俺の婚約者(♂)、実は敵国のスパイでした。

しおむすび

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逃亡のキス

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鋭い刃が、空を裂いた。

ルシアンはその刃を寸前で受け流し、俺の腕を引くと窓際へ駆けた。

「アレン、しっかり掴まれ!」

「待った!......ぅわっ!!」

俺が言い終える前に、彼は俺を抱えたまま、王城の窓から飛び降りた。

「バカかお前はああああああ!!」

「大丈夫、下には一」

──ドサッ。

「……馬、待たせておいたから」

着地と同時に馬が駆け出す。王宮の裏門を越え、夜の森へと飛び込むようにして走った。

背後からは衛兵の怒号と、何発かの矢が飛んできたが、ルシアンはそのすべてを見切って避けていた。

「スパイの逃亡術、舐めるなよ」

俺の腰に腕を回しながら、ルシアンはそう呟く。

「舐めてないけど……怖いわ!!」

「でも生きてる」

一確かにそうだ。死んでない。
この命を救ったのは……スパイであるはずの、俺の婚約者。

「……もう大丈夫、ここまで来れば追っては来ない」

森の奥、古びた小屋のような場所に着いた頃には、夜も深く、あたりは静まり返っていた。

「ここは……?」

「俺が用意してた逃走経路の一部。まさか君と一緒に使うことになるとはね」

「……皮肉だな。お前の“任務”のために作った道を、命を繋ぐために使うなんて」

ルシアンは微笑んだ。

だがその目は、ほんの少しだけ、寂しそうだった。

「本当は、こんなふうにするつもりじゃなかった」

「だったら、最初から近づかなければよかった」

「それができなかったんだ。君を知るほどに……俺は君に惹かれていった。どうしようもなく」

……またそれだ。

ああもう、俺は本当にどうかしてる。
こいつの言葉ひとつで、心がぐらつく。

「なあ、アレン」

小屋の壁にもたれながら、ルシアンは不意に俺を見た。

「俺を信じるな。絶対に。俺はスパイで、裏切り者で、殺し屋だ。俺が“本当に愛してる”と言っても、それが芝居じゃない保証なんて、どこにもない」

「……なら、なんでそんなこと言うんだよ」

「……」

「嘘でも、本当でも……お前が俺を守ったことも、逃げたことも、命を賭けたことも……“本物”にしか見えなかったんだよ」

ルシアンの赤い瞳が、ゆっくりと見開かれる。

「だから……お前が俺に向けて芝居してるなら、もうその芝居に俺は落ちたんだと思う」

「アレン……」

「けど一つだけ、ちゃんと答えてくれ」

俺は一歩、ルシアンに近づいた。

「お前の中に……“俺”はいたか?」

「……」

沈黙のあと、ルシアンはまっすぐ俺を見て、言った。

「……いた。今もいる。……君が俺の全部を壊した。俺の“任務”も、“信念”も」

「……なら、責任取れよ」

「……責任?」

「今さら逃げられると思うなよ、ルシアン」

俺は、その胸元を掴んで、
迷いのない瞳で彼を見上げた。

「お前がスパイでも、裏切り者でも──俺の婚約者だってことは変わらない」

「……っ……!」

ルシアンの手が、震えた。

そして、ふたりの距離が──ゼロになった。

唇が重なる。
焚き火の明かりが、ゆらゆらと俺たちの影を揺らしていた。

「……アレン。君にだけは、絶対に嘘はつかない」

「じゃあ、俺の前ではスパイじゃなくて、ルシアンでいろ」

「……ああ、誓うよ。婚約者として」

小屋の外では、夜が静かに明け始めていた。

一裏切りと忠誠の狭間で生まれた、たったひとつの真実。
それは、このキスだけだった。
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