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⑥
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結局、帰宅してすぐ、昼食も食べずに体を重ねて、二人してそのままベッドに沈んでしまった。目を覚ましたときは夕方。
散々盛り上がってぐちゃぐちゃだった体は綺麗になっていたから、私が意識を飛ばしている間に諸々やってくれたのかもしれない。でも、隣に孝哉の姿はなかった。
何度か寝返りをうってから、むくりと起き上がると、キッチンの方から洗い物をするような音が聞こえて、私が何時間か前に温め直そうとしたお蕎麦のお出汁の匂いが漂ってくることに気付いた。いつもは感じられない大好きな人の気配に、思わず顔が綻んでしまう。
怠い体を叱咤しつつ、下着やシャツを適当に身に付けて、もこもこのカーディガンを羽織る。一枚でかなり暖かいこれは、去年のクリスマスに彼にプレゼントしてもらったものだ。「ついにペアルックデビューです!」とはしゃいでいたのを覚えている。
寝室の扉を開けるとキッチンから孝哉が顔を出す。見ると、彼も同じものを着ていた。
「あ、起きた。蕎麦の準備しちゃってるけどよかった?」
「ん。ありがとう」
当たり前のようなその姿にほっこりしながらお礼を言うと「体 大丈夫?」と尋ねられる。
「大丈夫だけど、明日は筋肉痛になりそう」
「そっか。ごめんね、無理させて」
「え、あ…ううん、全然平気」
初めて体を重ねた日から、行為の後は必ず体調を気遣ってくれるけれど、こんな真面目な雰囲気で言われることはなかったので、少し驚く。
…何かあったのだろうか。
しかし、私の疑念など歯牙にもかけず、孝哉は食器棚から、同棲を始めるときに一緒に買った丼を取り出して並べ始めた。
「でも、怠くて動けないときとか俺が全部やるから。任せて」
「すごい、頼もしいね」
「もし病気になっても怪我しても、一番近くで俺が支えるから安心しといて」
「そんな保険会社のCMみたいな…」
「まあでもそうなったら移動するときはいつも抱っこかなあ。元気なときも抱っこしたいけど」
「えー…それはちょっと嫌…ていうか病気とか怪我とか急にどうしたの?」
あまりにも不自然な返答に首を捻りながら、キッチンに近づいていくと、孝哉はゆっくりと床に膝をついた。それから、恭しく私の手をとるから流石に戸惑ってしまう。跪いてこちらを見上げる視線は、見たことがないくらい緊張した様子で。
「え、何…」
「要は、病めるときも健やかなるときもってこと」
病めるときも健やかなるときも…?
何度も聞いたことがあるその文言に身構えてしまう私の左手の薬指に、するりと指輪が通された。
「……天河葵さん」
ポケットにでも入れておいたのか、彼の体温で少しぬるい指輪が、ぴったりと納められた。状況がすぐには理解できなくて、薬指で輝くそれと、彼の顔を交互に見つめる。
すると、私の瞳をじっと見つめ返した彼が言った。
「俺と結婚してください」
しんと静まり返る部屋に、くつくつと蕎麦のつゆが沸騰し始めた音だけが聞こえる。その光景はあまりにも日常過ぎて、なんだかちぐはぐだ。でも、その表情からは冗談で言っているわけではないことがこれ以上ないほど伝わってくるから。
「葵のこと世界で一番愛してる。これからも大事にする。葵が隣で笑っててくれたら、もう怖いもんはないから」
孝哉は、黙ったままの私の手に自分の額を押し付けて、懇願するように言った。
「来年もその次も、一緒にいさせて」
ああ。
今日こんなことがあるなんて思っていなかった。一人で寝るには広すぎるベッドをわざと端から端までごろごろ転がってみたり、以前二人ではまってよく食べていたお菓子を一人で全部食べてしまってからしょんぼりしたり。そういう些細だけどちょっと寂しくなるような出来事がない。久しぶりに会える。それだけしか考えていなかった私にとって、それはあまりにも幸せな非日常だった。
へなへなとその場にへたりこむと、孝哉と視線が同じくらいの高さになった。二人でキッチンに座り込んで顔を見合わせていると、頬にちゅっとキスをされる。
「あのー…返事は?」
短く切った髪には、ちょっぴり寝癖がついていて。
少し不安そうな瞳がこちらを伺っていた。
…そっか、私だけじゃないんだ…。
もう、いろいろ、十分だった。
私は孝哉の顔をそっと両手で挟んで、額を合わせる。
「……よろしくお願いします」
「っ……うわ、え、まじ?や、やった…」
「ていうか孝哉、さっきから挙動不審過ぎでびっくり…」
そこまで言いかけて、彼の瞳がうるうると涙ぐんでいることに気がつく。
「…え、泣いてるの?」
「……だって嬉しいじゃん…」
「いや、それはそうだけど」
「けど、何?」
「なんていうか…言われた側が泣くパターンが多いのかなって思って」
すると、寄りかかるように私の肩に顔を押し付けて、孝哉は照れ隠しのようにぼそぼそと言う。
「久しぶりに恋人に会えて、しかもプロポーズしたらオッケーもらえて、また二人で暮らせるって…こんな幸せなことばっか起きたらさあ…」
「それはまあ……え、また二人で暮らせる?」
突然飛び出した聞き捨てならない発言に、私は彼の肩を掴む。すると孝哉は肩から落ちてしまった私のカーディガンを直し、自分の目元をごしごしと拭いながら続けた。
「あ、そうなんだよ。今年度いっぱいでこっちに帰ってこられることになりそうなんだ」
「今年度いっぱい…」
「俺かなり頑張ったから本社にもそこそこいいポジションで戻れそうでさ。だって関西支社の営業成績がなんと…うぉっ」
最後は私が孝哉の胸を思い切り叩いたことによって言葉にならなかった。叩いたその胸に顔を埋めて、今度は私が彼の背中に手を回す。しがみつくように抱きついて、ぐすぐすと鼻を啜る。
「…そういうの、もっと早く言ってよ」
恨みがましくそう言うと、彼はあははと嬉しそうに笑う。
「ごめんごめん。サプライズにしようかなって」
「……嘘。絶対言うの忘れてたやつだ」
「いやいや、これはほんと!」
泣き顔を見られたくなくて、硬い胸に顔を力任せに押し付けると、孝哉は「そんな風にしたら赤くなるぞ」と頭を何度も優しく撫でてくれた。
そんなことをしているうちに年越し蕎麦用のつゆはかなり煮詰まってしまったけれど、二人で食べたそれは、一人で食べるときとは比べ物にならないくらい美味しくて。
おまけに、遠距離恋愛中の私の彼氏…もとい夫になる人は「来年の正月は自分で蕎麦の麺を打ってみたい」などと言うから。
「孝哉と来年の話ができるのって幸せ」
私がそう言うと、彼は「俺は自分の奥さんになる人が可愛くて最高に幸せ」と、私の頬を指の背で愛おしそうに撫でた。
散々盛り上がってぐちゃぐちゃだった体は綺麗になっていたから、私が意識を飛ばしている間に諸々やってくれたのかもしれない。でも、隣に孝哉の姿はなかった。
何度か寝返りをうってから、むくりと起き上がると、キッチンの方から洗い物をするような音が聞こえて、私が何時間か前に温め直そうとしたお蕎麦のお出汁の匂いが漂ってくることに気付いた。いつもは感じられない大好きな人の気配に、思わず顔が綻んでしまう。
怠い体を叱咤しつつ、下着やシャツを適当に身に付けて、もこもこのカーディガンを羽織る。一枚でかなり暖かいこれは、去年のクリスマスに彼にプレゼントしてもらったものだ。「ついにペアルックデビューです!」とはしゃいでいたのを覚えている。
寝室の扉を開けるとキッチンから孝哉が顔を出す。見ると、彼も同じものを着ていた。
「あ、起きた。蕎麦の準備しちゃってるけどよかった?」
「ん。ありがとう」
当たり前のようなその姿にほっこりしながらお礼を言うと「体 大丈夫?」と尋ねられる。
「大丈夫だけど、明日は筋肉痛になりそう」
「そっか。ごめんね、無理させて」
「え、あ…ううん、全然平気」
初めて体を重ねた日から、行為の後は必ず体調を気遣ってくれるけれど、こんな真面目な雰囲気で言われることはなかったので、少し驚く。
…何かあったのだろうか。
しかし、私の疑念など歯牙にもかけず、孝哉は食器棚から、同棲を始めるときに一緒に買った丼を取り出して並べ始めた。
「でも、怠くて動けないときとか俺が全部やるから。任せて」
「すごい、頼もしいね」
「もし病気になっても怪我しても、一番近くで俺が支えるから安心しといて」
「そんな保険会社のCMみたいな…」
「まあでもそうなったら移動するときはいつも抱っこかなあ。元気なときも抱っこしたいけど」
「えー…それはちょっと嫌…ていうか病気とか怪我とか急にどうしたの?」
あまりにも不自然な返答に首を捻りながら、キッチンに近づいていくと、孝哉はゆっくりと床に膝をついた。それから、恭しく私の手をとるから流石に戸惑ってしまう。跪いてこちらを見上げる視線は、見たことがないくらい緊張した様子で。
「え、何…」
「要は、病めるときも健やかなるときもってこと」
病めるときも健やかなるときも…?
何度も聞いたことがあるその文言に身構えてしまう私の左手の薬指に、するりと指輪が通された。
「……天河葵さん」
ポケットにでも入れておいたのか、彼の体温で少しぬるい指輪が、ぴったりと納められた。状況がすぐには理解できなくて、薬指で輝くそれと、彼の顔を交互に見つめる。
すると、私の瞳をじっと見つめ返した彼が言った。
「俺と結婚してください」
しんと静まり返る部屋に、くつくつと蕎麦のつゆが沸騰し始めた音だけが聞こえる。その光景はあまりにも日常過ぎて、なんだかちぐはぐだ。でも、その表情からは冗談で言っているわけではないことがこれ以上ないほど伝わってくるから。
「葵のこと世界で一番愛してる。これからも大事にする。葵が隣で笑っててくれたら、もう怖いもんはないから」
孝哉は、黙ったままの私の手に自分の額を押し付けて、懇願するように言った。
「来年もその次も、一緒にいさせて」
ああ。
今日こんなことがあるなんて思っていなかった。一人で寝るには広すぎるベッドをわざと端から端までごろごろ転がってみたり、以前二人ではまってよく食べていたお菓子を一人で全部食べてしまってからしょんぼりしたり。そういう些細だけどちょっと寂しくなるような出来事がない。久しぶりに会える。それだけしか考えていなかった私にとって、それはあまりにも幸せな非日常だった。
へなへなとその場にへたりこむと、孝哉と視線が同じくらいの高さになった。二人でキッチンに座り込んで顔を見合わせていると、頬にちゅっとキスをされる。
「あのー…返事は?」
短く切った髪には、ちょっぴり寝癖がついていて。
少し不安そうな瞳がこちらを伺っていた。
…そっか、私だけじゃないんだ…。
もう、いろいろ、十分だった。
私は孝哉の顔をそっと両手で挟んで、額を合わせる。
「……よろしくお願いします」
「っ……うわ、え、まじ?や、やった…」
「ていうか孝哉、さっきから挙動不審過ぎでびっくり…」
そこまで言いかけて、彼の瞳がうるうると涙ぐんでいることに気がつく。
「…え、泣いてるの?」
「……だって嬉しいじゃん…」
「いや、それはそうだけど」
「けど、何?」
「なんていうか…言われた側が泣くパターンが多いのかなって思って」
すると、寄りかかるように私の肩に顔を押し付けて、孝哉は照れ隠しのようにぼそぼそと言う。
「久しぶりに恋人に会えて、しかもプロポーズしたらオッケーもらえて、また二人で暮らせるって…こんな幸せなことばっか起きたらさあ…」
「それはまあ……え、また二人で暮らせる?」
突然飛び出した聞き捨てならない発言に、私は彼の肩を掴む。すると孝哉は肩から落ちてしまった私のカーディガンを直し、自分の目元をごしごしと拭いながら続けた。
「あ、そうなんだよ。今年度いっぱいでこっちに帰ってこられることになりそうなんだ」
「今年度いっぱい…」
「俺かなり頑張ったから本社にもそこそこいいポジションで戻れそうでさ。だって関西支社の営業成績がなんと…うぉっ」
最後は私が孝哉の胸を思い切り叩いたことによって言葉にならなかった。叩いたその胸に顔を埋めて、今度は私が彼の背中に手を回す。しがみつくように抱きついて、ぐすぐすと鼻を啜る。
「…そういうの、もっと早く言ってよ」
恨みがましくそう言うと、彼はあははと嬉しそうに笑う。
「ごめんごめん。サプライズにしようかなって」
「……嘘。絶対言うの忘れてたやつだ」
「いやいや、これはほんと!」
泣き顔を見られたくなくて、硬い胸に顔を力任せに押し付けると、孝哉は「そんな風にしたら赤くなるぞ」と頭を何度も優しく撫でてくれた。
そんなことをしているうちに年越し蕎麦用のつゆはかなり煮詰まってしまったけれど、二人で食べたそれは、一人で食べるときとは比べ物にならないくらい美味しくて。
おまけに、遠距離恋愛中の私の彼氏…もとい夫になる人は「来年の正月は自分で蕎麦の麺を打ってみたい」などと言うから。
「孝哉と来年の話ができるのって幸せ」
私がそう言うと、彼は「俺は自分の奥さんになる人が可愛くて最高に幸せ」と、私の頬を指の背で愛おしそうに撫でた。
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