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底に知れぬ深い沼の底 番外編11
しおりを挟むこんな樹の名を知っている?その葉は散るまで青いのだ。葉の裏だけがじりじり枯れて虫に食われているのだが、それをこっそりかくして置いて、散るまで青いふりをする。あの樹の名さえ判ったらねえ。 (太宰治「葉」より)
夕暮れ時に俺は三鷹警察署を出た。
もうすぐ三月とはいえ、まだまだ肌寒い。
目の前の道路脇にメタリックシルバーの車が停まっており、運転席から見知った顔が出てきた。
水野先生の目には労いの色があり、俺は少し元気になった。
先生は、後部座席のドアを開けながら、「間違っても助手席には乗せるなというのが、魔王の厳命なので」と言った。
「わざわざすみません」
「いや、俺から迎えに行くといったんだ」
そういって颯爽とハンドルを取る。
窓の外の流れる景色は、俺の目には映らなかった。
「若い…」
署で接見した佐竹洋一は、俺を見て最初にそうつぶやいた。
「こんな若輩の弁護士で」
「そういう意味じゃありません」
灰色の壁と床。羽目殺しの高い窓。その景色に同化するように座る佐竹は、もはや話せないフリはしなかった。
短髪で筋肉質な体は、画家というより肉体労働者のようだったが、反面、神経質そうな面差しから、暗い闇を抱えている様子は見て取れた。
「どうでした?」
ふいに水野先生に話しかけられ、俺は現実に引き戻された。
「…全部、自白しましたよ」
そう、佐竹は全て自白した。
それは淡々と続く独白だった。俺は一言も口を挟まず、聞き続けた。
「死のうと思ったんです。…そしたら祥子が、…有馬さんが俺を訴えたことを知った。…それが終わるまでは生きていようと思った。…先生が、あの絵に気づいてくれて…。それで全て話そうと思った」
そう佐竹は言っていた。
水野先生は、それ以上、聞こうとはしなかった。
もうすぐ日本橋というところで隆一さんからメールがきた。
ふっと笑みをこぼした俺を、バックミラーで目ざとく確認した水野先生は、「大丈夫そうだね」と言った。
「俺、そんなに弱くないです。ヤワだったら弁護士なんてやってらんない」
そんなやり取りをしているうちに事務所前に着き、水野先生と別れると、俺はそのまま自宅へ戻った。
鍵を出す前に、まるで見計らったように玄関が開き、いつでもどんな時でも一番会いたくて、一番安心する顔が出迎えてくれた。
「おかえり」
「ただいま」
既に着替えていた隆一さんは、俺を緊張から解くべく、両腕を広げて抱きしめる。
シャツ一枚から伝わる温もりがうれしかった。俺を心配してくれる心遣いがうれしかった。愛されているのが分かるのがうれしかった。
「今夜は満月だ」
そういうと、隆一さんは俺の手を取り、ベランダに連れて行った。窓から眺める月はまんまるで、「夕食の前に、ここで座ってお月見がしたい」と俺がいえば、「着替えておいで」と彼が答えた。
ベランダに二人で並んで座った。外は冷え込んでいたが、厚手のブランケットに包まれた俺と隆一さんは、そのままヒマラヤ登山でもできそうなほどぬくぬくだ。
明日から忙しくなる。
俺は刑事事件の被告人の弁護は初めてだから、「いろいろご教授、お願いします」と、ペコっとボス弁に頭を下げた。
彼は少し上司の顔を見せたあと、満月を見上げた。
月明りに照らされた彼の横顔は、それは美しくて威厳があった。
そこにうちの猫がやってきて、俺の足の間から顔を覗かせ、吸い込まれそうなほどの瞳で俺を見た。
そっと猫を抱き上げて膝に乗せる。
「ちゃんと御礼をいってなかったな。ずっと前、カチカチ山に捕まりそうだった時、おまえが助けてくれたんだろう?ありがとう。あれ、どうやったんだ?家の椅子に座ったままで、念でも飛ばしたのか」
俺が猫に話しかけると、「浮気は許さないぞ」と、隣の魔王が冷気を醸し出してきた。俺は吹き出し、二人と一匹、肩寄せ合って笑い合う。
誰にだって秘密はある。人に見せたくない闇を抱えている。
「ねえ、この間、秘密の話をした時、うまくはぐらかされたけど、隆一さんの秘密って何?」
「…秘密にも、話して差し支えない秘密と、そうじゃないのがあるからな」
「何それ」
「ランクがあるんだよ。そうだな、松竹梅だな」
「だったら、まずは梅クラスの秘密は?」
「…うちには地下室があるって知ってたか?」
「ほんとに?もしかして拷問部屋?」
「樹…。お前の俺に対する認識については、ほんとに、とことん話し合った方がいいな」
「冗談だよ。でも、あれがあるんでしょ、大きな魔法陣!蝋燭があって怪しげな祭壇があるヤツだよ。そこで隆一さんが呪文を唱えると、次々に使い魔が現れるんだ!」
俺の興奮とは裏腹に、この上なく冷静な声で、至極真面目に彼が答えた。
「残念だが、そういったものは、一切ない。…隕石落下や大地震が起きた時、二人と一匹が生き残れるように、色々と備蓄してある。地下室で1カ月以上は生存可能だな」
「すごいね!じゃ、竹クラスの秘密は?」
「今夜は、やたら食いついてくるな」
そういうと、隆一さんは、また満月を見上げた。
そして、そっと言ったんだ。
まるで、呪文のように。
「…愚民アパート」
「愚民アパート?何それ?」
「大学時代に住んでたアパート。ほんとは富士見荘という名前だったが、先輩方が愚民アパートってつけたんだ。大家さんが『せっかくT大に入れたのに生活費を稼ぐためにアルバイトに時間を費やし、勉強できないなんてもったいない。家賃を抑えるから、バイトなんかせずにしっかり勉強して社会に貢献できる人になりなさい』という考えなんだ。だから、2DK・風呂・トイレ付で家賃2万円。通学は徒歩15分という、この上なく理想的な住まいだった」
「2万円?ヤス!」
「そうだろう。まあ、アパートの外見は、ザ・昭和ともいうべき趣だったけどな。外階段の安普請。
入居するには大家さんの面談があって、それに合格しないと入れない。学年はバラバラだったが、全員T大の男子学生で、これまた全員法学部だった。俺は101号室で、隣の102号が『懲役うたれたあんちゃん』だ」
「え、服役してたってこと?」
「してないよ。ただやたらうるさいヤツで、はた迷惑な騒がしさだったから、あれはいつか迷惑防止条例にひっかかって懲役くらうだろうっていうことで、みんなそんなふうに呼んでたんだ。そして、201号が『ロシアの奥様』」
「ロシアのおくさまぁ?なんで?男子なんでしょ?」
「そうだよ。1学年上の先輩で、ロシアとのハーフなんだ。でも、どうみても外見は完璧なロシア人だった。そのうえに女装が趣味だから『ロシアの奥様』。その隣の202号は『オッズの魔法使い』」
「…意味が分かりません」
「『オズの魔法使い』っていう映画があったろ。そこからつけた。とにかく競馬を当てるんだ。それで食えるんじゃないかってくらいの的中率だった。だから『オッズの魔法使い』」
「すっごいセンス!」
「愚民アパートの中では、一番真面目だったな、ドロシーは」
俺と猫は、腹を抱えて笑った。
「…203号は『大海人皇子』」
「今度こそ、ほんとに意味が分かりません」
「大化の改新の中大兄皇子の弟で、のちの天武天皇だ」
「それは分かるけど。なんで天皇が愚民アパートの住民なんだ?」
「なんとなく雰囲気が尊大だからだろう」
「ねえ、…もしかして中大兄皇子(※のちの天智天皇)も、いたってこと?」
「さすが、樹だな。そうだよ、俺だよ。よく、天智って呼ばれてた」
「ちょっとまって、もしかして大海人皇子って、…水野先生?」
「冴えてるな」
「それ、誰がつけたの?」
「俺と水野が入居した翌日には、『ロシアの奥様』が呼んでたな」
「天皇の名前がアダナっていうのが、すごっちゃ、すごい」
「『おい、天智』、『なんだ、天武』って呼び合ってた」
隆一さんは、それは嬉々とした声色だった。
俺は、まじまじと彼を見た。
「楽しかったんだね」
「そうだな、楽しかった。…酒飲んで麻雀やって、死ぬほど勉強して。…崩れたら圧死するんじゃないかってくらいの本を読んだ。…なんていうか、…まさに青い春だな。しかし、戻りたいとは、これっぽっちも思わないけどな」
「そうなの?」
「ああ。だって樹がいないだろう?」
迷いなくそう答えた隆一さんのまっすぐな視線を受けて、俺は照れと嬉しさで、「へへっ」といって下を向いた。恥ずかしさを隠すつもりで、「みんな、どうしてるんだろうね。元気だといいね」というと、「情緒的な雰囲気になっているところを悪いが、ヤツらが、今どこで何をしているのかというのは、完璧に把握している」と、隆一さんは事もなげに断言したんだ。
俺は面食らって「そうなの?」と、素っ頓狂な声を出す。
「いったろう、全員が法学部だって」
「もしかして、全員、弁護士?」
「そうではないが。『懲役うたれたあんちゃん』は、樹も知ってる」
「え??誰?」
「よくテレビに出てる、白川大介弁護士」
「白川先生??マジ?」
「学生時代から目立ちたがり屋だったしな。しかし、あれだけテレビに出ていると」
「弁護士の仕事はあんまりやってないよね」
一度、隆一さんにもテレビ出演のオファーがきたけど、バッサリ断っていた。実際、本業で忙しいと、テレビに出るなんて厳しいんだ。まさか「法曹界の王子様」と呼ばれている白川先生が、学生時代は「懲役うたれたあんちゃん」などと呼ばれていたとは!
「しかし、三十半ばで『王子様』はないだろう」
「そうだよね」
「『ロシアの奥様』は、鈴木健一先生」
「びっくりするくらい、普通の日本人の名前だね」
「だろ。ニコライとか、なんたらビッチという名前がしっくりくるけどな。鈴木先生は、商法の神様と呼ばれた菊池先生の事務所に入ったんだ。今は独立して、相当、稼いでいるらしい」
菊池先生は、松井先生と並んで法曹界の重鎮だ。その事務所に入れるということは、鈴木先生が優秀だと分かる。
「天武天皇は水野先生だから、『オッズの魔法使い』は?」
「ドロシーこと、津村誠先生。いっちばん真面目なヤツだったが、ある広域指定暴力団の顧問弁護士やってる」
「マジで?」
「マジだ。人生は不思議だな。何がどうなるのか、わからん」
「ほんとだね…」
俺は、指折り数えてつぶやいた。
「101が隆一さんで、102が『懲役うたれたあんちゃん』で、201は『ロシアの奥様』、202が『オッズの魔法使い』、203が水野先生…。103号室は?」
隆一さんは、おれをじっと見たあと、目を逸らした。
「そんなに親しいヤツじゃなかった。…どこに勤めたのかは知ってる…」
俺は何も答えず、続きを待った。
「…ハム…」
「ハム?あ、公安?」
「そう。警察庁にキャリアで入庁して、公安に行った。おそらく外事警察。…そこまでは知っている。外事は国際テロ専門で、家族にさえ職業を隠すからな…」
俺は、ギュっと隆一さんに抱き着いた。
「怖いね…」
「そうだな」
それっきり、彼は話さなかった。
これが隆一さんの秘密なんだ。
―知っていながらその告白を強いる。なんといういんけんな刑罰であろう。―
(太宰治「葉」より)
ごめんなさい、ごめんなさい、隆一さん。もうこれ以上は聞かないよ。
広島の叔父が死んでから数年経って、隆一さんと知り合った。
大学入学を機に、俺は彼のマンションに入り浸り、ほとんど同棲していたような時期だった。
祖母の具合がよくないと、両親のもとにもう一人の叔父から連絡がきた。
祖母が俺に会いたがっているといった。
会いに行くと、祖母は叔父の遺品の中から写真だけを集めて、俺に渡した。
樹に持っててもらうのが、一番、いいと思うの。
祖母が言った。
自殺した叔父の遺品は、蔵書を含め、ほとんど祖母が引き取っていた。
その中に一枚だけあった、彼の写真。若かりし頃の叔父と隆一さん、それから外人のような顔立ちの人が写っていた。
隆一さん、俺は知ってるよ。あなたが叔父の後輩だったこと。
「こんな樹の名を知っている?その葉は散るまで青いのだ。葉の裏だけがじりじり枯れて虫に食われているのだが、それをこっそりかくして置いて、散るまで青いふりをする。あの樹の名さえ判ったらねえ。 (太宰治「葉」より)」
その樹の名前は知ってるよ。
その樹は、樹というんだ。
葉の裏だけがじりじり枯れて虫に食われても、それを隠して、散るまで青いふりをする。
その樹の名前は、樹だよ。
俺にも秘密がある。
あなたのことになると、俺は嫉妬深くて嫌なヤツ。
大好きだった叔父さえも、嫉妬の対象になる醜い人間だ。
その心が、裏でじりじりと俺を食んだとしても、散るまで青いふりをする。
ねえ、隆一さん。
散るまで青いふりを通したら、もうそれはふりじゃない。
そう思わない?
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