呂布の軌跡

灰戸礼二

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序章3 董卓のこと

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ここで董卓という人間について注目し、少し時間を戻してその生い立ちから追っていきたい。多少先述の内容と重なる部分もある。


董卓の父は潁川郡の綸氏県というところの尉(軍事担当官)だった。大して高い位ではない。イメージ的には街の警察署長みたいなものだ。
董卓の字は仲潁といい、弟の董旻の字は叔潁という。おそらく潁川郡にちなんだのだろう。早くに死んだ兄の董擢の字は孟高というから、二人は父が潁川郡にいた頃に生まれたようである。
後に一家は涼州隴西郡臨トウ県に移ったようであり、董卓はそこで青年時代を送った。
涼州は首都洛陽のはるか北西にあり、異民族と境を接する地である。董卓は異民族とよく交わり、その有力者たちと顔なじみになったという。
非常に武勇に優れた董卓は、その後隴西郡に出仕して盗賊の取り締まりや敵対的な異民族との戦いで名を挙げた。
軍人としての頭角を現した董卓はその後、涼州だけに留まらず様々な場所で様々な異民族との戦いで活躍し、斜陽の後漢では数少ない実戦経験に富んだ優れた将軍となった。
戦歴の中には、黄巾党の乱が起こった際には将軍に任じられて中原で戦ったが負けたという記述がある。辺境での戦とは勝手が違ったのかもしれないが詳細は不明だ。
黄巾党との戦いで負けても中央政府から董卓への信任は揺らぐことはなく、董卓は戦い続けた。
西暦188年になると、そんな董卓の元には少府(九卿と呼ばれる大臣の一人)に任じるため、洛陽へ出仕せよとの命令が届いた。率いる軍は別の者に渡せということらしい。
今さら不慣れな中央勤めなんぞ出来ないし、何よりも自らで育て上げた軍団をみすみす誰かにくれてやれなどという馬鹿げた命令に従う気が董卓にはなかった。外戚と宦官どもの有象無象が蠢く洛陽などに行って政争に巻き込まれるのも億劫である。
力を失いつつある漢王朝に董卓を賊として討伐する力などはない。治安が悪化しているため任地を離れられないという理由を盾に軍権を手放さない董卓に対し、それ以上のアクションを中央政府は取らなかった。

翌189年にはヘイ州の牧への就任要請があった。州牧は非常に強い権限を持つ。これには董卓も心を動かしたが、それでも任地へは軍を手放してから行けとの命令であったため、この命令も拒否した。
この前後、洛陽の重鎮である外戚の何進が接近してきた。何進の元へ結集した自称『清流派』の人士と宦官たちとの争いは有名だ。要は自派へ与せよとのことだった。董卓は情勢を分析すると、差し当たり何進へ協力することを決めた。仮に何進が負けても宦官たちに董卓の軍閥をどうこうする力はないと思ったからだ。ローリスクハイリターンな賭けだと董卓はほくそ笑んだ。

「叔潁よ、お前は洛陽へ行け」

董卓は弟の董旻に命じた。金銭や宝物も大量に持たせた。洛陽にて董旻は表向きは何進に仕えたが、基本的には董卓のためのロビー活動が目的で赴任してきている。何進もそれを承知の上で董旻を召し抱えた。
何進は董卓の軍事力を欲し、董卓は何進を後ろ盾として洛陽への影響力を欲している。
董旻は僅かな期間で諜報網を作り上げ、董卓は洛陽城外にいながら政争の様子をつぶさに知ることができた。
何進は何進で董卓を洛陽近辺に駐屯させ、その軍事力を背景に宦官たちを圧倒していった。

ある日、情勢が動いた。何進が宦官に暗殺されたのである。何進一派は報復に出て宮中に乱入し、宦官を皆殺しにしたという。その上、生き残った宦官たちは皇帝を連れて洛陽を脱出したというから驚きだ。
漢王朝の長い歴史の中でもトップクラスの珍事と言っていい。
この情報を手に入れた時の董卓の興奮は筆舌し難いものがあった。

「何として陛下を手に入れろ。陛下を見つけ出した者には何でも望み通りの褒美を与える」

董卓は動悸を押し殺して重々しく下知すると、僅かな人員を本営に残し、ほぼ全軍を方々へ散らした。

「叔潁へ伝えよ。必ず何苗を殺せと。事は一刻を争うぞ。全力で駆けよ。儂の馬に乗って行っていい。替え馬も持って行け。潰しても構わんし、馬は乗り捨てよ。ひたすら鞭を叩いて急ぐのだ。何苗を殺せればお主らには一生遊んで暮らせるだけの褒美を与える」

それから董卓は洛陽城内から情報を持って帰って来た者たちへ鬼気迫る表情でそう告げた。弾き出されるように彼らは董卓の営を飛び出した。

洛陽がとてつもない混乱の中にあるのは容易に想像できた。今の情勢下で大きな兵力を持つのは何進の弟の何苗だけである。後は雑魚ばかりなのだ。何苗を殺せればますます混乱は深まる。そうなると誰が頼られるのか、自分以外いないではないか。丁原という者も董卓と同じように洛陽城外にてある程度まとまった軍を率いているようだが、評判は良くない。董卓のライバルにはなり得ないだろう。
全てが上手く行けばどれほどの利益が見込めるだろうか、と董卓はほくそ笑んだ。
ちなみに何苗は親宦官の立場であり、実際問題として何苗が生きていると何進一派にとって不利益なことが起こる可能性があったため、董卓の取った行動にはある意味では自衛の要素も入っていた。

董旻はうまくやった。何苗は宦官に通じており、何進の死も何苗の謀が原因である。何苗は自身の軍権を使って兵を集め、何進派の人間たちを殺そうとしている。殺される前に殺さなければならない。こう言って何進の側近の一人をそそのかし、共に何苗を討ったのだ。状況が状況であり、董旻の言葉には蓋然性もあった。首尾よく何苗は死に、洛陽はさらに混沌とした。

そしてそれに並行して行われていた流浪の皇帝の捜索がうまくいった。皇帝が発見されたとの知らせを聞いた董卓はほとんど身一つの状態で皇帝の元へ急いだ。

「ご無事で何よりでございました。臣が陛下をお守りし、還御をお手伝いいたしましょう」
皇帝の目の前で拝跪し、空々しく忠誠の言葉を吐きながら、董卓は勝ったと思った。
宦官は死んだ。何進は死んだ。何苗も死んだという報告が先ほど入った。皇帝を連れていた宦官の生き残りたちも死んだ。董卓の邪魔をする者は誰もいない。

今までのどんな大功を立てた時よりも胸を張り、董卓は堂々と洛陽へ向かって進む。
その足取りは非常に緩やかだ。道々の民家から徴発した粗末な車を馬に引かせており、それに歩調をあわせる必要があったからだ。車に揺られるのは皇帝劉辮とその異母弟の陳留王劉協である。
劉辮は十四歳とも十七歳とも言われているが、既に自分の意思を持てる年ごろであった。生母は何進の妹である何太后(先代の帝の妻)。劉協はまだ子供であった。母親はすぐに亡くしており、劉宏の生母である董太皇太后(先代の帝である劉宏の母・この時には既に死亡)に扶育されていた。

この皇帝は廃するか、と董卓は心の中で決めた。前例はある。天子廃立は、遠い昔の商(殷)王朝で伊尹という者が行ったことと、前漢で霍光という者が行ったことから、『伊霍の故事』と呼ばれる。また廃立ではないものの、後漢では九代皇帝の劉炳と十代皇帝の劉サンは外戚により毒殺されているということもある。
皇帝の座が神聖不可侵というのも昔の話であり、今では単なる政争の具に過ぎない。
董卓から見ると今の群臣どもは阿呆である。黄巾党の乱で『清流派』の名士たちが復権したのに宦官どもの跳梁を許したままにし、絶対的に優勢な状況でみすみす主の何進を討たれるのを許したことは度し難い。
今上の皇帝をそのままに董卓が朝政を握った場合どうなるか。洛陽の混乱を鎮めた董卓の有難味もすぐに忘れ、阿呆どもは皇帝に群がるだろう。皇帝も自分を推し立ててくれたのが何進であり、その一派であることは分かっている。無碍にもできまい。皇帝の生母である何太后も陰に陽に阿呆どもを後援するはずだ。政治はまた阿呆どもの玩具になってしまう。
それならば皇帝を挿げ替え、皇帝と連中の繋がりを断ち、董卓が主導して漢という国家の舵取りを行える環境を整えるべきだろう。幸い劉協には有力な後ろ盾はおらず、年少であるため董卓の邪魔にはならない。擁立するにはうってつけだった。
この董卓の思考は多少自分勝手ではあるものの、別におかしくはない。対価として相応の財と権力を懐に入れることを差し引いても、だ。
確かに董卓によって混乱は鎮まったのである。これだけは揺るぎのない事実だった。そしてこの時の董卓には少なくとも宦官や外戚たちの悪政よりはマシな政治を行おうという気持ちがあった。

歓呼によって洛陽に迎えられた董卓がまずしたのは、兵権を一身に集めることだった。
ほとんど唯一の董卓の対抗馬となり得る存在である丁原は、その配下の幹部たちとうまくいっていなかった。しかし丁原は董卓に恭順するどころか敵対しようとすらしたため、董卓が水を向けると丁原の部下たちはすぐに丁原を斬って董卓になびいた。多くの者の命を預かる身で捨て身の戦いを挑もうとする阿呆なのだから斬られて当然だと董卓は思った。
それ以外に董卓に対抗しようとする者はおらず、洛陽の兵権は董卓のものとなった。

それからの権力掌握は大した障害もなく進んだ。まずは司空(三公と呼ばれる大臣の一つ。九卿の上)になり、それから皇帝を劉辮から劉協に変えた。劉協に有力な後ろ盾はなく、また年少であったためである。ちなみに旧何進派と結ぶ可能性があった何皇太后は殺された。
その後も董卓はどんどん自身の位を進め、ついには相国という国家元首にも等しい地位についた。この地位は董卓がつくまでは数百年間空位になっていた。あまりにも権力が強すぎるためだが、董卓にとっては非常に都合の良い地位であった。

董卓は自身の地位を確固としたものにすると、今度は次々と名士たちを取り立てていった。これまで宦官の一派が占めていた職は空位になったため、ポストはいくらでもあった。無難な采配だろう。董卓の治世はまずまずの滑り出しで始まったといえる。
だがしかし董卓に反発して次々と洛陽から去っていく者が出てくることは董卓を苛立たせた。

――あやつらは何が不満で出て行くのだろうか。

董卓は真剣に理解できなかった。
董卓の部下には知略が秀でている者もいるにはいるが、その知性はあくまで戦の中の謀に用いられるものだ。
軍閥の主に過ぎない董卓には内政のブレーンがいない。必然的に旧何進派の名士たちに頼らざるを得なかった。董卓の専横といってもタカが知れているのである。大筋の主導権は握るが国家の運営は自身の部下以外の者に委ねるのだから名士たちの既得権益を害していない。
財や将軍位や封地(私有地)を部下や身内にばらまいてはいるが宦官たちの行っていたえげつない悪政と比べると可愛いものである。少なくとも部下を将校に留め、国政に関わらせていないことは董卓にある種のバランス感覚があることを示していた。

その内に洛陽を去った者たちへ官職を授けた方が良いと献言する者が現れた。まあ不穏分子化するよりはマシだろう、と董卓はその通りにした。
またある者は人物を推薦し、この者たちを州や郡の高官にしてくれと願い出た。董卓はこれも許した。
この頃の董卓は名士たちとの融和を重要視していた。だがその気持ちは名士たちに伝わらなかったようである。

父祖に顕官がおらず、魑魅魍魎が蠢く洛陽の闇を肌で知らない董卓には自分が名士たちの目からどのように映っているかがわからない。
名士たちは代々何度も陰惨な事例を見てきた。首都洛陽の権力を握った者に友を、肉親を、部下を、上司を、虐げられ、殺されても何の抵抗できないという恐怖を彼らは何度も味わってきたのである。
一つの党派が力を持つならまだ良い。党派内の人物同士がお互いを牽制するからだ。しかし一個人に権力が集中しているという現状が、彼らに焦燥感を惹起させていた。
独裁アレルギーとでも呼べる病に罹患していた名士たちにとって、兵権を独占したまま国政を握る董卓は『まだ』無道なことをしていないだけの恐怖の象徴でしかなかった。
董卓の合理性と理性はただ董卓だけが知っており、他の誰もが知らなかった。
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