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戦いの始まり
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黄巾の乱以降の混乱に乗じ、伸長を遂げた黒山賊という勢力がいる。今でいう太行山脈あたりに割拠した山賊たちの総称である。その中でもっとも強大な集団を率いるのは張燕という者で、冀州常山郡を根拠地としていた。
以前は何進の側近であり、董卓が権勢を握ってからは洛陽を離れて勢力を伸ばしていた袁紹という者は、冀州牧となっていた。牧というのはその地域の実質的な支配者であると認識してもいい。ただこれは前任者の韓馥という者から私的に印綬等を譲り受けたというだけであり、公認されたものではなかった。だが役職を自称するということは同様の権力を行使するとの宣言に他ならない。相応の力がこの時の袁紹には備わっていたと考えられる。
自身の治める地域の一部を根城とする張燕たちを、袁紹は執拗に攻めた。呂布は丁度この頃に袁紹の元へ身を投じ、その指揮下にいた。
袁紹の元にいるといっても、呂布は袁紹の部下ではない。呂布は董卓を誅した功により、奮威将軍となり仮節・儀同三司を加えられている。将軍位はそれほど高くもないが、仮節は軍令違反者を公的に処刑する権限を指し、儀同三司は『儀を最高級の官僚である太尉、司徒、司空と同じくする』ということであり、非常な特別待遇であった。実質的に王朝の権威は地に堕ちているとはいえ、公的に呂布はむしろ袁紹よりも高い地位にいた。
そのため客将としてそれなりに重んじられる立場にいた呂布だったが、それはその地位だけではなく、所有する軍事力も影響していた。
この頃、名は知られていたものの、呂布には目覚ましい軍事上の活躍は未だない。中原に武名を轟かせるようになったのは、この袁紹の元にいたときであった。
*
袁紹は張燕の陣を攻め立てようとしていた。張燕の陣は街道が交差する小高い丘にあった。いわゆる交通の要衝で、進軍を防ぐには絶好の位置といえた。ただこの位置での会敵は両者にとって予想外でもあった。袁紹側は相手の迎撃のための出兵を遅く見ていたし、張燕側はもっと相手の進軍スピードが遅いものと見ていたのだ。
そのため迎え撃つ張燕側の兵数はそれほど多くなく、設備も簡素な木柵と盾が並べられているだけの貧弱なものだった。
袁紹としてはこの陣に増援が入る前に叩かなくてはならない。陣の構築を進められても面倒だろう。
攻撃が始まった。射兵(弩や弓などの遠隔攻撃可能な武器を持つ兵)同士の弓戦だ。陣からは高所の利を活かした弓が山なりに飛び、袁紹の射兵の頭上を襲う。袁紹側も応射を繰り返す。数は袁紹側の方が多いが練度の差か、被害は遠目には袁紹側の方がやや大きい。袁紹側には弩もあるが、数が少ないため目覚ましい戦果は見込めない。
射兵とは別に、盾を持った短兵(剣や刀等、比較的リーチの短い武器を持つ兵。片手武器と共に盾を持つことが多かった)が戦列を組んで前進する。張燕の射兵の狙いの一部が短兵にうつる。木製の盾は気休めにしかならない。短兵たちは射すくめられるが、ひるむ兵たちに向けて指揮官が声を張り上げる。
自身たちを狙う弓が減った分、袁紹の射兵たちの射撃効率が上がる。その援護を受けて短兵たちは果敢に前進する。しかし陣前に到達した兵たちは、出陣した張燕の兵に退けられる。
戦列は崩れ、再編され、また進軍を再開する。じりじりと陣に迫るが、決定力が足りない。
兵力は袁紹側が大きく優越しているため、それほど時間をかけずともそのうち陥ちるはずだが、被害は少ないに越したことはない。張燕側も今の陣をあわよくば抵抗拠点としてできるだけ長く機能させたいという目論見もあろうが、固守する必要性も薄い。旗色が悪くなればすぐ撤退するはずだ。
客将として呂布は袁紹に出陣を願い出た。遊軍として動きたいという。袁紹にしてみれば断る必要はない。成功すれば良し。失敗して仮に全滅しようとも袁紹の懐は痛まない。ただそれだけの話である。
短期間とはいえ呂布を養ってきたのも、このような場で働いてもらうためだ。そういった意味では投資に対するリターンが存外に早く返ってきそうだと袁紹は喜色を見せた。
呂布は兵を選抜した。その数は数十。いずれも騎兵である。ただ通常と様相が違うのは、馬鎧を全兵が装備していたことだ。金属が布に裏打ちされた札を革ひもで綴ったもので、馬の全身をほぼ覆うそれ(いわゆるラメールアーマー)はかなりの重量があった。そして軽装が常である騎兵にしては珍しく、馬上の兵たちもまた鎧を身に着けていた。その鎧も一般的なものではない。板金でできた胸甲と背甲を主とし、隙間を馬鎧と同じような金属が裏打ちされた札を綴って埋めている。(いわゆるプレートアーマーの亜種)金属で上半身から膝までを保護されており、甲に覆われていない部分についても皮があてられている。その上で中には金属製のリングによって編まれた鎖帷子を着込み、脚部には皮のブーツを二重に履いている。かなりの重装備といっていい。
これはこの時代、おそらく地球上において最強の騎兵の姿であった。
突撃発起地点にて呂布たちは隊列を整える。少数でしかも練度の高い兵たちは速やかに二列縦隊を組む。
呂布は隊列の先頭で馬腹を蹴って走り出す。付き従う兵もそれに続く。常歩から速歩へ、そして速歩から駆歩へ、徐々にスピードは上がる。袁紹の短兵たちの進撃路から外れた位置を迂回し、右翼から張燕の陣に近づくにつれスピードはピークに達し、そして呂布たちは張燕の陣へ突入した。
堀が穿たれ、土塁が積まれ、柵が植えられた陣であれば別だが、現状は騎兵を阻む設備はない。
張燕側の指揮官が射兵の一部を割いて呂布らに向かわせる。矢が散発的に騎兵へ降り注ぐが、効果はない。視界の端で兵の身体に当たった弓が弾かれているのを見て、貴重な兵を一兵たりとも損ないたくない呂布は安心する。見立て通り、張燕の兵は重装備を貫くだけの張力を持つ弓や弩は持っていないらしい。
射兵が下がり、慌ただしく長兵(矛などの比較的リーチの長い両手武器を持つ兵)が出て、長矛を構えて迎撃態勢を取る。密集隊形で用いられるとそれなりに騎兵の脅威となるが数が揃わない状態では足止めにもならない。騎兵の勢いを止める術はなく、張燕軍は真一文字に切り裂かれ、壊乱した。
袁紹側も心得たもので、抵抗が薄くなった正面に向けて総攻撃を開始する。
組織だった抵抗は僅かな間で、すぐに張燕軍は敗走しだした。
戦果の拡大は追撃によって成されるという原則は古今東西変わらない。袁紹らは追撃戦に移った。軽騎兵による退路の遮断、歩兵による殲滅。上々の首尾を見せた一連の攻防に、袁紹は満足していた。
時間をかけずに済んだため被害が若干減ったことと、相手が半ば壊走したため、組織だった撤退がなされなかったことによって追撃の戦果が増したことは袁紹にとって喜ばしいことだ。
とはいえ、所詮は戦場の点景に過ぎない出来事である。平押しに押せばそのうち落とせた陣であるし、そこでの被害や戦果が多少増減したところで大局に影響はない。
そういった意味では袁紹が獲得したものなかったといっていい。それに対して呂布が得たものは大きかった。
張燕側からすると見慣れぬ重騎兵突撃によって自軍が崩れたという印象が強い。また、袁紹側の人々から見ても敵軍撃破の端緒は呂布にあったという見方が強い。
「威」という神通力を得た呂布のそれからの活躍は目覚ましいものだった。重騎兵による突撃を見るだけで無条件に張燕側は震えあがり、袁紹側は沸き立った。
呂布らは多い時には一日に三、四回にわたり張燕軍に飛び込んでは脱出するを繰り返し、袁紹軍の攻略を大いに助けた。十余日に渡り戦い続けた結果、ついに袁紹は張燕たち黒山賊に対し戦略的勝利を収めた。
袁紹の治める冀州から黒山賊は撤退した。自身の支配権をおびやかす敵性勢力を駆逐したことにより、袁紹の支配権は大いに強まった。
そこで取り扱いに困ることになったのが呂布という存在である。張燕討伐の戦いにおける呂布の戦術は見事ではあったが、単純だ。要は弩や長矛などの対騎馬兵器の数が少ない相手に対し重騎兵で挑むのだから、被害が少ないのは当たり前といえば当たり前なのである。
ところがそういった部分は無視され、寡兵で幾度も張燕の陣へ果敢に突撃し、敵を壊乱させることに成功したという成果だけが人々の中で拡散していった。そこで呂布は楚漢戦争の英雄である項羽と並び称される戦術能力を持つという声望を得たのである。
その結果、袁紹は呂布を持て余し、また呂布も居心地が悪くなった。客将が主を越える威を備えることは双方にとって不幸なことであり、当然の帰結として呂布は袁紹の元を去ることとなった。
史書により記述は異なるが、この時期の呂布は付近をうろうろしていたようだ。袁紹の前後にはその異母弟の袁術の元にも行ったし、張楊という同じヘイ州人の仲間の元へ身を寄せたりしている。
そんな中、呂布へ接近してきたものがいる。袁術の支配権と境を接するエン州の名士であり曹操というエン州の支配者の幕僚である陳宮という者だ。
名士という言葉がある。
語弊はあるだろうが、この時期の名士という言葉をあえて要約してしまうと、公私を問わずその行いが世に評価されている者たちということになる。私財をもって人助けをした、優れた行政手腕を発揮した、自分を犠牲にして友を守ったなど、公私問わずそれがどんな行いであろうともそれが評価に値するものであればそれが名声となった。
漢王朝が弱り、世では公的地位よりも私的能力が重要視されてきたと考えればわかりやすい。
通常、士人は儒教の価値観で善とされる行動によって名声を高めるが、戦乱の世ではそこに軍事的成功が名声獲得の手段として機能するようになった。呂布は張燕ら黒山賊討伐によって得たのもまた紛れもなく名声であった。
陳宮が呂布へ接近したのも、呂布が名声を備えたからだ。陳宮は自ら仲介して張バクに呂布を紹介した。張バクは元々袁紹らの仲間であるが、その名声は抜きんでており、八廚という名士リストに名前が載るほどのであった。名士として最上位クラスといっていい。
話がそれるが、三国志の主人公の一人の曹操が人物評価で有名な許劭という者から「治世の能臣、乱世の姦雄」と評されて喜んだという逸話は有名だが、曹操が喜んだのは評価の内容ではなく評価されたという事実である。人物評価をされること自体が名士層の一員であるとの認定に等しいから曹操は喜んだのである。逆説的言い回しになるが『人物』として認められなければ悪い評価すらされないのである。
それと同じように、非常に名声が高い張バクから交流を求められたことによって呂布も名士層の仲間入りをしたといっていい。呂布に元々備わっている名声にさらに箔が着いた形である。
張バクと陳宮は呂布を庇護したが、そこには戦略的意図があった。その時のエン州の支配者である曹操への反逆である。この反曹操勢力の代表者として軍事的評価の高い呂布が推戴されたのだ。
この勢力の主だった者は張バク、弟の張超、そして陳宮である。彼らは皆、エン州出身の名士たちであった。
曹操も袁紹と同じく何進派に名を連ねていた人物である。董卓の台頭の際に地方に出た後は董卓と戦い、その後は袁紹傘下の勢力として力を養っている。
曹操はエン州の有力者たちに推戴される形で州牧を自称していた。ちなみに先ほど名が挙がった張バクは曹操の親友であり、エン州の有力な豪族であるため曹操の政治的な後ろ盾となっている。この時代、友人との絆は時には血の繋がりよりも重視された。張バクの裏切りは一見すれば道義にもとる行為にも写るが一概にもそうは言い切れない。
この頃は二袁の争いと呼ばれる、中原を二分する勢力争いが過熱化している。割拠する勢力それぞれが袁紹派袁術派に与し、互いを攻撃し合っていた。
主だった勢力としては袁紹派に曹操と劉表、袁術派に公孫サンと陶謙がいた。
そもそも曹操は袁紹に私的に任命されたエン州東郡の太守でしかなく、立場もいわば袁紹の部将に過ぎなかった。それが曲がりなりにもエン州牧を名乗れるようになったのは、青州から侵入した黄巾賊の残党に当時のエン州刺史劉岱が殺された際、エン州の名士たちがエン州を安んずる力がある者として共同で曹操を推戴したためだ。ちなみにこの曹操を推し立てるのに知略を尽くして有力者を説いたのは先述した今回の反乱の首謀者である陳宮である。
曹操はその期待に応えて青州黄巾党を討伐し、数字に誇張はあろうが非戦闘員を百万人と兵士を三十万人旗下に加えるという大戦果を挙げた。ここまでは問題ない。
だが先述した二袁の争いに曹操は袁紹派として関わらずにはいられない立場にいた。その結果、戦争に次ぐ戦争が続いた。極めつけは東方の徐州の主である陶謙との戦いである。それ以前に曹操は袁術と戦い、長江以北から袁術を駆逐することに成功した。勢力再建に努める袁術は曹操への抑えとして陶謙を動かしたのだ。
袁術派の陶謙がエン州泰山郡に侵攻したことを契機に両者は戦端を開いた。この戦いは熾烈を極めた。曹操は徐州に逆侵攻して十数城を陥とすも、結局兵糧不足で撤退している。
また戦略目的を達成できなかったということもあり、曹操は敵の国力を削ぐためと自身の兵を養うために大規模な略奪を行った。
徐州は疲弊したが、連戦に連戦を重ねたエン州の疲弊も尋常のものではない。エン州人士の心は曹操から離れつつあった。
そもそも曹操の権力は武力を拠り所とした豪族の支持によって維持されていたのである。その武力が災いを招くとなればエン州が曹操から離反するのもむしろ当然といえた。
先ほど述べた張バクが固有の武力を持とうと王匡という亡き何進の元部下と協調しようとしたことがある。しかし曹操は王匡に恨みを持つ者に協力してこれを討っている。史書には『張バクは曹操の親友であるのに裏切った』という記述があるが、これは後世に歴史の勝者たる曹操の行動を正当化するためになされた印象操作であろう。
曹操を迎え入れたのはエン州諸豪族にとっていわば苦肉の策であった。実際には曹操及びその支持基盤になっていた少数の豪族と、その他多数の豪族たちの間で水面下での主導権争いは常に存在していたと考えるのが妥当だ。
この頃の曹操の支配基盤が弱かった傍証として、高家という州内で有力な豪族が一族を挙げてエン州を去ったという話もある。エン州内で戦火が起こることを予見してのことであり、その行動の遠因は曹操の支配力にあった。ちなみに後に登場する呂布にとって関わりの深い高順という人物はこの高家に連なる人物だと推測される。
曹操としても外征は避けたい情勢だろうが、立場がそれを許さない。袁紹は北方で袁術派の公孫サンという者と対峙している。陶謙と公孫サンの連携を防ぐためには曹操は再度徐州へ侵攻せざるをえなかった。
エン州の有力者たちがいつ曹操から離反することを決めたのかは不明だ。だがおそらく第二次徐州侵攻の決定が下された時に運命は決まったのだろう。
曹操が再度徐州へ侵攻している時に、エン州の有力者たちは兵をあげた。
後漢書郡国志によるとエン州は八つの郡、七十七の領城を有する州である。謀士である陳宮の根回しは周到であり、曹操子飼いの将が直接統治するか特別に曹操を支持する豪族が治める三城以外は全て呂布らに属することとなった。これはやはり曹操に対する不満が溜まっていた証左といえるだろう。呂布らの蜂起は曹操に対する謀反ではなく、曹操の追放という表現が正しい。
エン州と曹操軍の熾烈な戦いは百九十四年の夏から百九十五年の冬まで続く。
以前は何進の側近であり、董卓が権勢を握ってからは洛陽を離れて勢力を伸ばしていた袁紹という者は、冀州牧となっていた。牧というのはその地域の実質的な支配者であると認識してもいい。ただこれは前任者の韓馥という者から私的に印綬等を譲り受けたというだけであり、公認されたものではなかった。だが役職を自称するということは同様の権力を行使するとの宣言に他ならない。相応の力がこの時の袁紹には備わっていたと考えられる。
自身の治める地域の一部を根城とする張燕たちを、袁紹は執拗に攻めた。呂布は丁度この頃に袁紹の元へ身を投じ、その指揮下にいた。
袁紹の元にいるといっても、呂布は袁紹の部下ではない。呂布は董卓を誅した功により、奮威将軍となり仮節・儀同三司を加えられている。将軍位はそれほど高くもないが、仮節は軍令違反者を公的に処刑する権限を指し、儀同三司は『儀を最高級の官僚である太尉、司徒、司空と同じくする』ということであり、非常な特別待遇であった。実質的に王朝の権威は地に堕ちているとはいえ、公的に呂布はむしろ袁紹よりも高い地位にいた。
そのため客将としてそれなりに重んじられる立場にいた呂布だったが、それはその地位だけではなく、所有する軍事力も影響していた。
この頃、名は知られていたものの、呂布には目覚ましい軍事上の活躍は未だない。中原に武名を轟かせるようになったのは、この袁紹の元にいたときであった。
*
袁紹は張燕の陣を攻め立てようとしていた。張燕の陣は街道が交差する小高い丘にあった。いわゆる交通の要衝で、進軍を防ぐには絶好の位置といえた。ただこの位置での会敵は両者にとって予想外でもあった。袁紹側は相手の迎撃のための出兵を遅く見ていたし、張燕側はもっと相手の進軍スピードが遅いものと見ていたのだ。
そのため迎え撃つ張燕側の兵数はそれほど多くなく、設備も簡素な木柵と盾が並べられているだけの貧弱なものだった。
袁紹としてはこの陣に増援が入る前に叩かなくてはならない。陣の構築を進められても面倒だろう。
攻撃が始まった。射兵(弩や弓などの遠隔攻撃可能な武器を持つ兵)同士の弓戦だ。陣からは高所の利を活かした弓が山なりに飛び、袁紹の射兵の頭上を襲う。袁紹側も応射を繰り返す。数は袁紹側の方が多いが練度の差か、被害は遠目には袁紹側の方がやや大きい。袁紹側には弩もあるが、数が少ないため目覚ましい戦果は見込めない。
射兵とは別に、盾を持った短兵(剣や刀等、比較的リーチの短い武器を持つ兵。片手武器と共に盾を持つことが多かった)が戦列を組んで前進する。張燕の射兵の狙いの一部が短兵にうつる。木製の盾は気休めにしかならない。短兵たちは射すくめられるが、ひるむ兵たちに向けて指揮官が声を張り上げる。
自身たちを狙う弓が減った分、袁紹の射兵たちの射撃効率が上がる。その援護を受けて短兵たちは果敢に前進する。しかし陣前に到達した兵たちは、出陣した張燕の兵に退けられる。
戦列は崩れ、再編され、また進軍を再開する。じりじりと陣に迫るが、決定力が足りない。
兵力は袁紹側が大きく優越しているため、それほど時間をかけずともそのうち陥ちるはずだが、被害は少ないに越したことはない。張燕側も今の陣をあわよくば抵抗拠点としてできるだけ長く機能させたいという目論見もあろうが、固守する必要性も薄い。旗色が悪くなればすぐ撤退するはずだ。
客将として呂布は袁紹に出陣を願い出た。遊軍として動きたいという。袁紹にしてみれば断る必要はない。成功すれば良し。失敗して仮に全滅しようとも袁紹の懐は痛まない。ただそれだけの話である。
短期間とはいえ呂布を養ってきたのも、このような場で働いてもらうためだ。そういった意味では投資に対するリターンが存外に早く返ってきそうだと袁紹は喜色を見せた。
呂布は兵を選抜した。その数は数十。いずれも騎兵である。ただ通常と様相が違うのは、馬鎧を全兵が装備していたことだ。金属が布に裏打ちされた札を革ひもで綴ったもので、馬の全身をほぼ覆うそれ(いわゆるラメールアーマー)はかなりの重量があった。そして軽装が常である騎兵にしては珍しく、馬上の兵たちもまた鎧を身に着けていた。その鎧も一般的なものではない。板金でできた胸甲と背甲を主とし、隙間を馬鎧と同じような金属が裏打ちされた札を綴って埋めている。(いわゆるプレートアーマーの亜種)金属で上半身から膝までを保護されており、甲に覆われていない部分についても皮があてられている。その上で中には金属製のリングによって編まれた鎖帷子を着込み、脚部には皮のブーツを二重に履いている。かなりの重装備といっていい。
これはこの時代、おそらく地球上において最強の騎兵の姿であった。
突撃発起地点にて呂布たちは隊列を整える。少数でしかも練度の高い兵たちは速やかに二列縦隊を組む。
呂布は隊列の先頭で馬腹を蹴って走り出す。付き従う兵もそれに続く。常歩から速歩へ、そして速歩から駆歩へ、徐々にスピードは上がる。袁紹の短兵たちの進撃路から外れた位置を迂回し、右翼から張燕の陣に近づくにつれスピードはピークに達し、そして呂布たちは張燕の陣へ突入した。
堀が穿たれ、土塁が積まれ、柵が植えられた陣であれば別だが、現状は騎兵を阻む設備はない。
張燕側の指揮官が射兵の一部を割いて呂布らに向かわせる。矢が散発的に騎兵へ降り注ぐが、効果はない。視界の端で兵の身体に当たった弓が弾かれているのを見て、貴重な兵を一兵たりとも損ないたくない呂布は安心する。見立て通り、張燕の兵は重装備を貫くだけの張力を持つ弓や弩は持っていないらしい。
射兵が下がり、慌ただしく長兵(矛などの比較的リーチの長い両手武器を持つ兵)が出て、長矛を構えて迎撃態勢を取る。密集隊形で用いられるとそれなりに騎兵の脅威となるが数が揃わない状態では足止めにもならない。騎兵の勢いを止める術はなく、張燕軍は真一文字に切り裂かれ、壊乱した。
袁紹側も心得たもので、抵抗が薄くなった正面に向けて総攻撃を開始する。
組織だった抵抗は僅かな間で、すぐに張燕軍は敗走しだした。
戦果の拡大は追撃によって成されるという原則は古今東西変わらない。袁紹らは追撃戦に移った。軽騎兵による退路の遮断、歩兵による殲滅。上々の首尾を見せた一連の攻防に、袁紹は満足していた。
時間をかけずに済んだため被害が若干減ったことと、相手が半ば壊走したため、組織だった撤退がなされなかったことによって追撃の戦果が増したことは袁紹にとって喜ばしいことだ。
とはいえ、所詮は戦場の点景に過ぎない出来事である。平押しに押せばそのうち落とせた陣であるし、そこでの被害や戦果が多少増減したところで大局に影響はない。
そういった意味では袁紹が獲得したものなかったといっていい。それに対して呂布が得たものは大きかった。
張燕側からすると見慣れぬ重騎兵突撃によって自軍が崩れたという印象が強い。また、袁紹側の人々から見ても敵軍撃破の端緒は呂布にあったという見方が強い。
「威」という神通力を得た呂布のそれからの活躍は目覚ましいものだった。重騎兵による突撃を見るだけで無条件に張燕側は震えあがり、袁紹側は沸き立った。
呂布らは多い時には一日に三、四回にわたり張燕軍に飛び込んでは脱出するを繰り返し、袁紹軍の攻略を大いに助けた。十余日に渡り戦い続けた結果、ついに袁紹は張燕たち黒山賊に対し戦略的勝利を収めた。
袁紹の治める冀州から黒山賊は撤退した。自身の支配権をおびやかす敵性勢力を駆逐したことにより、袁紹の支配権は大いに強まった。
そこで取り扱いに困ることになったのが呂布という存在である。張燕討伐の戦いにおける呂布の戦術は見事ではあったが、単純だ。要は弩や長矛などの対騎馬兵器の数が少ない相手に対し重騎兵で挑むのだから、被害が少ないのは当たり前といえば当たり前なのである。
ところがそういった部分は無視され、寡兵で幾度も張燕の陣へ果敢に突撃し、敵を壊乱させることに成功したという成果だけが人々の中で拡散していった。そこで呂布は楚漢戦争の英雄である項羽と並び称される戦術能力を持つという声望を得たのである。
その結果、袁紹は呂布を持て余し、また呂布も居心地が悪くなった。客将が主を越える威を備えることは双方にとって不幸なことであり、当然の帰結として呂布は袁紹の元を去ることとなった。
史書により記述は異なるが、この時期の呂布は付近をうろうろしていたようだ。袁紹の前後にはその異母弟の袁術の元にも行ったし、張楊という同じヘイ州人の仲間の元へ身を寄せたりしている。
そんな中、呂布へ接近してきたものがいる。袁術の支配権と境を接するエン州の名士であり曹操というエン州の支配者の幕僚である陳宮という者だ。
名士という言葉がある。
語弊はあるだろうが、この時期の名士という言葉をあえて要約してしまうと、公私を問わずその行いが世に評価されている者たちということになる。私財をもって人助けをした、優れた行政手腕を発揮した、自分を犠牲にして友を守ったなど、公私問わずそれがどんな行いであろうともそれが評価に値するものであればそれが名声となった。
漢王朝が弱り、世では公的地位よりも私的能力が重要視されてきたと考えればわかりやすい。
通常、士人は儒教の価値観で善とされる行動によって名声を高めるが、戦乱の世ではそこに軍事的成功が名声獲得の手段として機能するようになった。呂布は張燕ら黒山賊討伐によって得たのもまた紛れもなく名声であった。
陳宮が呂布へ接近したのも、呂布が名声を備えたからだ。陳宮は自ら仲介して張バクに呂布を紹介した。張バクは元々袁紹らの仲間であるが、その名声は抜きんでており、八廚という名士リストに名前が載るほどのであった。名士として最上位クラスといっていい。
話がそれるが、三国志の主人公の一人の曹操が人物評価で有名な許劭という者から「治世の能臣、乱世の姦雄」と評されて喜んだという逸話は有名だが、曹操が喜んだのは評価の内容ではなく評価されたという事実である。人物評価をされること自体が名士層の一員であるとの認定に等しいから曹操は喜んだのである。逆説的言い回しになるが『人物』として認められなければ悪い評価すらされないのである。
それと同じように、非常に名声が高い張バクから交流を求められたことによって呂布も名士層の仲間入りをしたといっていい。呂布に元々備わっている名声にさらに箔が着いた形である。
張バクと陳宮は呂布を庇護したが、そこには戦略的意図があった。その時のエン州の支配者である曹操への反逆である。この反曹操勢力の代表者として軍事的評価の高い呂布が推戴されたのだ。
この勢力の主だった者は張バク、弟の張超、そして陳宮である。彼らは皆、エン州出身の名士たちであった。
曹操も袁紹と同じく何進派に名を連ねていた人物である。董卓の台頭の際に地方に出た後は董卓と戦い、その後は袁紹傘下の勢力として力を養っている。
曹操はエン州の有力者たちに推戴される形で州牧を自称していた。ちなみに先ほど名が挙がった張バクは曹操の親友であり、エン州の有力な豪族であるため曹操の政治的な後ろ盾となっている。この時代、友人との絆は時には血の繋がりよりも重視された。張バクの裏切りは一見すれば道義にもとる行為にも写るが一概にもそうは言い切れない。
この頃は二袁の争いと呼ばれる、中原を二分する勢力争いが過熱化している。割拠する勢力それぞれが袁紹派袁術派に与し、互いを攻撃し合っていた。
主だった勢力としては袁紹派に曹操と劉表、袁術派に公孫サンと陶謙がいた。
そもそも曹操は袁紹に私的に任命されたエン州東郡の太守でしかなく、立場もいわば袁紹の部将に過ぎなかった。それが曲がりなりにもエン州牧を名乗れるようになったのは、青州から侵入した黄巾賊の残党に当時のエン州刺史劉岱が殺された際、エン州の名士たちがエン州を安んずる力がある者として共同で曹操を推戴したためだ。ちなみにこの曹操を推し立てるのに知略を尽くして有力者を説いたのは先述した今回の反乱の首謀者である陳宮である。
曹操はその期待に応えて青州黄巾党を討伐し、数字に誇張はあろうが非戦闘員を百万人と兵士を三十万人旗下に加えるという大戦果を挙げた。ここまでは問題ない。
だが先述した二袁の争いに曹操は袁紹派として関わらずにはいられない立場にいた。その結果、戦争に次ぐ戦争が続いた。極めつけは東方の徐州の主である陶謙との戦いである。それ以前に曹操は袁術と戦い、長江以北から袁術を駆逐することに成功した。勢力再建に努める袁術は曹操への抑えとして陶謙を動かしたのだ。
袁術派の陶謙がエン州泰山郡に侵攻したことを契機に両者は戦端を開いた。この戦いは熾烈を極めた。曹操は徐州に逆侵攻して十数城を陥とすも、結局兵糧不足で撤退している。
また戦略目的を達成できなかったということもあり、曹操は敵の国力を削ぐためと自身の兵を養うために大規模な略奪を行った。
徐州は疲弊したが、連戦に連戦を重ねたエン州の疲弊も尋常のものではない。エン州人士の心は曹操から離れつつあった。
そもそも曹操の権力は武力を拠り所とした豪族の支持によって維持されていたのである。その武力が災いを招くとなればエン州が曹操から離反するのもむしろ当然といえた。
先ほど述べた張バクが固有の武力を持とうと王匡という亡き何進の元部下と協調しようとしたことがある。しかし曹操は王匡に恨みを持つ者に協力してこれを討っている。史書には『張バクは曹操の親友であるのに裏切った』という記述があるが、これは後世に歴史の勝者たる曹操の行動を正当化するためになされた印象操作であろう。
曹操を迎え入れたのはエン州諸豪族にとっていわば苦肉の策であった。実際には曹操及びその支持基盤になっていた少数の豪族と、その他多数の豪族たちの間で水面下での主導権争いは常に存在していたと考えるのが妥当だ。
この頃の曹操の支配基盤が弱かった傍証として、高家という州内で有力な豪族が一族を挙げてエン州を去ったという話もある。エン州内で戦火が起こることを予見してのことであり、その行動の遠因は曹操の支配力にあった。ちなみに後に登場する呂布にとって関わりの深い高順という人物はこの高家に連なる人物だと推測される。
曹操としても外征は避けたい情勢だろうが、立場がそれを許さない。袁紹は北方で袁術派の公孫サンという者と対峙している。陶謙と公孫サンの連携を防ぐためには曹操は再度徐州へ侵攻せざるをえなかった。
エン州の有力者たちがいつ曹操から離反することを決めたのかは不明だ。だがおそらく第二次徐州侵攻の決定が下された時に運命は決まったのだろう。
曹操が再度徐州へ侵攻している時に、エン州の有力者たちは兵をあげた。
後漢書郡国志によるとエン州は八つの郡、七十七の領城を有する州である。謀士である陳宮の根回しは周到であり、曹操子飼いの将が直接統治するか特別に曹操を支持する豪族が治める三城以外は全て呂布らに属することとなった。これはやはり曹操に対する不満が溜まっていた証左といえるだろう。呂布らの蜂起は曹操に対する謀反ではなく、曹操の追放という表現が正しい。
エン州と曹操軍の熾烈な戦いは百九十四年の夏から百九十五年の冬まで続く。
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