底知れぬ深い沼の底

春山ひろ

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底に知れぬ深い沼の底 番外編10

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 俺には、得意のモノマネがある。
 それが、今まさに発動した。

 キューン、キュルキュルキュル。

「隆一さん、俺の中のティラノサウルスが、Tレックスが、もう限界だって言ってる!」

 隆一さんは、綺麗な切れ長の目を、これ以上は大きく出来ないところまで大きくして、その後、爆笑した。
 ソファの上で体をよじって笑う彼は、こんな爆笑シーンでもかっこいいんだと思ったけど、今は色欲よりも食欲だ!

「なんで、Tレックスなんだ?」
 彼が、笑い過ぎて出てきた涙を拭きながら俺にしがみついてきたけど、食欲に支配された俺は、無常にもそれを振り払い、せっかく解凍していたのに、また冷たくなったチキンカレーの鍋に突進した。

 気が急いた俺は、早々に皿に白米をてんこ盛りし、冷蔵庫からサラダを出してキッチンのテーブルにおくと、続いてスプーンに箸、冷やしたビールの用意まで、流れるように作業する。

 そして、やれやれと腰に手をやり、ビシッと隆一さんを指すと、「俺の腹の虫の音は、正確には発情したTレックスが、番を求めて鳴く声にそっくりなんだよ。まあ、これはあくまでも主観で、俺の意志とは無関係に発生するものではあるけれども、俺は、間違いなくTレックスだと思っている」と、どうだ、すごいだろうとばかりに、どや顔で解説したあと、ハッとした。

 隆一さんが隆一さんではなく、水崎さんがいうところの「魔王」顔になっていたからだ。
「へえ、発情したTレックスが番を求めているって?」
 そういうと魔王がネクタイを緩め、ジャケットを脱ぎ、ベストのボタンを外しながら、こっちに近づいて来た!
 まずい!
 せっかく食事にありつけそうなのに、このままだと俺が食事にされてしまう。それはそれでいいんだけど、いやいや、今は良くない!とにかく、とにかく腹が減っているんだ!

 俺は下手に出て、まずは「お願い作戦」を決行した。隆一さんには、これが一番効くんだ。
「もう夕飯にしよう!腹が減ってペコペコなんだ!お願い!お願い!」
 すると、魔王が「しょうがないな~。この見返りの御礼が、人間ゴシゴシ・モフモフタオルなら、聞いてしんぜよう」と、若干であるが、人間界の顔になって答えた。
 ここで不満顔をさらせば、すぐさま俺が食われるのは自明の理なので、引き気味ではあるが、しぶしぶ承知した。

「じゃ、俺は風呂を温めてくるから」
 スキップするような上機嫌で魔王が風呂場に向かった。
 人間ゴシゴシ・モフモフタオルか…。あれやると、最初は確かに俺が泡だらけになるけど、途中から体液まじりになって、ベロベロ・ベトベト・ヌルヌルになるんだよな~とか、立ったままの姿勢が長いし、足を中国雑技団並みに挙げたり、広げたり、果ては抱えあげられての挿入コースだと、腰にくるな~とか、とても人に言えないことを考えていると、魔王が戻ってきた。
 
 「さあ、樹、食べようか」と、ワイシャツ1枚になり、袖をまくり上げて、男の色気をダダ漏れにして魔王がいった。
 ここがキッチンで、コンロにはチキンカレー、ほのかに漂うスパイシーな香りというシチュエーションには、甚だ多いに不必要な色気だった。

 俺は、既に煮込んで人間の食材になった鶏と、うちのが、色気にあたらないように願うしかない、と思った。

 そして、その後、長くてしつこい、絶倫魔王の餌食になった俺は、飛びそうな意識をなんとか保って、ベッドにへたり込み、喜々として俺の体をきれいに拭い、ご奉仕してくれる隆一さんを横目に、佐竹が落ちた深い沼の底は、どんな景色だったのだろうと思いながら、眠りについたのだ。



 翌日、「海野先生~、座り方が変です~」という、水崎さんのあからさまな好奇心丸出しの視線に耐えながら、彼女が持ってきた書類に目を通した。
 それは、有馬さんの件で、地裁から届いた判決期日が記載された書類だった。

 
 そして期日の日―。
 予想通り、地裁は有馬さんの主張を全て認めた判決を言い渡した。
 被告席は空席のままだ。

 判決文を携え、事務所に戻った俺は、それを水崎さんに伝えた。
 佐竹が賠償金を支払う場合、まず有馬さんの代理人である俺の預り金口座に振り込むことになるので、そのための書面を作成して、佐竹に郵送する必要がある。
 俺は、水崎さんが作成してくれた書面を確認し、1枚の付箋を付け、一言だけ書いた。


「グループ展に出品した作品は、上下が逆さまではないですか?」


 ただそれだけ。


 ようちゃんの事件に関しての俺の推理は、全て推測だ。
 何一つ、証拠はない。
 だから、佐竹に何かを認めさせようなどと思ったわけではない。

 ただ、深い沼の底で、一人、もがき苦しむのは、辛いだろうと思ったのだ。


 それが思いがけない展開になるとは、この時は想像してなかった。

 1ヶ月後――。

 水崎さんが、血相を変え、ノックもしないで部屋にきた。

「海野先生!三鷹警察署から電話です!佐竹洋一が、『弟を殺した』といって、自首してきたそうです!でも、弁護士が来るまで、一言も話さないって。海野先生を呼んでくれって言ってるそうです!」
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