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暗夜の灯 1 〜語り手 レイシール〜
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飲み込まれた時のことは、説明しにくい。
油の中に沈められてしまったような、妙な体の重さというか、自由の効かない感じになる。
頭の中が砂で満たされてしまったみたいに、ザラザラとした雑音が鳴り止まず、その中に、誰かが誰かと囁き交わす声が、聞こえるようで聞こえない。
たまにその雑音に埋もれた声が、棘のようになって突き刺さる。刃のようになって切り裂き、岩のようになって胸を潰す。
他愛のないことが身の毛もよだつ様な恐ろしいことに思えて、恐怖に心臓を抉られる。
自分が何故こんなことになってるのか、そのうち分からなくなって、ただよく分からないまま、体を締め付けてくる重いものに、苦しむしかできなくなる。
ああ、楽になれたらいいのに。
ただそうなれたらと思うだけで、何かをしようとは思えない。そんな気力すら湧かない。呼吸をすることを、忘れてしまえたらいいのにと、そんな風に、ぼんやりと思うのだ。
最悪の時は、そこに悪夢が這い出してくる。
楽になりたいままに、何度も死を繰り返す。死んだはずなのに、また繰り返す。要らないはずなのに、また戻される。実際自分は今どうなっているのか、それが分からなくなる。
ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、要らないことを刻み込まれ、なのに居なくなることも出来ない。そしてその合間合間に、同じ風景が挟まれる。
多分これが現実のはずの、部屋の片隅。もしくは寝台。最後に動けなくなった場所だ。
だから、今回はマシ……大丈夫だ。夢は這い出して来ないはずだから。
働くことを放棄しそうな、砂を詰め込まれたような頭をなんとか動かして、俺は寝台の中で浅い眠りを繰り返す。できるだけ起きてはいけない。起きると幻聴が、俺を取り巻いて、眠ることを邪魔するようになるし、刺さってくる恐怖が、棘から刃に育っていく。
いらないことを考え、そのせいで育った恐怖が、俺を雁字搦めにしていく。
これ以上崩れてはいけない。雨季が来るのだから。
役割を捨てるわけにはいかない。持ってはいけない俺が、唯一、持てるものだから。
だから眠る。現実の延長のような、寝ている夢を見ているような状態を維持する。
その中でたまに、刹那の夢を見る。
波紋の広がる鏡の中で、誰かと手を繋ぐサヤだとか、俺の前にしゃがみ込んで、あけすけに笑うギルだとか、ハインと何か話をしながら、作業をこなすサヤだとか、腰の剣を引き抜き、首元に構えたハインだとか、膝を抱えてその上に頭を乗せているサヤだとか、黄金色の海原みたいに広がる麦畑だとか、俺を掻き抱いてるギルだとか、濡れて路地に転がるハインだとか、俺に手を引かれ、泉の中から飛び出した瞬間のサヤ。
ハッと気が付くと、窓からの薄ぼんやりとした光が、俺の顔を照らしていた。
朝……もう朝か……。
上掛けはいつの間にか剥がれ、半分床に落ちていた。
朝が来たなら、動かなきゃいけない。だってもう半日、時間を無駄に使ってしまった……。
本当はその半日すら貴重なのに、それを無為に、転がって過ごしてしまった。
不甲斐ない自分に胸がまた痛む。不甲斐ないと思うなら、動け。これ以上迷惑を掛けるな。
寝台から這い出すと、身体はまだ油の皮膜を纏っているようで、動かしにくい……。疲労感が凄まじい。身体中の筋肉が酷使された後の様に、強張っているようだ。
なんとか長椅子まで移動して、小机の上にあった水差しの水を、そのまま口にした。
溢れたぶんが襟を濡らすけれど、気にしない。どうせ着替えなきゃならないのだ。
袖で口元をぬぐい、しばらく長椅子にもたれ、気力を奮い起こしてから、今度は着替えの為に移動する。
緩慢な動きで着ていた服をなんとか脱ぎ捨てて、衣装棚に手を突っ込む。とにかく一番端のものを一つずつ引っ張り出して、おぼつかない指で苦労して着込んだ。
着替えの途中で、飾り紐が引っ掛かり、外れてしまった。サヤに結わえてもらった髪が、ゆるゆると解けていくので、解けきる前に、首の後ろを適当に括った。
それだけのことをこなすのに、結構な時間を使ってしまった。
薄ぼんやりとしていた窓からの光は、もうしっかりと俺の足元を照らしていて、目に刺さってくるように眩しく感じる。
とりあえず、いかなきゃ……。やるべきことをやらなきゃ……。
長靴を履くのが一番手こずった。足首に力を入れることが出来ず、同じく力の入らない手で、長靴を無理やり引っ張ってなんとか履いた。壁を手掛かりにして立ち上がり、歩き出せば、足は動いてくれた。ホッとする。そして俺は、部屋の外に向かった。
相変わらず油の皮膜のようなものは纏わりついたままで、外に出ると、砂時計の砂が落ちるような幽かな雑音が、耳に張り付いていることに気付く。けどまあ、聞こえるし動けるなら、いいか。いいことにしよう。
応接室に入るには、少し気力を振り絞る必要があった。
扉を押し開けるだけで結構消耗し、顔に笑みを貼り付けるのにまた消耗し、それでもとりあえずは、何もなかったように振る舞う。そして味のしない朝食を少量だけ食んだ。
なんとか場を取り繕っていたのだけれど、会話には難儀した。
頭が働かず、言われたことの三割程が、すり抜けてしまう。
理解できたことを繋ぎ合わせて、なんとか意味を汲み取って、言葉を紡ぎ、その所為で無駄に気力も体力も消費してしまった。
実際聞こえていることと、幻聴との区別もつけなきゃならない……。ただでさえ使えない頭がはちきれそうだ。
途中でうっかりサヤを見てしまい、ズキンと胸が痛む。
娘らしい服装をしたサヤは、綺麗なのに、とても苦しそうに見えたのだ。
俺は、間違ってないはずなのに……。
そんな言い訳みたいな感情が、胸に刺さる。
笑ってないサヤに、胸が軋む。
痛みに顔を顰めてしまわないよう、気合いで口元の笑みを維持した。
けど、結局そのあとは散々だ。
だんだん集中が保てなくなり、雑音も酷くなり、気持ちがぐらぐらと揺れて均衡を崩す。失言が増える、妙な恐怖が胸を騒つかせる。サヤがバルチェ商会までルーシーを護衛すると言い出し、反対する俺を無視して、ハインがサヤに許可を出した。
その挙げ句、ギルには殴りたいなんて言われて……。
俺、どうすればよかったんだ?
虚無感に取り憑かれて、なんかこのまま消えてしまいたいと思った矢先、ギルに夢の中で見たように、抱き竦められた。
「お前さ、いい加…………辞めろよ。
そんなに苦…………、捨てるより、…………く方に、苦しむべきじゃ……か」
耳元で、ギルの声がする。
殴りたいって、言ったのに……。
ギルの腕が少しきつくて、苦しい。
大抵ギルはちぐはぐで、俺がどうしようもない時、言ってることとやってることが食い違う。
ぼんやりと霞む頭でそんなことを考える。
ギルが何か言ってるのに……もう、半分くらいが俺をすり抜けてしまって、意味を考えるのも億劫で、頭が働かなかった。
油の中に沈められてしまったような、妙な体の重さというか、自由の効かない感じになる。
頭の中が砂で満たされてしまったみたいに、ザラザラとした雑音が鳴り止まず、その中に、誰かが誰かと囁き交わす声が、聞こえるようで聞こえない。
たまにその雑音に埋もれた声が、棘のようになって突き刺さる。刃のようになって切り裂き、岩のようになって胸を潰す。
他愛のないことが身の毛もよだつ様な恐ろしいことに思えて、恐怖に心臓を抉られる。
自分が何故こんなことになってるのか、そのうち分からなくなって、ただよく分からないまま、体を締め付けてくる重いものに、苦しむしかできなくなる。
ああ、楽になれたらいいのに。
ただそうなれたらと思うだけで、何かをしようとは思えない。そんな気力すら湧かない。呼吸をすることを、忘れてしまえたらいいのにと、そんな風に、ぼんやりと思うのだ。
最悪の時は、そこに悪夢が這い出してくる。
楽になりたいままに、何度も死を繰り返す。死んだはずなのに、また繰り返す。要らないはずなのに、また戻される。実際自分は今どうなっているのか、それが分からなくなる。
ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、ひたすら、要らないことを刻み込まれ、なのに居なくなることも出来ない。そしてその合間合間に、同じ風景が挟まれる。
多分これが現実のはずの、部屋の片隅。もしくは寝台。最後に動けなくなった場所だ。
だから、今回はマシ……大丈夫だ。夢は這い出して来ないはずだから。
働くことを放棄しそうな、砂を詰め込まれたような頭をなんとか動かして、俺は寝台の中で浅い眠りを繰り返す。できるだけ起きてはいけない。起きると幻聴が、俺を取り巻いて、眠ることを邪魔するようになるし、刺さってくる恐怖が、棘から刃に育っていく。
いらないことを考え、そのせいで育った恐怖が、俺を雁字搦めにしていく。
これ以上崩れてはいけない。雨季が来るのだから。
役割を捨てるわけにはいかない。持ってはいけない俺が、唯一、持てるものだから。
だから眠る。現実の延長のような、寝ている夢を見ているような状態を維持する。
その中でたまに、刹那の夢を見る。
波紋の広がる鏡の中で、誰かと手を繋ぐサヤだとか、俺の前にしゃがみ込んで、あけすけに笑うギルだとか、ハインと何か話をしながら、作業をこなすサヤだとか、腰の剣を引き抜き、首元に構えたハインだとか、膝を抱えてその上に頭を乗せているサヤだとか、黄金色の海原みたいに広がる麦畑だとか、俺を掻き抱いてるギルだとか、濡れて路地に転がるハインだとか、俺に手を引かれ、泉の中から飛び出した瞬間のサヤ。
ハッと気が付くと、窓からの薄ぼんやりとした光が、俺の顔を照らしていた。
朝……もう朝か……。
上掛けはいつの間にか剥がれ、半分床に落ちていた。
朝が来たなら、動かなきゃいけない。だってもう半日、時間を無駄に使ってしまった……。
本当はその半日すら貴重なのに、それを無為に、転がって過ごしてしまった。
不甲斐ない自分に胸がまた痛む。不甲斐ないと思うなら、動け。これ以上迷惑を掛けるな。
寝台から這い出すと、身体はまだ油の皮膜を纏っているようで、動かしにくい……。疲労感が凄まじい。身体中の筋肉が酷使された後の様に、強張っているようだ。
なんとか長椅子まで移動して、小机の上にあった水差しの水を、そのまま口にした。
溢れたぶんが襟を濡らすけれど、気にしない。どうせ着替えなきゃならないのだ。
袖で口元をぬぐい、しばらく長椅子にもたれ、気力を奮い起こしてから、今度は着替えの為に移動する。
緩慢な動きで着ていた服をなんとか脱ぎ捨てて、衣装棚に手を突っ込む。とにかく一番端のものを一つずつ引っ張り出して、おぼつかない指で苦労して着込んだ。
着替えの途中で、飾り紐が引っ掛かり、外れてしまった。サヤに結わえてもらった髪が、ゆるゆると解けていくので、解けきる前に、首の後ろを適当に括った。
それだけのことをこなすのに、結構な時間を使ってしまった。
薄ぼんやりとしていた窓からの光は、もうしっかりと俺の足元を照らしていて、目に刺さってくるように眩しく感じる。
とりあえず、いかなきゃ……。やるべきことをやらなきゃ……。
長靴を履くのが一番手こずった。足首に力を入れることが出来ず、同じく力の入らない手で、長靴を無理やり引っ張ってなんとか履いた。壁を手掛かりにして立ち上がり、歩き出せば、足は動いてくれた。ホッとする。そして俺は、部屋の外に向かった。
相変わらず油の皮膜のようなものは纏わりついたままで、外に出ると、砂時計の砂が落ちるような幽かな雑音が、耳に張り付いていることに気付く。けどまあ、聞こえるし動けるなら、いいか。いいことにしよう。
応接室に入るには、少し気力を振り絞る必要があった。
扉を押し開けるだけで結構消耗し、顔に笑みを貼り付けるのにまた消耗し、それでもとりあえずは、何もなかったように振る舞う。そして味のしない朝食を少量だけ食んだ。
なんとか場を取り繕っていたのだけれど、会話には難儀した。
頭が働かず、言われたことの三割程が、すり抜けてしまう。
理解できたことを繋ぎ合わせて、なんとか意味を汲み取って、言葉を紡ぎ、その所為で無駄に気力も体力も消費してしまった。
実際聞こえていることと、幻聴との区別もつけなきゃならない……。ただでさえ使えない頭がはちきれそうだ。
途中でうっかりサヤを見てしまい、ズキンと胸が痛む。
娘らしい服装をしたサヤは、綺麗なのに、とても苦しそうに見えたのだ。
俺は、間違ってないはずなのに……。
そんな言い訳みたいな感情が、胸に刺さる。
笑ってないサヤに、胸が軋む。
痛みに顔を顰めてしまわないよう、気合いで口元の笑みを維持した。
けど、結局そのあとは散々だ。
だんだん集中が保てなくなり、雑音も酷くなり、気持ちがぐらぐらと揺れて均衡を崩す。失言が増える、妙な恐怖が胸を騒つかせる。サヤがバルチェ商会までルーシーを護衛すると言い出し、反対する俺を無視して、ハインがサヤに許可を出した。
その挙げ句、ギルには殴りたいなんて言われて……。
俺、どうすればよかったんだ?
虚無感に取り憑かれて、なんかこのまま消えてしまいたいと思った矢先、ギルに夢の中で見たように、抱き竦められた。
「お前さ、いい加…………辞めろよ。
そんなに苦…………、捨てるより、…………く方に、苦しむべきじゃ……か」
耳元で、ギルの声がする。
殴りたいって、言ったのに……。
ギルの腕が少しきつくて、苦しい。
大抵ギルはちぐはぐで、俺がどうしようもない時、言ってることとやってることが食い違う。
ぼんやりと霞む頭でそんなことを考える。
ギルが何か言ってるのに……もう、半分くらいが俺をすり抜けてしまって、意味を考えるのも億劫で、頭が働かなかった。
応援ありがとうございます!
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