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最後の春 8

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「サヤは、サヤだ。俺が愛したいと思った、優しい人だよ。悪魔なんかじゃない」

 両腕を寝台に押さえつけられたサヤは、こぼれそうなほどに盛り上がった涙を瞳に溜めて、唇を戦慄かせた。

「怖くなんかない」

 今それを、証明するから……。

 そのまま身を倒して、サヤの唇を奪った。
 唇を舐めて、舌を絡めて、溺れるみたいに貪った。
 そのうちサヤの腕が抵抗をやめて、ただなすがままになり、最後に応えるように、舌を絡めてきた……。
 サヤも俺を求めてくれているのだと感じた。
 サヤの瞳から溢れる涙を指で拭って、艶やかな黒髪を撫で、頬を両手で覆って、何度も何度も愛撫を繰り返した。

 夫婦になるんだ。俺たちは。
 これから先を、全部一緒に、過ごすために……。
 だから、過去の何がサヤに絡み付こうとしたって、関係ない。

 息が上がるくらいに貪り合って、もう一度サヤを抱きしめた。

「愛してるよ……」

 そう言うと、こぼれた嗚咽。

「大丈夫だ。みんな誰も、サヤを嫌ったりしない……。怖がったりしない……絶対に。
 それだけのことを、サヤはしてきた。努力してきた。優しくしてきた。それをみんな見てる」

 声を押し殺して泣くサヤを、抱き締める。
 そうしながら、考えていた……。

 マルに知識が無いなんて事態が、立て続いていることになる。
 サヤのように、異界からこちらに渡って来た人の話は聞いたことが無いと、彼は言ったのだ。
 おかしい……。
 いくらなんでもおかしい。
 マルは優秀だ。吠狼という諜報組織まで有している。なのに、探れない情報なんて……。

 可能性として考えられることは、数少ない。

 ひとつは、マルが俺に、本当のことを話していない可能性。
 もうひとつは、マルの探れない情報が全て、神殿絡みである……という可能性だ……。


 ◆


 サヤが落ち着くまでずっと抱きしめていた。
 寝台に横になり、泣く夜着一枚の女性を抱きしめているなんて……普通に考えれば相当な状況なのだけど……。
 この時の俺は、それに構っていられる心境ではなかった。

「……サヤ、ブローカーという言葉は、サヤの国にもあるの」

 そう問い掛けたら、サヤの呼吸がピタリと止まる。
 そうして暫くしてから、また浅い呼吸が始まり……。

「…………ある……」
「どういう意味の言葉?」
「……仲買人とか、仲介業者とか……」
「…………馬事師らの馬を売買している密輸業者を、彼らは隠語でブローカーと言うそうだ」

 サヤの呼吸が、また乱れた。
 やっぱり。やっぱり……! と、恐怖に引き攣る表情……。
 疑惑を先送りにしても、意味がないと思ったから口にした……。だけどそれはね、サヤを苦しめるためじゃない。

「サヤの憶測が、その通りだったとしたって、何も変わらないよ。
 サヤより前にもそういった人がいた。それだけのことだろう?
 その人の行いまで、サヤが責任を感じる必要はない。それは、サヤが俺に教えてくれたことだよ」

 妾の子として生まれた俺に、罪なんて無いのだと。そう言ってくれたろう……?

「サヤが自分を責めるのは、俺に言ったことを自分で否定するってことだよ」

 そう言うと、困ったように眉を寄せるものだから……。

「サヤ、愛してる」

 もう一度瞳を合わせてそう言うと、サヤのそれが、びっくりしたように見開かれた。

「大好きだ。優しくて、頑張り屋で、いつもみんなを気遣ってくれて、サヤが笑ってくれるだけで俺は、幸せな気持ちになれる。
 全部好きだよ。この美しい黒髪も、傷の絶えないしなやかな身体も、自ら動こうとする気質も、すぐに赤くなってしまったり、恥ずかしがって俯いてしまう奥ゆかしい所だって……」
「やっ、やめて!
 なんなん急に⁉︎ そういうこと、恥ずかしげもなく……っ」

 慌てて口を塞ごうとする手を、遮って止める。

「サヤがなんだか自分を否定しそうなんだもの。
 だから俺のサヤが好きだって気持ちをね、サヤはこんなにも素晴らしいんだぞってことを、理解してもらわないとと思って」

 真顔でそう言うと、ぱくぱくと口を開け閉めして、言葉を失う。
 その隙に、顔にかかる横髪を掬い取って口づけすると、更に赤くなったサヤが顔を隠そうとするものだから、それも俺の手で阻止して、唇を啄んだ。

「れ……っ……!」

 何度もそうして、言葉を遮って、これ以上に言葉の自傷行為を繰り返すなら、もっと凄いこともするよと笑い掛けると、焦ってもうしいひん! という声。

「分かってもらえて良かった。
 サヤは、心配しすぎだよ。みんなサヤと、今まで過ごしてきたんだ。サヤがどんな人かは、ちゃんと理解してる」

 そう言ってもう一度頬を撫でたら、安堵半分に、困ったを半分混ぜたような表情で、もう一度俺の胸に身をすり寄せた。
 その背に腕を回して、ゆるく抱きしめる。

 ……サヤが言うように、異界の民がサヤ以外にも、この世界へいたとする。
 その人たちの存在は、何故残っていないのだろう……。
 マルは言っていたはずだ。存在の形跡を抹消することなど、人にはできないと。
 必ず残り香が香るように、違和感が残るのだと……。

 異界の民は、どこに消えたのだろう……。
 どうやって存在しないと思えるほどまで、情報を操作できた?

 マルが俺を裏切って、サヤの情報を伏せている可能性……は、無い。
 マルがローシェンナを大切にしないなんて想像できない。
 彼らのために、ずっと一人で戦っていた男だ。だから、彼に情報が得られなかったのは、得られない場所の情報だったからだろう。
 即ち、神殿……。
 だが、その神殿がどう関わってくるのか…………。

 ことが壮大すぎて、頭がついてこない。
 急に異界の民が他にもいるかもしれないなんて、言われてもな……。
 けれど……。
 サヤの腕時計を奪っていったであろう、ジェスル。そのジェスルが神殿と繋がっているならば、今まで霧の向こう側に隠れていたものが、ほんの少しだけ、見えてくる気がしていた……。
 神殿は、表立って動けないのではないか。
 だから、第三者を通してサヤを得ようと、野盗やジェスルを使っていると、そう考えれば……。
 俺が公の場にサヤを伴う限り、神殿はサヤに手を出せない……ということかもしれない。

「なぁサヤ……このこと、マルに相談してみようか」

 神殿が絡むという可能性を示せば、また違うものが彼にも見えるだろう。
 そこに、異界の民が関係してくると言えば、彼は今までの人生で得た情報を総浚いし、新たな結論を導き出すはずだ。

「恐れなくて良い。みんなサヤを疎んだりなんてしない。
 サヤが良いなら、サヤが異界の民であることを知らせている面々に、そのまま相談してもいいよ。
 けど……まずはマルに、その過去の人々のこと、調べてもらってからの方が、ただ無意味に慌てず済むと思うんだ」

 皆に伝えるかどうかは、その後で判断しても良いだろう。そう言うとサヤは、少し考えてから、こくりと頷いた。

「レイに、任せる……」

 そうして、俺の手に頬をすり寄せて、俺の腕の痣に、気が付いたよう。

「レイ……」
「うん?」
「かんにんな……」
「名誉の負傷。これくらいのこと、なんでもない」

 ただの打ち身だしと笑うと、サヤはふるふると首を振り、腕の痣をするりと撫でて、そこに唇を寄せ……。

「私、本当に幸せ者やね……。
 ありがとう、レイ……」

 それまでの緊張から解放されたような、柔らかい声音だった……。
 思い詰めていたことを話せて、少し気持ちが緩んだのか、俺の存在を、自分の居場所だと思ってくれたのか……。
 どちらにしても嬉しくて、サヤを抱く腕に、力を込めた。

 必ず、守る……。
 だから、神殿がサヤを狙う目的を、早く見つけなければならない……。
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