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1章
7 この人は…
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* * *
目の前で倒れゆくその人を腕の中で受け止めて、顔をじっと覗き込む。顔色は生気がなく青白い。額に落ちた真っ黒な前髪をさらりと指先でよけると、閉じられた瞼の下には黒々としたクマが深く刻まれていた。身なりは庶民の中でも貧しい部類にはいるのではないだろうか。薄汚れており、ところどころほつれ着古されたもので、膝は薄くなって今にも穴が開きそうだ。
特段美しい顔をしているわけでもない。ただ眼前で倒れたので受け止めた。それ以外の他意はなかった。
はずなのだが──。
腕の中にすっぽりとおさまっているその人を見ると、何故か引き込まれる。
鴉の濡れ羽のような黒髪はところどころ痛んではいるもののさらりと柔らかい。閉じられて見えない瞼の下の瞳の色が何色なのか気になった。
この人に見上げられたい。
この人を守ってあげたい。
この人を誰にも見られないところに閉じ込めたい。
この人を自分のものにしたい。
凶暴な感情が突然湧き上がる。
そんな感情を抱くのは初めてのことだった。
常に立場がある人間として、理性的であれと周りから期待される自分はそうなるように自信を律してきた。
第二性であるdomに目覚めてからも、domの声質に振り回されるようなこともなく、激しい情動を抱いたこともなかった。
困惑しつつも、このままここに転がして置くわけにもいかない。その折れそうなほど細い身体を抱え上げ、自分が乗ってきた馬車に戻る。
「おかえりなさいませ」
御者に丁寧に礼をされながら声をかけられる。その脇を見やると、油を売っていた自分の護衛は暇そうに欠伸を噛み締めていた。自分で置いていったとはいえ、護衛騎士のくせにこの態度はふてぶてしすぎるだろう。
そんな視線で眺めると、御者がかけた声に気づいて、やっとこちらを向く。
「お、何を拾ってきた?」
全くもって気安い。
「目に前で倒れた」
「だからってお前、それは人だぞ。犬猫みたいに拾ってくるなよ」
「……置いておけない」
片眉をあげて近づいてくる。
「それで、連れて行くのか? 身元は? なんでわざわざ?」
質問が止まらない。
「subドロップしている」
「そんなの放っておけばいいだろ? もしくはその辺歩いてる警邏の騎士に預けりゃいいだけだ」
ニヤニヤしながら、そう言ってこちらと腕に抱える人を覗き込もうとする。
その視線から隠すように背を向けた。
「お前は早く馬に乗れ」
「へいへい」
これが主人に対する態度なのだから呆れる。それも仕方がない。従兄弟であり、幼馴染でもある護衛騎士兼側近は、自分にとっても相手にとっても家族より気をゆるした間柄なのだ。
だが、そんな相手すら無防備なこの人の顔を見せたくない。初めて会ったのに不思議だがそんな独占欲じみた気持ちが湧いて仕方がない。
一向に目を覚ます気配のないその人を抱きかかえ、馬車に乗り込む。御者へ「屋敷へ」と一言声をかけると、馬の小さないななきが聞こえ、馬車はゆっくりと走り出した。
石畳を馬車が行く小さな揺れにも、腕の中の人は目を覚さない。しばらくすると、車輪が踏みしめる音がじゃりじゃりと変わり、屋敷に着いたことを報せる。馬車を降りると、玄関の前で待っていた執事が「おかえりなさいませ」と出迎え、後ろに立つメイド達が一斉に頭を下げた。
執事は主人が腕に抱える人がいることに気づき、少しだけ眉をあげる。誰も気づかないほどの一瞬ですぐにいつもと同じ表情に戻り、後ろに控えたフットマンに何かを告げた。
それを気にせずに、メイドの開けた扉をくぐる。後ろから執事が「二階の客間を準備させております」と急な客人の来訪にもかかわらず、如才なく告げてくる
数人のメイドと執事を連れ立って、言われた部屋へと真っ直ぐに向かった。
部屋の前ではメイドがおり目正しく主人が客人を連れて来るのを待っている。常に整えられている邸内はいつ急な来訪があろうと、少しの準備で客を迎えられるようになっている。
客間に入ると客人が休めるようにか、昼間なのにもかかわらず、重いカーテンは閉じられていた。ベッドサイドのガラスシェードのランプだけが点けられていて部屋の中は薄暗い。
先回りしたメイドが上掛けを上げてくれたベッドに腕の中の人をそっと下ろした。
「下がっていい」
小さな声で告げると、執事についてきたメイドも含めて、部屋を出ていった。
「お前も出ていろよ」
入り口近くの壁にいた気心の知れた護衛騎士兼側近にも告げるが、腕を組んでこちらを見たまま、一向に出て行く気配がない。
振り向いて睨みつけると、ニヤッと笑って両手を降参のように上げたあと、ひらひらと振ってから部屋を出ていった。
目の前で倒れゆくその人を腕の中で受け止めて、顔をじっと覗き込む。顔色は生気がなく青白い。額に落ちた真っ黒な前髪をさらりと指先でよけると、閉じられた瞼の下には黒々としたクマが深く刻まれていた。身なりは庶民の中でも貧しい部類にはいるのではないだろうか。薄汚れており、ところどころほつれ着古されたもので、膝は薄くなって今にも穴が開きそうだ。
特段美しい顔をしているわけでもない。ただ眼前で倒れたので受け止めた。それ以外の他意はなかった。
はずなのだが──。
腕の中にすっぽりとおさまっているその人を見ると、何故か引き込まれる。
鴉の濡れ羽のような黒髪はところどころ痛んではいるもののさらりと柔らかい。閉じられて見えない瞼の下の瞳の色が何色なのか気になった。
この人に見上げられたい。
この人を守ってあげたい。
この人を誰にも見られないところに閉じ込めたい。
この人を自分のものにしたい。
凶暴な感情が突然湧き上がる。
そんな感情を抱くのは初めてのことだった。
常に立場がある人間として、理性的であれと周りから期待される自分はそうなるように自信を律してきた。
第二性であるdomに目覚めてからも、domの声質に振り回されるようなこともなく、激しい情動を抱いたこともなかった。
困惑しつつも、このままここに転がして置くわけにもいかない。その折れそうなほど細い身体を抱え上げ、自分が乗ってきた馬車に戻る。
「おかえりなさいませ」
御者に丁寧に礼をされながら声をかけられる。その脇を見やると、油を売っていた自分の護衛は暇そうに欠伸を噛み締めていた。自分で置いていったとはいえ、護衛騎士のくせにこの態度はふてぶてしすぎるだろう。
そんな視線で眺めると、御者がかけた声に気づいて、やっとこちらを向く。
「お、何を拾ってきた?」
全くもって気安い。
「目に前で倒れた」
「だからってお前、それは人だぞ。犬猫みたいに拾ってくるなよ」
「……置いておけない」
片眉をあげて近づいてくる。
「それで、連れて行くのか? 身元は? なんでわざわざ?」
質問が止まらない。
「subドロップしている」
「そんなの放っておけばいいだろ? もしくはその辺歩いてる警邏の騎士に預けりゃいいだけだ」
ニヤニヤしながら、そう言ってこちらと腕に抱える人を覗き込もうとする。
その視線から隠すように背を向けた。
「お前は早く馬に乗れ」
「へいへい」
これが主人に対する態度なのだから呆れる。それも仕方がない。従兄弟であり、幼馴染でもある護衛騎士兼側近は、自分にとっても相手にとっても家族より気をゆるした間柄なのだ。
だが、そんな相手すら無防備なこの人の顔を見せたくない。初めて会ったのに不思議だがそんな独占欲じみた気持ちが湧いて仕方がない。
一向に目を覚ます気配のないその人を抱きかかえ、馬車に乗り込む。御者へ「屋敷へ」と一言声をかけると、馬の小さないななきが聞こえ、馬車はゆっくりと走り出した。
石畳を馬車が行く小さな揺れにも、腕の中の人は目を覚さない。しばらくすると、車輪が踏みしめる音がじゃりじゃりと変わり、屋敷に着いたことを報せる。馬車を降りると、玄関の前で待っていた執事が「おかえりなさいませ」と出迎え、後ろに立つメイド達が一斉に頭を下げた。
執事は主人が腕に抱える人がいることに気づき、少しだけ眉をあげる。誰も気づかないほどの一瞬ですぐにいつもと同じ表情に戻り、後ろに控えたフットマンに何かを告げた。
それを気にせずに、メイドの開けた扉をくぐる。後ろから執事が「二階の客間を準備させております」と急な客人の来訪にもかかわらず、如才なく告げてくる
数人のメイドと執事を連れ立って、言われた部屋へと真っ直ぐに向かった。
部屋の前ではメイドがおり目正しく主人が客人を連れて来るのを待っている。常に整えられている邸内はいつ急な来訪があろうと、少しの準備で客を迎えられるようになっている。
客間に入ると客人が休めるようにか、昼間なのにもかかわらず、重いカーテンは閉じられていた。ベッドサイドのガラスシェードのランプだけが点けられていて部屋の中は薄暗い。
先回りしたメイドが上掛けを上げてくれたベッドに腕の中の人をそっと下ろした。
「下がっていい」
小さな声で告げると、執事についてきたメイドも含めて、部屋を出ていった。
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入り口近くの壁にいた気心の知れた護衛騎士兼側近にも告げるが、腕を組んでこちらを見たまま、一向に出て行く気配がない。
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