上 下
68 / 1,121

暗夜の灯 1 〜語り手 レイシール〜

しおりを挟む
 飲み込まれた時のことは、説明しにくい。
 油の中に沈められてしまったような、妙な体の重さというか、自由の効かない感じになる。
 頭の中が砂で満たされてしまったみたいに、ザラザラとした雑音が鳴り止まず、その中に、誰かが誰かと囁き交わす声が、聞こえるようで聞こえない。
 たまにその雑音に埋もれた声が、棘のようになって突き刺さる。刃のようになって切り裂き、岩のようになって胸を潰す。
 他愛のないことが身の毛もよだつ様な恐ろしいことに思えて、恐怖に心臓を抉られる。
 自分が何故こんなことになってるのか、そのうち分からなくなって、ただよく分からないまま、体を締め付けてくる重いものに、苦しむしかできなくなる。

 ああ、楽になれたらいいのに。

 ただそうなれたらと思うだけで、何かをしようとは思えない。そんな気力すら湧かない。呼吸をすることを、忘れてしまえたらいいのにと、そんな風に、ぼんやりと思うのだ。
 最悪の時は、そこに悪夢が這い出してくる。
 楽になりたいままに、何度も死を繰り返す。死んだはずなのに、また繰り返す。要らないはずなのに、また戻される。実際自分は今どうなっているのか、それが分からなくなる。
 ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、要らないことを刻み込まれ、なのに居なくなることも出来ない。そしてその合間合間に、同じ風景が挟まれる。
 多分これが現実のはずの、部屋の片隅。もしくは寝台。最後に動けなくなった場所だ。

 だから、今回はマシ……大丈夫だ。夢は這い出して来ないはずだから。
 働くことを放棄しそうな、砂を詰め込まれたような頭をなんとか動かして、俺は寝台の中で浅い眠りを繰り返す。できるだけ起きてはいけない。起きると幻聴が、俺を取り巻いて、眠ることを邪魔するようになるし、刺さってくる恐怖が、棘から刃に育っていく。
 いらないことを考え、そのせいで育った恐怖が、俺を雁字搦めにしていく。
 これ以上崩れてはいけない。雨季が来るのだから。
 役割を捨てるわけにはいかない。持ってはいけない俺が、唯一、持てるものだから。
 だから眠る。現実の延長のような、寝ている夢を見ているような状態を維持する。
 その中でたまに、刹那の夢を見る。
 波紋の広がる鏡の中で、誰かと手を繋ぐサヤだとか、俺の前にしゃがみ込んで、あけすけに笑うギルだとか、ハインと何か話をしながら、作業をこなすサヤだとか、腰の剣を引き抜き、首元に構えたハインだとか、膝を抱えてその上に頭を乗せているサヤだとか、黄金色の海原みたいに広がる麦畑だとか、俺を掻き抱いてるギルだとか、濡れて路地に転がるハインだとか、俺に手を引かれ、泉の中から飛び出した瞬間のサヤ。

 ハッと気が付くと、窓からの薄ぼんやりとした光が、俺の顔を照らしていた。
 朝……もう朝か……。
 上掛けはいつの間にか剥がれ、半分床に落ちていた。
 朝が来たなら、動かなきゃいけない。だってもう半日、時間を無駄に使ってしまった……。
 本当はその半日すら貴重なのに、それを無為に、転がって過ごしてしまった。
 不甲斐ない自分に胸がまた痛む。不甲斐ないと思うなら、動け。これ以上迷惑を掛けるな。
 寝台から這い出すと、身体はまだ油の皮膜を纏っているようで、動かしにくい……。疲労感が凄まじい。身体中の筋肉が酷使された後の様に、強張っているようだ。
 なんとか長椅子まで移動して、小机の上にあった水差しの水を、そのまま口にした。
 溢れたぶんが襟を濡らすけれど、気にしない。どうせ着替えなきゃならないのだ。
 袖で口元をぬぐい、しばらく長椅子にもたれ、気力を奮い起こしてから、今度は着替えの為に移動する。
 緩慢な動きで着ていた服をなんとか脱ぎ捨てて、衣装棚に手を突っ込む。とにかく一番端のものを一つずつ引っ張り出して、おぼつかない指で苦労して着込んだ。
 着替えの途中で、飾り紐が引っ掛かり、外れてしまった。サヤに結わえてもらった髪が、ゆるゆると解けていくので、解けきる前に、首の後ろを適当に括った。

 それだけのことをこなすのに、結構な時間を使ってしまった。
 薄ぼんやりとしていた窓からの光は、もうしっかりと俺の足元を照らしていて、目に刺さってくるように眩しく感じる。
 とりあえず、いかなきゃ……。やるべきことをやらなきゃ……。
 長靴を履くのが一番手こずった。足首に力を入れることが出来ず、同じく力の入らない手で、長靴を無理やり引っ張ってなんとか履いた。壁を手掛かりにして立ち上がり、歩き出せば、足は動いてくれた。ホッとする。そして俺は、部屋の外に向かった。

 相変わらず油の皮膜のようなものは纏わりついたままで、外に出ると、砂時計の砂が落ちるような幽かな雑音が、耳に張り付いていることに気付く。けどまあ、聞こえるし動けるなら、いいか。いいことにしよう。
 応接室に入るには、少し気力を振り絞る必要があった。
 扉を押し開けるだけで結構消耗し、顔に笑みを貼り付けるのにまた消耗し、それでもとりあえずは、何もなかったように振る舞う。そして味のしない朝食を少量だけ食んだ。

 なんとか場を取り繕っていたのだけれど、会話には難儀した。
 頭が働かず、言われたことの三割程が、すり抜けてしまう。
 理解できたことを繋ぎ合わせて、なんとか意味を汲み取って、言葉を紡ぎ、その所為で無駄に気力も体力も消費してしまった。
 実際聞こえていることと、幻聴との区別もつけなきゃならない……。ただでさえ使えない頭がはちきれそうだ。
 途中でうっかりサヤを見てしまい、ズキンと胸が痛む。
 娘らしい服装をしたサヤは、綺麗なのに、とても苦しそうに見えたのだ。
 俺は、間違ってないはずなのに……。
 そんな言い訳みたいな感情が、胸に刺さる。
 笑ってないサヤに、胸が軋む。
 痛みに顔を顰めてしまわないよう、気合いで口元の笑みを維持した。
 けど、結局そのあとは散々だ。
 だんだん集中が保てなくなり、雑音も酷くなり、気持ちがぐらぐらと揺れて均衡を崩す。失言が増える、妙な恐怖が胸を騒つかせる。サヤがバルチェ商会までルーシーを護衛すると言い出し、反対する俺を無視して、ハインがサヤに許可を出した。
 その挙げ句、ギルには殴りたいなんて言われて……。

 俺、どうすればよかったんだ?

 虚無感に取り憑かれて、なんかこのまま消えてしまいたいと思った矢先、ギルに夢の中で見たように、抱き竦められた。

「お前さ、いい加…………辞めろよ。
 そんなに苦…………、捨てるより、…………く方に、苦しむべきじゃ……か」

 耳元で、ギルの声がする。
 殴りたいって、言ったのに……。
 ギルの腕が少しきつくて、苦しい。
 大抵ギルはちぐはぐで、俺がどうしようもない時、言ってることとやってることが食い違う。
 ぼんやりと霞む頭でそんなことを考える。
 ギルが何か言ってるのに……もう、半分くらいが俺をすり抜けてしまって、意味を考えるのも億劫で、頭が働かなかった。
しおりを挟む
1 / 5

この作品を読んでいる人はこんな作品も読んでいます!

腹黒上司が実は激甘だった件について。

恋愛 / 完結 24h.ポイント:505pt お気に入り:139

伯爵令嬢は執事に狙われている

恋愛 / 完結 24h.ポイント:626pt お気に入り:449

前世と今世の幸せ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:617pt お気に入り:4,042

聖者のミルクが世界を癒す

BL / 連載中 24h.ポイント:14pt お気に入り:60

【完結】転生後も愛し愛される

恋愛 / 完結 24h.ポイント:63pt お気に入り:858

王妃となったアンゼリカ

恋愛 / 連載中 24h.ポイント:178,555pt お気に入り:7,842

異世界ライフは山あり谷あり

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:688pt お気に入り:1,554

異世界のんびり散歩旅

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:2,216pt お気に入り:745

魔力を枯らした皇女は眠れる愛され姫

ファンタジー / 連載中 24h.ポイント:106pt お気に入り:3,410

処理中です...