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巨人の章
逆●●
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一枚面の皮を脱いだようなレアンドロスに、アストライオスも虚を突かれる。
こんな風に笑えるのか。
何の含みのない笑みは、薄暗い夜の寝室には似合わない。
だが、アストライオスは今まで浮かべてきた微笑よりはるかに良いと感じていた。
「今から本格的にあんたを診る」
「わかった。下手な横やりはいれないようにしよう」
「頼む」
「ああ」
レアンドロスはゆったりと仰向けになり、目線だけでアストライオスを追う。
蝋燭の灯りに照らされたアストライオスの横顔は、無機質だ。
しかし、青い瞳の奥には知性の光が爛々と瞬いている。
頭の中にある呪詛の知識を手繰り寄せ、巨体を蝕む呪術の正体を探っている眼だ。
その時、レアンドロスは無自覚ながら確かに見惚れていた。
レアンドロスは初めて、外面ではなく、内側から醸し出される所作に目を奪われていた。
「触るぞ。いいか」
アストライオスの掌が、レアンドロスの下腹部へと翳される。
「逐一私の許可を取る必要はない。君の好きにしてくれ」
「分かった」
アストライオスの掌がレアンドロスの皮膚に触れる。
陰毛の茂みが始まるあたりに置かれた手は、すこしかさついていたものの、じんわりと優しい熱を持っていた。
それだけで、レアンドロスの奥にある不快感が和らいでいく。
手当てとはよく言ったものだ。
レアンドロスはアストライオスの体温が内なる毒を浄化してくれるようなイメージを抱きながら、瞼を閉じる。
段々と和らいでいくレアンドロスの表情とは対照的に、それまで凪いでいたアストライオスの眉間にはさざ波が立った。
アストライオスは人差し指と中指で、レアンドロスの身体に何かを描き始める。
指の圧を感じたレアンドロスが眼を開けると、ひどく不愉快そうな顔をしたアストライオスがいた。
「……俺は今、久しぶりに心底腹が立っている」
ぽつりと零したアストライオスの表情は未だ厳しい。
感情も色あせた魔導士が怒りを取り戻すなど、一体何があったのか。
レアンドロスは黙って話の続きを待つ。
「あんたを呪った奴は、相当の手練れだ。それも、学問的に基礎から魔導を習得したに違いない。組み立てが上手すぎる」
「私にはよく分からないが、君がそこまで言うほどの術者なのか」
「ああ。外道街には、俺以外にも野良の術者が多くいる。大体が邪法と言われる類の物だ。乱暴で厄介で滅茶苦茶なものだ。だがこれは違う。あんたの身体を維持したまま、子種だけを殺している。的確に」
「ぞっとしない話だ。そんな芸当が出来るニンゲンの魔導士とは、一体どのような者なのだろうね」
レアンドロスの言葉に、アストライオスの眼玉だけがじろりと動いた。
「宮廷魔導士級だ」
「ほう」
「だから腹が立っている。これほどまでの腕を、こんなことに使っている。俺はそれが許せない」
青いな、とレアンドロスは心の中だけで呟く。
武術や魔術の腕と、正確の良しあしは必ずしも連動しない。
強大な力を持った腐れ外道など、珍しい者でもないのだ。
外道街に追いやられてなお、そこに染まり切っていないアストライオスがレアンドロスには幼くも眩しく映った。
「見ろ」
吐き捨てるようなアストライオスの言葉に、レアンドロスは己の下腹部に視線を向ける。
「なんとまあ、酷いものだ」
そこには、青紫色をした複雑な紋様が浮かんでいた。
交錯する茨が蛇と化し、渦巻いているようにも見える。
「これはさしずめ、逆淫紋と言ったところかな」
「笑っている場合か」
暢気なレアンドロスの言葉に、流石のアストライオスも毒気が抜けた。
同時刻、眠りにもつかず、一人机に両肘をついて頭を抱えている巨人がいた。
テラポンである。
「何故、間違えた」
無限に湧き出る自責の念を口にしていないと、破裂してしまいそうだ。
今思えば、決定的な証拠もないのにアストライオスを拉致監禁したことは、正気の沙汰とは思えない。
僕まで呪いにかかっていたのか?
半ば強制だが、有能な魔導士に解呪を頼む結果になったことは、怪我の功名と言えるかもしれない。
いや、どうだろう。
散々レアンドロスの弟、エピフロンの周囲を探らせてこれだ。
こんな無能、いつ暇を出されるか。
テラポンは興味を失った者へ淡泊な反応を見せるレアンドロスをよく見てきた。
あからさまに遠ざけることはしないが、自分から近づきもしない。
いずれ僕もそうなるのか。
「こうなったら直接……」
テラポンは寝不足の頭で、エピフロンの背後にいる憎き人間魔導士を炙り出す策を考えようとしていた。
レアンドロスにかけられた呪いを可視化したアストライオスだったが、本格的な解呪は明日に持ち越しとなった。
何しろ丁寧にかけられた呪いだ。
無理やり引きはがそうとすれば、レアンドロスの肉棒は二度と使い物にならない可能性も大きい。
この呪いが直接的にレアンドロスの寿命を削らないことは、不幸中の幸いだった。
続きはまた明日と言い、アストライオスは退出しようとしたが、レアンドロスの腕がそれを許さない。
「眠るならここでも出来る。客室より、一等いい造りだよ、ここは」
レアンドロスは片腕でアストライオスの腰を抱き、空いたもう一方でぽんぽんと柔らかなシーツを叩く。
「一人の方がよく眠れる」
「言い方を変えよう。君の体温が恋しい」
「恋人ごっこをするために俺はここに来たんじゃない」
「そうではない。先ほど君に触れられていたとき、とても心地がよかったのだ。焦げ付くような肉欲が、すうっと消えていくような、そのような感じがした」
アストライオスはレアンドロスの瞳をまっすぐ見つめた。
自分のものよりも数段明るい、空色の眼に嘘偽りの陰りはない。
代わりに、泣き出す前の迷子のような揺らめきがそこにはあった。
どんなに大人びた仕草を取ろうとも、互いに瞳の奥まで騙しきれるような器用さは持ち合わせていないようだ。
アストライオスは軽く溜め息をつくと、小さく頷く。
もう言葉は不要だった。
朝。
厚ぼったいカーテンの隙間から、雪の照り返しも眩しい陽光が射しこんでいる。
ちょうど顔のあたりを射貫くような光の帯が眩しく、アストライオスは目を覚ます。
すると、自分の胸板に顔を埋めて眠るレアンドロスの頭があった。
たしか昨夜は無理やりレアンドロスの腕枕で寝かされたはずだ。
今のレアンドロスはアストライオスの背中にしがみつき、その大きすぎる背を胎児のように丸めて眠り込んでいる。
アストライオスは無意識に、レアンドロスの髪に手を伸ばしている。
やや波打つ金の髪は、その巨体に似合わず絹糸のように柔らかだった。
この男は子供でいたいのか。
何人もその腕に抱きながら、大人の男の貌をしながら、心の奥底で縋りつく相手を探している。
アストライオスには何故かそのように思えてならなかった。
呪いが解け、雄の機能が戻ったら、この男は終生の伴侶を探すのだろうか。
父になるのか。
俺にはどうでもいいことだ。
アストライオスは、なぜ苦々しい気持ちになるのか、自分でもわからずにいた。
「……首尾はいかがですか」
食堂に移動した二人へ朝食を運んできたテラポンの言葉に、ローブ一枚のレアンドロスが得意気に微笑む。
「アステリ君のおかげで進展したよ。これが私を苦しめる呪いの形さ」
ローブの帯を解き、胸板から腹周りまでを惜しげもなく晒したレアンドロスにテラポンが目を剝く。
朝から破廉恥極まりない行動だが、それは下腹部に刻まれた紋を見せるほかに他意はなかった。
「何ですかこれは!?」
「私はこれを逆淫紋と名付けた。分かりやすくていいだろう?」
「レアン様にこのような辱めを与えるなど……。おい解呪屋、治せるんだろうな?」
当初強く当たっただけに、今更ニンゲンに頭を下げられなくなったテラポンがやけっぱちに詰問する。
「時間はかかる。それに、いくつか揃えてもらいたいものもある」
「ちゃちゃっとできんのか」
「落ち着けテラポン。君も分かっているだろうが、愚弟の雇ったニンゲンだ。並みの者ではあるまい。アステリ君の欲しがる薬草を用意してくれないか」
「承知いたしました」
空になった白い杯を差し出し、飲み水の催促をするレアンドロスに恭しく返事をするテラポンを、アストライオスは無感動に眺めている。
「ときにレアン様」
「何だね」
丸っこい水差しから優雅に水を注ぎながら、眼の下にクマを作ったテラポンが意を決したように口を開く。
「いっそのこと、エピフロン様のお住まいに突撃しようと思うのですが、いかがでしょうか」
「……うん?」
「……」
アストライオスとレアンドロスの両名は、同時に固まった。
つづく
こんな風に笑えるのか。
何の含みのない笑みは、薄暗い夜の寝室には似合わない。
だが、アストライオスは今まで浮かべてきた微笑よりはるかに良いと感じていた。
「今から本格的にあんたを診る」
「わかった。下手な横やりはいれないようにしよう」
「頼む」
「ああ」
レアンドロスはゆったりと仰向けになり、目線だけでアストライオスを追う。
蝋燭の灯りに照らされたアストライオスの横顔は、無機質だ。
しかし、青い瞳の奥には知性の光が爛々と瞬いている。
頭の中にある呪詛の知識を手繰り寄せ、巨体を蝕む呪術の正体を探っている眼だ。
その時、レアンドロスは無自覚ながら確かに見惚れていた。
レアンドロスは初めて、外面ではなく、内側から醸し出される所作に目を奪われていた。
「触るぞ。いいか」
アストライオスの掌が、レアンドロスの下腹部へと翳される。
「逐一私の許可を取る必要はない。君の好きにしてくれ」
「分かった」
アストライオスの掌がレアンドロスの皮膚に触れる。
陰毛の茂みが始まるあたりに置かれた手は、すこしかさついていたものの、じんわりと優しい熱を持っていた。
それだけで、レアンドロスの奥にある不快感が和らいでいく。
手当てとはよく言ったものだ。
レアンドロスはアストライオスの体温が内なる毒を浄化してくれるようなイメージを抱きながら、瞼を閉じる。
段々と和らいでいくレアンドロスの表情とは対照的に、それまで凪いでいたアストライオスの眉間にはさざ波が立った。
アストライオスは人差し指と中指で、レアンドロスの身体に何かを描き始める。
指の圧を感じたレアンドロスが眼を開けると、ひどく不愉快そうな顔をしたアストライオスがいた。
「……俺は今、久しぶりに心底腹が立っている」
ぽつりと零したアストライオスの表情は未だ厳しい。
感情も色あせた魔導士が怒りを取り戻すなど、一体何があったのか。
レアンドロスは黙って話の続きを待つ。
「あんたを呪った奴は、相当の手練れだ。それも、学問的に基礎から魔導を習得したに違いない。組み立てが上手すぎる」
「私にはよく分からないが、君がそこまで言うほどの術者なのか」
「ああ。外道街には、俺以外にも野良の術者が多くいる。大体が邪法と言われる類の物だ。乱暴で厄介で滅茶苦茶なものだ。だがこれは違う。あんたの身体を維持したまま、子種だけを殺している。的確に」
「ぞっとしない話だ。そんな芸当が出来るニンゲンの魔導士とは、一体どのような者なのだろうね」
レアンドロスの言葉に、アストライオスの眼玉だけがじろりと動いた。
「宮廷魔導士級だ」
「ほう」
「だから腹が立っている。これほどまでの腕を、こんなことに使っている。俺はそれが許せない」
青いな、とレアンドロスは心の中だけで呟く。
武術や魔術の腕と、正確の良しあしは必ずしも連動しない。
強大な力を持った腐れ外道など、珍しい者でもないのだ。
外道街に追いやられてなお、そこに染まり切っていないアストライオスがレアンドロスには幼くも眩しく映った。
「見ろ」
吐き捨てるようなアストライオスの言葉に、レアンドロスは己の下腹部に視線を向ける。
「なんとまあ、酷いものだ」
そこには、青紫色をした複雑な紋様が浮かんでいた。
交錯する茨が蛇と化し、渦巻いているようにも見える。
「これはさしずめ、逆淫紋と言ったところかな」
「笑っている場合か」
暢気なレアンドロスの言葉に、流石のアストライオスも毒気が抜けた。
同時刻、眠りにもつかず、一人机に両肘をついて頭を抱えている巨人がいた。
テラポンである。
「何故、間違えた」
無限に湧き出る自責の念を口にしていないと、破裂してしまいそうだ。
今思えば、決定的な証拠もないのにアストライオスを拉致監禁したことは、正気の沙汰とは思えない。
僕まで呪いにかかっていたのか?
半ば強制だが、有能な魔導士に解呪を頼む結果になったことは、怪我の功名と言えるかもしれない。
いや、どうだろう。
散々レアンドロスの弟、エピフロンの周囲を探らせてこれだ。
こんな無能、いつ暇を出されるか。
テラポンは興味を失った者へ淡泊な反応を見せるレアンドロスをよく見てきた。
あからさまに遠ざけることはしないが、自分から近づきもしない。
いずれ僕もそうなるのか。
「こうなったら直接……」
テラポンは寝不足の頭で、エピフロンの背後にいる憎き人間魔導士を炙り出す策を考えようとしていた。
レアンドロスにかけられた呪いを可視化したアストライオスだったが、本格的な解呪は明日に持ち越しとなった。
何しろ丁寧にかけられた呪いだ。
無理やり引きはがそうとすれば、レアンドロスの肉棒は二度と使い物にならない可能性も大きい。
この呪いが直接的にレアンドロスの寿命を削らないことは、不幸中の幸いだった。
続きはまた明日と言い、アストライオスは退出しようとしたが、レアンドロスの腕がそれを許さない。
「眠るならここでも出来る。客室より、一等いい造りだよ、ここは」
レアンドロスは片腕でアストライオスの腰を抱き、空いたもう一方でぽんぽんと柔らかなシーツを叩く。
「一人の方がよく眠れる」
「言い方を変えよう。君の体温が恋しい」
「恋人ごっこをするために俺はここに来たんじゃない」
「そうではない。先ほど君に触れられていたとき、とても心地がよかったのだ。焦げ付くような肉欲が、すうっと消えていくような、そのような感じがした」
アストライオスはレアンドロスの瞳をまっすぐ見つめた。
自分のものよりも数段明るい、空色の眼に嘘偽りの陰りはない。
代わりに、泣き出す前の迷子のような揺らめきがそこにはあった。
どんなに大人びた仕草を取ろうとも、互いに瞳の奥まで騙しきれるような器用さは持ち合わせていないようだ。
アストライオスは軽く溜め息をつくと、小さく頷く。
もう言葉は不要だった。
朝。
厚ぼったいカーテンの隙間から、雪の照り返しも眩しい陽光が射しこんでいる。
ちょうど顔のあたりを射貫くような光の帯が眩しく、アストライオスは目を覚ます。
すると、自分の胸板に顔を埋めて眠るレアンドロスの頭があった。
たしか昨夜は無理やりレアンドロスの腕枕で寝かされたはずだ。
今のレアンドロスはアストライオスの背中にしがみつき、その大きすぎる背を胎児のように丸めて眠り込んでいる。
アストライオスは無意識に、レアンドロスの髪に手を伸ばしている。
やや波打つ金の髪は、その巨体に似合わず絹糸のように柔らかだった。
この男は子供でいたいのか。
何人もその腕に抱きながら、大人の男の貌をしながら、心の奥底で縋りつく相手を探している。
アストライオスには何故かそのように思えてならなかった。
呪いが解け、雄の機能が戻ったら、この男は終生の伴侶を探すのだろうか。
父になるのか。
俺にはどうでもいいことだ。
アストライオスは、なぜ苦々しい気持ちになるのか、自分でもわからずにいた。
「……首尾はいかがですか」
食堂に移動した二人へ朝食を運んできたテラポンの言葉に、ローブ一枚のレアンドロスが得意気に微笑む。
「アステリ君のおかげで進展したよ。これが私を苦しめる呪いの形さ」
ローブの帯を解き、胸板から腹周りまでを惜しげもなく晒したレアンドロスにテラポンが目を剝く。
朝から破廉恥極まりない行動だが、それは下腹部に刻まれた紋を見せるほかに他意はなかった。
「何ですかこれは!?」
「私はこれを逆淫紋と名付けた。分かりやすくていいだろう?」
「レアン様にこのような辱めを与えるなど……。おい解呪屋、治せるんだろうな?」
当初強く当たっただけに、今更ニンゲンに頭を下げられなくなったテラポンがやけっぱちに詰問する。
「時間はかかる。それに、いくつか揃えてもらいたいものもある」
「ちゃちゃっとできんのか」
「落ち着けテラポン。君も分かっているだろうが、愚弟の雇ったニンゲンだ。並みの者ではあるまい。アステリ君の欲しがる薬草を用意してくれないか」
「承知いたしました」
空になった白い杯を差し出し、飲み水の催促をするレアンドロスに恭しく返事をするテラポンを、アストライオスは無感動に眺めている。
「ときにレアン様」
「何だね」
丸っこい水差しから優雅に水を注ぎながら、眼の下にクマを作ったテラポンが意を決したように口を開く。
「いっそのこと、エピフロン様のお住まいに突撃しようと思うのですが、いかがでしょうか」
「……うん?」
「……」
アストライオスとレアンドロスの両名は、同時に固まった。
つづく
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