婚約破棄された地味令嬢、実は美貌を隠していただけでした

かきんとう

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 音楽の余韻がまだ残る大広間の中で、アルフォンス王子は真っ直ぐにリシェルを見つめていた。

 その表情は、かつて彼女が知っていたものとは明らかに違っている。

 自信に満ち、少しばかり傲慢だった面影は薄れ、代わりに浮かんでいるのは――戸惑いと、焦り。

 そして。

 後悔。

 リシェルは、その変化を静かに受け止めながら、小さく息を整えた。

「少し席を外してもよろしいでしょうか」

 彼女は隣に立つルーカスへ向けて言った。

 ルーカスは一瞬だけアルフォンスを見やり、そしてリシェルへ視線を戻す。

「もちろん」

 穏やかな声。

 だがその瞳には、わずかな緊張が宿っていた。

「私はここで待っている」

 その言葉は、支配でも束縛でもない。

 ただ、彼女を信じているという意思表示。

 リシェルは小さく微笑み、頷いた。

「ありがとうございます」

 そして、アルフォンスの方へ向き直る。

「では、参りましょう」

 ふたりは大広間の端にある回廊へと歩き出した。

 喧騒が少しずつ遠ざかり、静けさが広がっていく。

 やがて人気の少ない場所に辿り着き、アルフォンスが足を止めた。

「……ここでいい」

 彼はしばらく何も言わなかった。

 ただ、リシェルを見つめている。

 その視線には、言葉を探しているような迷いがあった。

 リシェルは静かに待つ。

 急かすことも、避けることもなく。

 やがて。

「……君は」

 アルフォンスが、ようやく口を開いた。

「本当に、リシェルなのか」

 その問いは、あまりにも率直だった。

 思わず、リシェルは小さく微笑んだ。

「はい。間違いなく」

「だが……」

 彼は言葉を詰まらせる。

「まるで別人のようだ」

「そう見えるかもしれません」

 リシェルは落ち着いた声で答えた。

「ですが私は、何も変わっておりません。ただ――」

 少しだけ間を置き。

「隠すのをやめただけです」

 静かな言葉。

 だが、その意味は深い。

 アルフォンスは視線を落とした。

 拳が、わずかに握られている。

「……私は」

 低い声。

「間違えた」

 その一言は、重かった。

「君のことを、正しく見ていなかった」

 リシェルは黙って聞いている。

「地味で、面白みがなく、感情の薄い女性だと思っていた」

 自嘲するような笑みが浮かぶ。

「だが違った」

 彼は顔を上げる。

 青い瞳が、真っ直ぐ彼女を捉える。

「君は――とても魅力的な女性だった」

 その言葉には、偽りがなかった。

 リシェルの胸に、小さな波が広がる。

 だがそれは、恋ではない。

 過去を静かに受け止める感情。

「ありがとう、ございます」

 彼女は穏やかに答えた。

「そのお言葉だけで、十分です」

 アルフォンスは一瞬驚いたような顔をした。

「……責めないのか」

「責める理由がありません」

 リシェルは首を横に振る。

「婚約は、義務でした。そこに愛がなかったのは、お互い様です」

 淡々とした言葉。

 だが冷たくはない。

 むしろ、優しさが滲んでいる。

 アルフォンスはしばらく沈黙した。

 そして。

「……もう一度」

 ゆっくりと言った。

「やり直すことはできないだろうか」

 その言葉が、空気を揺らした。

 リシェルは、静かに彼を見つめた。

 驚きはあった。

 だが、心は落ち着いている。

「私は今なら、君を大切にできる」

 アルフォンスの声は真剣だった。

「君を知りたい。理解したい」

 一歩、近づく。

「だから――」

 その瞬間。

 リシェルの胸に浮かんだのは。

 ルーカスの穏やかな笑顔だった。

 彼と過ごした時間。

 食事。

 散歩。

 会話。

 静かな安心感。

 そして。

 手を差し出してくれたあの夜。

 心の奥が、はっきりと答えを出していた。

 リシェルは、ゆっくりと息を吸い。

 そして。

「申し訳ございません」

 静かに言った。

 その声には、迷いがなかった。

「お断りいたします」

 アルフォンスの表情が、固まる。

「……理由を聞いても?」

 かすれた声。

 リシェルは少し考え。

 そして、正直に答えた。

「私は今、とても穏やかな気持ちで過ごしております」

「……」

「自分らしくいられて、心から笑える時間があります」

 彼女は静かに微笑んだ。

「それを失いたくないのです」

 アルフォンスは何も言えなかった。

 その沈黙が、答えを理解した証だった。

 やがて。

「……そうか」

 彼は小さく息を吐いた。

 肩の力が抜ける。

「私は、遅すぎたのだな」

 自嘲の笑み。

 だが、どこかすっきりした表情でもあった。

「君が幸せなら、それでいい」

 その言葉は、静かな祝福だった。

 リシェルは深く頭を下げる。

「ありがとうございます」

 そして、ふたりは回廊を歩き出した。

 再び大広間へ戻るために。

 ◇

 音楽と光が満ちる空間に戻ると、ルーカスがすぐに気づいた。

 彼は一歩前へ出る。

「大丈夫だった?」

 心配そうな声。

 リシェルは微笑んだ。

「ええ」

 短い言葉。

 だがその表情は、とても穏やかだった。

 ルーカスはそれ以上聞かなかった。

 ただ、安心したように頷く。

 その時。

 新しい曲が流れ始めた。

 柔らかく、優しい旋律。

 ルーカスが、そっと手を差し出す。

「もう一曲、どうかな」

 リシェルはその手を見つめた。

 温かくて、信頼できる手。

 心が自然と引き寄せられる。

「はい」

 彼女は微笑んだ。

「ぜひ」

 手を重ねる。

 その瞬間。

 胸の奥が、静かに満たされた。

 ふたりは再び踊り始める。

 ゆっくりと。

 穏やかに。

 まるで心が重なり合うように。

「……リシェル」

 ルーカスが、少し緊張した声で呼んだ。

「はい」

「私は――」

 彼は一瞬ためらい。

 しかし、意を決したように続けた。

「君のことが好きだ」

 その言葉は、静かだった。

 だが、まっすぐで。

 誠実で。

 逃げ場のない真心。

 リシェルの心臓が、大きく跳ねた。

 視線が合う。

 灰色の瞳が、真剣に彼女を見つめている。

「これからも、君のそばにいたい」

 低い声。

「君が笑っていられるように」

 胸が、じんわりと熱くなる。

 言葉が、すぐには出てこない。

 だが。

 答えは、もう決まっていた。

 彼女はゆっくりと息を吸い。

 そして。

「……私も」

 小さく言った。

 声は少し震えていた。

「ルーカス様と一緒にいる時間が、とても好きです」

 彼の瞳が、わずかに揺れる。

「これからも――」

 リシェルは微笑んだ。

「そばにいてください」

 その言葉は、告白だった。

 遠回しでもなく。

 曖昧でもなく。

 まっすぐな想い。

 ルーカスの表情が、ゆっくりとほどけていく。

 安堵。

 喜び。

 そして、深い愛情。

 ふたりは静かに踊り続けた。

 音楽が流れ。

 灯りが輝き。

 周囲の人々の声が遠ざかる。

 その瞬間。

 世界には、ふたりだけしかいないようだった。

 やがて曲が終わり。

 拍手が広がる。

 だが、ふたりはすぐには離れなかった。

 視線を交わし。

 微笑み合う。

 それだけで、十分だった。

 ◇

 数か月後。

 エヴァンズ伯爵家の庭園。

 春の花が満開に咲き誇る中、リシェルはゆっくりと歩いていた。

 隣には、ルーカス。

 穏やかな日差し。

 心地よい風。

「改めて聞くけれど」

 ルーカスが少し緊張した声で言った。

「私と結婚してくれるだろうか」

 その問いは、以前よりもはっきりしていた。

 正式な求婚。

 未来への約束。

 リシェルは立ち止まり、彼を見上げた。

 灰色の瞳。

 真剣な表情。

 そして、優しい心。

 彼女は微笑んだ。

 心の奥から。

「はい」

 はっきりと答える。

「喜んで」

 その瞬間。

 ルーカスの顔に、これ以上ないほどの笑顔が広がった。

 彼はそっと、彼女の手を取る。

 温かい。

 安心する。

 これから先も、きっとずっと。

 この手を握って歩いていくのだろう。

 かつて“地味令嬢”と呼ばれた少女は。

 もう、自分を隠さない。

 自分らしく笑い。

 自分らしく愛し。

 自分らしく生きていく。

 そして。

 その隣には、愛する人がいる。

 春の風が、花びらを運ぶ。

 未来は、明るく開かれていた。

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