2 / 177
1章
2 記憶喪失……
しおりを挟む
記憶喪失──。
柴田健介は記憶喪失などではない。生まれてからこの方の記憶は幼少期のみんなが忘れてしまう程度の忘却を除いて、健在だった。だが、ここでは記憶喪失ということにしている。
それというのも、健介にはあるべき知識がかけているのだ。ここは健介が生まれてから何十年間暮らした世界ではなかった。
そう。異世界──。
それまでの健介の人生は平凡も平凡で、極めて一般的なものだった。両親がいない天涯孤独でもなければ、酷い虐待を受けた訳でも、とんでもない借金にまみれて貧乏に身を窶している訳でもなく、大学を出て、就職をして……その就職先がちょっと、だいぶ、いや相当なブラックだったくらいで、普通の極々一般的な日本人が歩む人生を三十年間生きてきた……はずだった。
そう、就職先を除いては。
その日は期末の追い込みもあって十連勤の三徹明けのことだった。
健介は工学系の大学を卒業した後、就職した先は大手のシステム会社の子会社。そこでSE、システムエンジニアとして働く社会人だった。良く言えば人が良い、悪く言えば断れない、思ったことを口に出せない、そんな性格ゆえに仕事の中でも面倒で手間のかかる厄介な案件がよく回ってきた。
嫌な顔が出来ずに自分の考えを曖昧にしていたところ、いつの間にかあれよあれよと、健介のデスクの上には処理をするべき案件が積み上がっていった。
徹夜も休日勤務も常態化しており、いつものように休日を返上した連続勤務……かつ激務をこなした帰り道。活動を開始する時間には早過ぎて、終電を逃したのか、夜通し遊んでいたのか、という人も疎らな電車に乗っていた。白みゆく車窓を眺めて、久しぶりの日曜に何をしようか……積んでいる小説を読むか、はたまた起きたら夕方か、などと考える間に眠り込んでしまった。
そして、頬にジャリッとした感触がして目を覚ました。寝過ごしたかと驚きで一気に覚醒すると、自分は森の中の地面、まさしく土の上に横たわっていたのだった。
訳がわからなかった。
まず思ったのは「あぁ、冬じゃなくて良かった」である。九月の下旬なら、少し明け方に肌寒い日があっても、大方の日はまだまだ暖かく、外で寝ていたところで問題ない。地面に横たわっていたことに対する健介の思考はそんなことが真っ先に浮かぶのだ。呑気なものである。
慌てて身体を起こして辺りを見回すが、本当に森の中だった。街灯一つ、電柱一本すらも見当たらないそこは、まるで分け入った山道という風景……久しく山登りなどしていないが。
何が起こったのか。
頭上の太陽はさんさんと真上から照りつけている。その陽の高さだけで、自分がよほど寝こけていたのだとわかった。
ほぼ始発の電車に乗ったことを考えるなら、五、六時間、もしくはそれ以上経っているものだと思われた。
だが、腕につけた時計を見ると、短い針は七を指しており、陽の高さとは明らかに異なる。何かがあって壊れてしまったのかもしれなかった。ならば、ここはどこかと鞄に入れたスマートフォンを探そうとしたが、そもそも自分の近くに鞄はなかった。
昨今の電車はどれも複雑に路線が入り混じり、乗る電車によっては、都下……ならいざ知らず、その先は二県を越えることもある。ご多聞にもれず、健介の会社から自宅に帰る路線も都中心から伸びるそのような路線へと繋がっていた。
今まで寝過ごしたか先が山奥だったことは幸いにも無かっただけで、まったくありえない話ではなかった。三十を超えた弊害か、最近は連勤も徹夜も本当に辛い。
あまりの疲労に目を覚まさずにそのような場所まで行き着き、朦朧とした意識のまま電車を降りて、帰宅しようとしたのかもしれない。
というのも、万年睡眠不足の健介は、早朝に起きて車内で居眠りをし、半分目が覚めないままに電車を降りて、ふらふらと無意識に出社出来る社畜でもあった。その逆、帰宅中にそれを行っていた可能性もある。まあ、降りるべき駅ではないところだったようだが……。
いずれにせよ、スマートフォンも無ければ、現在地もわからない。鞄も無ければ、財布もない。
詰んだ。
健介はそう思った。
幸いなことに休み。どうにかして家に帰り着ければそれで良かった。
そんなふうに思っていた時もありました。
歩けども歩けども、一向に駅には着かない。人家にたどり着くこともなければ、人気もない。
いくら山の中のように見えても、電車を降りて自分で歩いたのだから、同じように歩けば、また駅に着けると思っていた。それにいくら田舎とはいえ、日本ならこんなに人に会わないことなど、あり得ない。そう思った。
「森……草ぁ……」
永遠に続くような同じ景色に思わず独りごつ。
まだ寝ているのだろうか……。
明晰夢。
もしくは白昼夢。
だんだん恐ろしくなってきた。
森は切れ目なく続いていて、歩けば駅に辿り着くというレベルではないことに今さらながら気づいた。自分はいま、スーツ姿で遭難しているのである。
なぜ自分はこんなところに?
柴田健介は記憶喪失などではない。生まれてからこの方の記憶は幼少期のみんなが忘れてしまう程度の忘却を除いて、健在だった。だが、ここでは記憶喪失ということにしている。
それというのも、健介にはあるべき知識がかけているのだ。ここは健介が生まれてから何十年間暮らした世界ではなかった。
そう。異世界──。
それまでの健介の人生は平凡も平凡で、極めて一般的なものだった。両親がいない天涯孤独でもなければ、酷い虐待を受けた訳でも、とんでもない借金にまみれて貧乏に身を窶している訳でもなく、大学を出て、就職をして……その就職先がちょっと、だいぶ、いや相当なブラックだったくらいで、普通の極々一般的な日本人が歩む人生を三十年間生きてきた……はずだった。
そう、就職先を除いては。
その日は期末の追い込みもあって十連勤の三徹明けのことだった。
健介は工学系の大学を卒業した後、就職した先は大手のシステム会社の子会社。そこでSE、システムエンジニアとして働く社会人だった。良く言えば人が良い、悪く言えば断れない、思ったことを口に出せない、そんな性格ゆえに仕事の中でも面倒で手間のかかる厄介な案件がよく回ってきた。
嫌な顔が出来ずに自分の考えを曖昧にしていたところ、いつの間にかあれよあれよと、健介のデスクの上には処理をするべき案件が積み上がっていった。
徹夜も休日勤務も常態化しており、いつものように休日を返上した連続勤務……かつ激務をこなした帰り道。活動を開始する時間には早過ぎて、終電を逃したのか、夜通し遊んでいたのか、という人も疎らな電車に乗っていた。白みゆく車窓を眺めて、久しぶりの日曜に何をしようか……積んでいる小説を読むか、はたまた起きたら夕方か、などと考える間に眠り込んでしまった。
そして、頬にジャリッとした感触がして目を覚ました。寝過ごしたかと驚きで一気に覚醒すると、自分は森の中の地面、まさしく土の上に横たわっていたのだった。
訳がわからなかった。
まず思ったのは「あぁ、冬じゃなくて良かった」である。九月の下旬なら、少し明け方に肌寒い日があっても、大方の日はまだまだ暖かく、外で寝ていたところで問題ない。地面に横たわっていたことに対する健介の思考はそんなことが真っ先に浮かぶのだ。呑気なものである。
慌てて身体を起こして辺りを見回すが、本当に森の中だった。街灯一つ、電柱一本すらも見当たらないそこは、まるで分け入った山道という風景……久しく山登りなどしていないが。
何が起こったのか。
頭上の太陽はさんさんと真上から照りつけている。その陽の高さだけで、自分がよほど寝こけていたのだとわかった。
ほぼ始発の電車に乗ったことを考えるなら、五、六時間、もしくはそれ以上経っているものだと思われた。
だが、腕につけた時計を見ると、短い針は七を指しており、陽の高さとは明らかに異なる。何かがあって壊れてしまったのかもしれなかった。ならば、ここはどこかと鞄に入れたスマートフォンを探そうとしたが、そもそも自分の近くに鞄はなかった。
昨今の電車はどれも複雑に路線が入り混じり、乗る電車によっては、都下……ならいざ知らず、その先は二県を越えることもある。ご多聞にもれず、健介の会社から自宅に帰る路線も都中心から伸びるそのような路線へと繋がっていた。
今まで寝過ごしたか先が山奥だったことは幸いにも無かっただけで、まったくありえない話ではなかった。三十を超えた弊害か、最近は連勤も徹夜も本当に辛い。
あまりの疲労に目を覚まさずにそのような場所まで行き着き、朦朧とした意識のまま電車を降りて、帰宅しようとしたのかもしれない。
というのも、万年睡眠不足の健介は、早朝に起きて車内で居眠りをし、半分目が覚めないままに電車を降りて、ふらふらと無意識に出社出来る社畜でもあった。その逆、帰宅中にそれを行っていた可能性もある。まあ、降りるべき駅ではないところだったようだが……。
いずれにせよ、スマートフォンも無ければ、現在地もわからない。鞄も無ければ、財布もない。
詰んだ。
健介はそう思った。
幸いなことに休み。どうにかして家に帰り着ければそれで良かった。
そんなふうに思っていた時もありました。
歩けども歩けども、一向に駅には着かない。人家にたどり着くこともなければ、人気もない。
いくら山の中のように見えても、電車を降りて自分で歩いたのだから、同じように歩けば、また駅に着けると思っていた。それにいくら田舎とはいえ、日本ならこんなに人に会わないことなど、あり得ない。そう思った。
「森……草ぁ……」
永遠に続くような同じ景色に思わず独りごつ。
まだ寝ているのだろうか……。
明晰夢。
もしくは白昼夢。
だんだん恐ろしくなってきた。
森は切れ目なく続いていて、歩けば駅に辿り着くというレベルではないことに今さらながら気づいた。自分はいま、スーツ姿で遭難しているのである。
なぜ自分はこんなところに?
202
あなたにおすすめの小説
ノリで付き合っただけなのに、別れてくれなくて詰んでる
cheeery
BL
告白23連敗中の高校二年生・浅海凪。失恋のショックと友人たちの悪ノリから、クラス一のモテ男で親友、久遠碧斗に勢いで「付き合うか」と言ってしまう。冗談で済むと思いきや、碧斗は「いいよ」とあっさり承諾し本気で付き合うことになってしまった。
「付き合おうって言ったのは凪だよね」
あの流れで本気だとは思わないだろおおお。
凪はなんとか碧斗に愛想を尽かされようと、嫌われよう大作戦を実行するが……?
カメラ越しのシリウス イケメン俳優と俺が運命なんてありえない!
野原 耳子
BL
★執着溺愛系イケメン俳優α×平凡なカメラマンΩ
平凡なオメガである保(たもつ)は、ある日テレビで見たイケメン俳優が自分の『運命』だと気付くが、
どうせ結ばれない恋だと思って、速攻で諦めることにする。
数年後、テレビカメラマンとなった保は、生放送番組で運命である藍人(あいと)と初めて出会う。
きっと自分の存在に気付くことはないだろうと思っていたのに、
生放送中、藍人はカメラ越しに保を見据えて、こう言い放つ。
「やっと見つけた。もう絶対に逃がさない」
それから藍人は、混乱する保を囲い込もうと色々と動き始めて――
【BL】捨てられたSubが甘やかされる話
橘スミレ
BL
渚は最低最悪なパートナーに追い出され行く宛もなく彷徨っていた。
もうダメだと倒れ込んだ時、オーナーと呼ばれる男に拾われた。
オーナーさんは理玖さんという名前で、優しくて暖かいDomだ。
ただ執着心がすごく強い。渚の全てを知って管理したがる。
特に食へのこだわりが強く、渚が食べるもの全てを知ろうとする。
でもその執着が捨てられた渚にとっては心地よく、気味が悪いほどの執着が欲しくなってしまう。
理玖さんの執着は日に日に重みを増していくが、渚はどこまでも幸福として受け入れてゆく。
そんな風な激重DomによってドロドロにされちゃうSubのお話です!
アルファポリス限定で連載中
二日に一度を目安に更新しております
家事代行サービスにdomの溺愛は必要ありません!
灯璃
BL
家事代行サービスで働く鏑木(かぶらぎ) 慧(けい)はある日、高級マンションの一室に仕事に向かった。だが、住人の男性は入る事すら拒否し、何故かなかなか中に入れてくれない。
何度かの押し問答の後、なんとか慧は中に入れてもらえる事になった。だが、男性からは冷たくオレの部屋には入るなと言われてしまう。
仕方ないと気にせず仕事をし、気が重いまま次の日も訪れると、昨日とは打って変わって男性、秋水(しゅうすい) 龍士郎(りゅうしろう)は慧の料理を褒めた。
思ったより悪い人ではないのかもと慧が思った時、彼がdom、支配する側の人間だという事に気づいてしまう。subである慧は彼と一定の距離を置こうとするがーー。
みたいな、ゆるいdom/subユニバース。ふんわり過ぎてdom/subユニバースにする必要あったのかとか疑問に思ってはいけない。
※完結しました!ありがとうございました!
やっと退場できるはずだったβの悪役令息。ワンナイトしたらΩになりました。
毒島醜女
BL
目が覚めると、妻であるヒロインを虐げた挙句に彼女の運命の番である皇帝に断罪される最低最低なモラハラDV常習犯の悪役夫、イライ・ロザリンドに転生した。
そんな最期は絶対に避けたいイライはヒーローとヒロインの仲を結ばせつつ、ヒロインと円満に別れる為に策を練った。
彼の努力は実り、主人公たちは結ばれ、イライはお役御免となった。
「これでやっと安心して退場できる」
これまでの自分の努力を労うように酒場で飲んでいたイライは、いい薫りを漂わせる男と意気投合し、彼と一夜を共にしてしまう。
目が覚めると罪悪感に襲われ、すぐさま宿を去っていく。
「これじゃあ原作のイライと変わらないじゃん!」
その後体調不良を訴え、医師に診てもらうととんでもない事を言われたのだった。
「あなた……Ωになっていますよ」
「へ?」
そしてワンナイトをした男がまさかの国の英雄で、まさかまさか求愛し公開プロポーズまでして来て――
オメガバースの世界で運命に導かれる、強引な俺様α×頑張り屋な元悪役令息の元βのΩのラブストーリー。
俺がこんなにモテるのはおかしいだろ!? 〜魔法と弟を愛でたいだけなのに、なぜそんなに執着してくるんだ!!!〜
小屋瀬
BL
「兄さんは僕に守られてればいい。ずっと、僕の側にいたらいい。」
魔法高等学校入学式。自覚ありのブラコン、レイ−クレシスは、今日入学してくる大好きな弟との再会に心を踊らせていた。“これからは毎日弟を愛でながら、大好きな魔法制作に明け暮れる日々を過ごせる”そう思っていたレイに待ち受けていたのは、波乱万丈な毎日で―――
義弟からの激しい束縛、王子からの謎の執着、親友からの重い愛⋯俺はただ、普通に過ごしたいだけなのにーーー!!!
イケメン後輩のスマホを拾ったらロック画が俺でした
天埜鳩愛
BL
☆本編番外編 完結済✨ 感想嬉しいです!
元バスケ部の俺が拾ったスマホのロック画は、ユニフォーム姿の“俺”。
持ち主は、顔面国宝の一年生。
なんで俺の写真? なんでロック画?
問い詰める間もなく「この人が最優先なんで」って宣言されて、女子の悲鳴の中、肩を掴まれて連行された。……俺、ただスマホ届けに来ただけなんだけど。
頼られたら嫌とは言えない南澤燈真は高校二年生。クールなイケメン後輩、北門唯が置き忘れたスマホを手に取ってみると、ロック画が何故か中学時代の燈真だった! 北門はモテ男ゆえに女子からしつこくされ、燈真が助けることに。その日から学年を越え急激に仲良くなる二人。燈真は誰にも言えなかった悩みを北門にだけ打ち明けて……。一途なメロ後輩 × 絆され男前先輩の、救いすくわれ・持ちつ持たれつラブ!
☆ノベマ!の青春BLコンテスト最終選考作品に加筆&新エピソードを加えたアルファポリス版です。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる