呂布の軌跡

灰戸礼二

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序章2 丁原配下の時代

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姓は呂、名は布、字は奉先。ヘイ州五原郡九原県(現在の内蒙古自治区内)の出身である彼は、三国志の中でも際立って有名である。

三国志を編んだ陳寿は「虎の様な勇猛さを持ちながら、英雄の才略無く、軽佻にして狡猾、裏切りを繰り返し、眼中に有るのは利益だけだった。史上、彼のような人物が破滅しなかった試しはない」と評している。
ある意味では間違いではない評価だが正しくもない。

武に優れていたためヘイ州に仕えることになったとの記述が史書に初めて現れる彼の事跡である。

彼が歴史の舞台で躍動し始めるのは、西暦189年。劉宏が崩御する前後、宦官派と外戚である何進の一派が権力争いに汲々している時のことであった。





街道を一群の兵団が進んでいる。彼らは首都洛陽、現在でいう河南省北西部へ向かっていた。

全員が騎乗している。彼らはヘイ州人である。ヘイ州は洛陽の北方に位置している。異民族である匈奴の支配領域と境を接しており、度々その侵入にさらされていた。それゆえにその地を守る兵は強い。

特に中原(黄河中下流域にある平原地帯)と土地柄が違い、馬の育成に適した地であること。農地に不向きな地が多く、狩猟が盛んだったこと。この二点の理由により、ヘイ州の軍は騎兵が充実していることが特徴的であった。

兵団を率いるのは丁原という人物だ。丁原はヘイ州刺史と騎都尉という官職にある。

洛陽で二派に分かれて権力争いをしている片方の筆頭である大将軍何進が軍事力を欲しており、彼らはその何進の呼びかけに応じて州兵を率いて上洛しようとしている途上であった。

この丁原、大した人物である。反乱討伐や異民族との戦いで武名をあげ、寒門(家格の低い家柄)の出でありながら軍人として中央に名を知られるほどになったことは異例といっていい。

また、彼は政略にも長けていた。

今上の皇帝である劉宏が創設した宦官派の影響力が強い西園軍という軍組織と、外戚の何進の元にそれぞれ配下を幹部として送り込んで、両派に気脈を通じ、情報を収集している。丁原は今でこそ何進へなびいているが、趨勢が宦官派へ傾けば鞍替えすることも可能である。

彼はどちらが勝ってもヘイ州人が冷遇されることはないよう立ち回っていた。

丁原の才と丁原の率いるヘイ州兵は洛陽の実力者たちの中でその存在感を日増しに高めている。

その丁原の傍らに侍る武者の中に、後に中原で三国志の主役の一人である曹操と覇を競う男がいた。

呂布である。彼は丁原の主簿、平たくいえば副官になっていた。

呂布は後漢でもっとも典型的な支配者層に属している。即ち豪族である。豪族とは地方において土地や民を私有し一定の支配権を有する血縁集団のことだ。

後漢、特にその末期は豪族の力が非常に強い政権で、官につくのにも豪族であることか、もしくは豪族との繋がりがあることを重視されていた。そうでない場合は、宦官とのつながりが必要であったと考えていい。

ヘイ州の兵団の幕僚たちにも豪族出身者たちは多かった。

そして彼らは丁原を嫌悪していた。丁原は文を蔑ろにしすぎる。彼らとて四書五経全てに通じているわけではないが、官に就くものとして最低限の教養は身につけている。しかし丁原にはそれすらもないからだ。

粗暴であり、何をするにしても直観で動く。しかしながら能力があり、それを本人も自覚しているから始末が悪い。

呂布はその能力故に丁原から重宝されていたが、激しく起伏する感情を余さず発露する者へ仕えることに難渋していた。

丁原を嫌っているのは何も呂布に限った話ではない。ヘイ州人の他の有力者である張楊も張遼も丁原に心服していない。

教養もなく、粗暴だが、武と政争の才はある、そんな丁原はヘイ州人から恐れられはするが敬われない、そんな存在だった。

教育を下地にして醸成される共通した価値観や認識を同じくする者たちが上位の多くを占める組織で、その頂点にいる丁原だけがいわば異物となっている。そういった意味では指揮系統はしっかりしていてもヘイ州軍は歪な組織であるといえた。




宦官の対抗勢力たちは宦官たちのことを『濁流』と呼び、自分たちのことを『清流派』と称していたが、宦官との勢力争いに敗れて政界から追放されていた。だが西暦184年に起こった黄巾党の乱の際、彼らと黄巾党が結ぶのを恐れた中央政府はその処分を解いた。
その結果、彼らは外戚の何進の元へ結集し、再び宦官たちへ対抗し始めた。

その結果、都では宦官の実力者である蹇碩と何進の対立が激化し、蹇碩は何進の謀殺を図るまでになった。その企ては失敗し、何進派の武力を恐れた宦官たちは蹇碩を売り、何進は蹇碩を殺した。

また丁度その直前には皇帝劉宏が崩御、何進の異母妹にあたる何皇后が産んだ劉辮が次期皇帝として即位することとなったことにより、争いの趨勢は一気に何進派へ傾くこととなった。

丁原は蹇碩が死んだ後は宦官派との繋がりを断ちきって何進派としての旗幟を鮮明にした。

呂布をはじめとしたヘイ州人たちは丁原に従いながら洛陽の争いを眺めている。個人的な悪感情は別として、ここまでの丁原の決断に非難すべきところはない。だがヘイ州人たちが丁原という人物をヘイ州兵の頂点に据えてはおけないと確信させる一因となった事態が起きる。

宦官の強みは財力と自身が引き立ててやった官吏たちの人脈と、そして何よりも勅命を操れるという点にあった。

後漢では過去に宦官を武力で除こうという試みがなされたこともあるが、中央軍が宦官派の力を恐れたために思うように兵が集まらず、失敗している。

それを轍とし、何進は丁原をはじめとした他の軍を動員できる者たちを洛陽付近へ集め、武威を見せつけている。

宦官に反感を持った勢力がこれだけいることをアピールしていれば、何進が兵を挙げた際には洛陽内の兵を率いる者たちの決起を促すことができるだろうという目論見だ。

また、宦官の後ろ盾には何進の異母妹の何皇后と異母弟の何苗がいる。彼らに宦官を切り捨てるという決断を下させれば、宦官の討滅は成る。

丁原も洛陽へのアピールを目的とした示威活動を命じられた一人である。

彼のとった行動は苛烈極まるものであった。孟津を焼いたのだ。

孟津は洛陽の北にある。黄河に面したところに位置した施設だ。津というのは要するに渡し場なのだが、黄河ほどの河川になるとそれは交通や物流の要となっており、その機能はむしろ港と表現すべき規模の施設であった。丁原はそれを焼いた。

孟津を焼く炎は洛陽城内を照らすほどまであったといわれる。

たしかに洛陽の諸勢力を震撼せしめる行為であったが、それは何進派のとった行動と喧伝するのはいささか問題がある。経済的な損失が大きすぎるのだ。いくら宦官討滅のためとはいえ、丁原はやり過ぎた。

何進派は表向きの言い訳としてこれを賊の仕業と吹聴し、事実を糊塗した。

だが洛陽の諸勢力には丁原の政治的メッセージは届いた。孟津という北方のヘイ州との交通を断ったということは、つまり宦官を滅ぼすまでヘイ州へは帰らないという意思表明だ。洛陽外の勢力が兵を率いて宦官を討滅するという決意を明らかにしたのは初めてのことであり、漢帝国の大きな歴史の転機となった。

大事件を起こしたとはいえ、丁原が抜き差しならぬところまで何進派と接近し、繋がりを濃くしたという見方もできる。

何進派としても丁原のその姿勢には報いねばならぬと考え、丁原を執金吾に昇進させた。執金吾とは近衛兵の長官であるから、都での軍権を一部渡したということだ。

これにより丁原はヘイ州兵だけでなく近衛兵も統率できるようになったことになる。

丁原の政治的存在感はこの一事により大きくなった。


丁原の孟津を焼くという行為は洛陽を重く、ヘイ州を軽く見ていることを示している。呂布らヘイ州人士からすれば、まだどう転ぶかも分からない政局に命運を賭けることはリスクが高い。敵対意思をそこまで明確にしてしまうと、万が一宦官が何進派を圧倒した場合逃げ場がなくなってしまう。政権を再度宦官が一手に担うことになった場合、ヘイ州が敵対視されて苛政の標的とされるのは間違いない。

何進派につくにしてもいざという時には宦官に恭順して許しを得られる程度の距離であって欲しいというのがヘイ州人士の共通した思いである。

丁原は呂布らと違って豪族としての紐帯もなく、ヘイ州との地縁も薄い。だからこそできる博打であった。

この情勢の変化を目の当たりしながら、呂布は憂いていた。丁原のヘイ州兵に対する態度に今のところ変化はない。しかしながら呂布らの目からは丁原が近衛兵たちを必要以上に重視しているように映っていた。

先ほども述べた通り地縁の薄い丁原はヘイ州兵に拘る必要がない。むしろ配下の余計なしがらみのない近衛兵の方へ親しむ心を持つのは当然といえた。

しかしそうなるとヘイ州兵の指揮官である呂布らはやり辛い。

国家という概念が希薄な時代である。何をするにしても基本的には国家よりも、郷里を意識することが一般的であった。

呂布らは洛陽の政治事情がどうこうよりもヘイ州人の地位向上へ心を砕かねばならなかったのである。

相応の見返りがなければ、わざわざヘイ州から洛陽の政争へ首を突っ込みに来た意味がない。

それなのに丁原の態度は、そんなヘイ州人の態度を逆撫でするようなものだった。





何進派の勢力は日に日に重みを増していっている。少なくとも政争において宦官派の勝利の目は薄くなってきた。

そんな折、宦官たちは自派にとって最悪かつ安直な選択をした。何進の暗殺である。そして二度目の試みであるそれは成功した。

今までの政争であれば、声望を集めている首謀者を斬れば、それで反宦官運動は収まった。それは反宦官派が持つ軍権が相対的に小さく、首謀者個人の威や地位をよりどころにした運動であったことに起因していたのだが、それを宦官らは理解していなかった。何進の部下たちはその一党で都の内外で軍権をしっかりと握っている。彼らは大将軍何進が死んだところで宦官を恐れて矛を置く必要のない情勢だった。

当然ながら、何進の一党は軍事行動に出た。暗殺などしなければ宦官の有力者たちは放逐されるだけで済み、積み上げた富を持ったまま余生を過ごすことができたかもしれないが、後の祭りだ。さすがに宦官に同情的な何太后も庇うことはできない。

宦官らは速やかに皆殺しにされた。厳密にいうと宦官とは人間ではない。皇帝の手であり足であり目である。そして区域こそ違うが、皇帝が住む宮城に宦官も生活しているのだ。

この事件により帝室の権威は地に堕ちたといっていいだろう。それとも帝室の権威が地に堕ちているという現実が白日のもとに晒されたといった方が適切だろうか。

何進が死に、次に台頭してきたのは何進派の誘いに応じて軍を率い、宦官へ圧力をかけていた群雄の一人、董卓という者であった。彼は洛陽の西である涼州の出自であり、独自の勢力を築いていた野心家である。

董卓は丁原と同じように洛陽付近に自軍を率いて駐屯しながら、大将軍何進の元へ弟の董旻を派遣し、情勢を諜報させていた。

稀代の謀略家である董卓の手腕は見事であった。まずは皇帝劉辮を擁して洛陽を逃げ出していた宦官派の動きを偵知し、彼らを殺して劉辮を保護した。

董卓が他の何進派の有力者を差し置いて皇帝を保護したという功績は価値があった。

また、董卓が冴えていたところは宦官討滅の混乱に紛れ、並行してかねてから宦官との繋がりの深い何進の異母弟の何苗を董旻らに殺害させたことである。名目は宦官への通敵行為を理由としたものであったが、真偽は定かではない。何苗を殺したことにより、彼の率いていた兵もまた主を失うという結果になった。

洛陽の中で既存の軍権の大部分を持った何進、何苗、宦官たちが死んだ今、誰が官兵を率いる権利を有するのかという点において誰も答えを持つ者はいなかった。兵や部隊指揮官たちは次なるリーダーを求めた。

何進の右腕として陰に陽に活躍していたのは袁紹という者だった。まずまずの権力を持たされていたのだが、この袁紹はまだ若く、また洛陽に役人として勤めていたため私兵を持っていなかった。官兵を率いるにも、軍の中核となる私兵がいるといないでは大違いである。袁紹は大豪族の出身であり、兵を集めようと思えば集められる立場にあった。しかし混沌とする洛陽の情勢では『今』この時に兵がなければそれは何の意味もなさない。

そんな状態では、袁紹は何進の後継者となることはできなかったのである。

中央軍とはまったく別個の指揮系統にある兵を率い、事態を収拾できるだけの軍権を持っていたのは丁原と董卓だけであった。

公言こそされていなかったが、孟津の焼き打ちが誰の仕業であるかというのは周知の事実であったし、丁原の士大夫層に対する評判は頗る悪い。逆に宦官から皇帝劉辮を無事助け出したという大功を挙げた董卓の評判は高かった。

水が低きに流れるように軍兵は董卓の元へ集まりつつあった。

洛陽では董卓へ権力が集中しつつある。丁原は人の下風に立つ気はない。丁原の武器というのはヘイ州の兵と執金吾の肩書きしかない。仮に軍事的に董卓と対立する場合、何進の後ろ盾がない今、後者の方がどれだけ役に立つのかは疑わしい。

呂布らは決断を迫られていた。今、董卓と戦になれば間違いなく負ける。丁原の意地に引きずられてヘイ州の兵らまで無為に死なせては、郷里の父老たちに申し訳がたたない。

そして何よりも呂布ら諸将は己以外を顧みることのない上司に殉ずる気は毛頭なかった。

呂布らは共に語らった上で丁原を斬った。三国志の中には配下が主を殺す記述は数多ある。いずれの場合も斃れた主へ報いんとする家臣、または世論の反発等が大なり小なり記録されているが、丁原を斬った呂布らへの批難めいた記述は史書にない。

ヘイ州兵は董卓の傘下に入り、董卓は洛陽の兵権を全て手に入れた。
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