あなたと私のこれからのこと

篠宮華

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 去年の3月。

「転勤?」

 寝る前にベッドに寝転んでスマホを弄っていた彼女が驚いたように顔を上げる。

「えっ、どこに?」
「関西の支店。一応、立場的には栄転なんだけどさ」
「わぁ!そうなんだ、すごいね。おめでとう」

 昔から葵は、俺の話をまるで自分のことのように喜んでくれる。こういうところもすごく好きだ。しかし今回は内容的に喜んでばかりもいられない。

「時期は?」
「とりあえず4月からかな」
「4月から…結構すぐだね。いつ頃までなの?」
「それはまだわかんないらしくて」
「わかんないんだ…」

 案の定、俺の言ったことを復唱する度に段々と元気がなくなっていく。行ったきり帰って来ないパターンもあるらしいと言われたことを伝えたらとんでもなく落ち込んでしまいそうだから、それはあえて黙っておくことにする。

「じゃあ…単身赴任みたいな感じになるのかな」
「そうみたい」
「……そっかあ」

 今朝、二人でトーストを齧っていたときに、「朝はお米の方がいいらしい。おにぎりを作り置きするとしたら何味がいいか」みたいな話をしていたばかりだった。
 同棲を始めてから2ヶ月が経とうとしていた。葵と暮らし始めてから、楽しくて幸せで、心身ともに満たされていた。こんな生活がずっと続いていくならそれ以上のことはない。
 それがまさかの、新しい環境で、一人。どうなるか自分にもわからないけれど、彼女が今の仕事を楽しんでいることを知っている分、ついてきてほしいなんて、考えることすら失礼だと思った。
 しばらくの沈黙の後、葵は言った。

「…お互い頑張ろう…だよね」

 どうにかこうにか絞り出すように聞こえたその声は、一生懸命言い聞かせているようにも聞こえて、心臓がぎゅっと握り潰されたような気持ちになる。
 親しくなる前は冷静沈着なタイプだと思っていた。大学時代は「クールビューティー」とか「高嶺の花」とか言われていたことを、多分本人は知らないだろう。葵と付き合い始めた頃は「お前みたいなうるさいやつが、あの麗しい天河あまかわさんと付き合うなんて」とよくいじられていたことも。
 でも、同棲を始めてからは、どちらかというと感情豊かだと思うことが増えた。美味しいものを食べたときや、テレビ番組のクイズに正解したときなど、些細なことに喜ぶ姿を見て、心底癒されていた。それに、本人は隠しているつもりかもしれないけれど結構涙脆い。だからこそ、明らかに動揺している様子を目の当たりにして、ただ申し訳なくて仕方がなくて。
 でも、二人の今後を考えると、貯金を増やしておきたいし、そのためには仕事でも成果をあげておきたい。折角お互いにやりたい仕事ができている今、彼女のキャリアももちろん大切で。お互いの、そして二人の未来のために、今できることを考えたいと思った。

 …なんてえらそうに言っておきながらいざ遠距離恋愛が始まると毎日毎日寂しくて死にそうだったのはどちらかというと俺の方だった。電話でそう伝えると葵はいつも「大袈裟だなぁ」と笑っていたけれど、正直全然大袈裟なんかじゃなかった。むしろ、ややマイルドに伝えていた。
 会いたい。触れたい。キスしたい。ずっと抱き締めていたい。仕事しないで、イチャイチャしていたい。お互いにあーんとかしながらゆっくりご飯を食べたい。その後は一緒に風呂入って洗いっこして、夜は次の日のことなんか考えずにヤりまくりたい。……妄想ばかりが膨らんでいく日々だった。

 しかし、葵と電話で他愛もない会話をしていたある日のこと。

『そういえば今日、会社でプリンター詰まらせちゃって』
「うわ、焦るやつじゃん」
『うん。でもそういう機械修理するの得意な人がいて、助けてもらったんだ』
「へえー…よかったね」

 はっきり言って、葵は機械音痴だ。何か壊れていたとしたら多分もっとややこしい状態にしてしまうだろう。そういうギャップも好きなんだけど。

『でね、いろいろ不具合とか見てもらってるときに、最近、孝哉の会社の近くにカレーのお店ができたって聞いたの。私たち、カレー好きじゃない?だから今度こっちに来たときに行ってみようよ』
「お、おー…行きたい行きたい。やべ、急にカレー食べたくなってきた」
『その人、俺はまだ行ったことないんで味は保証できないですーって言ってたから、美味しいかはわかんないんだけどね』

 ん?俺…ということは男?
 プリンターの修理で、何故新しくできたカレー屋の話が出てきたんだろうとちょっと違和感があったのだけど、それを聞いて妙な勘が働いた。

「葵さあ」
『ん?』
「もしかして、今度二人で一緒に行きませんか的なこと言われなかった?」
『あー、なんか言われたけど…そんなに親しい人ではなかったし断ったよ』

 …やはり。
 大学時代から、実は葵はかなりモテていた。本人がどちらかというと人見知りをするタイプだったせいか、あまり交友関係が広いわけではなかったけれど、確実にファン的な奴らはいた。
 おそらくそのプリンターを修理してくれたというやつは、多少なりとも葵に気があるのだろう。しかし、焦燥感に駆られている俺とは対照的に、葵は当たり前のように言う。

『それに、行くなら孝哉と行きたい』

 その言葉にわかりやすく気持ちが浮上してしまいそうになる自分の単純さに呆れるけれど、いかんいかんと気を引き締める。俺が近くにいない間にも、葵の周りには彼女を狙う男がいるわけで。彼女に限って浮気はないと思ってはいるけれど、大好きな恋人を1人にしておく時間はできることなら ない方がいい。そのためには俺が早くこっちで結果を出して、彼女の近くに戻らなくてはならない。
 妄想で終わらせないためにも、とにかく自分にできる最高のパフォーマンスで働き続けるしかない。葵も言っていたではないか、「お互い頑張ろう」と。

「絶対俺が葵とカレー食いに行くから」

 それからは、それまで以上に精一杯働いた。誰かのために、何かのためにという明確な理由が見つかったことは、俺を大きく変えた。
 だから。




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