタンを外す。

「…私も同じ気持ちだから、いいです。ほら」

 寛げた襟元、鎖骨の少し下辺り。皮膚が私よりも硬くてなかなか難しかったけれど、どうにかこうにかつけた小さなキスマーク。

「圭一さんも、私だけのものです」

 そう言ってその瞳を覗きこむと「うちの奥さんは、やっぱりすごい」と、目を細めながら感嘆のため息を漏らす。

 彼と私の話。
 誰かに話すわけでもない、彼と私だけの話。
 これからもこんな日々が続いていくのなら、それ以上のことはない。ただ、好きで。きっと、それだけで十分なのだから。


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