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キューピッドは諭される
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「病院からの電話で、あなたの名前を伺ったんですが。確かカノウさん、ですよね?」
「叶野雅樹。苗字の『かのう』は願いを『叶』えるに野原の『野』」
「叶野さんですね。……失礼ですが、おいくつですか?」
「二十七歳。……苗字で呼ばれるのは好かないんだ」
「……雅樹、さん?」
自分で苗字の漢字を説明したのに、その苗字が好かないとはいったいどういう理屈なのだ。
「すみません。酔って倒れていらっしゃったからどうしようかと思いましたが、脳に異常があったら困ると思って、救急車を呼びました。まさか本当に連絡できる方もおらずお金もないとは、思わなかったんです」
「酔っ払いの戯言に聞こえただろう、きみが謝るようなことじゃない」
男──雅樹さんが頭を下げた。
「むしろ感謝している。ありがとう」
「そうですか……とりあえず、大事がなくてよかったです」
「むしろ、おれのほうが昨日はとても申し訳なかった」
詫びているようには見えない顔に、うねった髪が垂れてくる。
迷惑をかけたのだと恐縮する素振りもなければ、勝手なことをしてくれた、と怒りもしない。昨日の酔いを恥じ入っているふうでもない。
顔だけではなく、態度もミステリアスな人だ。
唯一確かなのは、したたかで律儀ってことだけ。酔っていない時は感情をあまり露わにしないタイプなのかもしれない。
取り急ぎ病院の受付で諸経費を払い、二人で屋外へ出た。
「恥ずかしながら財布を落としてしまって、カードも身分証明証もない名無し状態なんだ。挙げ句、通りすがりのきみに入院代を払わせてしまう事態になってしまった」
「いいですよ。後で立て替えてくだされば」
それに、財布を落としたのならこの国では高確率で誰かが交番に届けてくれているだろう。意外にすぐ見つかるかも知れない。
「じゃあ──」
僕はこれで──と言いかけて、はたと気づく。
そういえば、この人は家がないとも言っていたな。
それも酔った勢いの戯言かもしれないが、雅樹さんの場合に限っては、本当のことを言っている可能性のほうが高い。
「失礼ですけど……雅樹さん、家無いんですよね?」
僕の隣りに立っていた雅樹さんの肩が、ピクリと動いた。
「……昨日のおれはそんなことまで言っていたのか?」
「額の傷も治っていないから、安静にしたほうがいいとは思うんですけど」
「ホテルを取りたいが、残念ながら財布がない」
「じゃあ……うち来ます?」
先ほどまで全く動かなかった雅樹さんが、喉をつまらせて細い目を瞬かせた。
あ、もしかしてこれ、僕が誘っているように聞こえただろうか。
「別に他意はありません。どうせこれから僕は仕事なので、留守番代わりにうちに一日滞在するくらいは大丈夫ですよ。その間にクレジットカードを再発行したり、役所に行ったりはできますよね」
「きみは……誰に対してもこんな感涙ものの気遣いを発揮するのか?」
「……さあ。どうなんでしょう?」
恐る恐る──と、自分で言うとおかしな話だが、僕は今、道端で拾ってきたドーベルマンの様子を伺うような心持ちでいる。
だが雅樹さんのほうは、僕よりも順応性がはるかに高いらしい。低い声で小さく唸ると、有るか無しかの動作で顎を落とし、僕の〝感涙ものの気遣い〟にある種の落とし所を見出したようだった。
「……きみのような男になら、他意があったとしても悪い気はしないな」
「え?」
ぶつぶつと何かを呟いていた雅樹さんは、落としていた顎を引いて、その美貌をまっすぐ僕に向け直す。
「いや、本当に困っていたから、お言葉に甘えようかなと」
ああ……やっぱり、困ってはいるんだ。
表情が僕以上に変わらないから、てっきりどんなトラブルにも動じない人間だと思っていたけど。
「じゃあ、車回すのでここで待っていてください」
「叶野雅樹。苗字の『かのう』は願いを『叶』えるに野原の『野』」
「叶野さんですね。……失礼ですが、おいくつですか?」
「二十七歳。……苗字で呼ばれるのは好かないんだ」
「……雅樹、さん?」
自分で苗字の漢字を説明したのに、その苗字が好かないとはいったいどういう理屈なのだ。
「すみません。酔って倒れていらっしゃったからどうしようかと思いましたが、脳に異常があったら困ると思って、救急車を呼びました。まさか本当に連絡できる方もおらずお金もないとは、思わなかったんです」
「酔っ払いの戯言に聞こえただろう、きみが謝るようなことじゃない」
男──雅樹さんが頭を下げた。
「むしろ感謝している。ありがとう」
「そうですか……とりあえず、大事がなくてよかったです」
「むしろ、おれのほうが昨日はとても申し訳なかった」
詫びているようには見えない顔に、うねった髪が垂れてくる。
迷惑をかけたのだと恐縮する素振りもなければ、勝手なことをしてくれた、と怒りもしない。昨日の酔いを恥じ入っているふうでもない。
顔だけではなく、態度もミステリアスな人だ。
唯一確かなのは、したたかで律儀ってことだけ。酔っていない時は感情をあまり露わにしないタイプなのかもしれない。
取り急ぎ病院の受付で諸経費を払い、二人で屋外へ出た。
「恥ずかしながら財布を落としてしまって、カードも身分証明証もない名無し状態なんだ。挙げ句、通りすがりのきみに入院代を払わせてしまう事態になってしまった」
「いいですよ。後で立て替えてくだされば」
それに、財布を落としたのならこの国では高確率で誰かが交番に届けてくれているだろう。意外にすぐ見つかるかも知れない。
「じゃあ──」
僕はこれで──と言いかけて、はたと気づく。
そういえば、この人は家がないとも言っていたな。
それも酔った勢いの戯言かもしれないが、雅樹さんの場合に限っては、本当のことを言っている可能性のほうが高い。
「失礼ですけど……雅樹さん、家無いんですよね?」
僕の隣りに立っていた雅樹さんの肩が、ピクリと動いた。
「……昨日のおれはそんなことまで言っていたのか?」
「額の傷も治っていないから、安静にしたほうがいいとは思うんですけど」
「ホテルを取りたいが、残念ながら財布がない」
「じゃあ……うち来ます?」
先ほどまで全く動かなかった雅樹さんが、喉をつまらせて細い目を瞬かせた。
あ、もしかしてこれ、僕が誘っているように聞こえただろうか。
「別に他意はありません。どうせこれから僕は仕事なので、留守番代わりにうちに一日滞在するくらいは大丈夫ですよ。その間にクレジットカードを再発行したり、役所に行ったりはできますよね」
「きみは……誰に対してもこんな感涙ものの気遣いを発揮するのか?」
「……さあ。どうなんでしょう?」
恐る恐る──と、自分で言うとおかしな話だが、僕は今、道端で拾ってきたドーベルマンの様子を伺うような心持ちでいる。
だが雅樹さんのほうは、僕よりも順応性がはるかに高いらしい。低い声で小さく唸ると、有るか無しかの動作で顎を落とし、僕の〝感涙ものの気遣い〟にある種の落とし所を見出したようだった。
「……きみのような男になら、他意があったとしても悪い気はしないな」
「え?」
ぶつぶつと何かを呟いていた雅樹さんは、落としていた顎を引いて、その美貌をまっすぐ僕に向け直す。
「いや、本当に困っていたから、お言葉に甘えようかなと」
ああ……やっぱり、困ってはいるんだ。
表情が僕以上に変わらないから、てっきりどんなトラブルにも動じない人間だと思っていたけど。
「じゃあ、車回すのでここで待っていてください」
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