底知れぬ深い沼の底

春山ひろ

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番外編 果てしなく遠い空の彼方①

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 ※大手弁護士事務所を退職して独立した弁護士・水野 たくみと、その事務所のリーガルアシスタント・白川龍之介のお話。水野先生が主人公です。水野が独立してそんなに日が立っていない頃の話です。




 ここ最近の俺は、自分でもびっくりするくらい上機嫌だ。

 そんな上機嫌なまま、俺は自分の事務所のあるビルに入った。
 かつての職場、港区の法律事務所に比べたら、多少は見劣りするが、ここが俺の新しい個人事務所だ。
 何よりも、ドアを開ければ「お疲れ様です!」という、温かい声でねぎらってくれる、アシスタントの白川龍之介がいる。それだけで、俺にとっては紛れもなく、ここが「城」だ。
 
 龍之介は、前事務所でも同僚だった。
それが突然、退職するといったので、次の職場は決まっているのかと聞けば、とても悲し気に首をふった。
 もともと、柏木が独立するのと同じころに俺も独立を考えていたが、柏木の方が先に松井先生ボスに退職を申し出ていたらしく、その後、俺が言ったら松井先生から「いきなり二人も辞めるのは勘弁してくれ」と泣きつかれ、しぶしぶ残っていたという経緯があった。
 だから、龍之介が退職する情報を事前に得た俺は、そこに便乗して辞めることにした。そうすれば、龍之介は俺の事務所に勤められるし、俺は独立と同時にアシスタントを確保できるしで、万々歳だ。

 龍之介は、退職理由を言わない。
 前の事務所は、日本でも指折りの法律事務所だったので、待遇もよく、早々、退職者は出ない。その厚待遇の職場を辞めるというのだから、よっぽどのことがあったはずだ。

 
 俺は、ずっと龍之介に恋をしている。

 彼に引かれたきっかけは、龍之介が「実家から送ってきたから」と、事務所にたくさんの蜜柑みかんを持ってきた時だ。
 小粒の蜜柑は、相当な量だったはずだが、同僚に分けると、あっという間になくなって、結局、龍之介の分は手元に残らなかった。蜜柑をたくさん持って満員電車に乗るのは大変だったろう。遠慮がちな彼は、きっと恐縮して、何度も周囲に「すみません、すみません」と、言いながら出勤してきたはずだ。それなのに、結局、自分の分まで人に分けてしまった。
 俺が、机に置かれた蜜柑を龍之介に渡すべく近づいたら、彼は「自分はいつでも食べれるから」と、照れくさそうに笑って言った。


 その時、俺は恋に落ちた。…と思う。


 もっと器用なら、宅配便で送るとか思いつくはずだが、俺は不器用な龍之介がいい。自分でいうのもなんだが、俺はなんでも器用にこなせるから、こういう世間慣れしていない龍之介に惹かれたんだ。

 それから事務所でPCに向かっている時、ふと目を上げると、彼の姿を追っていた。

 穏やかでまじめに仕事していた龍之介の身に、何が起きて辞めようと思ったのか。
 松井先生ボスのせいで、いつも俺は多くの案件を抱え忙殺されていたから、龍之介を守れなかったことが悔しくて、どうしても真相が知りたかった。


「これ、お土産」
 そういって龍之介に、たい焼きを渡す。
 彼は嬉しそうに「駅前で買ってきてくれたんですか?ありがとうございます。今、お茶入れます」といって、白地の茶碗に緑茶を入れてくれた。


「うちの茶碗は、みんな白地だな」
「母が、緑茶は白地の茶碗で飲むのが好きなんです。緑がきれいに見えると言って。あ、他の色の茶碗が良かったですか?」
「いや、これでいい。これがいい」
「よかった!」
 そういって、はにかみ笑いをする彼が愛おしい。


 俺は、前から気になっていたことを口にした。
「『龍之介』というのは、芥川龍之介からとった?」
「あ、はい、そうです。父がつけたんです。父は文学部で、若いころは小説家になりたかったみたいで。でも、農家を継がなければならないし、才能もなかったから諦めたって」
「…だからか。よく言ってたろ、『雲がきれい』って」


 港区の事務所は高層階だった。都内を一望できるほどの景観で、龍之介は仕事の合間に窓から見える雲を「きれい」と言っていた。


「そんなの、聞いていたんですか?」
「聞こえるんだよ。龍之介の声を拾うことに関しては、俺の耳は野生動物並みだ。超音波でも分かる。試しに出しみて、超音波。絶対、拾うぞ」
「なんですか、それ。出せませんって」
「そうか、出せないのか。残念だな」
 そういうと、龍之介は、はにかみ笑いをした。

 俺は、彼から目をそらさずに続けた。
「……芥川は、子供のころ、先生に美しいと思うものを上げなさいと言われて、『雲』と答えたんだろ」
「よく知ってますね。…でも、その時、先生や同級生から笑われたって」
「芥川の鋭い感性が分からなかったんだろうな」
「…自分が、その逸話を知ったのは、だいぶ後でした。その前から『雲はきれいだ』って思ってて。でも、俺の場合は…。俺、不器用で、とろいから、すぐ下を向いちゃうんです。だから、自分で意識して、前を向いて、上を向いてって、言い聞かせているところがあって。そうすると、目に入るのは、はるか先の空で、…雲があった。それで、よく雲を見てるっていう。…だから自分の場合は、鋭い感性とかじゃないんです」
「そういう姿勢でも、『雲はきれい』と思ったのが、龍之介の感性だろ」
「…そっか、そうなのかな。…水野先生はすごいですね。人のいいところを見つける天才?」
「それ、柏木に言ったら、爆笑されるぞ」
「柏木って、柏木先生?」
「そう!俺とヤツは似てるから。皮肉屋なところがそっくりなんだ」


 柏木をネタに龍之介を笑わせて、俺は核心に触れることにした。


「どうして、前の事務所、辞めようと思ったんだ」
 龍之介は、そのまま俯いてしまった。

 俺は、俯く龍之介の顔を下からのぞき込むようにして、「龍之介には、ずっと仕事してもらいたい。さらに定年後は嘱託しょくたくで。つまりだな、一生、俺は」といって自分を指し、次に龍之介を指して「おまえと、ずっと一緒に仕事したいんだ」

 龍之介が顔をあげ、目を丸くしながら「定年?嘱託?」といったので、俺はすかさず「もう作ってあるんだ、二人のライフプランチャート。見るか?」
「え、え?」


 俺はビジネスバックから、俺たちのライフプランチャートを取り出して広げた。
「まあ、俺は、自分でいうのもなんだが、ブル弁(※ブルジョワ弁護士)だったから資金は貯蓄した。しかし、あと3年は、この事務所を拠点にして、さらに資金を貯めたい。その間に、イソ弁(※居候弁護士)を増やして、龍之介の負担を減らすためにアシスタントも雇う。
 その後は、港区あたりに土地を購入して事務所兼自宅を建てるんだ。それまでは、この事務所でがんばる。
 この事務所は、結構、掘り出し物件だったんだ。
 まず、駅から近い上に、龍之介のアパートにも近い。歩いて通勤できただろ?
 それに、パーテーションで個室が作れるから、人を増やしても対応できる設計が気に入った。
 ほんとは、龍之介には独立と同時に俺と同居して欲しかったけど、倹約家の龍之介は、今のアパートの更新までは、もったいなから転居しないっていうだろうと思った。アパートの更新は7月だったよな?もう更新しないって、不動産屋に伝えてもいいじゃないか?」


 龍之介は、大きな目を、さらに大きく見開いて、俺をガン見した。


 かわいいな。そんなに見られたら、何をするかわからないぞ。

「え、あ、あの、あの、それって」
「かなり最速でかっ飛ばして話したけど、一番、重要で肝心なことは、俺は龍之介のことが好きだってことなんだ」
「え、え、ええー!」


 驚きながら龍之介は、無意識にスラックスのポケットに手を入れた。
 きっと、スマホを握りしめてる。


 知っているよ。


 龍之介のスマホの待ち受けが、俺の写真だってこと。3年前の社員旅行で、みんなで撮った集合写真。その中の俺の顔写真をトリミングして使ってるってこと。


「龍之介は、俺と一緒に生きてくれない?それは嫌か?」
「ち、違う。そうじゃなくて」

 かわいいな。早く頷かないと、その前にキスするぞ。

「あ、俺、俺も」


 そういうのが精一杯の龍之介は、あとはポロっと涙を落とした。

 俺は笑顔のまま、龍之介を抱きしめ、そのままキスをしたんだ。

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