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序章4 董卓、その後
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動乱の189年が終わり、190年になった。董卓とその一党が我が世の春を謳歌していた時のことである。
「何の冗談なのだ、それは」
ある日、董卓に対し不満を募らせた者たちが一斉に挙兵したという知らせが入り、董卓は思わずそう言った。しかも挙兵した連中は董卓が与えた地位で兵を集めたらしい。厚顔無恥にも程がある。
ここ五十年間ほどの権力者たちと比べるとまだまともな政を行っているという自負が董卓にはあった。
多少蓄財に励み、身内や部下たちを引き立ててはいたが、一種の節度は守っていると董卓は自己評価していた。矛を向けられる謂われはない。少なくとも董卓はそう考えた。
驚きと困惑の次に董卓に湧き上がったのは憤怒であった。
反董卓連合と称する集まりの首魁は袁紹らしいと聞いた董卓は苦々しい顔をする。若いながらに何進の懐刀を気取っていた俊英である。何進を討たれた間抜けとはいえ、人望はあると聞く。連合の参加者を裏切らせて袁紹を討たせるのは難しいだろう。反面、敵の兵数は多いとはいえ連合の参加者たちがどの程度真剣に董卓と戦うつもりがあるのかも疑問である。つけ込むところはそこだろう。董卓は怒りに震えながらも策を練った。
まず何よりも優先したのは首都洛陽の西にある長安へ皇帝の劉協を移したことである。首都洛陽には役人の数が多く、反董卓連合の参加者の親類や縁者が山ほどいる。皇帝の身柄が奪われることを董卓は危惧したのだった。
並行して行ったのは、董卓によって廃立された皇帝である劉辮の殺害である。劉辮は王の位を得て静かに暮らしていた。その身が反董卓連合の手に渡った場合、彼らは劉辮を皇帝として改めて擁立するだろう。そうなると皇帝を擁しているという董卓の政治的な強みは弱まってしまう。
今上の皇帝である劉協と違い、劉辮の存在は董卓にとって何の存在価値もない。旧何進派の連中を刺激したくなかったため生かしておいたが、現況ではむしろ董卓にとっての急所にすらなり得たのである。
また、見せしめとして袁紹の一族は皆殺しにした。これは政治的なパフォーマンスの色も強い。『董卓に逆らうと親族たちはこうなるぞ』という反董卓連合に与したいと考える者たちへの雄弁な脅しだ。
その次に董卓は攻めやすい敵を選んで何度か戦い、そして撃破した。反董卓連合は所詮董卓憎しで集まっただけの寄せ集めである。兵を率いる者たちは大きな被害が出ることを嫌い、大規模な進軍を控えるようになった。
190年中にはそれ以上の大きな動きはない。
西暦191年になると董卓の軍は一度だけ大きな敗北を喫した。
史書には具体的な記述がある。反董卓連合の重鎮の一人である袁術、その部将の孫堅という者が董卓の支配領域の近くに駐屯していた。董卓はこれを討たせようとして、胡軫という者を総大将に、呂布をその副将として討伐軍を編成した。しかしこの涼州人である胡軫と呂布の不和のため軍は乱れ、孫堅に打ち破られてしまったという。
この話の中には呂布がわざわざ偽の情報を流して胡軫を混乱させたという部分がある。この戦いは実際にあったようだから完全な作り話というわけでもないだろうが、それが真実かどうかは首を傾げざるを得ない。そんなことをしたのが何らかの形で董卓側に漏れた場合、呂布の打ち首では済まないからだ。そこまでリスクを冒して一切自分にメリットのないことをするという人物象は、他の記述から浮かび上がる呂布像からは著しく乖離する。
しかし仮に作り話であったとしても、その話が作られる下地として涼州兵とヘイ州兵の対立があったということの傍証にはなる。
ヘイ州兵の指揮官の記述がこの時期の戦いにおいて非常に少ないのは、おそらくヘイ州兵が董卓に用いられなかったためだろう。董卓が絶対の信頼を置くのは自分の育て上げた涼州兵であったし、数が必要であれば洛陽の兵を動かせば済む。ヘイ州兵は傘下にいるとはいえ、董卓自前の兵ではない。多数の者から裏切られている董卓からすると、子飼い以外の独立した指揮系統を持つ兵たちを信用しきれなかったのだと推察される。
後にヘイ州人は董卓へ牙を剥くが、その一因としては自分たちが飼い殺しにされて活躍の場を与えられなかったということもあるのかもしれない。
話を戻す。この敗北を受け、もう潮時だと考えた董卓は洛陽を焼き、長安に去った。皇帝は昨年その身を長安に移されているが、実際の首都機能が長安に移ったのはおそらくこの頃だと思われる。
洛陽は北、東、南から敵を受ける地勢であった。長安にいれば敵は東からしか来ず、非常に守りやすい。
しかし董卓は安全な長安で座して嵐が過ぎ去るのを待っていたわけではない。東に派兵して敵を打ち破ったりもしたが、特筆すべきは長安に移る前後から、兵糧に向いた保存の利く食糧を大規模に買い集めたことと、インフレーションを人為的に起こしたことである。
この頃は貨幣経済が非常に発展していた。董卓と敵対する豪族や名士たちは財を金銭で溜めこんでいる者も多く、それが反董卓連合の軍事力の源泉の一つとなっていたことに董卓は着目したのである。
わざわざ粗悪な貨幣を鋳造し、それで兵糧を買い付ける。商人たちはその粗悪な貨幣を嫌って高値をつける。董卓は言い値でそれを買わせることで、どんどんその価格はつり上がった。
中央政府の権力を握っているということは通貨の発行ができるということである。董卓はどんどん新貨幣を鋳造した。国庫にあった、元々流通していた五銖銭という良質な貨幣もわざわざ鋳潰して原料に充てたし、当時の洛陽や長安にあった様々な銅像なども破壊して原料を調達したという記録がある。そのほとんどを費やして兵糧は買われた。
兵糧は董卓の元に文字通り山のごとく集まり、東にいる董卓の敵たちは兵糧の確保に苦労するようになった。気がついた時には彼らが溜め込んでいた貨幣も価値は暴落しており、何の役にも立たない。
兵糧を買い占めて敵の手に渡らないようにする手法は、籠城をし難くするため攻城戦の前に秘密裏に部下を派遣して行うのが一般的だが、董卓は敵の攻勢意欲を削ぐためにそれを国家規模で行った。単に付近の食糧を買い占めただけでは他の地方から購入されてしまう。そのため董卓は通貨の信用力を著しく低減させ、売買や流通などの経済活動を麻痺させることでそれを防いだ。当たり前だがこれは反董卓連合の参加者たちだけのデメリットではない。
中央政府が持つ通貨を発行する権限、言い換えると経済を統制する力を董卓は使い捨てたのである。
後年、漢の後継王朝である魏という国は、漢代には一般的であった銭納と呼ばれる金銭による方法から物納と呼ばれる、文字通り物を直接国庫に納付する方法に納税方法を変えている。これは貨幣経済を再浸透させるのに多大な時間を要し、王朝が変わってもなおそれが途上にあったことを示している。
経済学で有名なグレシャムの法則でいう『悪貨は良貨を駆逐する』という言葉通りの事象を董卓は起こした。悪貨で良貨を意図的に駆逐した中央政府の最高権力者は古今東西でも董卓しかいない。
結局、董卓の策が決め手となり、内輪もめなどもあって反董卓連合は瓦解することになった。191年の夏のことである。
董卓の策は戦略としては成功した。そう、戦略としては。だがこの一事は董卓の致命傷の一つとなった。
この未曾有の経済的なダメージは漢王朝にトドメをさせることとなった。もちろん自らの策がどのような影響をもたらすか承知の上で董卓はそれをやった。
董卓は身の安全を図るため国を潰したのである。董卓がは政治的には決してしてはならないことをした。
たとえ被害が出ようとも、負ける可能性があろうとも、董卓は反董卓連合を力でねじ伏せるべきだったのである。
董卓の心の奥底にあった為政者としての気構えはいつの間にか消え失せてしまったらしい。
それはマクロな政策だけでなく、ミクロな行動にも顕れている。
董卓は権力の座についてから何人もの士人を殺している。それは自らを殺そうとした者であったり、敵対者の一族であったりする。ただし、理由なく殺したことはない。
それがこの頃になって初めて、罪を誣告(嘘の告発)させて殺したという記述がはっきりと史書に出てくるのである。
殺されたのは以前董卓が上司として仕えたことのある人物で、その頃に董卓と確執があったらしい。そんな昔のことで罪をでっち上げられてはたまらない。この頃の董卓は猜疑心が強くなっていたようである。
董卓の旧来の部下以外の者たちは戦々恐々としていた。
統一国家としての機能を損なうほどの経済的な混乱を引き起こし、さらには罪なき者を殺すようになった董卓の求心力は急速に萎んだ。
日を追うごとに国家の建てなおしは難しくなる。そう考えたヘイ州人の王允という、元何進一派でいながら董卓に重用されていた王允という者が董卓暗殺を企て、そしてそれを実行した。呂布も同郷人として協力した。
呂布個人は董卓には引きたてられていたようだが、その暴政はさすがに看過することはできなかったのだ。また董卓の精神的な変調も無関係ではないだろう。ひょっとするとあらぬ疑いをかけられ、次は自分たちヘイ州人が殺されるかもしれないという恐怖もあったはずだ。
呂布はこの時点でただの部隊長であり、一人の勇者である。政治的行動を主導できる立場になかったことも付け加えておく必要がある。
史書に残る董卓の短絡的で必要以上に残虐なエピソードには何の根拠もない。
董卓は権力を掌握したが、名士層の取り込みに失敗したため戦いとなった。
そしてその対応として国が揺らぐような策を採り、自分についてきている者たちの支持も失った。
要はそれだけである。董卓は間違いなく一流の戦略家であり、また謀略にも長けている。だが軍人しか経験のない彼には政治力が欠けていたのだろう。結局のところ董卓は歴史に悪名を残すことになってしまったが、しかしこれは彼だけのせいでもない。別の見方をするならば名士たちもまた董卓との融和に失敗したのである。
三国志を題材とした作品では董卓ばかりが悪役とされがちではあるが、その扱いは少々疑問ではある。
先ほども述べた通り、この時代は国家よりもまず郷里を意識するのが一般的であった。王允に ヘイ州人による政権を打ち立てたいという俗な欲望もあったに違いないが、何とか董卓の失政による混乱を沈静化したいという気概も併せ持っていたようだ。
だがそれが果たされることはなかった。
その後、権力を握った王允が元董卓一派の涼州人を許そうとしなかったのは大きな間違いであった。
逃げ場をなくした涼州兵やその指揮官たちは結束し、戦いを挑んできた。涼州兵は主を失ったもののその数は多く、呂布らは敗れた。
長安はすぐに落ち、王允は城と運命を共にした。
陥落寸前に呂布は手兵を率いて脱出した。その後呂布はしばらく中原をさまようこととなる。
敗残の呂布につき従うのは数百であった。長安が失陥した際に兵は四散した。郷里のヘイ州に逃げ帰った者も多い。だが呂布を始めとしたヘイ州兵の中核を担う者たちは帰ることができない。董卓を斬った彼らがヘイ州に帰れば今の中央政権を牛耳る涼州出身者たちは放っておかないだろう。
呂布たちにとって最早ヘイ州人という枠組みは無意味なものとなっていた。
一同の表情は悲壮なものかといえばそうでもない。郷里に帰りたいが帰れない者も中にはいるが、それよりもむしろこれからの未来に期待を膨らませている者の方が多い。
世は後にいう『中原に鹿を逐う』状態である。誰もが統一王朝である後漢がもう既に崩れつつあるのを感じていた。
そんな世で、彼らは呂布につき従えば富貴の身になれると信じたのだ。
そしてそれを信じるに足る根拠を彼らは持っていた。
現代以前の戦争では、数こそが力であるという原則は変わらない。だが兵数イコール兵力とはならない。数の他に兵力を決定づける要として、装備と士気がある。
この時代、兵はいくつかの手段で調達されていた。
一つは徴兵。統治者が強制的に民を徴発するやり方である。当然ながら彼らの士気は低い。支配者が安定している時はそれでもややマシだが、支配者が頻繁に変わって安定しない乱世ではさらにその士気は低くなる。今日の敵が明日の主に変わりかねないのだから当然だろう。
もう一つは募兵である。給料によって集められた一種の職業軍人である。彼らは徴兵によって集められた者たちよりも士気は高い。だが支配者との地縁がない分、自軍が不利になった場合は逃亡したところでペナルティがないため、劣勢時は徴発された者たち以上の脆さもあった。
そして、私兵がある。豪族たちによる私有民から選ばれる兵は、その指揮者への個人的忠誠心もあるため士気が高い。また多くの場合はその豪族の所有するコミュニティに生活基盤があり、逃亡した時にはその累が家族にも及ぶことは徴発された者たちと同じである。そのため自軍が不利になった際にも粘り強さを発揮できた。だが君主が私兵を持つ者を指揮官として用いる場合、指揮官が自身の兵を惜しむことも多いため、多大な損害が予想される作戦には用いにくいという側面もあった。
当時の兵はおおよそ上記三つの属性であったと見ていい。呂布たちのような集団はそのいずれにも属さないが、性質としては私兵に近かった。
呂布の率いる兵は数百とはいえ、長安から落ちのびる際には騎馬を多く連れて行ったため全員が騎兵である。その上、劉宏政権による軍備拡充策によって洛陽に集積され、後に董卓によって長安に移された装備品もある程度持ちだすことができていた。黄巾の乱以降、全土で冶金施設や兵器工房などが荒廃している中で、質の高い装備を持つことは大きな戦力になる。
そして兵の構成の大半はヘイ州出身者で、呂布個人との結びつきが強く、士気が高い。また幼い頃から馬に親しんでいる者が多く、騎兵として錬成されていた。
その他特筆すべきこととして、馬がある。
中原は草原に乏しく、馬の育成には不向きである。よって馬格は相対的に小さくなりがちであったが、現在の内蒙古自治区である呂布の郷里は馬の育成に適した環境であり、産する馬のは非常に大きく体力があった。その他、長安から持ち出した馬もいわゆる名産地から買われたものが多かった。呂布らの馬は一般的な中原の馬よりもはるかに優れていたのだ。
当時の騎兵と呼ぶ兵科はイコール軽騎兵のことを指していた。彼らの装備は主に弓で、近中距離では匕首などの投擲武器を使用することも多かった。用途も機動力を活かした運用をされることが主で、中世欧州を舞台とした映画などで見られる、甲冑を着込んで突撃するような運用は基本的にはされていない。
だが呂布たちの用いる馬ならば当時としては珍しい馬鎧を着込み、それこそ映画のワンシーンのような重騎兵突撃という芸当もできた。
述べた通り、呂布の率いるのは数百である。だがそれはただの数百ではない。錬度も士気も高く、装備も充実している。戦力としては数千の雑兵など一蹴できるだけのものがあった。
長安を落ち延びた後、彼らはその軍事力を背景に徐々に存在感を増していくこととなる。
「何の冗談なのだ、それは」
ある日、董卓に対し不満を募らせた者たちが一斉に挙兵したという知らせが入り、董卓は思わずそう言った。しかも挙兵した連中は董卓が与えた地位で兵を集めたらしい。厚顔無恥にも程がある。
ここ五十年間ほどの権力者たちと比べるとまだまともな政を行っているという自負が董卓にはあった。
多少蓄財に励み、身内や部下たちを引き立ててはいたが、一種の節度は守っていると董卓は自己評価していた。矛を向けられる謂われはない。少なくとも董卓はそう考えた。
驚きと困惑の次に董卓に湧き上がったのは憤怒であった。
反董卓連合と称する集まりの首魁は袁紹らしいと聞いた董卓は苦々しい顔をする。若いながらに何進の懐刀を気取っていた俊英である。何進を討たれた間抜けとはいえ、人望はあると聞く。連合の参加者を裏切らせて袁紹を討たせるのは難しいだろう。反面、敵の兵数は多いとはいえ連合の参加者たちがどの程度真剣に董卓と戦うつもりがあるのかも疑問である。つけ込むところはそこだろう。董卓は怒りに震えながらも策を練った。
まず何よりも優先したのは首都洛陽の西にある長安へ皇帝の劉協を移したことである。首都洛陽には役人の数が多く、反董卓連合の参加者の親類や縁者が山ほどいる。皇帝の身柄が奪われることを董卓は危惧したのだった。
並行して行ったのは、董卓によって廃立された皇帝である劉辮の殺害である。劉辮は王の位を得て静かに暮らしていた。その身が反董卓連合の手に渡った場合、彼らは劉辮を皇帝として改めて擁立するだろう。そうなると皇帝を擁しているという董卓の政治的な強みは弱まってしまう。
今上の皇帝である劉協と違い、劉辮の存在は董卓にとって何の存在価値もない。旧何進派の連中を刺激したくなかったため生かしておいたが、現況ではむしろ董卓にとっての急所にすらなり得たのである。
また、見せしめとして袁紹の一族は皆殺しにした。これは政治的なパフォーマンスの色も強い。『董卓に逆らうと親族たちはこうなるぞ』という反董卓連合に与したいと考える者たちへの雄弁な脅しだ。
その次に董卓は攻めやすい敵を選んで何度か戦い、そして撃破した。反董卓連合は所詮董卓憎しで集まっただけの寄せ集めである。兵を率いる者たちは大きな被害が出ることを嫌い、大規模な進軍を控えるようになった。
190年中にはそれ以上の大きな動きはない。
西暦191年になると董卓の軍は一度だけ大きな敗北を喫した。
史書には具体的な記述がある。反董卓連合の重鎮の一人である袁術、その部将の孫堅という者が董卓の支配領域の近くに駐屯していた。董卓はこれを討たせようとして、胡軫という者を総大将に、呂布をその副将として討伐軍を編成した。しかしこの涼州人である胡軫と呂布の不和のため軍は乱れ、孫堅に打ち破られてしまったという。
この話の中には呂布がわざわざ偽の情報を流して胡軫を混乱させたという部分がある。この戦いは実際にあったようだから完全な作り話というわけでもないだろうが、それが真実かどうかは首を傾げざるを得ない。そんなことをしたのが何らかの形で董卓側に漏れた場合、呂布の打ち首では済まないからだ。そこまでリスクを冒して一切自分にメリットのないことをするという人物象は、他の記述から浮かび上がる呂布像からは著しく乖離する。
しかし仮に作り話であったとしても、その話が作られる下地として涼州兵とヘイ州兵の対立があったということの傍証にはなる。
ヘイ州兵の指揮官の記述がこの時期の戦いにおいて非常に少ないのは、おそらくヘイ州兵が董卓に用いられなかったためだろう。董卓が絶対の信頼を置くのは自分の育て上げた涼州兵であったし、数が必要であれば洛陽の兵を動かせば済む。ヘイ州兵は傘下にいるとはいえ、董卓自前の兵ではない。多数の者から裏切られている董卓からすると、子飼い以外の独立した指揮系統を持つ兵たちを信用しきれなかったのだと推察される。
後にヘイ州人は董卓へ牙を剥くが、その一因としては自分たちが飼い殺しにされて活躍の場を与えられなかったということもあるのかもしれない。
話を戻す。この敗北を受け、もう潮時だと考えた董卓は洛陽を焼き、長安に去った。皇帝は昨年その身を長安に移されているが、実際の首都機能が長安に移ったのはおそらくこの頃だと思われる。
洛陽は北、東、南から敵を受ける地勢であった。長安にいれば敵は東からしか来ず、非常に守りやすい。
しかし董卓は安全な長安で座して嵐が過ぎ去るのを待っていたわけではない。東に派兵して敵を打ち破ったりもしたが、特筆すべきは長安に移る前後から、兵糧に向いた保存の利く食糧を大規模に買い集めたことと、インフレーションを人為的に起こしたことである。
この頃は貨幣経済が非常に発展していた。董卓と敵対する豪族や名士たちは財を金銭で溜めこんでいる者も多く、それが反董卓連合の軍事力の源泉の一つとなっていたことに董卓は着目したのである。
わざわざ粗悪な貨幣を鋳造し、それで兵糧を買い付ける。商人たちはその粗悪な貨幣を嫌って高値をつける。董卓は言い値でそれを買わせることで、どんどんその価格はつり上がった。
中央政府の権力を握っているということは通貨の発行ができるということである。董卓はどんどん新貨幣を鋳造した。国庫にあった、元々流通していた五銖銭という良質な貨幣もわざわざ鋳潰して原料に充てたし、当時の洛陽や長安にあった様々な銅像なども破壊して原料を調達したという記録がある。そのほとんどを費やして兵糧は買われた。
兵糧は董卓の元に文字通り山のごとく集まり、東にいる董卓の敵たちは兵糧の確保に苦労するようになった。気がついた時には彼らが溜め込んでいた貨幣も価値は暴落しており、何の役にも立たない。
兵糧を買い占めて敵の手に渡らないようにする手法は、籠城をし難くするため攻城戦の前に秘密裏に部下を派遣して行うのが一般的だが、董卓は敵の攻勢意欲を削ぐためにそれを国家規模で行った。単に付近の食糧を買い占めただけでは他の地方から購入されてしまう。そのため董卓は通貨の信用力を著しく低減させ、売買や流通などの経済活動を麻痺させることでそれを防いだ。当たり前だがこれは反董卓連合の参加者たちだけのデメリットではない。
中央政府が持つ通貨を発行する権限、言い換えると経済を統制する力を董卓は使い捨てたのである。
後年、漢の後継王朝である魏という国は、漢代には一般的であった銭納と呼ばれる金銭による方法から物納と呼ばれる、文字通り物を直接国庫に納付する方法に納税方法を変えている。これは貨幣経済を再浸透させるのに多大な時間を要し、王朝が変わってもなおそれが途上にあったことを示している。
経済学で有名なグレシャムの法則でいう『悪貨は良貨を駆逐する』という言葉通りの事象を董卓は起こした。悪貨で良貨を意図的に駆逐した中央政府の最高権力者は古今東西でも董卓しかいない。
結局、董卓の策が決め手となり、内輪もめなどもあって反董卓連合は瓦解することになった。191年の夏のことである。
董卓の策は戦略としては成功した。そう、戦略としては。だがこの一事は董卓の致命傷の一つとなった。
この未曾有の経済的なダメージは漢王朝にトドメをさせることとなった。もちろん自らの策がどのような影響をもたらすか承知の上で董卓はそれをやった。
董卓は身の安全を図るため国を潰したのである。董卓がは政治的には決してしてはならないことをした。
たとえ被害が出ようとも、負ける可能性があろうとも、董卓は反董卓連合を力でねじ伏せるべきだったのである。
董卓の心の奥底にあった為政者としての気構えはいつの間にか消え失せてしまったらしい。
それはマクロな政策だけでなく、ミクロな行動にも顕れている。
董卓は権力の座についてから何人もの士人を殺している。それは自らを殺そうとした者であったり、敵対者の一族であったりする。ただし、理由なく殺したことはない。
それがこの頃になって初めて、罪を誣告(嘘の告発)させて殺したという記述がはっきりと史書に出てくるのである。
殺されたのは以前董卓が上司として仕えたことのある人物で、その頃に董卓と確執があったらしい。そんな昔のことで罪をでっち上げられてはたまらない。この頃の董卓は猜疑心が強くなっていたようである。
董卓の旧来の部下以外の者たちは戦々恐々としていた。
統一国家としての機能を損なうほどの経済的な混乱を引き起こし、さらには罪なき者を殺すようになった董卓の求心力は急速に萎んだ。
日を追うごとに国家の建てなおしは難しくなる。そう考えたヘイ州人の王允という、元何進一派でいながら董卓に重用されていた王允という者が董卓暗殺を企て、そしてそれを実行した。呂布も同郷人として協力した。
呂布個人は董卓には引きたてられていたようだが、その暴政はさすがに看過することはできなかったのだ。また董卓の精神的な変調も無関係ではないだろう。ひょっとするとあらぬ疑いをかけられ、次は自分たちヘイ州人が殺されるかもしれないという恐怖もあったはずだ。
呂布はこの時点でただの部隊長であり、一人の勇者である。政治的行動を主導できる立場になかったことも付け加えておく必要がある。
史書に残る董卓の短絡的で必要以上に残虐なエピソードには何の根拠もない。
董卓は権力を掌握したが、名士層の取り込みに失敗したため戦いとなった。
そしてその対応として国が揺らぐような策を採り、自分についてきている者たちの支持も失った。
要はそれだけである。董卓は間違いなく一流の戦略家であり、また謀略にも長けている。だが軍人しか経験のない彼には政治力が欠けていたのだろう。結局のところ董卓は歴史に悪名を残すことになってしまったが、しかしこれは彼だけのせいでもない。別の見方をするならば名士たちもまた董卓との融和に失敗したのである。
三国志を題材とした作品では董卓ばかりが悪役とされがちではあるが、その扱いは少々疑問ではある。
先ほども述べた通り、この時代は国家よりもまず郷里を意識するのが一般的であった。王允に ヘイ州人による政権を打ち立てたいという俗な欲望もあったに違いないが、何とか董卓の失政による混乱を沈静化したいという気概も併せ持っていたようだ。
だがそれが果たされることはなかった。
その後、権力を握った王允が元董卓一派の涼州人を許そうとしなかったのは大きな間違いであった。
逃げ場をなくした涼州兵やその指揮官たちは結束し、戦いを挑んできた。涼州兵は主を失ったもののその数は多く、呂布らは敗れた。
長安はすぐに落ち、王允は城と運命を共にした。
陥落寸前に呂布は手兵を率いて脱出した。その後呂布はしばらく中原をさまようこととなる。
敗残の呂布につき従うのは数百であった。長安が失陥した際に兵は四散した。郷里のヘイ州に逃げ帰った者も多い。だが呂布を始めとしたヘイ州兵の中核を担う者たちは帰ることができない。董卓を斬った彼らがヘイ州に帰れば今の中央政権を牛耳る涼州出身者たちは放っておかないだろう。
呂布たちにとって最早ヘイ州人という枠組みは無意味なものとなっていた。
一同の表情は悲壮なものかといえばそうでもない。郷里に帰りたいが帰れない者も中にはいるが、それよりもむしろこれからの未来に期待を膨らませている者の方が多い。
世は後にいう『中原に鹿を逐う』状態である。誰もが統一王朝である後漢がもう既に崩れつつあるのを感じていた。
そんな世で、彼らは呂布につき従えば富貴の身になれると信じたのだ。
そしてそれを信じるに足る根拠を彼らは持っていた。
現代以前の戦争では、数こそが力であるという原則は変わらない。だが兵数イコール兵力とはならない。数の他に兵力を決定づける要として、装備と士気がある。
この時代、兵はいくつかの手段で調達されていた。
一つは徴兵。統治者が強制的に民を徴発するやり方である。当然ながら彼らの士気は低い。支配者が安定している時はそれでもややマシだが、支配者が頻繁に変わって安定しない乱世ではさらにその士気は低くなる。今日の敵が明日の主に変わりかねないのだから当然だろう。
もう一つは募兵である。給料によって集められた一種の職業軍人である。彼らは徴兵によって集められた者たちよりも士気は高い。だが支配者との地縁がない分、自軍が不利になった場合は逃亡したところでペナルティがないため、劣勢時は徴発された者たち以上の脆さもあった。
そして、私兵がある。豪族たちによる私有民から選ばれる兵は、その指揮者への個人的忠誠心もあるため士気が高い。また多くの場合はその豪族の所有するコミュニティに生活基盤があり、逃亡した時にはその累が家族にも及ぶことは徴発された者たちと同じである。そのため自軍が不利になった際にも粘り強さを発揮できた。だが君主が私兵を持つ者を指揮官として用いる場合、指揮官が自身の兵を惜しむことも多いため、多大な損害が予想される作戦には用いにくいという側面もあった。
当時の兵はおおよそ上記三つの属性であったと見ていい。呂布たちのような集団はそのいずれにも属さないが、性質としては私兵に近かった。
呂布の率いる兵は数百とはいえ、長安から落ちのびる際には騎馬を多く連れて行ったため全員が騎兵である。その上、劉宏政権による軍備拡充策によって洛陽に集積され、後に董卓によって長安に移された装備品もある程度持ちだすことができていた。黄巾の乱以降、全土で冶金施設や兵器工房などが荒廃している中で、質の高い装備を持つことは大きな戦力になる。
そして兵の構成の大半はヘイ州出身者で、呂布個人との結びつきが強く、士気が高い。また幼い頃から馬に親しんでいる者が多く、騎兵として錬成されていた。
その他特筆すべきこととして、馬がある。
中原は草原に乏しく、馬の育成には不向きである。よって馬格は相対的に小さくなりがちであったが、現在の内蒙古自治区である呂布の郷里は馬の育成に適した環境であり、産する馬のは非常に大きく体力があった。その他、長安から持ち出した馬もいわゆる名産地から買われたものが多かった。呂布らの馬は一般的な中原の馬よりもはるかに優れていたのだ。
当時の騎兵と呼ぶ兵科はイコール軽騎兵のことを指していた。彼らの装備は主に弓で、近中距離では匕首などの投擲武器を使用することも多かった。用途も機動力を活かした運用をされることが主で、中世欧州を舞台とした映画などで見られる、甲冑を着込んで突撃するような運用は基本的にはされていない。
だが呂布たちの用いる馬ならば当時としては珍しい馬鎧を着込み、それこそ映画のワンシーンのような重騎兵突撃という芸当もできた。
述べた通り、呂布の率いるのは数百である。だがそれはただの数百ではない。錬度も士気も高く、装備も充実している。戦力としては数千の雑兵など一蹴できるだけのものがあった。
長安を落ち延びた後、彼らはその軍事力を背景に徐々に存在感を増していくこととなる。
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