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産みの苦しみ 6
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「サヤの成人は、其方も待ち望んでいることではないのか?」
「そりゃ、待ち望んでます。けど……サヤと婚姻を結ぶ以上、回避できない問題があるのです……」
「成人の儀か?」
頷いた。
そう、今俺を悩ませている大きな問題……。
「……サヤの髪を、捧げさせなければ、なりません……」
「貴族社会に属する以上は、そうなるな」
「でもっ、もうとっくに形骸化してしまっている儀式です。意味なんて無いに等しい……。
サヤの髪は、彼女にとって大切なものなのです。身内が触れていた……沢山を失っている彼女に残された、数少ないものです……」
あちらの世界から、こちらの世界へ、不意に転がり落ちてしまった。
そんなサヤの手元に残っている、数少ないもの。
俺の成人の儀から、ずっと考えていた。何か良策はないものか。回避できないものか。
しかし、神の領域は貴族の権力が及ぶ場ではないし、貴族外から貴族に加わるという人物が拒否した場合、摩擦を生むどころの話ではなくなるだろう……。
だけど……。
サヤから今以上を奪うことになる現実が、俺には受け入れ難かった。
サヤは……あちらの世界から着てきた衣服を、もう……燃やしてしまった。
燃えなかったものも、溶かして、あるいは小さく砕いて、土に埋めてしまった。
腕時計の時と同じ過ちを、二度と繰り返さないために。
この世界で生きていくのだと決めたのだから、もういらない。あってはならないものだと……。
あの時のサヤの表情は、きっと一生、頭から離れない。
決めたことだから、実行した。泣かなかったし、自ら火に焚べたのだ。
だけと、火を挟んで向かいにあったサヤの瞳は……苦しみや悲しみなんて、とっくに通り越していた。
失われていく己の世界の痕跡に、心が壊れてしまいそうなほどの虚無感。そんな、闇に沈んでいこうとする己の心を、サヤは無表情のまま、ひとり必死で、支えていた……。
両親や祖母、カナくんとの思い出が沢山詰まっていたはずのもの。
あちらの世界は、確かにちゃんとあったのだという証明。ほんの細やかな、手がかりたち……。
本当は、これも手放さなあかんかなって、思うてるんやけど……と、櫛と小瓶の入った小袋を手にした時は、必死で止めた。
「油なんて、そこらにいくらだってある。似たような色、匂い……どうとでも誤魔化せる!
何ならツバキの木を見せたって良い。ずっと前から、あそこにちゃんとあるんだから!
櫛だって……ちょっと変わってるけれど、作れないものじゃない。それにこの櫛は、特別な技術で作られたものではない。人の手が削り出したものだって、サヤも言ってたじゃないか!」
袋ごとサヤの手を、俺の手で握り込み、そのままサヤも引き寄せて、泣かない彼女を、抱きしめることしかできなかった。
地から湧く黒い油を糸に変える技術を、俺たちは持っていない。
爪の先ほどもないような、小さな金属を、等間隔に並べていく技も。
護謨をあんな風に伸び縮みするように、加工することもできない。
だから燃やした。サヤにまた捨てさせた。
この世界はサヤからあんなに与えてもらっておいて、奪うばかりだ……。
「サヤはきっと、決まりならばと従うでしょう。
だけど、俺の髪を切ることにすら、あれほど悲しんだのは……」
サヤにとって髪は、ただ髪ではないのだ……。
「……髪はまた伸ばせば良い……という風には、言えぬし思えぬな……」
サヤの事情を伝えていない父上に、どれほど伝わったかは、分からなかった。
それでも父上は、その重みを理解してくださった。
「だがそれは……お前が一人で悩むことか?」
けれどそう続けられて、返す言葉を持っていなかった己に、気付かされた……。
「サヤは、お前がそんな風に苦悩していることを、知らされぬことの方が、本意ではないと思うがな。
あの娘は、己の分をきちんと弁えておる娘だし、それを蔑ろにされることこそを嫌う。
それをお前は、まだ理解していないのか?」
父上の、言う通りだ……。
「そもそもあの娘なら、きっともう己の中で答えを定めているだろうよ。
お前が触れぬから言わぬだけ。サヤを気遣うならば、そんな決断を一人で抱えさせておくことの方が、酷だと思うが?」
俺は本当に凡庸で、頼りない……。そんなこと、考え付きもしていなかった。
羞恥で顔を覆ってしまった俺の背を、父上の手がそっと押して、俺を促す。
「少しでも早い方が良いと思うぞ」
「行ってきます!」
ハインに、サヤの所に行ってくると告げてから、俺は執務室を飛び出した。
◆
昼をほんの少し過ぎた頃、馬影が見えたとの報告が入り、宴の席へと赴いた。
新たにできた西の街道。そこを通ってやって来る、行商団の一行。
ロジェ村を筆頭とする、セイバーン南西の地で加工された干し野菜。その最後の荷を、本日ここに届けてくれたのは、いつも通りエルランド達だ。
「ご苦労だった。道中は恙無く過ごせたろうか?」
「領主様自ら出迎えていただき、リディオ商会エルランド、感謝に堪えません。
西の街道は、我ら行商人の新たな希望でございます。我々の助けとなってくれるに違いないと確信致しました」
「そうか……それを聞けて安心した。
では、本日の荷を降ろそう。それが済んだら、祝詞の祝いだ!」
俺の言葉に、やり取りを見守っていた村の住人らが歓声を上げた。
行商団の到着を横ぶ声や、労う声が飛び交い、宴の開催に、一気に活気付く。
エルランドと久しぶりの、貴族としてのやり取りは面映く、途中で笑ってしまいそうになったけれど、どうにか堪えた甲斐はあったな。こういったことは、形が大切だ。
まぁ、お互いもう付き合いが長いから……今更な感じがしてしまうのだが。
荷物の移動のため、ハインが指示を飛ばして、サヤは菓子を配りに、見習い二人を連れて移動していった。
そして役をこなした俺とエルランドは人心地つくことに。
「ありがとうエルランド。今年もギリギリまで働かせてしまったな」
「いえいえ。我々も今年の越冬、楽しみにしていましたから。
滞在をお許しいただき、ありがとうございます」
「荷を下ろしたら、馬車はそのまま借家の敷地内へ入れられる。
寒かったろう、先に湯を使うかい? やり方は分かるよな?」
「それは夕刻の楽しみに取っておきますよ。まずは宴を楽しませていただきます。実はもう、腹ペコでして」
貴族のやり取りを終えて、普段通りに言葉を交わしていたら、ロジオンがやって来た。
馬車や荷車を片付けたら、越冬の間は彼らが馬を預かってくれる。
そう。今年は、エルランドらもこの拠点村で越冬するのだ。それというのも……。
「ロゼ、よく来たね」
「もうお仕事終わった?」
「終わったよ。ほらおいで!」
ロゼをまた、預かることとなったためだ。
理由はノエミの懐妊と、ロゼが拠点村で過ごせるかどうかを、試験するため。
ロゼは来年七歳になるし、ホセは彼女を、できるならば幼年院に通わせたいと考えている。
もうロジェ村は捨場ではないのだから、ロゼを村に閉じ込めておきたくないと、そう言っていた。
「双子は元気かい?」
「うん、元気だよ。でもロゼが馬車に乗ったら、サナリ泣いてた」
「そうか……越冬の間離れるのは寂しいって、もう、分かるもんな……」
「サナリにね、おねえちゃんになるんでしょって、いったんだけどね。いやいやって、聞いてくれなかったよ」
自分はちゃんとしたのだと、そういう主張。
そんな風にお姉ちゃん風を吹かせつつ、ロゼも寂しかったのだろう。妹のことを思い出し、しょんぼりしてしまった。
するとロゼを抱く俺の横から、ツンツンと細袴を引っ張る手が。
「れいさま」
「そりゃ、待ち望んでます。けど……サヤと婚姻を結ぶ以上、回避できない問題があるのです……」
「成人の儀か?」
頷いた。
そう、今俺を悩ませている大きな問題……。
「……サヤの髪を、捧げさせなければ、なりません……」
「貴族社会に属する以上は、そうなるな」
「でもっ、もうとっくに形骸化してしまっている儀式です。意味なんて無いに等しい……。
サヤの髪は、彼女にとって大切なものなのです。身内が触れていた……沢山を失っている彼女に残された、数少ないものです……」
あちらの世界から、こちらの世界へ、不意に転がり落ちてしまった。
そんなサヤの手元に残っている、数少ないもの。
俺の成人の儀から、ずっと考えていた。何か良策はないものか。回避できないものか。
しかし、神の領域は貴族の権力が及ぶ場ではないし、貴族外から貴族に加わるという人物が拒否した場合、摩擦を生むどころの話ではなくなるだろう……。
だけど……。
サヤから今以上を奪うことになる現実が、俺には受け入れ難かった。
サヤは……あちらの世界から着てきた衣服を、もう……燃やしてしまった。
燃えなかったものも、溶かして、あるいは小さく砕いて、土に埋めてしまった。
腕時計の時と同じ過ちを、二度と繰り返さないために。
この世界で生きていくのだと決めたのだから、もういらない。あってはならないものだと……。
あの時のサヤの表情は、きっと一生、頭から離れない。
決めたことだから、実行した。泣かなかったし、自ら火に焚べたのだ。
だけと、火を挟んで向かいにあったサヤの瞳は……苦しみや悲しみなんて、とっくに通り越していた。
失われていく己の世界の痕跡に、心が壊れてしまいそうなほどの虚無感。そんな、闇に沈んでいこうとする己の心を、サヤは無表情のまま、ひとり必死で、支えていた……。
両親や祖母、カナくんとの思い出が沢山詰まっていたはずのもの。
あちらの世界は、確かにちゃんとあったのだという証明。ほんの細やかな、手がかりたち……。
本当は、これも手放さなあかんかなって、思うてるんやけど……と、櫛と小瓶の入った小袋を手にした時は、必死で止めた。
「油なんて、そこらにいくらだってある。似たような色、匂い……どうとでも誤魔化せる!
何ならツバキの木を見せたって良い。ずっと前から、あそこにちゃんとあるんだから!
櫛だって……ちょっと変わってるけれど、作れないものじゃない。それにこの櫛は、特別な技術で作られたものではない。人の手が削り出したものだって、サヤも言ってたじゃないか!」
袋ごとサヤの手を、俺の手で握り込み、そのままサヤも引き寄せて、泣かない彼女を、抱きしめることしかできなかった。
地から湧く黒い油を糸に変える技術を、俺たちは持っていない。
爪の先ほどもないような、小さな金属を、等間隔に並べていく技も。
護謨をあんな風に伸び縮みするように、加工することもできない。
だから燃やした。サヤにまた捨てさせた。
この世界はサヤからあんなに与えてもらっておいて、奪うばかりだ……。
「サヤはきっと、決まりならばと従うでしょう。
だけど、俺の髪を切ることにすら、あれほど悲しんだのは……」
サヤにとって髪は、ただ髪ではないのだ……。
「……髪はまた伸ばせば良い……という風には、言えぬし思えぬな……」
サヤの事情を伝えていない父上に、どれほど伝わったかは、分からなかった。
それでも父上は、その重みを理解してくださった。
「だがそれは……お前が一人で悩むことか?」
けれどそう続けられて、返す言葉を持っていなかった己に、気付かされた……。
「サヤは、お前がそんな風に苦悩していることを、知らされぬことの方が、本意ではないと思うがな。
あの娘は、己の分をきちんと弁えておる娘だし、それを蔑ろにされることこそを嫌う。
それをお前は、まだ理解していないのか?」
父上の、言う通りだ……。
「そもそもあの娘なら、きっともう己の中で答えを定めているだろうよ。
お前が触れぬから言わぬだけ。サヤを気遣うならば、そんな決断を一人で抱えさせておくことの方が、酷だと思うが?」
俺は本当に凡庸で、頼りない……。そんなこと、考え付きもしていなかった。
羞恥で顔を覆ってしまった俺の背を、父上の手がそっと押して、俺を促す。
「少しでも早い方が良いと思うぞ」
「行ってきます!」
ハインに、サヤの所に行ってくると告げてから、俺は執務室を飛び出した。
◆
昼をほんの少し過ぎた頃、馬影が見えたとの報告が入り、宴の席へと赴いた。
新たにできた西の街道。そこを通ってやって来る、行商団の一行。
ロジェ村を筆頭とする、セイバーン南西の地で加工された干し野菜。その最後の荷を、本日ここに届けてくれたのは、いつも通りエルランド達だ。
「ご苦労だった。道中は恙無く過ごせたろうか?」
「領主様自ら出迎えていただき、リディオ商会エルランド、感謝に堪えません。
西の街道は、我ら行商人の新たな希望でございます。我々の助けとなってくれるに違いないと確信致しました」
「そうか……それを聞けて安心した。
では、本日の荷を降ろそう。それが済んだら、祝詞の祝いだ!」
俺の言葉に、やり取りを見守っていた村の住人らが歓声を上げた。
行商団の到着を横ぶ声や、労う声が飛び交い、宴の開催に、一気に活気付く。
エルランドと久しぶりの、貴族としてのやり取りは面映く、途中で笑ってしまいそうになったけれど、どうにか堪えた甲斐はあったな。こういったことは、形が大切だ。
まぁ、お互いもう付き合いが長いから……今更な感じがしてしまうのだが。
荷物の移動のため、ハインが指示を飛ばして、サヤは菓子を配りに、見習い二人を連れて移動していった。
そして役をこなした俺とエルランドは人心地つくことに。
「ありがとうエルランド。今年もギリギリまで働かせてしまったな」
「いえいえ。我々も今年の越冬、楽しみにしていましたから。
滞在をお許しいただき、ありがとうございます」
「荷を下ろしたら、馬車はそのまま借家の敷地内へ入れられる。
寒かったろう、先に湯を使うかい? やり方は分かるよな?」
「それは夕刻の楽しみに取っておきますよ。まずは宴を楽しませていただきます。実はもう、腹ペコでして」
貴族のやり取りを終えて、普段通りに言葉を交わしていたら、ロジオンがやって来た。
馬車や荷車を片付けたら、越冬の間は彼らが馬を預かってくれる。
そう。今年は、エルランドらもこの拠点村で越冬するのだ。それというのも……。
「ロゼ、よく来たね」
「もうお仕事終わった?」
「終わったよ。ほらおいで!」
ロゼをまた、預かることとなったためだ。
理由はノエミの懐妊と、ロゼが拠点村で過ごせるかどうかを、試験するため。
ロゼは来年七歳になるし、ホセは彼女を、できるならば幼年院に通わせたいと考えている。
もうロジェ村は捨場ではないのだから、ロゼを村に閉じ込めておきたくないと、そう言っていた。
「双子は元気かい?」
「うん、元気だよ。でもロゼが馬車に乗ったら、サナリ泣いてた」
「そうか……越冬の間離れるのは寂しいって、もう、分かるもんな……」
「サナリにね、おねえちゃんになるんでしょって、いったんだけどね。いやいやって、聞いてくれなかったよ」
自分はちゃんとしたのだと、そういう主張。
そんな風にお姉ちゃん風を吹かせつつ、ロゼも寂しかったのだろう。妹のことを思い出し、しょんぼりしてしまった。
するとロゼを抱く俺の横から、ツンツンと細袴を引っ張る手が。
「れいさま」
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