7 / 21
濮陽の戦い2 陣の陥落
しおりを挟む
少し前のこと。
夜、河内兵の指揮官である赫萌は肌が粟立つのを感じて目を覚ました。河内兵は呂布の私兵ではない、従属している勢力という表現が正しいだろう。河内兵を束ねている赫萌は沈着な判断に基づく堅実な用兵で兵達と呂布らから信任されている有能な男である。すぐさま事態を察知した。
喊声と木や布が燃える臭い。丘に築かれた営からは眼下が見渡せる。二重に巡らされた防柵のうち、外側の方で火が上がっている。
警備兵に河内兵全員を叩き起こして重歩兵としての装備を整えるよう指示し、簡単に身支度を整えて指揮所に慌てて入ると、そこには軍装の陳宮と数人の将校が既にいた。
「参るのが遅くなりました」
「私も先ほどこちらへ来たばかりだ」
濮陽の東に滞陣していた曹操が、濮陽を挟んだ西にあるこの陣へ長駆して夜襲を仕掛けてきたのは驚愕することだが、陳宮の表情は平時のそれと変わりない。
「それよりも見ての通り夜襲だ。第一線は放棄して第二線にて抗戦しようと思う。既に西と南北の兵は二線へ撤退するよう指示を出した。だが東側は壊乱したままだ。既に敵の一部は陣に入り込んでいる、現在は混乱がひどく組織だった抵抗はできていない。遠からず敵がなだれ込んでくるだろう。とはいえ現状で撤退の鉦を鳴らしたところで無秩序な潰走になることはわかっている。卿の意見が聞きたい」
相手はおそらく陣営内の兵を叩き潰せるだけの戦力を投入してきているはずであり、それには防御面積を縮小した方が守りやすい。そのために第一線を放棄するのは当然の判断といえた。
「撤退の支援をいたします。私が河内兵を率いて一線に出て敵の攻勢を頓挫させます。その隙に兵を収容するのです」
陳宮はなるほど、と呟く。軍事の基本がわかったものであれば誰でも考えうる作戦だが、それを担当する兵には相応の錬度が必要であり、さらに少なからず被害が出る。河内兵は現在陳宮直属の部隊であったとしても、その実質はいわば独立勢力だ。赫萌とてその戦術指揮能力を買われて指揮官に推戴されているに過ぎず、大事を定める時は協議を必要とする立場であった。火急の事態とはいえ、独自の判断で行動を決定することは赫萌にしてもリスクの伴う行為である。
陳宮の呟きは自身の立場を慮り、自発的に作戦へ従事することを宣言した赫萌への評価と感謝が篭められていた。
「太守閣下(東郡太守の陳宮のこと)の元へ参るまでの間に必要な指示は済ませております。下知があれば今すぐにでも動きましょう」
赫萌も自身の兵は惜しいが、呂布と同じでそれなりの覚悟を持って戦陣に臨んでいる。それにエン州政権の中で存在感を示すことができれば、自分たちの立場も向上するはずだという目論見もあった。
「卿に任せる、私は他の三方の撤退の指揮を執ろう」
陳宮の決断は早い。それに応えて赫萌も速やかに出戦の準備を整えた。
牙門(陣の門)はなんとか持ちこたえているようであるが、それなりに堅固に作られている柵の何カ所かは攻撃開始時に曹操軍が破壊している。
陣内には兵が入り込み始めているが、まだ曹操軍は橋頭保ともいえる拠点を確保できず、その進入路付近で攻防が繰り広げられている状態だ。もちろんそれ以外の場所でも柵は破壊されようとしているが、良くも悪くも陣にかけられた火が大きくなっており敵を視認できる状態であるため、その工作は阻止されている。
河内兵たちは重装で一線に突入した。まず赫萌は一隊を割いて牙門の防御を命じた。そして次に一線と二線をつなぐ門を背に半月状に布陣を終える。
曹操軍は動きやすさを優先した軽装である。数は劣っても重装歩兵の防御を突破するのは容易ではない。
続いて抗戦を続ける各部署へ伝令が送られる。そしてしばらく経つと断続的に鉦が打ち鳴らされはじめた。
ちなみにこの頃は広い戦場に大まかな指示を与える手段としては音が用いられていた。例えば鉦は撤退を知らせる合図であり、太鼓は進軍を知らせる合図である。日中の戦であれば視角的な情報伝達手段として旗や幟なども用いられるが夜間では意味をなさない。
鉦の音の数や間隔で指令は伝えられる。その指令に応じて各部署は順次撤退を開始する。河内兵により二線への退路が確保されたことを陳宮が伝令で周知したため一線で戦う兵たちは混乱から回復していた。
エン州軍の全面撤退を察した曹操軍は次々と陣内に侵入してきているが、まだまとまった攻勢をかけられないでいるようだ。燃え上がる火の明かりがあるといっても陣全体の様子を一覧できるほどではなく、こちらの配置が読めないからだろう。赫萌が一番恐れていた、撤退途中で混戦に持ち込まれることはなさそうである。
撤退の殿を務めるのは牙門を守っていた河内兵の一隊であり、それも軽微な損害で撤退を完遂した。それを見届けた赫萌たちも二線へと戻っていく。
「見事であった」
次の方針を相談するため指揮所へ現れた赫萌を陳宮は激賞した。既に陳宮が指揮した三方の兵は撤退しており、二線の防衛隊に組み込まれていた。
「恐れ入ります」
交戦中の撤退は戦術的に極めて難しい。それを鮮やかにやり遂げるのは凡将のよくするところではない。
指揮所にいる他の幕僚たちも赫萌を見る目を変えたようだ。
「敵はやはり時間差をつけて南と北からも攻撃を仕掛けてきている。攻勢規模は東側のそれとほぼ同じだ。卿はどう考える」
赫萌が先ほど見た敵の規模は自軍のそれとほぼ同数だと概算した。それと同規模の兵が他の二方向から攻め寄せてきているとなると、曹操軍はおよそ三倍以上の兵数となる。兵の練度や指揮系統が完全に統一されていることや、まだ投入されていない予備兵の数を加味すると敵の兵力は此方の五倍はあると見積もるべきだろう。
「夜が白むまではなんとしても陣を守り通すのです。矢などを惜しんではなりません。そして闇がまだ残る状態で陣を放棄することを基本方針とするのが妥当だと思われますが」
「陣を固守すればいずれ援軍がくるのではないか?」
「濮陽の本部は敵の規模を図れないでしょう。これほどの大攻勢であるとは考えが及ばないのが普通です。危険の大きい夜間の遭遇戦で兵を損なうようなことは避けたいと考えるのが自然ではないでしょうか」
兵理に従えば大規模な援軍を即時派遣されると考えても良いだろう。たが夜間行軍に耐えうる練度を徴発した兵たちはもたない。恐らく豪族たちの私兵を中心に援軍が編成されることになるが、彼らは被害も大きくなりがちで、戦場の様子がわかりにくく功を建てても認められにくい夜戦を間違いなく厭う。
援軍は派遣されるだろうが戦場が明るくなってから戦端を開くようなタイミングになると赫萌は読んだ。
「卿の意見はわかった。時がくれば検討しよう。どちらにせよ当面は陣を破られないようにせねばなるまい」
陳宮とその幕僚たちはその場で東側にいた一線の兵たちを再編成する作業へ着手する。本格的な防戦がはじまろうとしていた。
二線と一線を隔てるのは木柵だけだ。恐らくすぐに破られるだろう。予備隊として待機してある赫萌たち河内兵は遠くないうちに出番があるはずだ。
エン州軍と曹操軍の戦力差は陣に拠って戦うのであれば決して不利ではないのだが、敵がほとんど無傷のまま二線へ肉薄しているという状態はエン州軍側にとっては極めて緊迫した情勢であるといえた。
夜間で視認性は著しく低下しているとはいえ、かがり火と一線に放たれた火のおかげでなんとか大雑把な狙いはつけられる。柵を壊そうとする曹操軍に対し、まずエン州軍は矢と投石による妨害行動に出た。効果はあまりないが柵の防御効果を活かせるうちは活かしていかなければならない。
柵は時間の経過とともに破壊されていき、そこから曹操軍は攻め込んでくる。最初の一隊は弓の的となって全滅し、次の一隊は弓で損害は受けたものの前進したが、エン州軍の長兵に串刺しにされて屍の山となった。
近現代までの戦闘では、陣や城への進行路は攻め手の兵から流れる血によって塗装される。
徐々に侵入口の数は増え、エン州軍の攻撃もそれぞれに分散されることになる。とうとうまとまった数の兵の侵入を許すところが出始め、二線内で戦闘が始まった。
要所に鹿角(木を×字に組んだ簡易な障害物)が並べられ、矛を持った長兵で敵の進路を遮蔽する。だが敵を阻む有効な手段は限られている。曹操軍は障害の少ない道を選んで進軍するがその進軍を頓挫させるのは人の壁しか残されていない。いたるところで剣戟の音が響き始める。射兵たちは弓を投げ捨てて抜刀し、乱戦に加わる。
戦場は苛烈さを増し、本部の予備隊は河内兵を残して全部隊が出動した。
「お呼びでしょうか、閣下」
「戦況について卿はどう思う」
陳宮は赫萌を本部へ呼び出し、簡潔に問うた。
「率直に申し上げるならば、予想以上に善戦しているかと」
赫萌も、おそらく陳宮自身も驚いたことにエン州の兵達の果敢さは曹操軍のそれに勝るとも劣らない。
エン州軍を形成する主要素であるのは豪族たちの私兵である。本質的な指揮系統は一本化されていないといっていい。その細分化された指揮系統を崩さず防衛組織に組み込み、各部署に配置してある程度の裁量権を指揮官たちに与えていたのが奏功している。
もっともこれはそれ以外の措置がとれなかったというだけであり、誰の功績であるというわけではない。あえて表現するのであれば、それは各部署の核となっている豪族とその私兵達、それに主戦力となっている徴発された兵たちとその指揮官たちの功績である。
彼らは曹操というエン州を脅かす者に対し、必死に抵抗しているのだ。
「私もそう思う。そう思うが、現状ではただの善戦は無意味であることを卿もわかっているだろう」
陳宮は開戦早々に陣を死守することを諦め、曹操の戦力をできるだけ削りたいと考えていた。ここで陣を明け渡すことになろうとも曹操軍の数が相応に減るのであれば、それは分が悪い取引ではない。
繰り返すが曹操軍は数多くの戦場をくぐり抜けてきた精兵が多く、野戦で五分の条件で戦えば恐らく二倍の兵数がいてもエン州軍は負ける。錬成された軍組織と、にわか作りの軍組織にはそれほどの差がある。平易な言い方をすると曹操は手足を動かすかのように自由に軍を動かすことができるが、エン州軍の司令官はそれができないということだ。核となる錬度の高い兵が各指揮官個人に帰属している以上、被害の大きくなる持ち場は嫌がるし、命令に従うにしてもためらいが出る。そうなると軍全体が円滑に動かなくなり相手の攻撃を許す間隙が生まれやすい。
曹操の奇襲はおそるべきものであったが、視認性の低い夜間では曹操軍の強みは減衰されてエン州軍の弱みは薄まる。曹操軍の数の優位は戦線を徹底的に縮小することにより、ある程度は緩和できる。目前の敵を各個に撃破するだけであれば、つまり個々の兵の勇猛さにおいてはエン州軍の兵は曹操軍の兵にも劣らない。そう考えると眼前の状況は組織力において劣るエン州軍にとって大きなチャンスともいえた。戦いが長引けばそれだけ曹操軍の被害は大きくなる。消耗戦は望むところであった。
この戦いは援軍が来るまで抗戦できればそれが一番だが、曹操軍の攻撃はそんな甘い目論見を許すほど緩くはない。陳宮は開戦前になされた赫萌の提言の通り、できるだけ抗戦を続け、限界が来る前に敵軍を突破して夜闇に紛れて離脱すべきと考えていた。
だがその見込みさえ甘いものであったことに遅ればせながら気付かせられたのは先ほどのことだ。
「この水も漏らさぬ包囲を見るに、曹操軍は我らを皆殺しにする気でしょう。一度の戦は百度の訓練に勝ります。彼らが生き残ればこの善戦は大きな意味を持ちますが死に絶えてしまっては意味を消失する、そう仰せなのですね」
先ほどまで曹操軍は三方から攻め寄せて来ていたが、唯一西側だけは一兵たりとも攻め寄せてはきていなかった。敵の要害を攻める際に、その逃走路を空けておくのは常套手段だ。活路を完全に断つことは敵兵の死に物狂いの抵抗を招き、却って効率が悪い。
特に夜闇に包まれた陣の外は命を惜しむ者たちにとっては魅力的だ。曹操側からすれば、戦闘が続くうちに逃げだす者も出ることも期待できる。
だが戦闘が進行するにつれ、曹操軍は西からも攻撃を開始したのである。大半の兵を他の三方に戦力の大半を充てていたエン州軍の幕僚たちは大いに慌てたものの、予備隊で足止めを行い、他の三方から戦力を一部抽出することによってなんとか防衛線を張ることに成功していた。
陣に詰めているエン州軍上層部の全員が曹操軍の戦略目的を見誤っていたことに気付いたのはこの瞬間だ。
曹操の戦略目的は陣を奪取、破壊することだけではない。曹操は陣にいるエン州軍を鏖殺することを望んでいた。
考えてみると、それはたしかにそれは有効な手段である。戦力を陣に拠出した豪族たちは自分たちの兵が文字通りの全滅をしたと知れば曹操に対して敵愾心を抱くと以上に、恐怖心と厭戦気分や敗北感、エン州軍司令部への不信感を持つ。そうなると抗戦にも力が入らなくなるだろう。
曹操が何よりも欲しているのはエン州軍の士気を阻喪させることだったのだ。
戦場は基本的には防衛側が有利なようになっている。現時点での被害状況はエン州軍を二とすれば曹操軍は三といったところだろう。仮にエン州軍が敗走したところで夜闇の中では追撃もままならないためその比率がそれほど変動するとも思えない。
曹操軍が無理攻めを続ければ一時は曹操軍の被害がエン州軍のそれの二倍や三倍に達する瞬間があるかもしれない。だがそのまま包囲の輪を緩めず攻勢を続けていけばやがて防衛にも限界が来る。軍組織として相互連携が取れなくなれば、個々の兵がどれだけ勇を振るったとしてもエン州軍は烏合の衆と化す。
もちろんそうなった段階で降伏することになるだろうが、エン州軍の援軍がいつ来るかもわからない状態で歩みの遅い捕虜を悠長に濮陽の東にある本陣までわざわざ連行するようなことを曹操軍はしない。おそらく殺されることになる。
「脱出できるだろうか」
「出血は少々強いられるでしょうな」
夜間の撤退はそれほど難しくない。問題は陣の外までの道のりだ。一旦外に出れば闇に紛れて遁走できるのは間違いないが、曹操がそれを簡単に許すはずがない。
「兵を細分化して曹操軍の侵入路と牙門へ分けて逃がすのは悪手だろうな」
「敵の兵数は我らの数倍以上。おそらく各個に撃破されるでしょう」
「むしろ撤退方面を絞って敵の大半を遊兵化させる方が得策だな」
曹操軍がエン州軍の撤退行動に気付き、追撃に入るにはある程度の時間がかかる。それまでに一ヶ所を突破する方が相手にする敵兵の数は減るはずだ。
赫萌も含め、指揮所の中で幕僚たちは短い協議を行い、衆議は一致した。撤退方向は西側。濮陽と真逆の方向になるが、それだけに敵の警戒も薄いに違いない。それにおそらく兵の動きが一番精彩に富む東側に曹操はいるだろう。司令官と正反対の方面であれば追撃を受けるまでの時間が多少なりとも稼げるはずだ。
伝令で作戦を周知して最後の撤退の鉦を鳴らす。
西側も他と同じく火が放たれており、敵味方の視認は可能な状態である。西側の曹操軍は急遽積極攻勢に移ったエン州軍に不意をつかれ、一時的に壊乱した。その恐らく長くは続かないであろう混乱の隙に牙門を奪取すると、雪崩をうってエン州軍は脱出していく。
曹操は曹操で結局はエン州軍の錬度や指揮官の能力を誤認していた。陳宮たちは最適な判断を下し、見事な統率力で撤退を成功させたのである。
「被害は思ったより大きいかもしれませんな」
陳宮たちも陣外に逃れ、少し離れたところで小休止を行いつつ被害状況を確認していた。河内兵は本部の護衛を担っていて、後衛戦闘には参加していないため比較的被害は少ないが、それでも死傷者はそれなりに出た。殿にいた部隊の状況はもっとひどいだろう。
「我らも早く部隊を分けて撤退しましょう」
赫萌は陳宮を促すが陳宮は動こうとしない。エン州軍の半数以上は既に小部隊に分かれて四散している。日が昇れば各自の判断で濮陽へ帰投するはずだ。現在本部と本部が掌握している部隊の兵だけでは曹操軍に太刀打ちができないだろう。下手にまとまって曹操軍に所在を気取られるくらいなら、バラバラに逃げた方が良い。余程のことがない限り捕捉されずに済む。
「いや、逆襲する。兵をまとめよ」
「なぜです」
「我らの稼ぐべき時間はまだ少し残されていると思わんかね」
月の位置を見る。まだ夜明けにはしばらくの時間を残している。赫萌は短く呻いた。純戦術的な指摘を陳宮のような立場の者から受け、自身の短慮を悔やんだのだ。
「呂将軍は援軍を派遣していないと思うか」
「思いません。今頃は進軍しているでしょう」
このまま組織的抵抗をやめてしまった場合、曹操軍は濮陽から派遣された軍の追撃をかわして自陣に逃げ込んでしまう可能性がある。
「現段階の兵の被害は痛み分けといったところだろう。それで城外の駐屯地を失った。これでは敗北ではないか」
撤退の際の交戦で損害比率は五分にまで縮まってしまったと思われた。エン州軍と比べると兵数は曹操軍の方が多い。相手と同数の損害しか受けずに陣を陥としたという事実は紛れもなく曹操軍の勝利として評価される。
「我々は曹操軍と違って味方にも気を使わなければならない。違うかね」
諸豪族たちの士気が落ちたらエン州政権は瓦解する。組織としての脆さが剥き出しになるような敗戦は防がなくてはならない。
「私は私の権限で兵達に命を賭けさせることができます。後になってそれが分の悪い賭けであったと非難されなければありがたく思いますが」
「別に消耗させるつもりはない。要は曹操軍の撤退を遅滞させればいいのだ」
曹操軍は陣の柵を抜き、資材や食料にも火をかけて陣を完全に破壊しようとしている。陳宮はこの作業を妨害することを企図した。陳宮たちはさらに軍を分けた。月明かりでもうっすらと視認し得る森や岩などを集合場所として、それぞれが陣の破壊をしている曹操軍の一部に斬り込み、すぐに離脱する。エン州軍は小勢で火を持たずに近接するため曹操軍には探知されにくい。大した邪魔にもならないだろうが嫌がらせ程度にはなった。
数度目の襲撃を終えた時には陳宮と赫萌の手元の兵は半数ほどになっていた。彼らは死傷したわけではない。集合場所を見失ってしまったのだろう。それはそれで仕方がない。そうなった場合は各自濮陽を目指すよう指示をしてある。
「そろそろ曹操軍は撤退を始めそうですな」
曹操軍は集合しようとしていた。潮時である。いかに夜とはいえまとまった軍勢に小人数で挑めば押し包まれて終わる。
「使える兵も少なくなった。仕方あるまい。我らも引こう」
夜明けも近い。濮陽のエン州軍司令部が余程の愚かでなければ援軍は近くまできているはずだ。
濮陽へ帰還を図る際、援軍とかち合った際に伝達すべき内容を逆襲の前にそれぞれの部隊に伝えている。それとは別で伝令も十指に余る数が出された。
陣に詰めた陳宮率いる兵たちによって最低限の時間は稼がれ、戦いは次の局面に移行する。
夜、河内兵の指揮官である赫萌は肌が粟立つのを感じて目を覚ました。河内兵は呂布の私兵ではない、従属している勢力という表現が正しいだろう。河内兵を束ねている赫萌は沈着な判断に基づく堅実な用兵で兵達と呂布らから信任されている有能な男である。すぐさま事態を察知した。
喊声と木や布が燃える臭い。丘に築かれた営からは眼下が見渡せる。二重に巡らされた防柵のうち、外側の方で火が上がっている。
警備兵に河内兵全員を叩き起こして重歩兵としての装備を整えるよう指示し、簡単に身支度を整えて指揮所に慌てて入ると、そこには軍装の陳宮と数人の将校が既にいた。
「参るのが遅くなりました」
「私も先ほどこちらへ来たばかりだ」
濮陽の東に滞陣していた曹操が、濮陽を挟んだ西にあるこの陣へ長駆して夜襲を仕掛けてきたのは驚愕することだが、陳宮の表情は平時のそれと変わりない。
「それよりも見ての通り夜襲だ。第一線は放棄して第二線にて抗戦しようと思う。既に西と南北の兵は二線へ撤退するよう指示を出した。だが東側は壊乱したままだ。既に敵の一部は陣に入り込んでいる、現在は混乱がひどく組織だった抵抗はできていない。遠からず敵がなだれ込んでくるだろう。とはいえ現状で撤退の鉦を鳴らしたところで無秩序な潰走になることはわかっている。卿の意見が聞きたい」
相手はおそらく陣営内の兵を叩き潰せるだけの戦力を投入してきているはずであり、それには防御面積を縮小した方が守りやすい。そのために第一線を放棄するのは当然の判断といえた。
「撤退の支援をいたします。私が河内兵を率いて一線に出て敵の攻勢を頓挫させます。その隙に兵を収容するのです」
陳宮はなるほど、と呟く。軍事の基本がわかったものであれば誰でも考えうる作戦だが、それを担当する兵には相応の錬度が必要であり、さらに少なからず被害が出る。河内兵は現在陳宮直属の部隊であったとしても、その実質はいわば独立勢力だ。赫萌とてその戦術指揮能力を買われて指揮官に推戴されているに過ぎず、大事を定める時は協議を必要とする立場であった。火急の事態とはいえ、独自の判断で行動を決定することは赫萌にしてもリスクの伴う行為である。
陳宮の呟きは自身の立場を慮り、自発的に作戦へ従事することを宣言した赫萌への評価と感謝が篭められていた。
「太守閣下(東郡太守の陳宮のこと)の元へ参るまでの間に必要な指示は済ませております。下知があれば今すぐにでも動きましょう」
赫萌も自身の兵は惜しいが、呂布と同じでそれなりの覚悟を持って戦陣に臨んでいる。それにエン州政権の中で存在感を示すことができれば、自分たちの立場も向上するはずだという目論見もあった。
「卿に任せる、私は他の三方の撤退の指揮を執ろう」
陳宮の決断は早い。それに応えて赫萌も速やかに出戦の準備を整えた。
牙門(陣の門)はなんとか持ちこたえているようであるが、それなりに堅固に作られている柵の何カ所かは攻撃開始時に曹操軍が破壊している。
陣内には兵が入り込み始めているが、まだ曹操軍は橋頭保ともいえる拠点を確保できず、その進入路付近で攻防が繰り広げられている状態だ。もちろんそれ以外の場所でも柵は破壊されようとしているが、良くも悪くも陣にかけられた火が大きくなっており敵を視認できる状態であるため、その工作は阻止されている。
河内兵たちは重装で一線に突入した。まず赫萌は一隊を割いて牙門の防御を命じた。そして次に一線と二線をつなぐ門を背に半月状に布陣を終える。
曹操軍は動きやすさを優先した軽装である。数は劣っても重装歩兵の防御を突破するのは容易ではない。
続いて抗戦を続ける各部署へ伝令が送られる。そしてしばらく経つと断続的に鉦が打ち鳴らされはじめた。
ちなみにこの頃は広い戦場に大まかな指示を与える手段としては音が用いられていた。例えば鉦は撤退を知らせる合図であり、太鼓は進軍を知らせる合図である。日中の戦であれば視角的な情報伝達手段として旗や幟なども用いられるが夜間では意味をなさない。
鉦の音の数や間隔で指令は伝えられる。その指令に応じて各部署は順次撤退を開始する。河内兵により二線への退路が確保されたことを陳宮が伝令で周知したため一線で戦う兵たちは混乱から回復していた。
エン州軍の全面撤退を察した曹操軍は次々と陣内に侵入してきているが、まだまとまった攻勢をかけられないでいるようだ。燃え上がる火の明かりがあるといっても陣全体の様子を一覧できるほどではなく、こちらの配置が読めないからだろう。赫萌が一番恐れていた、撤退途中で混戦に持ち込まれることはなさそうである。
撤退の殿を務めるのは牙門を守っていた河内兵の一隊であり、それも軽微な損害で撤退を完遂した。それを見届けた赫萌たちも二線へと戻っていく。
「見事であった」
次の方針を相談するため指揮所へ現れた赫萌を陳宮は激賞した。既に陳宮が指揮した三方の兵は撤退しており、二線の防衛隊に組み込まれていた。
「恐れ入ります」
交戦中の撤退は戦術的に極めて難しい。それを鮮やかにやり遂げるのは凡将のよくするところではない。
指揮所にいる他の幕僚たちも赫萌を見る目を変えたようだ。
「敵はやはり時間差をつけて南と北からも攻撃を仕掛けてきている。攻勢規模は東側のそれとほぼ同じだ。卿はどう考える」
赫萌が先ほど見た敵の規模は自軍のそれとほぼ同数だと概算した。それと同規模の兵が他の二方向から攻め寄せてきているとなると、曹操軍はおよそ三倍以上の兵数となる。兵の練度や指揮系統が完全に統一されていることや、まだ投入されていない予備兵の数を加味すると敵の兵力は此方の五倍はあると見積もるべきだろう。
「夜が白むまではなんとしても陣を守り通すのです。矢などを惜しんではなりません。そして闇がまだ残る状態で陣を放棄することを基本方針とするのが妥当だと思われますが」
「陣を固守すればいずれ援軍がくるのではないか?」
「濮陽の本部は敵の規模を図れないでしょう。これほどの大攻勢であるとは考えが及ばないのが普通です。危険の大きい夜間の遭遇戦で兵を損なうようなことは避けたいと考えるのが自然ではないでしょうか」
兵理に従えば大規模な援軍を即時派遣されると考えても良いだろう。たが夜間行軍に耐えうる練度を徴発した兵たちはもたない。恐らく豪族たちの私兵を中心に援軍が編成されることになるが、彼らは被害も大きくなりがちで、戦場の様子がわかりにくく功を建てても認められにくい夜戦を間違いなく厭う。
援軍は派遣されるだろうが戦場が明るくなってから戦端を開くようなタイミングになると赫萌は読んだ。
「卿の意見はわかった。時がくれば検討しよう。どちらにせよ当面は陣を破られないようにせねばなるまい」
陳宮とその幕僚たちはその場で東側にいた一線の兵たちを再編成する作業へ着手する。本格的な防戦がはじまろうとしていた。
二線と一線を隔てるのは木柵だけだ。恐らくすぐに破られるだろう。予備隊として待機してある赫萌たち河内兵は遠くないうちに出番があるはずだ。
エン州軍と曹操軍の戦力差は陣に拠って戦うのであれば決して不利ではないのだが、敵がほとんど無傷のまま二線へ肉薄しているという状態はエン州軍側にとっては極めて緊迫した情勢であるといえた。
夜間で視認性は著しく低下しているとはいえ、かがり火と一線に放たれた火のおかげでなんとか大雑把な狙いはつけられる。柵を壊そうとする曹操軍に対し、まずエン州軍は矢と投石による妨害行動に出た。効果はあまりないが柵の防御効果を活かせるうちは活かしていかなければならない。
柵は時間の経過とともに破壊されていき、そこから曹操軍は攻め込んでくる。最初の一隊は弓の的となって全滅し、次の一隊は弓で損害は受けたものの前進したが、エン州軍の長兵に串刺しにされて屍の山となった。
近現代までの戦闘では、陣や城への進行路は攻め手の兵から流れる血によって塗装される。
徐々に侵入口の数は増え、エン州軍の攻撃もそれぞれに分散されることになる。とうとうまとまった数の兵の侵入を許すところが出始め、二線内で戦闘が始まった。
要所に鹿角(木を×字に組んだ簡易な障害物)が並べられ、矛を持った長兵で敵の進路を遮蔽する。だが敵を阻む有効な手段は限られている。曹操軍は障害の少ない道を選んで進軍するがその進軍を頓挫させるのは人の壁しか残されていない。いたるところで剣戟の音が響き始める。射兵たちは弓を投げ捨てて抜刀し、乱戦に加わる。
戦場は苛烈さを増し、本部の予備隊は河内兵を残して全部隊が出動した。
「お呼びでしょうか、閣下」
「戦況について卿はどう思う」
陳宮は赫萌を本部へ呼び出し、簡潔に問うた。
「率直に申し上げるならば、予想以上に善戦しているかと」
赫萌も、おそらく陳宮自身も驚いたことにエン州の兵達の果敢さは曹操軍のそれに勝るとも劣らない。
エン州軍を形成する主要素であるのは豪族たちの私兵である。本質的な指揮系統は一本化されていないといっていい。その細分化された指揮系統を崩さず防衛組織に組み込み、各部署に配置してある程度の裁量権を指揮官たちに与えていたのが奏功している。
もっともこれはそれ以外の措置がとれなかったというだけであり、誰の功績であるというわけではない。あえて表現するのであれば、それは各部署の核となっている豪族とその私兵達、それに主戦力となっている徴発された兵たちとその指揮官たちの功績である。
彼らは曹操というエン州を脅かす者に対し、必死に抵抗しているのだ。
「私もそう思う。そう思うが、現状ではただの善戦は無意味であることを卿もわかっているだろう」
陳宮は開戦早々に陣を死守することを諦め、曹操の戦力をできるだけ削りたいと考えていた。ここで陣を明け渡すことになろうとも曹操軍の数が相応に減るのであれば、それは分が悪い取引ではない。
繰り返すが曹操軍は数多くの戦場をくぐり抜けてきた精兵が多く、野戦で五分の条件で戦えば恐らく二倍の兵数がいてもエン州軍は負ける。錬成された軍組織と、にわか作りの軍組織にはそれほどの差がある。平易な言い方をすると曹操は手足を動かすかのように自由に軍を動かすことができるが、エン州軍の司令官はそれができないということだ。核となる錬度の高い兵が各指揮官個人に帰属している以上、被害の大きくなる持ち場は嫌がるし、命令に従うにしてもためらいが出る。そうなると軍全体が円滑に動かなくなり相手の攻撃を許す間隙が生まれやすい。
曹操の奇襲はおそるべきものであったが、視認性の低い夜間では曹操軍の強みは減衰されてエン州軍の弱みは薄まる。曹操軍の数の優位は戦線を徹底的に縮小することにより、ある程度は緩和できる。目前の敵を各個に撃破するだけであれば、つまり個々の兵の勇猛さにおいてはエン州軍の兵は曹操軍の兵にも劣らない。そう考えると眼前の状況は組織力において劣るエン州軍にとって大きなチャンスともいえた。戦いが長引けばそれだけ曹操軍の被害は大きくなる。消耗戦は望むところであった。
この戦いは援軍が来るまで抗戦できればそれが一番だが、曹操軍の攻撃はそんな甘い目論見を許すほど緩くはない。陳宮は開戦前になされた赫萌の提言の通り、できるだけ抗戦を続け、限界が来る前に敵軍を突破して夜闇に紛れて離脱すべきと考えていた。
だがその見込みさえ甘いものであったことに遅ればせながら気付かせられたのは先ほどのことだ。
「この水も漏らさぬ包囲を見るに、曹操軍は我らを皆殺しにする気でしょう。一度の戦は百度の訓練に勝ります。彼らが生き残ればこの善戦は大きな意味を持ちますが死に絶えてしまっては意味を消失する、そう仰せなのですね」
先ほどまで曹操軍は三方から攻め寄せて来ていたが、唯一西側だけは一兵たりとも攻め寄せてはきていなかった。敵の要害を攻める際に、その逃走路を空けておくのは常套手段だ。活路を完全に断つことは敵兵の死に物狂いの抵抗を招き、却って効率が悪い。
特に夜闇に包まれた陣の外は命を惜しむ者たちにとっては魅力的だ。曹操側からすれば、戦闘が続くうちに逃げだす者も出ることも期待できる。
だが戦闘が進行するにつれ、曹操軍は西からも攻撃を開始したのである。大半の兵を他の三方に戦力の大半を充てていたエン州軍の幕僚たちは大いに慌てたものの、予備隊で足止めを行い、他の三方から戦力を一部抽出することによってなんとか防衛線を張ることに成功していた。
陣に詰めているエン州軍上層部の全員が曹操軍の戦略目的を見誤っていたことに気付いたのはこの瞬間だ。
曹操の戦略目的は陣を奪取、破壊することだけではない。曹操は陣にいるエン州軍を鏖殺することを望んでいた。
考えてみると、それはたしかにそれは有効な手段である。戦力を陣に拠出した豪族たちは自分たちの兵が文字通りの全滅をしたと知れば曹操に対して敵愾心を抱くと以上に、恐怖心と厭戦気分や敗北感、エン州軍司令部への不信感を持つ。そうなると抗戦にも力が入らなくなるだろう。
曹操が何よりも欲しているのはエン州軍の士気を阻喪させることだったのだ。
戦場は基本的には防衛側が有利なようになっている。現時点での被害状況はエン州軍を二とすれば曹操軍は三といったところだろう。仮にエン州軍が敗走したところで夜闇の中では追撃もままならないためその比率がそれほど変動するとも思えない。
曹操軍が無理攻めを続ければ一時は曹操軍の被害がエン州軍のそれの二倍や三倍に達する瞬間があるかもしれない。だがそのまま包囲の輪を緩めず攻勢を続けていけばやがて防衛にも限界が来る。軍組織として相互連携が取れなくなれば、個々の兵がどれだけ勇を振るったとしてもエン州軍は烏合の衆と化す。
もちろんそうなった段階で降伏することになるだろうが、エン州軍の援軍がいつ来るかもわからない状態で歩みの遅い捕虜を悠長に濮陽の東にある本陣までわざわざ連行するようなことを曹操軍はしない。おそらく殺されることになる。
「脱出できるだろうか」
「出血は少々強いられるでしょうな」
夜間の撤退はそれほど難しくない。問題は陣の外までの道のりだ。一旦外に出れば闇に紛れて遁走できるのは間違いないが、曹操がそれを簡単に許すはずがない。
「兵を細分化して曹操軍の侵入路と牙門へ分けて逃がすのは悪手だろうな」
「敵の兵数は我らの数倍以上。おそらく各個に撃破されるでしょう」
「むしろ撤退方面を絞って敵の大半を遊兵化させる方が得策だな」
曹操軍がエン州軍の撤退行動に気付き、追撃に入るにはある程度の時間がかかる。それまでに一ヶ所を突破する方が相手にする敵兵の数は減るはずだ。
赫萌も含め、指揮所の中で幕僚たちは短い協議を行い、衆議は一致した。撤退方向は西側。濮陽と真逆の方向になるが、それだけに敵の警戒も薄いに違いない。それにおそらく兵の動きが一番精彩に富む東側に曹操はいるだろう。司令官と正反対の方面であれば追撃を受けるまでの時間が多少なりとも稼げるはずだ。
伝令で作戦を周知して最後の撤退の鉦を鳴らす。
西側も他と同じく火が放たれており、敵味方の視認は可能な状態である。西側の曹操軍は急遽積極攻勢に移ったエン州軍に不意をつかれ、一時的に壊乱した。その恐らく長くは続かないであろう混乱の隙に牙門を奪取すると、雪崩をうってエン州軍は脱出していく。
曹操は曹操で結局はエン州軍の錬度や指揮官の能力を誤認していた。陳宮たちは最適な判断を下し、見事な統率力で撤退を成功させたのである。
「被害は思ったより大きいかもしれませんな」
陳宮たちも陣外に逃れ、少し離れたところで小休止を行いつつ被害状況を確認していた。河内兵は本部の護衛を担っていて、後衛戦闘には参加していないため比較的被害は少ないが、それでも死傷者はそれなりに出た。殿にいた部隊の状況はもっとひどいだろう。
「我らも早く部隊を分けて撤退しましょう」
赫萌は陳宮を促すが陳宮は動こうとしない。エン州軍の半数以上は既に小部隊に分かれて四散している。日が昇れば各自の判断で濮陽へ帰投するはずだ。現在本部と本部が掌握している部隊の兵だけでは曹操軍に太刀打ちができないだろう。下手にまとまって曹操軍に所在を気取られるくらいなら、バラバラに逃げた方が良い。余程のことがない限り捕捉されずに済む。
「いや、逆襲する。兵をまとめよ」
「なぜです」
「我らの稼ぐべき時間はまだ少し残されていると思わんかね」
月の位置を見る。まだ夜明けにはしばらくの時間を残している。赫萌は短く呻いた。純戦術的な指摘を陳宮のような立場の者から受け、自身の短慮を悔やんだのだ。
「呂将軍は援軍を派遣していないと思うか」
「思いません。今頃は進軍しているでしょう」
このまま組織的抵抗をやめてしまった場合、曹操軍は濮陽から派遣された軍の追撃をかわして自陣に逃げ込んでしまう可能性がある。
「現段階の兵の被害は痛み分けといったところだろう。それで城外の駐屯地を失った。これでは敗北ではないか」
撤退の際の交戦で損害比率は五分にまで縮まってしまったと思われた。エン州軍と比べると兵数は曹操軍の方が多い。相手と同数の損害しか受けずに陣を陥としたという事実は紛れもなく曹操軍の勝利として評価される。
「我々は曹操軍と違って味方にも気を使わなければならない。違うかね」
諸豪族たちの士気が落ちたらエン州政権は瓦解する。組織としての脆さが剥き出しになるような敗戦は防がなくてはならない。
「私は私の権限で兵達に命を賭けさせることができます。後になってそれが分の悪い賭けであったと非難されなければありがたく思いますが」
「別に消耗させるつもりはない。要は曹操軍の撤退を遅滞させればいいのだ」
曹操軍は陣の柵を抜き、資材や食料にも火をかけて陣を完全に破壊しようとしている。陳宮はこの作業を妨害することを企図した。陳宮たちはさらに軍を分けた。月明かりでもうっすらと視認し得る森や岩などを集合場所として、それぞれが陣の破壊をしている曹操軍の一部に斬り込み、すぐに離脱する。エン州軍は小勢で火を持たずに近接するため曹操軍には探知されにくい。大した邪魔にもならないだろうが嫌がらせ程度にはなった。
数度目の襲撃を終えた時には陳宮と赫萌の手元の兵は半数ほどになっていた。彼らは死傷したわけではない。集合場所を見失ってしまったのだろう。それはそれで仕方がない。そうなった場合は各自濮陽を目指すよう指示をしてある。
「そろそろ曹操軍は撤退を始めそうですな」
曹操軍は集合しようとしていた。潮時である。いかに夜とはいえまとまった軍勢に小人数で挑めば押し包まれて終わる。
「使える兵も少なくなった。仕方あるまい。我らも引こう」
夜明けも近い。濮陽のエン州軍司令部が余程の愚かでなければ援軍は近くまできているはずだ。
濮陽へ帰還を図る際、援軍とかち合った際に伝達すべき内容を逆襲の前にそれぞれの部隊に伝えている。それとは別で伝令も十指に余る数が出された。
陣に詰めた陳宮率いる兵たちによって最低限の時間は稼がれ、戦いは次の局面に移行する。
0
あなたにおすすめの小説
甲斐ノ副将、八幡原ニテ散……ラズ
朽縄咲良
歴史・時代
【第8回歴史時代小説大賞奨励賞受賞作品】
戦国の雄武田信玄の次弟にして、“稀代の副将”として、同時代の戦国武将たちはもちろん、後代の歴史家の間でも評価の高い武将、武田典厩信繁。
永禄四年、武田信玄と強敵上杉輝虎とが雌雄を決する“第四次川中島合戦”に於いて討ち死にするはずだった彼は、家臣の必死の奮闘により、その命を拾う。
信繁の生存によって、甲斐武田家と日本が辿るべき歴史の流れは徐々にずれてゆく――。
この作品は、武田信繁というひとりの武将の生存によって、史実とは異なっていく戦国時代を書いた、大河if戦記である。
*ノベルアッププラス・小説家になろうにも、同内容の作品を掲載しております(一部差異あり)。
与兵衛長屋つれあい帖 お江戸ふたり暮らし
かずえ
歴史・時代
旧題:ふたり暮らし
長屋シリーズ一作目。
第八回歴史・時代小説大賞で優秀短編賞を頂きました。応援してくださった皆様、ありがとうございます。
十歳のみつは、十日前に一人親の母を亡くしたばかり。幸い、母の蓄えがあり、自分の裁縫の腕の良さもあって、何とか今まで通り長屋で暮らしていけそうだ。
頼まれた繕い物を届けた帰り、くすんだ着物で座り込んでいる男の子を拾う。
一人で寂しかったみつは、拾った男の子と二人で暮らし始めた。
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
勝利のために走るのではない。
生きるために走る者は、
傷を負いながらも、歩みを止めない。
戦国という時代の只中で、
彼らは何を失い、
走り続けたのか。
滝川一益と、その郎党。
これは、勝者の物語ではない。
生き延びた者たちの記録である。
どうしよう私、弟にお腹を大きくさせられちゃった!~弟大好きお姉ちゃんの秘密の悩み~
さいとう みさき
恋愛
「ま、まさか!?」
あたし三鷹優美(みたかゆうみ)高校一年生。
弟の晴仁(はると)が大好きな普通のお姉ちゃん。
弟とは凄く仲が良いの!
それはそれはものすごく‥‥‥
「あん、晴仁いきなりそんなのお口に入らないよぉ~♡」
そんな関係のあたしたち。
でもある日トイレであたしはアレが来そうなのになかなか来ないのも気にもせずスカートのファスナーを上げると‥‥‥
「うそっ! お腹が出て来てる!?」
お姉ちゃんの秘密の悩みです。
鷹の翼
那月
歴史・時代
時は江戸時代幕末。
新選組を目の敵にする、というほどでもないが日頃から敵対する1つの組織があった。
鷹の翼
これは、幕末を戦い抜いた新選組の史実とは全く関係ない鷹の翼との日々。
鷹の翼の日常。日課となっている嫌がらせ、思い出したかのようにやって来る不定期な新選組の奇襲、アホな理由で勃発する喧嘩騒動、町の騒ぎへの介入、それから恋愛事情。
そんな毎日を見届けた、とある少女のお話。
少女が鷹の翼の門扉を、めっちゃ叩いたその日から日常は一変。
新選組の屯所への侵入は失敗。鷹の翼に曲者疑惑。崩れる家族。鷹の翼崩壊の危機。そして――
複雑な秘密を抱え隠す少女は、鷹の翼で何を見た?
なお、本当に史実とは別次元の話なので容姿、性格、年齢、話の流れ等は完全オリジナルなのでそこはご了承ください。
よろしくお願いします。
あるフィギュアスケーターの性事情
蔵屋
恋愛
この小説はフィクションです。
しかし、そのようなことが現実にあったかもしれません。
何故ならどんな人間も、悪魔や邪神や悪神に憑依された偽善者なのですから。
この物語は浅岡結衣(16才)とそのコーチ(25才)の恋の物語。
そのコーチの名前は高木文哉(25才)という。
この物語はフィクションです。
実在の人物、団体等とは、一切関係がありません。
私が王子との結婚式の日に、妹に毒を盛られ、公衆の面前で辱められた。でも今、私は時を戻し、運命を変えに来た。
MayonakaTsuki
恋愛
王子との結婚式の日、私は最も信頼していた人物――自分の妹――に裏切られた。毒を盛られ、公開の場で辱められ、未来の王に拒絶され、私の人生は血と侮辱の中でそこで終わったかのように思えた。しかし、死が私を迎えたとき、不可能なことが起きた――私は同じ回廊で、祭壇の前で目を覚まし、あらゆる涙、嘘、そして一撃の記憶をそのまま覚えていた。今、二度目のチャンスを得た私は、ただ一つの使命を持つ――真実を突き止め、奪われたものを取り戻し、私を破滅させた者たちにその代償を払わせる。もはや、何も以前のままではない。何も許されない。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる