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番外編 果てしなく遠い空の彼方②
しおりを挟むやっぱりこのソファを選んで正解だったな。
少し高かったが、二人で座るには申し分のないクッション性を発揮し、これは事務所で龍之介といたさないように注意しなければならないだろう。
俺は、龍之介の頭のてっぺんに顎をつけ、後ろから抱きしめ「で、辞めるきっかけはなんだったんだ?」と、今日のもう一つの目的を達成すべく行動に出た。
「…あの、言わなければだめですか?」
「うん、言って。それはね、おれはたぶん、誰かが原因だと思ってる。前の事務所もそうだったけど、ここでも、龍之介には地裁に行ってもらうことがあるだろう。そうすると、偶然、前の事務所の人間と、バッタリ出くわすことがあるかもしれない。もし、その誰かと龍之介が出会ってしまって、何か言われて、おまえが傷つくのが嫌なんだ」
しばらく俯いていた龍之介が、ポツリといった。
「…川端先生」
やっぱりな。俺のカンが当たった。
もし、いじめが原因なら、その相手は川端だと思った。
川端恵子は、海外ドラマを見過ぎて弁護士像を勘違いした、イタイ女性弁護士というのが、俺と柏木の一致した意見だ。
いつもピンヒールで音を立てて歩き、金満丸出しのセンスのないスーツの上に、化粧が濃い。
これで仕事ができるのなら、まあ、半径50m以内に来ても我慢するが、いかんせん仕事も出来ない(よって半径100m以内には入れたくない)。
そんな、無能・川端を、松井先生に泣きつかれ、俺と柏木でどれだけフォローしたか!
龍之介が、ポツリポツリと話し始めた。
「…水野先生や柏木先生、それから他の先生方も、書類のコピーを依頼される時は、必ず付箋をつけて『ここからここまで』って、教えてくれます。
…でも、川端先生の場合は、ただ書類を渡されて、口頭で指示されるだけなんです。
もちろん、急いでメモしました。…それでも間違えたらまずいから、確認しようとしたら『何、聞いてるの!』って、怒鳴られて。
そんな感じだったから、やっぱり間違えてコピーしてしまったらしく、その状態で川端先生は書証として提出してしまったんです。
結局、ミスが分かり、今度は『私に恥をかかせた』って、すごい剣幕で怒鳴られた」
「そんなの提出する前に、弁護士が確認するだろ!」
俺は自分でもビックリするほど大声を上げた。龍之介のかわいいおめめが、これでもかと広がって下に落ちるほどだ。
まずは謝る。
「すまない、腹が立って。あとは何を言われた?」
「…川端先生は、書面を手書きで渡されることもあって。俺が入力したんですけど、明らかに『てにをは』がおかしいんです。
自分は、仕事の範囲を逸脱するつもりはないので、法解釈とか主張の部分は校正なんてしません。
でも、おかしいなと思った助詞のところを校正して先生に渡したんです。
黙っていたら、勝手に校正したと言われると思って『この部分の助詞を訂正しました』と言ったら、また怒りだして。『何様だと思ってるの!』って。
でも、あとで確認したら、川端先生は、俺が校正したままの状態で提出されていたんです。
…だぶん、それが川端先生のプライドを傷つけたのかもしれない。
それから、さらにきつく言われるようになって…。
それでも、津山さんと久嶋久嶋さんがいた時は良かったんです。いつも二人でかばってくれた。
ただ、津山さんたちが順番に産休に入ってからは、もう…」
津山と久嶋は有能なアシスタントで、龍之介の先輩だ。そうか、二人は龍之介をかばってくれたのか。
「津山と久嶋、中元・お歳暮・年賀状。津山と久嶋、中元・お歳暮・年賀状」
「な、なに、言っているんですか?」
どうやら、俺は無意識に声に出していたようだ。
「すまない。龍之介の味方は、俺も味方でもあるからな。津山たちに盆暮れ・正月の挨拶と贈り物をするのを忘れないために、心の備忘欄に刻み付けていたんだが、どうやら声に出していたらしい」
龍之介の目に涙が盛り上がった。
「どうした?」
「先生、水野先生…」
「巧だ。俺の名前は巧。水野先生じゃなくて、巧だよ」
「あ、あ、た、巧さんって、ほんとに俺のことが好きなんだ」
「そうだよ。本当に大好きなんだ。ちっこくて、細くって、真面目で丁寧な仕事をする、龍之介が大好きだ。で、返事は?」
「え、え、さっき、お、俺もって…」
「それは聞いたよ。俺が聞きたいのは、引っ越しは、いつするかってこと」
そういうと、俺はサクサクとスマホを操作した。
「引越シーズンになると大変だから、早めに業者は予約したほうがいい。というか、既に数社に見積もり依頼をかけてて、お一人様パックっていうだけど、龍之介は、そんなに荷物が多そうじゃないから、これでいけるだろ?」
龍之介は、泣きながら爆笑した。
それを見て、俺は彼が好きだと、また実感した。
※おまけ※
次回は、水野が龍之介の敵討ちをします。
●津山恵子:龍之介を可愛がっていたベテランアシスタント。2児の母。2度目の産休中に龍之介が退職してしまった。復帰してからは、アルカイックスマイルを崩さぬまま、事あるごとに「あ~忙しい。龍ちゃんがいたらな~」を口癖に、川端に圧をかけ続けた。
●久嶋京子:同じく龍之介を可愛がっていたアシスタント。1児の母。産休中に龍之介が退職。川端に対する津山の嫌味に、毎回「あんないい子、いなかったですよね~」と、相槌を打った。
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