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濮陽の戦い1 前哨戦
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前哨戦は曹操の帰還までその拠点が持ち応えられるかという点がポイントとなった。
曹操股肱の臣である荀イクが守るケン城へ張バクから使者が届いた。張バクが庇護している呂布が曹操へ援軍に向かうため糧食を提供せよということだった。
呂布は政治的にそう簡単には用いることのできない人物だ。もし呂布に兵を率いさせ、活躍させてしまった場合はエン州内でその名声が大きくなりすぎる恐れがある。自らの兵力と名声で冀州を治めている袁紹と比べ、エン州において曹操の支配力はやや劣る。それだけに呂布を用いることは曹操の支配を弱める危険性を孕んでいることは張バクや陳宮にはわかっていることだ。曹操に無断で呂布をあえて用いようとする姿勢に荀彧は変事を察知し、留守役として最善策を打つべく活動を開始する。
反曹操の兵が決起したことを確信した荀イクが優先したのは兵力の集中であった。まず西方の濮陽に駐屯していた曹操の親族である夏侯惇が率いる軍を呼び寄せた。そしてその日のうちに城内の不穏分子を一掃することによってケン城は落ちついた。呂布らは後にこのケン城を攻めたが陥とせなかったという。
空き家同然となった濮陽はエン州軍の手中に収められ、また夏侯惇の率いる軍の輜重は呂布らに鹵獲されたが、荀彧はさしあたりゆるぎない抵抗拠点を確保することに成功した。
続いて荀イクは近隣の范城へ、出身者である程イクを派遣し、官吏たちの説得に当たらせた。范の県令キン允たちは曹操への忠義を誓い、エン州軍が派遣した氾嶷という者が県境に入った際には出迎えて会見を開き、油断させて伏兵により氾嶷を討ち取った。范への攻撃は続行されたが、指揮官を殺された軍が落ち着きを取り戻すまでの間に城の防備体勢は整えられた。
さらにもう一城、東阿という城については、曹操から引き立てられて県令に任命されていた棗祗という者が官民を統率しており、動揺が少なかった。程イクは別働隊として騎兵を派遣して呂布らの侵攻路にあたる倉亭という津を破壊し、進軍を遅延させた。その間に東阿は防備を固めることができた。東阿攻略軍は陳宮が自ら率いていたが、結局このタイムロスが原因で攻略は失敗している。
荀彧は何はともあれ、このエン州北東部に位置する三つの城について確保することに成功した。
エン州軍はこの三城の確保には失敗したが、言い換えれば三城以外を支配することができた。その初動は大成功といっていい。
続いて曹操の帰還作戦である。根拠地から遠く離れた地で、その根拠地がほぼ消失するというトラブルは、その時点で軍が四散してもおかしくないレベルのものだ。だが曹操は並の将ではない。驚くほど冷静に撤退を開始した。
まずは設定した帰路の道中に位置している襄賁県を略奪して当面の糧食を確保した。
そして軍を分けて親類の曹洪を先行させ、兵站と帰路を確保させている。特に東平国の一部の攻略が成り、范へのルートを確保できたのが大きい。曹洪はそのままエン州軍が囲んでいた(笵嶷が殺された後も攻撃は続いていた)范へ入城しており、また曹操の率いる主力もこのルートを通ってエン州に帰還している。
エン州豪族で親曹操派の李乾という者を地元へ帰し、郷里近隣の人心収攬を命じ、また同じくエン州出身の楽進という者を地元へ帰し、募兵を行わせている。
主力の帰還と、曹操に与する諸豪族たちから兵を募り曹操は反撃の態勢を整えた。
この前後、おそらく後世に作られたものではあろうが曹操が語ったと伝えられる話がある。呂布がエン州と徐州の境あたりに拠点を置き、帰路を妨げられれば自分は負けていたのに、呂布は愚かであるため濮陽を拠点としたと曹操は笑ったとのことだ。だがそれは結果論に過ぎない。
エン州政権にとっては曹操が敵地深くにいるところで決起を成功させた時点で戦略目的が達せられているのだ。優先すべきはエン州の内治と周辺に割拠する群雄に対する備えである。曹操には徐州内で陶謙から追撃を受ける可能性や、兵の反乱や逃走によって軍が瓦解する可能性などが高く、その対応の優先順位は低かった。そして仮に曹操がエン州へたどり着いたとしても、たかが三城を有するに過ぎない。叩き潰すのはそう難しいことではないという判断は決して誤ったものではなかった。
事実としてその後の経過も、呂布らにとって戦略的に有利な状況が続くこととなる。
エン州の大勢はエン州軍に傾いており、時が経てば今は曹操についている豪族もエン州側に寝返るに違いない。曹操は短期決戦を試みた。曹操は三城の付近を制圧すると、エン州軍の本拠である濮陽へ進軍する。
曹操がエン州軍の本拠としている東郡濮陽県へ向かって進軍しており、とうとう濮陽へ入ったとの報を得た呂布たちは軍議を開いた。
今は陣を張っており、特に動きは見られないようだが、数日内に大きな動きがあるはずだ。
斥候が持ち帰った情報を元に廟算すると状況は確実に有利、そう言い切れる状況にありながらエン州政権の重鎮たちの顔色は優れない。
彼らにとって曹操が徐州から生還、しかも主力を損なわず撤退を成功させたことは予想外であった。
その状態で泰然としているのは陳宮と、呂布だけである。
陳宮はエン州東郡出身の豪族で、エン州軍の中でも指折りの実力者の一人であった。張バクらと肩を並べている理由は彼個人の能力が高いためである。
曹操にエン州を献じたのも、曹操からエン州を離反させたのも彼の声望と能力に依るところが大きい。自然とその発言力も強くなる。自らを恃むところが厚い陳宮は自分よりも大きな兵力を持つ豪族たちに対しても無遠慮に発言する。
「我らの勝利は約束されたようなもの。卿らは何におびえておられるのだ」
「怯えているのではない。恐れているのだ。そしてそれは恥ではない。曹操は戦巧者であるし、その兵は精強だ」
一人の豪族が不安を隠そうともしない顔で陳宮に反駁する。
曹操が率いるのは高名な青州兵。陶謙が率いる精強な丹陽兵を中核とした軍を二度に渡り大いに破ったことで名高い。
エン州軍の持つ兵の大半は民衆から徴募した者たちだ。曹操の率いる青州兵とは経験値に圧倒的な差がある。
しかし曹操側は兵の練度において大きく優越していたものの、連戦の疲れもある上に根拠地の大半が失陥したという将兵の士気を大きく阻喪させる出来事もあった。このまま両軍が激突した場合、エン州軍が勝つだろう。それは誰もが理解している。
だが、それでもなお、戦巧者の曹操であれば戦局をひっくり返す何かをしでかすのではないかとの懸念が場の空気を重苦しくさせていた。
文官と武官の垣根がまだあいまいなこの時代、士大夫層の人間、特に自分が将として私兵を率いる立場にある豪族出身の者であれば一通り軍事的な教育を受けている。しかしながら、実際に兵や下士官の気持ちにまで考えが及ぶようになるにはそれなりに経験が必要になる。
「曹操の軍は遠路はるばる引き返してきて、疲れを癒す間もなく次の軍を発している。その軍を我らの気力の充実した軍が討つのだ。負けようはずがない」
「しかし青州兵がこの期に及んでもまだ曹操から離れていかずその指揮下にいるということは意外でもある。我らが考えるよりも彼らの紐帯が強いのであれば、そう一筋縄ではいかぬかもしれん」
「それでもその士気がかつて徐州の軍と戦った時ほど高いはずがない。それならば、勝てる」
陳宮は曹操の政権の中枢にいたため曹操の軍の実力を誰よりも知りぬいており、それと自分たちの兵力を比較することによって自信を抱いていた。呂布も陳宮からの聞き伝えではあるが曹操の軍容を把握し、それまでの経験に裏づいた予測で陳宮と同様の考えを持っていた。
「既に済んだ議論をしても仕方あるまい。卿らにわざわざ集まってもらったのは、この後に及んで無為な論を交わすためではない。まず卿らには先日の約定の履行をくれぐれもお願いする」
話は呂布が陳宮から今回の計画を持ちかけられた際に出した条件のことである。それは指揮系統の一本化ということだ。
自軍の兵数の大部分はエン州から徴兵した者たちだが、彼らの士気は低い。兵力の中核となるのはエン州豪族の私兵たちである。
豪族の私有民から選ばれ、編成された軍は士気も高く装備も充実しており、戦力としては一級だ。
エン州豪族の精兵が集まった連合軍といえば聞こえはいい。だが指揮系統がバラバラであればどれだけ兵の錬度が高かろうが烏合の衆に過ぎない。
呂布はおおよそ四百年近く前の楚漢戦争の頃、劉邦(漢王朝の初代皇帝)が五十六万と公称する軍を擁しながらも指揮系統の統一を怠ったばかりに僅か三万の項羽軍(劉邦のライバル)に各個撃破を許して大敗を喫したという故事を引き、呂布は陳宮に説明した。
陳宮も軍を率いたことはあり、そのような理屈はわかっている。要するに呂布はエン州の一派と手を結ぶのは、それなりの軍組織として体をなしていなければごめんだと伝えたのだ。
もちろん部外者たる呂布に指揮権を渡す必要はない。要は兵の集団が一つの軍として機能すればそれでいいのだ。
この頃の豪族というのは、いわばそれぞれが封建国家の主のようなものである。彼らがその軍事力の運用方針を他者に委ねるということはそれなりに覚悟のいることであった。
呂布はどういういきさつがあったのかは知らないが、結果として陳宮は曹操の直接対決する時には必ず張バクを最高司令官とした軍を編成するようエン州の実力者たちに認めさせたということを聞き、呂布は陳宮という人間の実力を認めたのだった。
だがいざ決戦を間近に控えると自身の兵を惜しんで司令官の指示に服従しないような者たちが出る可能性もある。それを防ぐ意味での発言であろう。
「次に指揮官についてだが、濮陽の西に築いていた陣が完成しつつあるため、兵を籠めねばならぬ。既に卿らの兵はご存じの通りいくつかに分けて編成してあるが、そのうちの三分の一ほどを私が率いて陣を統率しようと思うが、それで異論はなかろうか」
張バク、張超らエン州政権の上層部との話は随分前についているが、陳宮は兵を率いて参陣してきている中小の豪族たちにも形式的には了解を得ねばならない。彼らは実質的には部隊長となり、司令官からの命令を聞くことになるからだ。そして彼らの属性は陳宮や張バクの同志ではあるが部下ではない。
「兵の指揮を執るのは呂将軍ではないのか」
陳宮が予想していた疑問の声が方々から洩れる。
「外様の私が皆様を指揮することに抵抗を覚える方もおられるでしょう。私は騎兵を率います。騎兵は守勢に回れば脆いもの。城外に駐屯して奇襲でも受けようものならば不測の事態が起きぬとも限りません。それに陣まではそう遠い距離でもありません。何かあれば救援は容易に行えます」
いかつい見た目に似合わない典雅な声で呂布は彼らを宥める。呂布の声望は軍事に関していえば陳宮など比べ物にならぬほど大きい。呂布がエン州政権に与すると聞いて参陣してきた豪族も多いのだ。それだけに呂布には過剰な期待が寄せられがちだが、大規模な歩兵を率いて陣を守るという行為に関していえば寧ろ陳宮に一日の長がある。呂布には大兵を率いた経験がないからだ。
「陣には我が方からも河内兵を出します。陳太守の直轄部隊という形になるでしょう」
河内郡は呂布と縁が深い。丁原に従っていた時に呂布が兵を募ったこともあるし、河内郡を同じヘイ州出身者で呂布と親しくしている張楊という者が治めているという縁もある。呂布は河内郡で募った兵や、供給されてくる兵をそのまま河内兵と呼び歩兵部隊として運用していた。
呂布の直轄兵ではないが信頼の置ける兵たちである。兵数は呂布の率いる騎兵よりも数は多い。それでも規模は千人から二千人といったところであり、少数であっても戦局を変えうる騎兵と違い、戦術的には有用であっても戦略的な局面で大役を担える立場にはなりえない。
だが要所で投入すれば相応の戦果を得ることができるだけの力を持つ集団だ。陳宮ならばうまく使いこなしてくれるだろうと呂布は思う。自分の兵力を陳宮に任せることに呂布にためらいはない。陳宮たちの決起に参加した時点で、覚悟は決めている。
諸豪族たちからは特に異論らしい異論も出ず、そのまま事務的な折衝に入った。
*
曹操は守勢に回れば延命はできるが、攻勢に打って出なければ活路を見いだせない状況であった。呂布たちにとっても短期決戦は望むところである。周辺勢力はエン州の情勢に注目している。州内の争いが長引けば第三勢力が間違いなく介入してくるからだ。
呂布らは濮陽の西四十里に別陣営を設けている。定説では後漢の一里は約415mである。約16.5km先に陣営を設けたことになる。足の遅い輜重を連れず、整備された街道を行軍すれば比較的容易に濮陽城へ軍を送れる。
敵は基本的に東から来るから、城が攻められればそれを救援することが主目的となる。また城が攻められた場合は周辺へ派兵しにくくなるため、仮に曹操が兵を分けて諸方の攻略を企図したり、他勢力がエン州に進入した場合は対応が困難になる。その抑えとしても城外に別営は必要だと判断しての措置だ。
曹操は徐州から帰還した軍を再編し、決戦のため濮陽に向かう。そして呂布らエン州政権の面々はそれを迎え撃つ。
いよいよ戦端は開かれようとしていた。
――そう来たか
呂布は僅かな驚きをもって濮陽の戦いの幕開けを迎えた。
曹操は濮陽を迂回し、その西の陣に夜襲を仕掛けてきた。呂布の持つ騎兵戦力が活かせない環境での戦場を選定したのだろう。もっと言えば、騎兵戦力は城外の陣にあると見込んでこれを攻撃したのかもしれない。虎の子の騎兵戦力を無防備な城外へ置きたくなかった呂布は手持ちの全騎兵を城内に置いていたため、その点は幸いしたと言っていいだろう。
陣から発せられた急使が夜道を通って濮陽にたどり着くより前に、陣に放たれた火が燃え上がるのを城壁から見た衛兵によって呂布らは夜襲を察知していた。
援軍を急派するという意見も出た。街道に沿って行くとはいえ、夜間の行軍は進軍速度が遅くなる。それに兵を叩き起こして援軍を編成する時間もある。援軍が到着までに陣が戦闘能力を失ってしまえば各個撃破されかねない。また曹操が濮陽からの援軍を叩くため一部の部隊を伏せている可能性もあった。
夜戦では白兵戦が多くなりがちで、被害が互いに大きくなりやすい。反面追撃が行い難く、兵が敗走しても生存しやすいため敗北した側は部隊が立て直しやすいという側面も持つ。
陣が陥ちるのは痛いが、むしろこれを利用して曹操軍が帰路につく際に決戦を行うことを狙う以外に方策はないというのが呂布の意見だった。
夜半、まず歩兵が出発した。遅れて呂布は自らで大部分の騎兵を率いて城外へ出る。戦場にはちょうど夜が白む頃には到着する予定だ。
曹操股肱の臣である荀イクが守るケン城へ張バクから使者が届いた。張バクが庇護している呂布が曹操へ援軍に向かうため糧食を提供せよということだった。
呂布は政治的にそう簡単には用いることのできない人物だ。もし呂布に兵を率いさせ、活躍させてしまった場合はエン州内でその名声が大きくなりすぎる恐れがある。自らの兵力と名声で冀州を治めている袁紹と比べ、エン州において曹操の支配力はやや劣る。それだけに呂布を用いることは曹操の支配を弱める危険性を孕んでいることは張バクや陳宮にはわかっていることだ。曹操に無断で呂布をあえて用いようとする姿勢に荀彧は変事を察知し、留守役として最善策を打つべく活動を開始する。
反曹操の兵が決起したことを確信した荀イクが優先したのは兵力の集中であった。まず西方の濮陽に駐屯していた曹操の親族である夏侯惇が率いる軍を呼び寄せた。そしてその日のうちに城内の不穏分子を一掃することによってケン城は落ちついた。呂布らは後にこのケン城を攻めたが陥とせなかったという。
空き家同然となった濮陽はエン州軍の手中に収められ、また夏侯惇の率いる軍の輜重は呂布らに鹵獲されたが、荀彧はさしあたりゆるぎない抵抗拠点を確保することに成功した。
続いて荀イクは近隣の范城へ、出身者である程イクを派遣し、官吏たちの説得に当たらせた。范の県令キン允たちは曹操への忠義を誓い、エン州軍が派遣した氾嶷という者が県境に入った際には出迎えて会見を開き、油断させて伏兵により氾嶷を討ち取った。范への攻撃は続行されたが、指揮官を殺された軍が落ち着きを取り戻すまでの間に城の防備体勢は整えられた。
さらにもう一城、東阿という城については、曹操から引き立てられて県令に任命されていた棗祗という者が官民を統率しており、動揺が少なかった。程イクは別働隊として騎兵を派遣して呂布らの侵攻路にあたる倉亭という津を破壊し、進軍を遅延させた。その間に東阿は防備を固めることができた。東阿攻略軍は陳宮が自ら率いていたが、結局このタイムロスが原因で攻略は失敗している。
荀彧は何はともあれ、このエン州北東部に位置する三つの城について確保することに成功した。
エン州軍はこの三城の確保には失敗したが、言い換えれば三城以外を支配することができた。その初動は大成功といっていい。
続いて曹操の帰還作戦である。根拠地から遠く離れた地で、その根拠地がほぼ消失するというトラブルは、その時点で軍が四散してもおかしくないレベルのものだ。だが曹操は並の将ではない。驚くほど冷静に撤退を開始した。
まずは設定した帰路の道中に位置している襄賁県を略奪して当面の糧食を確保した。
そして軍を分けて親類の曹洪を先行させ、兵站と帰路を確保させている。特に東平国の一部の攻略が成り、范へのルートを確保できたのが大きい。曹洪はそのままエン州軍が囲んでいた(笵嶷が殺された後も攻撃は続いていた)范へ入城しており、また曹操の率いる主力もこのルートを通ってエン州に帰還している。
エン州豪族で親曹操派の李乾という者を地元へ帰し、郷里近隣の人心収攬を命じ、また同じくエン州出身の楽進という者を地元へ帰し、募兵を行わせている。
主力の帰還と、曹操に与する諸豪族たちから兵を募り曹操は反撃の態勢を整えた。
この前後、おそらく後世に作られたものではあろうが曹操が語ったと伝えられる話がある。呂布がエン州と徐州の境あたりに拠点を置き、帰路を妨げられれば自分は負けていたのに、呂布は愚かであるため濮陽を拠点としたと曹操は笑ったとのことだ。だがそれは結果論に過ぎない。
エン州政権にとっては曹操が敵地深くにいるところで決起を成功させた時点で戦略目的が達せられているのだ。優先すべきはエン州の内治と周辺に割拠する群雄に対する備えである。曹操には徐州内で陶謙から追撃を受ける可能性や、兵の反乱や逃走によって軍が瓦解する可能性などが高く、その対応の優先順位は低かった。そして仮に曹操がエン州へたどり着いたとしても、たかが三城を有するに過ぎない。叩き潰すのはそう難しいことではないという判断は決して誤ったものではなかった。
事実としてその後の経過も、呂布らにとって戦略的に有利な状況が続くこととなる。
エン州の大勢はエン州軍に傾いており、時が経てば今は曹操についている豪族もエン州側に寝返るに違いない。曹操は短期決戦を試みた。曹操は三城の付近を制圧すると、エン州軍の本拠である濮陽へ進軍する。
曹操がエン州軍の本拠としている東郡濮陽県へ向かって進軍しており、とうとう濮陽へ入ったとの報を得た呂布たちは軍議を開いた。
今は陣を張っており、特に動きは見られないようだが、数日内に大きな動きがあるはずだ。
斥候が持ち帰った情報を元に廟算すると状況は確実に有利、そう言い切れる状況にありながらエン州政権の重鎮たちの顔色は優れない。
彼らにとって曹操が徐州から生還、しかも主力を損なわず撤退を成功させたことは予想外であった。
その状態で泰然としているのは陳宮と、呂布だけである。
陳宮はエン州東郡出身の豪族で、エン州軍の中でも指折りの実力者の一人であった。張バクらと肩を並べている理由は彼個人の能力が高いためである。
曹操にエン州を献じたのも、曹操からエン州を離反させたのも彼の声望と能力に依るところが大きい。自然とその発言力も強くなる。自らを恃むところが厚い陳宮は自分よりも大きな兵力を持つ豪族たちに対しても無遠慮に発言する。
「我らの勝利は約束されたようなもの。卿らは何におびえておられるのだ」
「怯えているのではない。恐れているのだ。そしてそれは恥ではない。曹操は戦巧者であるし、その兵は精強だ」
一人の豪族が不安を隠そうともしない顔で陳宮に反駁する。
曹操が率いるのは高名な青州兵。陶謙が率いる精強な丹陽兵を中核とした軍を二度に渡り大いに破ったことで名高い。
エン州軍の持つ兵の大半は民衆から徴募した者たちだ。曹操の率いる青州兵とは経験値に圧倒的な差がある。
しかし曹操側は兵の練度において大きく優越していたものの、連戦の疲れもある上に根拠地の大半が失陥したという将兵の士気を大きく阻喪させる出来事もあった。このまま両軍が激突した場合、エン州軍が勝つだろう。それは誰もが理解している。
だが、それでもなお、戦巧者の曹操であれば戦局をひっくり返す何かをしでかすのではないかとの懸念が場の空気を重苦しくさせていた。
文官と武官の垣根がまだあいまいなこの時代、士大夫層の人間、特に自分が将として私兵を率いる立場にある豪族出身の者であれば一通り軍事的な教育を受けている。しかしながら、実際に兵や下士官の気持ちにまで考えが及ぶようになるにはそれなりに経験が必要になる。
「曹操の軍は遠路はるばる引き返してきて、疲れを癒す間もなく次の軍を発している。その軍を我らの気力の充実した軍が討つのだ。負けようはずがない」
「しかし青州兵がこの期に及んでもまだ曹操から離れていかずその指揮下にいるということは意外でもある。我らが考えるよりも彼らの紐帯が強いのであれば、そう一筋縄ではいかぬかもしれん」
「それでもその士気がかつて徐州の軍と戦った時ほど高いはずがない。それならば、勝てる」
陳宮は曹操の政権の中枢にいたため曹操の軍の実力を誰よりも知りぬいており、それと自分たちの兵力を比較することによって自信を抱いていた。呂布も陳宮からの聞き伝えではあるが曹操の軍容を把握し、それまでの経験に裏づいた予測で陳宮と同様の考えを持っていた。
「既に済んだ議論をしても仕方あるまい。卿らにわざわざ集まってもらったのは、この後に及んで無為な論を交わすためではない。まず卿らには先日の約定の履行をくれぐれもお願いする」
話は呂布が陳宮から今回の計画を持ちかけられた際に出した条件のことである。それは指揮系統の一本化ということだ。
自軍の兵数の大部分はエン州から徴兵した者たちだが、彼らの士気は低い。兵力の中核となるのはエン州豪族の私兵たちである。
豪族の私有民から選ばれ、編成された軍は士気も高く装備も充実しており、戦力としては一級だ。
エン州豪族の精兵が集まった連合軍といえば聞こえはいい。だが指揮系統がバラバラであればどれだけ兵の錬度が高かろうが烏合の衆に過ぎない。
呂布はおおよそ四百年近く前の楚漢戦争の頃、劉邦(漢王朝の初代皇帝)が五十六万と公称する軍を擁しながらも指揮系統の統一を怠ったばかりに僅か三万の項羽軍(劉邦のライバル)に各個撃破を許して大敗を喫したという故事を引き、呂布は陳宮に説明した。
陳宮も軍を率いたことはあり、そのような理屈はわかっている。要するに呂布はエン州の一派と手を結ぶのは、それなりの軍組織として体をなしていなければごめんだと伝えたのだ。
もちろん部外者たる呂布に指揮権を渡す必要はない。要は兵の集団が一つの軍として機能すればそれでいいのだ。
この頃の豪族というのは、いわばそれぞれが封建国家の主のようなものである。彼らがその軍事力の運用方針を他者に委ねるということはそれなりに覚悟のいることであった。
呂布はどういういきさつがあったのかは知らないが、結果として陳宮は曹操の直接対決する時には必ず張バクを最高司令官とした軍を編成するようエン州の実力者たちに認めさせたということを聞き、呂布は陳宮という人間の実力を認めたのだった。
だがいざ決戦を間近に控えると自身の兵を惜しんで司令官の指示に服従しないような者たちが出る可能性もある。それを防ぐ意味での発言であろう。
「次に指揮官についてだが、濮陽の西に築いていた陣が完成しつつあるため、兵を籠めねばならぬ。既に卿らの兵はご存じの通りいくつかに分けて編成してあるが、そのうちの三分の一ほどを私が率いて陣を統率しようと思うが、それで異論はなかろうか」
張バク、張超らエン州政権の上層部との話は随分前についているが、陳宮は兵を率いて参陣してきている中小の豪族たちにも形式的には了解を得ねばならない。彼らは実質的には部隊長となり、司令官からの命令を聞くことになるからだ。そして彼らの属性は陳宮や張バクの同志ではあるが部下ではない。
「兵の指揮を執るのは呂将軍ではないのか」
陳宮が予想していた疑問の声が方々から洩れる。
「外様の私が皆様を指揮することに抵抗を覚える方もおられるでしょう。私は騎兵を率います。騎兵は守勢に回れば脆いもの。城外に駐屯して奇襲でも受けようものならば不測の事態が起きぬとも限りません。それに陣まではそう遠い距離でもありません。何かあれば救援は容易に行えます」
いかつい見た目に似合わない典雅な声で呂布は彼らを宥める。呂布の声望は軍事に関していえば陳宮など比べ物にならぬほど大きい。呂布がエン州政権に与すると聞いて参陣してきた豪族も多いのだ。それだけに呂布には過剰な期待が寄せられがちだが、大規模な歩兵を率いて陣を守るという行為に関していえば寧ろ陳宮に一日の長がある。呂布には大兵を率いた経験がないからだ。
「陣には我が方からも河内兵を出します。陳太守の直轄部隊という形になるでしょう」
河内郡は呂布と縁が深い。丁原に従っていた時に呂布が兵を募ったこともあるし、河内郡を同じヘイ州出身者で呂布と親しくしている張楊という者が治めているという縁もある。呂布は河内郡で募った兵や、供給されてくる兵をそのまま河内兵と呼び歩兵部隊として運用していた。
呂布の直轄兵ではないが信頼の置ける兵たちである。兵数は呂布の率いる騎兵よりも数は多い。それでも規模は千人から二千人といったところであり、少数であっても戦局を変えうる騎兵と違い、戦術的には有用であっても戦略的な局面で大役を担える立場にはなりえない。
だが要所で投入すれば相応の戦果を得ることができるだけの力を持つ集団だ。陳宮ならばうまく使いこなしてくれるだろうと呂布は思う。自分の兵力を陳宮に任せることに呂布にためらいはない。陳宮たちの決起に参加した時点で、覚悟は決めている。
諸豪族たちからは特に異論らしい異論も出ず、そのまま事務的な折衝に入った。
*
曹操は守勢に回れば延命はできるが、攻勢に打って出なければ活路を見いだせない状況であった。呂布たちにとっても短期決戦は望むところである。周辺勢力はエン州の情勢に注目している。州内の争いが長引けば第三勢力が間違いなく介入してくるからだ。
呂布らは濮陽の西四十里に別陣営を設けている。定説では後漢の一里は約415mである。約16.5km先に陣営を設けたことになる。足の遅い輜重を連れず、整備された街道を行軍すれば比較的容易に濮陽城へ軍を送れる。
敵は基本的に東から来るから、城が攻められればそれを救援することが主目的となる。また城が攻められた場合は周辺へ派兵しにくくなるため、仮に曹操が兵を分けて諸方の攻略を企図したり、他勢力がエン州に進入した場合は対応が困難になる。その抑えとしても城外に別営は必要だと判断しての措置だ。
曹操は徐州から帰還した軍を再編し、決戦のため濮陽に向かう。そして呂布らエン州政権の面々はそれを迎え撃つ。
いよいよ戦端は開かれようとしていた。
――そう来たか
呂布は僅かな驚きをもって濮陽の戦いの幕開けを迎えた。
曹操は濮陽を迂回し、その西の陣に夜襲を仕掛けてきた。呂布の持つ騎兵戦力が活かせない環境での戦場を選定したのだろう。もっと言えば、騎兵戦力は城外の陣にあると見込んでこれを攻撃したのかもしれない。虎の子の騎兵戦力を無防備な城外へ置きたくなかった呂布は手持ちの全騎兵を城内に置いていたため、その点は幸いしたと言っていいだろう。
陣から発せられた急使が夜道を通って濮陽にたどり着くより前に、陣に放たれた火が燃え上がるのを城壁から見た衛兵によって呂布らは夜襲を察知していた。
援軍を急派するという意見も出た。街道に沿って行くとはいえ、夜間の行軍は進軍速度が遅くなる。それに兵を叩き起こして援軍を編成する時間もある。援軍が到着までに陣が戦闘能力を失ってしまえば各個撃破されかねない。また曹操が濮陽からの援軍を叩くため一部の部隊を伏せている可能性もあった。
夜戦では白兵戦が多くなりがちで、被害が互いに大きくなりやすい。反面追撃が行い難く、兵が敗走しても生存しやすいため敗北した側は部隊が立て直しやすいという側面も持つ。
陣が陥ちるのは痛いが、むしろこれを利用して曹操軍が帰路につく際に決戦を行うことを狙う以外に方策はないというのが呂布の意見だった。
夜半、まず歩兵が出発した。遅れて呂布は自らで大部分の騎兵を率いて城外へ出る。戦場にはちょうど夜が白む頃には到着する予定だ。
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十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
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