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2017.5.5.Fri
第七章 崩壊 【 四日目 朝 】
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──ごめん。私のせいだ……。
──朱華は悪くないよ。
──でも……!
──気に病まないで。これは私の選んだ行動の結果だもの。だからね、……。
いつもの夢。場所は母校の音楽室。目の前には、ピアノ。
隣には、控え目に笑う、三つ編みの少女──。
その瞬間、気づけば私は跳ね起きていた。
「……なに。……いまの…………」
「…………か? 聞いてる? ……朱華ってば!!」
「…………え?」
「……大丈夫? 結構呼んでいたんだけど?」
「…………比美子?」
突然、比美子に強く揺さぶられ、私はハッとする。どうやら何回も声をかけられていたようだ。慌てて周りを見回して、ようやく状況を理解する。
そうだ、今は朝食の準備中だ。そして自分は、サンドイッチの大皿を手にしたまま、ぼうっと突っ立っている。
いけない、と思い、頭一杯に詰め込まれていた疑念を振り払う。それでもどうしたって、あの夢の影は消え去ってはくれなかった。何で、今更あんな。
昨晩、夢に現れた少女は、ほぼ間違い無く“彼女”なのだろう。この五年間、ずっと夢の中で話をして来た“彼女”。やっと会う事の出来た、……“彼女”。
にも関わらず私はまだ、“彼女”の事を思い出せない。けれど、まったくの他人という事は、おそらく無いだろう。でなければ夢の中とは言え、あんなに親しげに話せる筈が無い。
ならば何故、私は“彼女”が判らないのか。どうして今になって、“彼女”は夢に現れたのか。何が何だか検討もつかない。如何せん、判らない事が多過ぎる。
「……ねぇ、マジで大丈夫? 顔色、かなりヤバいよ?」
ふと視線を上げれば、不安げに顔を覗き込む比美子と目が合う。かなり心配している様子だ。安心させる為にも、私は努めて明るく振る舞ってみせた。
「や、ごめんごめん! ちょっと寝不足気味なのかぼんやりしちゃって。体調は極めて良好よ!」
「そう? なら良いけど。でも、気分悪い時とかは遠慮無く言いなね? それにしても、いつまで続くんだろうね。こんな事……」
コーヒーカップをトレーごとテーブルに置きながら、比美子がそう呟く。その数は、昨日の朝よりも二つ少なくなっていた。
一先ず大皿をテーブル中央に置くと、私は今しがた確認したカップの数だけ、食器類を準備する。その頃には、他のメンバーが徐々に集まって来た。
さりげなく、彼らを観察してみる。ここ数日で付いてしまった、忌々しい習慣だ。その事にうんざりしていてもなお、私の目は自然と動いてしまう。
今この場にいるのは、比美子、唯、黎名ちゃん、紫御、光志郎、将泰さん、それに兄と私の八人だ。けれど、……聖の姿はどこにも無かった。
「……聖、は………?」
私は聖の姿を探すが、無駄だった。現時点で、彼以外の全員が揃っている。それはつまり、彼がもう生きていない事を意味していた。
不意に、背後で食器の割れる甲高い音がした。驚いて振り向くと、色を失った顔で震える唯の姿が目に入った。
唯は、足元の破片には目も暮れず、一目散に食堂を飛び出して行く。咄嗟の事に反応が遅れた兄と将泰さんが後を追おうとしたが、時既に遅し。
程無くして聞こえた唯の悲鳴と慟哭に、私達はすべてを察した。茫然と立ち尽くす面々の中、黎名ちゃんが迷いの無い足取りで、颯爽と歩き出す。
彼女を筆頭に一人、また一人と食堂を出て行き、私もそれに続く。どうせ行っても聖の無惨な姿を見るだけだが、だからと言って、目を反らすわけにはいかない。
本当に、この狂った惨劇はいつまで続くのだろう。
壊れかけた心の片隅で呟きながら、私は重く引き摺るような足取りで、食堂を後にした。
数分後の廊下。聖の部屋入口の側で、私は当てもなく立ち竦んでいた。半開きの扉の向こうからは、唯の啜り泣きだけが聞こえて来る。
聖は、全身を滅多打ちにされていた。その、直視するに堪えない程酷い有り様に、私は一目見た瞬間、脱兎の如く部屋を飛び出してしまった。
口元を抑え、目の前の壁に手を付いて俯く。ある意味、朝食前で良かったのかも知れない。でなければ今頃、私はお手洗いへと全力疾走していた事だろう。
「……何で、聖だけ…………。あんなの、……あんなの酷い…………」
ぼろぼろと溢れ出す涙で、前が見えない。その遮られた視界のせいか、今しがた見てしまった聖の死に様が、頭の中でリフレインしてしまう。
壁や床に飛び散った血痕が、四方向に投げ出された肢体が、そして、ぐちゃぐちゃに濡れて元の色の判らなくなったTシャツが。……やばい。これ以上はもう。
ぶり返して来た吐き気に耐えようと、私は壁に背中を預けてゆっくりと目を閉じる。すると、不意に誰かが私の肩に手を置く気配がした。
「朱華、大丈夫? キツそうなら部屋に戻ったら……?」
声に反応して目を向けると、紫御が側に来ていた。どうやら心配してくれたらしい。その優しさに感謝しつつも私は首を横に振った。
「……ありがとう紫御。でも大丈夫。辛いのは皆一緒だもん。私だけヘタレてるわけにはいかないよ」
「……そっか。強いんだね、朱華は。でも、無理はしちゃ駄目だよ?」
そう言って笑顔を向けてくれる紫御は、本当に優しい。その事が、沈みかけた私の心を立ち上がらせる。
大丈夫。彼がいてくれるのなら、私は頑張れる。
心配そうにこちらを伺う紫御に、私は大丈夫だ、というように笑いかける。不謹慎だが、良いムードだ。つい、その事に嬉しさと後ろめたさを感じてしまう。
そんな中、突然、部屋の奥から物の倒れる音と怒鳴り声が響く。
「あんたのせいよぉ!」
思わず紫御と顔を見合せた。瞬間、二人の心はシンクロする。“ヤバくない?”と。
反射的に身体が動いた。また聖の姿を目にする羽目になるが、止むを得ない。そのまま部屋へ駆け込むと、唯が黎名ちゃんに罵倒を浴びせているのが見えた。
「あんたが! ……あんたがここに来たから聖兄ィや皆が……! 全部全部! あんたのせいよぉ!!」
涙でぐちゃぐちゃになった顔を歪ませて、唯が吠える。当然の反応だろう。何せ、唯にとって聖は兄同然だ。そんな存在を亡くした哀しみは、相当なものに違いない。今は光志郎が羽交い締めにしてはいるが、唯はすぐにでも、拘束を解きそうな勢いで暴れていた。
このままでは、唯が黎名ちゃんの喉笛を噛み千切るのではないかと、私は本気で危惧していた。ふと、隣で紫御が、唯を説得しようと声を張り上げた。
「駄目だ唯! 気持ちは判るけど、黎名ちゃんに当たるのは良くない!!」
「煩い! 皆みぃんな、こいつが悪いのよぉ! 殺してやる殺してやる殺してやるぅ!!!!」
紫御の制止を突っぱねて、唯が拘束を振り払った。勢いのあまり後ろに倒れた光志郎は、尻餅を付いた痛みに呻く。その間にも、唯は獣よろしく、黎名ちゃんに突進して行く。
瞬間、唯が右手を振り上げた。黎名ちゃんを殴るつもりなのか。流石に、まずい。止めに入ろうと踏み出した足はしかし、ポケットの異変によって停止した。
緊張感の欠片も無い着信音が、荒れ果てた空間を裂く。途端、全員の動きがぴたりと止まった。まるで“だるまさんがころんだ”で遊んでいる子供みたいに。
そのまま時が止まって数秒、ハッと我に返った私は、慌ててケータイを取り出す。無駄に焦って縺れる指を叱咤しつつも、何とかメール画面を呼び出した。
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From:香澄ちゃん
Sub:起きてる~~~? ( ≧∀≦)ノ
File:20**********.jpg
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今日もすがすがしい朝だネ! ( ☆∀☆)
というわけで皆サンお待ちかね☆
三日目の処刑結果のお知らせデス! ( *´艸`)
神楽さんは……何と! 人狼でした~☆ ヽ(*´^`)ノ
おめでとう! やっと人狼を一人排除する事が出来たね!
これで人狼は、残り二人! でも、まだまだ油断は出来ないよ。この調子で頑張ってね♪ (´ゝ∀・`)ノシ
「これで良いんだ。後悔なんてしてないよ」
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「……神楽さんが、……人狼…………」
うっすらと感付いていた、筈だった。それでも、事実として突き付けられると、やはりショックだった。だが、同時に違和感を覚える。あれ、と思うが、どうにも思い出せない。それ以上に悲しみが勝っていた私は、すぐにそれを奥の方に押しやってしまった。
神楽さんが。あの優しくて可憐な、憧れの女性が、あんな風に残忍に仲間達を手にかけた、……人殺しだなんて。……出来れば、嘘であって欲しかった。
あまりの事に、心が押し潰されそうになる。それでも、ここで挫けるわけにはいかない。震える足に力を込め、私はなおも画面を睨み付けた。
……また今回も、添付ファイルがある。という事はつまり、……まぁそういう事なのだろう。はっきり言って、見たくない。いや、見るのが怖い。
昨日の美津瑠さんの凄惨な画像が頭を過ってしまい、つい指先が止まる。だが、ここで目を背けたところで、何も変わりはしないのもまた事実だ。
軽く目を閉じて深呼吸。覚悟を決めたところで、私は残酷な現実を写すであろう、手の内の液晶画面に向き直った。
暗い室内、淡く灯された明かり、横たわる痩躯。血に染まってもなお、神楽さんは変わらず美しく見えた。
そしてその惨劇の場には、当たり前のように景色に溶け込んでいる、花束。やはり白い包装を身に纏ったそれは赤い室内とのコントラストにより、良く映えている。
呆然と映像を眺める私の背後では、既に何人かが話し合っていた。昨日と同様に、丸太小屋へ遺体の確認をしに行くつもりらしい。
今回のゲームにおいて、花束は犯人達が残したメッセージだ。少なくとも、花言葉のチョイスからして、そう言い切っても良いだろうという結論に落ち着いている。だから、確かめに行く必要があるのだ。犯人達の思惑を知る為にも。必ず。
「今日は、俺が行くよ。明宣、皆を頼むね」
どうやら、今回は将泰さんが先導を切るつもりらしい。彼が、兄から小屋の鍵を受け取る所を見ながら、私はぼんやり考えた。
そう言えば、処刑は誰が行っているのだろう。美津瑠さんや神楽さんが自殺でないのであれば、実際に彼らに手を下した、処刑執行人みたいな者が存在している筈だ。
なら、そいつはどこにいるのだろう。今現在、私達と共に行動しているのか。それとも、……まだ丸太小屋に潜伏している?
もしそうなら、小屋内を調べるべきじゃないか? 上手く行けば、見付けられるかも知れない。人狼達に関する何か。犯行の証拠となり得る、何かが。
「判った。こっちは任せておけ。後は、他に誰が行くかだな……」
気付いた事柄に戦く私の耳に、兄の声が届く。どうする? 小屋内の捜索を提案すべきだろうか? けれど、仮にそれを人任せにしたところで、そいつが人狼だったら? 証拠はたちまち握り潰されてしまうだろう。ならば、いっその事──。
「私が行く」
そう口にしたのは、ほぼ反射的と言っても良い。それでも、その言葉に嘘偽りは無かった。
突然の私の発言に、空気がざわめいた気がした。
「……朱華ちゃん、本気かい?」
「止めとけ! こういうのは男の役目だ。お前が行く必要は無い」
案の定というか、将泰さんも兄も困惑しているみたいだ。他の何人かも、私に止めるように説得し始めた。
でも残念。私の決意はそれくらいじゃ揺るがないよ。
何せ、霧隠荘にある自転車は三台だけ。徒歩で向かうのは時間の関係で論外。つまり、実質上移動出来るのは三人だけ。何としてもこの勝負、勝つ!
そう決意した私は、一番強敵になりそうな兄に立ち向かう。
「異議あり! だって昨日は、黎名ちゃんが同行したじゃない。何であの子は良くて私は駄目なの?」
「……黎名ちゃんには、花の種類と花言葉に関する知識がある。お前とは違うだろ」
「だからって、わざわざ現場まで連れて行く必要は無いでしょ。花の種類が判れば良い話なんだから。花の一、二本くらい、拝借して自転車にくくりつけて持って来るくらい出来るわよ。現場に手を加えたくないなら、写真でも撮れば良いんだし。どうしても連れて行くべきだと言うなら、黎名ちゃんと将泰さんと私で行けば良い。はい論破! 」
「だっから! そういうハナシじゃ……」
私は何とか議論で捩じ伏せようとするが、兄はなかなか首を縦には振らない。くっ。普段脳味噌五歳児のクセに何てしぶといんだ。これはそこそこ長引くのか、と若干挫けそうになったその時、思いがけない助け舟が出される。
「判りました」
「黎名ちゃん……?」
「私が、ここに残ります。そうすれば、将泰さんと朱華さんの他にもう一人行く事が出来ます。花なら、朱華さんの仰る通り、どなたかが写真に納めて頂ければ判断出来ますので、私が無理に同行する必要はありません」
黎名ちゃんの申し出は、とても有り難かった。まさか、彼女が譲ってくれるとは。私は心から黎名ちゃんにお礼を言う。すると、私達のやり取りを見ていた光志郎が、静かに挙手をする。
「なら、俺が行く。一人くらい、昨日も行った人間がいた方が良いだろ? 何か異変があればすぐ気付けるし」
「ちょ……っと待てお前ら! 勝手に話を進めるんじゃ……!」
黎名ちゃんと光志郎の参戦に、兄が慌て始める。このまま押し切られれば良いものを。そんなにも私を行かせたくないのか。その時、将泰さんが溜め息を吐いた。
「いや、こうなったらもう収集つかないだろ。良いよ明宣。このメンツで行く」
「将泰!? お前まで……!?」
「よし! 決まりね! ならさっさと行きましょ!」
将泰さんが折れたその瞬間、私は兄の言葉を待たずに部屋を飛び出した。言質を取ればこっちのものだった。将泰さんと光志郎も、慌てた様子で付いて来る。
弾丸の如く廊下から玄関、外まで一気に駆け抜けた私はその勢いのままに、自転車に飛び乗る。準備は万端。後は、連れの二人を待つだけだ。
「遅いですよ二人共! 早く!! 急いで!!!」
私から遅れて数秒、ようやく追い付いたらしい二人が姿を見せる。
そして、彼らが自転車に跨がった事を確認すると、私はすぐさま渾身の力でペダルを踏み締め、前進した。
さぁ、確かめに行こうじゃないか。敵陣営が残した、手がかりを。
このまま、やられっぱなしでいると思うなよ。
今現在、私達は問題の場所に到着していた。
久しぶりに訪れた丸太小屋は、記憶にあるそれとはまったく変わってはいなかった。ただ、小屋全体に纏わり付く空気が、どこか無表情で不気味ささえ感じる。
「……何だか、小屋に拒絶されているみたい。凄く、近寄りがたい気がする」
「まぁ、何となく判る気はするわな。ここはほら、……美津瑠さんや、神楽さんがいるわけだし」
私がつい溢した言葉に、光志郎はそう返す。そうだ。ここは今や、人狼の烙印を押された者達を抹殺する為の、処刑場なのだ。
そこまで考えた時、小屋周辺に死臭が漂っている気がして、咄嗟に息を止める。そんな私達の様子を心配したのか、将泰さんが声をかけてくれた。
「気分が優れないなら、無理に行く必要は無いよ。何なら、二人はここで待っていても良い」
「とんでもない! 何の為に反対押し切って来たと思ってるんですか! 吐いてでも行きますよ!!」
「いや、吐いた時は大人しくしてろよ……」
久しぶりの光志郎らしいツッコミに感動しつつも、私達はずんずんと歩みを進めた。そして、到達したドアの前で将泰さんが、兄から預かった鍵を取り出す。
カチリ、という音の後、将泰さんは古びた取っ手を掴んで一呼吸吐き、力いっぱい引いた。
最初に私達を出迎えたのは、血の匂いだった。呼吸するごとに喉に粘つくような感覚に、吐き気を催しながらも私達は奥へと進む。
改めて、間近で見た神楽さんは、やはり美しかった。僅かに口角を上げ、穏やかに眠る彼女は、自分の命が刈り取られる瞬間、何を思ったのだろう。
自らが敗北してもなお、その遺志を仲間に託す事で満足だったのだろうか。彼女の微笑みの真意は、最早彼女自身が知るのみとなってしまった。
「……花、探さなくちゃ」
込み上げて来るものを何とか抑えつつ、私は、神楽さんの側を離れた。そう、今は悲しみに暮れている場合ではない。本来の目的を思い出した私は、きょろきょろと周辺に目をやる。写真では、どの辺りに落ちていたっけ?
程無くして聞こえた、「ここだ」という声に反応して振り向く。見れば光志郎が、足下にある小型の花束を指差していた。
パッと見た感じは、白っぽい稲穂みたいな花だった。細かい花びらが四つほどの、小さな花を一つ一つ懸命に咲かせている。
「俺、これは知っている。確か、イラクサだ」
「イラクサ……何かトゲトゲしている……」
興味本意で花に触れてみようとしたが、光志郎に止められた。彼曰く、この花の茎には所々細かな棘があって、危ないらしい。
「……写真だけ撮っておけば良いかな? 花、一応現場に戻しておいた方が良いよね?」
「だな。下手にいじったりして、後で警察に何か言われても面倒だし。……だが、それもいつになる事やら」
光志郎は、気だるげに溜め息を吐いてみせる。その伏せがちな瞼の奥から覗く光に、希望の色は見えない。
……彼はもう、助けは来ないと思っているのだろうか。けれど、もしその通りになってしまったら、私達はどうしたら良いのだろうか。
何せここにはもちろん、霧隠荘にも仲間達の遺体が、まだ眠っているわけで。初夏とはいえ、幾分汗の滲むこの気候で、彼らの身体がどのくらい持つのか。それ以前に、私達残りの生存者が全員狩り尽くされてしまう方が先かも知れないが。……何て、暗くなっている場合じゃなかった。
気持ちを切り替えて、私達三人は、それぞれのケータイに花の画像を納めておいた。情報の共有というヤツだ。
その後、私達は神楽さんの遺体をベッドに横たえて、霧隠荘から持参して来た白い布を顔にかけてあげた。三人で合掌を済ませると、将泰さんが口を開く。
「……行こうか。これ以上、ここにいても仕方無い。すぐにでも戻ろう」
「あ、その前にちょっと。少しで良いんで、小屋の中一周したいんですけど」
私は、ふと思い立ってそう口にする。その真意はもちろん、霧隠荘を出る前に思い付いた仮説を実証する為だ。
ここが処刑場である以上、処刑の痕跡が残っている筈だ。だからこそ、調べたかった。上手く行けば、処刑執行人の手がかりが得られるかも知れないから。
という事を二人に話してみると、光志郎が同意してくれる。
「良いんじゃないか? 昨日一応俺達三人で見たけど、確認作業は何度も行った方が確実だと思うし」
「やっぱりそう思うよね? せっかくここまで来たんだもの。敵の尻尾くらい掴みたいじゃんねぇ!? どうでしょう将泰さん? もちろん、長居するつもりはありませんから」
私はそう言って、この中で最年長たる将泰さんに話を向けた。彼は顎に手を当て、少しばかり私の言葉を吟味していたが、やがて「そうだな」と頷いた。
「その提案、俺も乗るよ。ただ、向こうには一言伝えた方が良いな。朝食は、先に摂って貰う事にするか。じゃあ俺、明宣に連絡しておくから。二人は、先に見に行っててくれ。終わり次第合流するよ」
「任せて下さーい! そっちはお願いしますねー!」
そう言うと将泰さんは、今さっき懐に戻したケータイを手にして部屋を出る。おそらく、電波をより確保しやすくする為だろう。これだから山奥は面倒だ。
……そう言えば、ここから霧隠荘までなら、メールは届くだろうか。もし出来るなら、先程撮った写真を送りたかった。例えば、比美子のケータイとかに。
上手く行けば、捜索中に花の名前と花言葉が判るかも知れないし。なら、駄目元で試してみようか。そんな事をつらつらと考えていた時だった。
「ほれ、何突っ立っているんだよ言い出しっぺ。ボサっとしていないでとっとと調べようぜ」
「ふぇっ!? ちょっと引っ張らないでよ光志郎!」
急に光志郎に腕を引かれ、思わずつんのめる。そのままズルズル引き摺られるようにして、私は部屋を後にするのだった。
「結局、収穫ナシだったな……」
「そんなにショゲるなよ。こうなる可能性も、ある程度は予測出来てただろう?」
「それでも、やっぱりヘコみますよ……」
時間にして約一時間後、丸太小屋の捜索を簡単に済ませた私達は、霧隠荘に戻るべく自転車を走らせていた。だが、ペダルを漕ぐその足取りは、酷く重たい。
それもその筈。何せ手短とは言え、獲物を狙う猛禽類の如く目を光らせていた手がかり漁りが、ものの見事に空振りだったのだ。ヘコみたくもなる。それは、光志郎も同様だったようで、先を走る彼の後ろ姿からは、何となく哀愁が漂っている気がした。
「元気出せ二人共。手がかりは何も物品だけじゃない。もちろん、あれば“裁判”の時有利になるのも事実だけどな」
「……物品じゃない手がかり、ですか………」
「そう。例えばふとした仕草や、言動の変化とかかな。何か疚しい事とかあると、どうしても不安になるだろ? そういう精神的なものってさ、身体にも出て来るものなんだよ。だから、その辺りに注意を向ければ、今まで気付けなかったものが見えて来るんじゃないか?」
「………そういうもの、なんですかね……?」
「まぁ、俺個人の考えでは、だけどな」
前方で行われている、光志郎と将泰さんの会話に耳を傾けながら、私は考える。変化、か。そう言えば、霧隠荘に訪れてから、私は仲間達の変化を見て来たように思う。
成長したとか、大人びて来たとか、そういうのだけではなくて、それ以上に、かつては知るよしも無かった内面的な物が、より目に付くようになっていたのだ。
美津瑠さんや、唯の豹変は、かなりショッキングだった。少なくともあの二人は、感情的になって怒鳴り散らすような激しい人物ではなかった筈なのに。
もしかして、今回の事件が、彼らを狂わせてしまったのだろうか。……いや。あるいは、事件の発端になってしまったのであろう“何か”が原因なのか。
それは、一体何なのだろう。そして、その事に関連して、私達に復讐しようとしている黒幕とは、誰なのだろう──。
「朱華ちゃん? さっきから黙っているみたいだけど、大丈夫? 具合でも悪いのかい?」
「まさか、酔ったのか? 自転車なのに……?」
「なワケ無いでしょうがバカ志郎が。ケンカなら買うわよコラ! ……大丈夫、何でも無いですよ将泰さん。ちょっと考え事していただけです」
片や心配、片やからかいのお言葉を振り向き様に頂き、思わず吠える。くっそぅ光志郎め。帰ったらサンドイッチに、カラシたっぷり仕込んで渡してやる。
まったく、少しは見直したというのにこの毒舌星人は。ついさっきまで、凛々しい顔付きをしていた人物と同じとは思えない。と、私はつい頭を抱えたくなる。
けれど、だからと言って、その時の光志郎との会話を、馬鹿馬鹿しいと突っぱねるつもりも無かった。何だかんだ言って、こいつは頭の回転が速いのだ。
先程二人きりで為されたやり取りを、思い出す。内密にという事で、未だ処刑場にされていない別の部屋で、それは行われた。
「……昨晩の事、誰にも話していないよな?」
「あ、当たり前でしょ!? 内容が内容だし、……言えないよ………」
「なら良い。正直、信頼関係が揺らいでいる今、こんな事知れたら、どうなるか判ったもんじゃないからな」
朝の光の射し込む窓際を背に、私と光志郎は額を付き合わせるようにして声を潜める。この時、将泰さんは霧隠荘に連絡を入れていたので、お誂え向きだったのだ。
そんな折に、光志郎がどストレートな質問をぶつけて来たので、私は若干焦ったものだ。今思うと迂闊だった。下手したら処刑人が潜んでいたかも知れないのに。
だが、その事を知ってか知らずか、光志郎は更に言葉を紡いで行く。どうせなら将泰さんも呼んだ方が良いのでは、とも思ったが、取りあえず話を聞く事にした。
「実は今朝、それとなく紫御と将泰さんに聞いてみたんだ。画像の事」
「え?」
それはもしや、昨日光志郎に降りかかった、小さな事件に関連付いての事だろうか。そう言えばその二人も、事あるごとに写真を撮っていたっけ。
ならば何故、その二人も交えて話をせず、今ここで私にそんな話をするのだろう。そんな疑問を浮かべる私を前に、光志郎は言葉を続ける。
「ただ、直球には聞けねぇから、今まで撮った画像を整理する為に照らし合わせたい、って言ってみたんだ。そしたら、紫御だけが同じ被害にあっていた。目を離した隙に、画像を前消しされたみたいだから、見せられないってさ」
「え? 紫御だけ? 将泰さんは、何て?」
告げられた言葉に驚き、私は思わず声高に聞き返す。すぐに「声がデカイ」と光志郎に諌められてしまい、そのまま小声で謝罪した。
「……それで、将泰さんは何て? 画像が消された事、伝えたの?」
「何も。普通に今まで撮った画像を見せてくれたよ。こっちはケータイ忘れた、って言って誤魔化した。だから、将泰さんは画像の事は知らない。念の為紫御にも、俺のケータイの事は伏せた。つまり二人共、昨晩俺が受けた被害の事も知らないわけだ」
「……随分、秘密主義なのね。少しくらい、注意を促しても良さそうなものなのに」
「言ったろ。あまり聞かれたくないって。それに、二人が人狼ではないとは限らない。だろう? もちろん、これは二人だけでなく、現在生き残っている全員に言える事だ。そして、敵味方の判別が付かない今、俺は無条件に誰かを信じたりはしない」
「そんな……」
光志郎の非情とも言えるその言葉に、私は息を呑む。つまり彼は、仲間を疑う事を決めたという事だ。だからもし、誰かが人狼であるという確固たる証拠を掴んだら、彼は躊躇う事無く、その人を断罪するのだろう。例えそれが、誰であったとしても。
もちろん、今のこの生死を賭けた状況を鑑みれば、それが正しい事なのは判っている。それでも、実際に面と向かって言われると、やっぱり悲しくなってしまう。
私達は仲間だ。仲間だった筈、なのだ。それなのに。
どうして、争わなくてはならないのだろう。
どうして、殺し合わなくてはいけないのだろう。
この時もう少しで、光志郎にぶちまけるところだった。理不尽なゲームに対する怒りも、それを当たり前のように受け入れた彼への悲しみも、激情のままに。
それでも、私は耐えた。ここで光志郎に噛み付いても、現状が変わるわけではない。冷静さを欠いて、感情に身を任せたりしたら、……それは、ただの獣だ。
だから私は、ありったけの理性を総動員して、光志郎に向けんとしていた牙をしまった。その代わり、たった一つの疑問を彼に投げかける。
「ならどうして、私にはそんな話をしてくれるの? 私が敵陣営じゃないとは限らないのに?」
「……お前はGMに目の敵にされている。その時点でお前が敵陣営という事は、あり得ないだろう。確か、最初の議論の時、お前自分で言ったよな?『これはきっと、私への“復讐”』って。だから俺は、お前の事は信じても良いと思った」
「へぇ!随分熱烈なアピールですこと。でもね、それらの事柄が自作自演ではないという証拠は無いのよ」
「……お前ね、せっかく信じて貰えてんだから、変に勘繰るなよ。そういうひねくれモノはモテねーぞ?」
「煩いな! 大きなお世話!!」
魂の叫びと共に繰り出された私の拳は、過去最高と言い切れる鮮やかさで、光志郎の頬へクリーンヒットした。ちなみに、この件について謝罪する気は微塵も無い。
そんなこんなで、結局話はうやむやのまま終わってしまった。何だか、はぐらかされた気がしてモヤモヤする。正直言って、光志郎の考えている事が判らないのだ。
「マジでどうしたんだ朱華? お前が静かだと、調子狂うんだけど?」
「ちょっとソレどーゆー意味ィ!? 後でシメるよ!」
私が思考に浸っていると、更に毒を吹っかけてくる光志郎。誰のせいだと思って、という言葉を何とか呑み込むと、私はイライラに任せてペダルを漕ぐ足に力を込める。決めた。帰ったらマジでこいつシメる。
「ほらそこ、喧嘩しないでちゃんと前見ろ。そろそろ着くぞ」
将泰さんの言った通り、いつの間にか山道を抜けていたようだ。気付けば、霧隠荘が目の前に迫っていた。
「取りあえず、一旦休戦ね。光志郎、後で覚悟なさい」
「待て何する気」
待たない! と慌てる光志郎を切り捨て、私は自転車を駐輪場に止めた。と、その時、私はふと重要な事を思い出す。
(ヤバッ! 結局写真送ってないじゃん……!!)
失敗した。せっかく撮ったのに。どうやら、光志郎との密談に熱中していたせいか、頭からすっぽり抜け落ちてしまったらしい。
(まぁでも、今ここで送ってもあんまり意味無いし。戻ってからにするしかないか)
手に入れた情報は、いち速く伝えるべきだったが、どうしようもない。仕方無いな、と諦めた私は、他の二人と共に、足早に霧隠荘へと向かった。
「ただいま、皆ー……?」
帰還した私達を迎えた物は、沈黙だった。誰一人玄関先に顔を出さないし、「お帰り」の一声も無い。はて、どういう事だろうか。
「……お取り込み中かな?」
「朝食中かも知れないね。先に食べててくれってメール送っておいたし」
「あるいは、敵陣営がまた何か残したのか。それか、……何かまた揉め事になっているか」
私と将泰さん、光志郎、それぞれ予想を口にしながら、長い廊下を進む。果たして、正解は何なのか。答えを知ったのは、居間に続く扉を開いた直後の事だった。
「あ……! お帰りなさい。やっと戻って来たのね」
「お帰りなさい三人共。って言っても、あんまり出迎える雰囲気ではないけど」
室内に足を踏み入れた先で見た物は、並んで座る比美子と紫御の姿だった。彼らの前のテーブルには、一枚の紙切れがぽつんと置いてある。
「ただいま、と言いたいところだけど、何かあったの? というか何? この紙切れ?」
「ぶっちゃけると、すこぶる面倒臭い事になったわ。まぁ、取りあえず、その紙切れ見ときなさい」
比美子に促されるままに、私はその紙切れを手に取った。両隣では、光志郎と将泰さんが、それぞれ覗き込んで来る。そこにあったのは、何とも意外な物で。
「…………写真?」
それは、一枚の写真だった。写っている物は、幾重もの葉に包まれた、小さな蕾の塊だ。見ようによっては、薄緑色の向日葵の頭にも似ているそれは、雪混じりの草原にちょこんと座るように生えている。もしかして、これは……。
「……フキノトウ、だよな。どう見ても」
「ですよねぇ。やっぱり。流石に、本物は用意出来なかった、ってところか」
将泰さんと光志郎が、まさに私が思っていた答えそのものを口にする。やはりこれは、紛う事無きフキノトウ。しかし何故、わざわざ写真を使ってまで、フキノトウにこだわったのか。
「そもそも何? フキノトウの花言葉って」
「“処罰は行わなければならない”、ですよ」
私が口にした疑問に答えてくれたのは、黎名ちゃんだった。いつの間に、と思ったが、どうやらたった今、二階から降りて来たところらしい。その姿を見た比美子が、声をかける。
「お帰り、黎名ちゃん。唯の様子はどう?」
「それが、まったく相手にされませんでした。……私、完全に唯さんに嫌われてしまったみたいです」
「あ、そう言えば唯、いないね? 兄さんもだけど。どうかしたの?」
私はふと、この場所にいない二人の事を聞いてみた。すると、待機していた三人が、何とも言えないような表情で、互いに顔を見合わせている。
それは一種困っているような、あるいはどう説明するべきなのか迷っているような、とにかく微妙な顔だった。不意に、比美子がこう切り出して来る。
「……唯はね、部屋に閉じ籠っちゃったの」
「…………はい?」
「アタシ達の事、もう信じられないって。殺人犯かも知れない奴等となんか、一緒にいたくないって」
突然の事に、私は開いた口が塞がらなかった。そこに紫御も、寂しそうに言葉を紡ぐ。
「三人が、丸太小屋に行ってすぐくらい、かな。正直、キツかったな。僕ら、結構仲良かった筈なのにね……」
私は、耳を疑った。あの唯が、人懐っこくて、常に私達を慕ってくれていた唯が、仲間達にそんな事を言うなんて。……信じられない!
光志郎も将泰さんも、思いがけない唯の言動にショックが隠せないのか、酷く戸惑っていた。やはり、聖が殺された事が堪えたのだろうか。……いや。
本当に、それだけが原因なのだろうか。
ふと思い出されるのは、昨晩の事。ベッドに寝転がろうとした私の耳に届いた口論が、妙に引っかかる。
あの時、聖は唯に対して変な事を言っていたのだ。それは一体、何だったっけ? 私は記憶を手繰り寄せて、聖の言った事を思い出してみる。
──なぁ唯。オレ思っていたんだ。お前が、急に黎名ちゃんが怪しいって喚き始めた時から、ずっと。
──そんな筈ねぇって思っていた。お前もうやらねぇっつってたし……けど、それしか考えられねぇなって。
──なぁ唯。お前さ、占ったんだろ。黎名ちゃんの事。
“占った”。これだ。この言葉が、どうにも気になる。何せ、今は人狼ゲームの真っ最中だ。通常の人狼ゲームであれば、この言葉は重要な意味を孕んでいる。
(まるで、唯が占い師で、占った結果を見て黎名ちゃんを警戒している、と言っているみたい)
占い師。通常、人狼ゲームにおける、村人陣営最強と言っても良い役職。夜のターンに、住民一人の正体を知る事が出来るその能力は、人狼にとっては驚異である。
だが、手紙のルール上、このゲームにおける役職は、村人、人狼、GMの三種のみの筈だ。占い師など、存在しない。
それでも、聖の言葉は意味深だ。無関係だと切り捨てるのは、まだ早いだろう。この疑問は、一先ず置いておく事にする。
問題は、唯だ。彼女が集団内から孤立した事を選んだ以上、彼女と私達の間には、亀裂が入ってしまった事になる。互いを疑わせ、内部分裂を目論む人狼達にとっては、願ったり叶ったりな展開だろう。そしてそれが意味する物は、絆の崩壊という、最悪のシナリオだ。
それだけは、何としてでも避けたい。しかし、既に唯に関しては、築き上げて来た筈の信頼が、いとも容易く崩れ去ってしまった。
数年間、私達は共に過ごして来た。その中で、私達は少しずつ絆を深めて行った筈なのに。それが、こんなふとした事で。こんなにも、呆気無く。
全ては、このゲームのせいだ。こんなゲームなど行ったりしなければ、唯はおかしくなんかならなかった。それに、皆が疑心暗鬼になる事だって。
「……混乱していたんだろう、唯も。状況が状況だし。聖も殺されちまったし………」
しんみりとした空気に支配される中、不意に光志郎がそう零した。唯へのせめてものフォローのつもりだろう。私も援護しようと思い、口を開きかけたのだが。
「でも正直『あたし部屋に戻るぅ! 殺人鬼なんかと一緒に居られないものぉ!』って台詞はアウトだと思った」
「待って」
「完全にフラグだよね。その後、食事の時間になっても姿を見せない、っていう展開になるヤツ」
「待って!?」
「大丈夫ですよ。襲撃は深夜ですから、日中にそういったフラグが立つ事は、まず有り得ません」
「待ってってば!! 確かにそうだけど、そうじゃないから!!」
比美子、紫御、黎名ちゃん。三人揃っての突然のボケ倒しに、私はいつの間にかツッコミ役になっていた。駄目だ! だんだん議題が斜め上になって行く!!
このままでは、カオス一直線になってしまう。と悲観に暮れた時、将泰さんが肩を震わせながらも、軌道修正してくれた。
「でも、どうするんだい? 流石に唯ちゃんを、そのまま放っておくわけにはいかないだろう?」
「私達もそう思って、何度も説得しようとしたんですよ? けれど唯、梃子でも動かなくて」
「先程も、私が声をかけてみたんですけど、火に油を注ぐだけでした。顔も見たくないと言われてしまって。……私、唯さんに何かしてしまったんでしょうか。初めてお会いした時は、気さくに話して頂けたのに………」
どうやら三人共、手は尽くしたようだが、結果は芳しくなかったみたいだ。特に、俯き加減にそう呟く黎名ちゃんは、どこか寂しげだ。
再び気まずい沈黙が訪れる。何とか黎名ちゃんを慰めたいが、妙案も浮かばない。どうしよう、と知恵を絞る私を尻目に、不意に隣で「ふむ」と、何か思い付いたような声が聞こえた。光志郎だった。
「なら、今度は朱華が行ってみたらどうだ? 唯の奴、朱華の事めっちゃ好きじゃん」
「ファイ!?」
思いがけない発言に、私はつい奇声を発する。どうしてそうなった? だが、混乱する私と裏腹に、周りからは賛同の声が上がって行く。
「おぉ! ナイスアイデアだわ光志郎! 何故に今まで気付けなかったのかしら!!」
「確かにそうだね。朱華が行けば、唯も安心すると思うよ」
「私もその方が良いと思います。今の唯さん、きっと不安で仕方無いと思いますから」
「という事で朱華ちゃん。お願いしても良いかな?」
囃し立てる皆。膨れ上がる期待感。逃げ場無し。つまり自分オワタ。プレッシャーマジ半端ない。私の拒否権どこ行った。
「Oh……。判った。ちょっくら行って来ますわ」
こうして私は、並々ならぬプレッシャーを背負いながら、唯の部屋へ向かう事となった。その時の自分は間違いなく、魔王城へと挑む勇者の気分だったと述べておく。
(結局、皆に押される形で来ちまったゼ……!)
現在、唯の部屋の前。昨日と同じように、私はそこに佇んでいた。
さて、どうしようか。勢いのままにここまで来てしまったが、正直、どんな言葉をかけるべきなのか、さっぱり思い付かない。
(けど、このまま放っておく事も出来ないし……)
取りあえず、声くらいかけておくか。
よし、と気合いを入れた私は、無駄に拳に力を込めて、目の前に立ちはだかる扉をノックした。
「ゆ、唯ー? 聞こえてるー? 私。朱華だけどー」
少し待ってみたが、返事がない。ただの屍の……ってそれはもう良い。寝ているのか、それとも会話をする気が無いのか。
しかし、意思疎通が出来ないと、話にならない。なので私は再び、しかも今度は強めに扉をノックする。
「唯ー? 唯ってばー」
やはり、扉はがんとして無言を貫き、その向こうからは、物音一つしない。お手上げだった。反応が無い以上、手の打ちようが無い。
「…………駄目か」
だがそれでも、声をかけ続ける事は出来る。反応はしてくれなくても良い。ただ、私の言葉が唯に届いてくれさえすれば、それで十分だから。
「まぁ、いるのは判っているから、勝手に話すけど。率直に言うわ。私、昨晩、あんたと聖の会話聞いた」
扉からは、反応は無い。当たり前と言えば当たり前だ。それでも、私は言葉を続ける。
多分、ここで引いてしまったら、唯はこのまま、私達から離れてしまう。そんな確信があったから。だから、私が繋ぐんだ。絆を。
「そんなつもりは無かったとは言え、勝手に聞いちゃってごめん。……あんた、占いとか出来るんだね。教えてくれれば良かったのに。私、そういうの興味あるよ。もっと早く知っていたら、占って貰っていたし。唯の事だから、凄く良く当たりそう」
あぁそうだ、と私は思い出す。昨日、唯の部屋で見つけた、あのカード。今考えれば、タロットじゃないか。多分、あれを占いに使うのだろう。
「……正直、話を少し聞いただけの私には、聖ほど、あんたの事を理解してあげるのは、難しいと思う。それでも。私はあんたの力になりたい。だってあんたは、私の大事な後輩だもの。助けたいって思うじゃない。お節介かも知れないけど、放っておけないんだよ」
本来、唯は優しい。気配り上手だし、困った人を見ると、自ら手を差し伸べるようなヤツなのだ。少なくとも、こんな風に、誰彼構わず噛み付く人間ではない。
今の唯は、今回のゲームのせいで取り乱しているだけだ。生死を懸けた極限状態の中、幼馴染みを喪った絶望は、計り知れないものだと思う。
けれど、私や兄だって、従妹を亡くした。他の皆も、親しい人達を亡くした事に変わりは無い。つまり、ここにいる誰もが、心に深く傷を負っているわけで。
厳しいようだが、ここは心を鬼にしなければいけない。今は何としてでも、唯に這い上がって貰わなければならないのだ。この先、生き残る為にも。
「……聖が殺されて、辛いのも判るよ。でも、いつまでそうやって塞ぎ込んでいるつもり? 疑心暗鬼になるのも仕方無いとは思う。こんな状況だしね。けど、そんな風に閉じ籠っていたら、いざというとき誰も助けてくれないよ。ウジウジしている暇があるなら、他にやるべき事があるんじゃないの? 情けないよ、今の唯。周りにも当たり散らして、馬鹿みたい。辛いのは、あんただけじゃない! 皆一緒なの! 良い加減、前を向いたらどうなの……!?」
突然の衝撃が、目の前の扉を揺らす。恐らく、唯が何かを扉に叩き付けたのだ。枕だろうか。それにしては、随分重たい感じの音だったけど。
けれど、こうでもしないと、唯はこのまま壊れてしまうと思ったから。非情だけど、仕方無い。……まぁ、言葉が過ぎた事は、認めざるを得ないが。
「……ごめん。言い過ぎたわ。私も、少し熱くなっちゃったね。……頭、冷やして来る」
そう言って、私は退く事にした。言いたい事は言ったし、あまり責め立てる口調は、却って籠城を助長させてしまうと思ったからだ。
この後の行動を考えながら、私は自室を目指す。唯の事は気がかりだが、そればかりにかまけているわけにもいかない。兎に角、一分一秒が惜しかった。
(取りあえず、今晩に備えて情報を整理しなくちゃ。せめて何か手がかりが欲しいもの……)
その時、不意討ちのように流れた着信音に、私の足はぴたりとその場に止まる。瞬間、爪先から急激に冷えて行くような感覚が、私を襲った。
メールの着信音イコール、不快な通知という図式が、この数日の内に身体が認識してしまったらしい。嫌な想像だけが、頭を駆け巡って行く。
震えそうになる指先を叱咤して、私はケータイを取り出し、画面を確認する。だがそのメールは、意外な人物から送られたものだった。
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From:唯
Sub:朱華センパイへ
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わざわざ部屋の前まで来てくれたのに、スイマセン。
あたし、思った以上にキているのかもです。
聖兄の事、まだ心の整理が付かなくって。
だから、気持ちを落ち着かせる為にも、もう少しだけおこもりしようと思います。
人狼裁判には、きちんと出るつもりですので、ご心配なく。
占いの事も、黙っていてごめんなさい。
色々あって、ここ数年はずっと占ってなかったんです。
けれど、二日目くらいに嫌な予感がしたので、その夜、ある人物について占ったんです。それが、烏丸黎名でした。
あの女は、クロです。占いが、それを指し示しています。
けれど、これだけじゃ信じてもらえないですよね。
だから、あの女がアヤシイと言える根拠を書いておきます。
「超能力少女レノア」って検索してみて下さい。
そうすれば、あの女がいかに信用出来ない人間であるかが、良くわかりますから。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー
「超能力少女レノア、……っと。…………お、出て来た。何々……?」
自室に戻った私は、早速ケータイの検索機能を利用した。例のワードを入力すれば、あっという間に関連情報が画面に並ぶ。流石は文明の利器だ。
「結構多いな……。一昔前の話題なのに、出て来るわ出て来るわ。……随分、流行っていたみたいね」
実のところ、当時の私は、この話題に大して興味がなかった。唯には悪いが、こういったモノは九割九部エセモノだと思っていたからだ。
だからこそ、この話題について言えば、せいぜいエスパーかぶれの電波ちゃん、という印象しか持っていないのが正直なところだった。
(こんな電波少女がどう、黎名ちゃんと関係して来るのかね……? )
途中、キッチンで淹れて来たティーパックの紅茶を啜りながら、私は画面に映る文字を目で追う。そこから共通した部分を纏めてみて判ったのは、大体こんな内容だった。
─────────────────────
“超能力少女レノア”とは
とある特番で紹介された少女。年齢は非公開。
念力や空中浮遊等の、所謂超能力を操れる特異性から数多くのメディアに取り上げられた。
ある日、その力がイカサマではないか、という噂が立ち、世間から叩かれて以来、酷いバッシングを受けてテレビ出演を自粛。
以後、自然消滅する形でテレビ業界からも、世間からも去る事となる。
─────────────────────
「……ウソクサ」
開口一番、私はそう吐き捨てた。アホらしい。全くどうして、人間はこんな下らないモノに夢中になるのか。溜め息を吐きつつも、私は再度画面を見る。
何故唯は、この少女の事を話したのだろう。メールの内容から察するに、どうやら黎名ちゃんと関係があるという事らしいが。半信半疑の心情で、私は素早く画面に指を走らせる。
ふと、スクロールした先に現れた画像を見た瞬間、私は愕然として目を見開いた。嘘、と思わず口走っていた。無理も無い。念でも送るように右手を前に突き出した、少女の画像。レノアとして紹介されている、その少女は。
「黎名、ちゃん……?」
間違い無い。豪奢な衣服に身を包み、堂々と振る舞うその姿には、確かに彼女の面影があった。興味が皆無だったせいか、全く気付けなかった。
あまりの衝撃に思わず、椅子から立ち上がる。これが、唯の言いたかった事か。黎名ちゃんが、超能力少女である可能性が高いという事が?
もし、この二人が同一人物だったとしたら、どういう事になるのだろう。まさか唯は、今回の事件は超能力によって引き起こされたとでも考えているのだろうか。
(……馬鹿馬鹿しい。超能力なんて、あるわけないじゃない)
しかし、だからといって、これを他人の空似で片付けても良いものか。超能力云々はさておき、偶然にしては妙に出来過ぎているように思えてならない。
(……この手の雑誌って、まだ残っていないかな)
どうせ調べるなら、当時の雑誌等も読んでみたい。思い付いたのは、書庫だ。あそこには様々な書物はもちろん、過去の新聞や冊子も、結構残されている筈なのだ。図書館じゃないんだから、と祖父存命時は呆れていたのだけれど。
(人生、何が役立つか判らないものだね。そうと決まれば!)
思い立ったが吉日、とばかりに私は足早に扉へ向かう。目指すは向かい。自室を出た先の奥の部屋、書庫だ。
淡い灯りの照らす室内は、妙に物々しい空気で満たされていた。入った瞬間に、古びた紙やインクの匂いがする。本の密集する場所特有の香りだ。
私は、昔からこの香りが好きだった。この別荘に良く来ていた頃は、マグカップ片手に時間を忘れるくらい読書に耽っていたっけ。
(……なんて、懐かしんでいる場合じゃなかった。本題本題)
頭を切り替えて、私は本棚の間を進む。はてさて、雑誌の置かれた棚はどこだっけ?
もう朧気な記憶を辿りながら、私は棚に並ぶ背表紙一つ一つを確認していた。が、見つからない。何故だ。
「朱華さん? どうなさったんですか?」
不意にかけられた声に、私は文字通り飛び上がった。まだバクバクと暴れる心臓を抱えたまま、私はたった今自分を驚かせた相手に向き直る。そこにいたのは。
「え? 黎名ちゃん?」
「あ、はい。……すみません、驚かせるつもりは無かったのですが………」
少ししゅんとした様子で、黎名ちゃんは謝罪する。だが、そんな物はどうでも良かった。だって今、ここに来た理由そのものである少女が、目の前にいる。
もう、雑誌を探す必要は無い。知りたいのなら、本人に聞けば良い。後から考えれば凄く無謀な事だけど、この時の私は何故かイケると思ったらしい。
「黎名ちゃん。今、ちょっと良いかな」
気付けば、私はそう口にしていた。疑問系だが有無を言わせないその言い方に、黎名ちゃんは何かしら察したのだろう。二つ返事で頷いてくれた。
「構いませんよ。私も、あなたにお聞きしたい事がありますし。……向こうの席に移動しましょう?」
「ん……? 良いよ。話、少し長引くかも知れないしね」
そんなやり取りをしながらも、私は黎名ちゃんの言葉に内心首を傾げていた。彼女が、私に聞きたい事って何だろう。まぁ、こちらから訊ねても良いか。
そうして私達は、奥に設置されている読書用スペースの席に向かい合わせで座る。ふと、机の上に、一冊の本が置かれているのが気になった。
「何読んでるの?」
「“大鴉”。ポーの作品ですよ。私の好きな本なんです。さっき見つけて、懐かしくなってしまって」
そう聞いて、私は改めて本の表紙を見るが、黒い、ヴェルヴェット生地のブックカバーに包まれたそれからは、何の情報も得る事は出来なかった。
それにしても、エドガー・アラン・ポーねぇ。小学校に入ってすぐの頃、“アッシャー家の崩壊”を読んでからトラウマになったから、あんまり好きじゃないんだよなぁ。黎名ちゃんくらいの年の頃に読めば、もう少し楽しめたのかも知れないけれど。
取りあえず、本については曖昧に相槌を打っておいて、本題に入る事にした。
「それで? 話ってなぁに?」
「え? 朱華さんこそ、私に用があるのでしょう? お先にどうぞ」
「良いの良いの。単に、あなたの話が気になるだけだから。先に話聞いて、スッキリしてから聞くから」
この言葉は、事実だ。実際こちらにしてみれば、黎名ちゃんから質問される事はまったくの予想外だったからだ。もしかしたら、彼女は何か重要な事に気付いたのかもしれない。それに、向こうの質問に答えてからの方が、こちらも聞きやすいだろうし。
という事で、私は先に相手の話を聞く事にした。
「……では、お言葉に甘えまして。実はですね朱華さん。私先程、こんな物を見つけたんです」
黎名ちゃんがそう言って机の上に置いたのは、A4サイズの厚手の茶封筒だった。開けてみて下さい、と促されたので、私はそれを手に取る。
その封筒から姿を見せたのは、一冊の冊子だ。見たところ、小説の原稿のように見える。紙が少しくたびれている事から、やや古い物なのが窺えた。
「“芳香と咆哮”……? 聞き覚えの無いタイトルね。未発表作品かな。えぇと、作者名は……? 本名、周潤水。筆名は、……杜若巡………!?」
思わぬ名前との遭遇に、私の心臓は跳ねた。杜若巡と、GMジュン。果たしてこれは、偶然なのか。それとも。
「……これ、どこにあったの?」
「一番奥の本棚に入っていました。中を確認したところ、朱華さんにも見て頂いた方が良いかと思いまして」
「私に? ……何で?」
「実は、先程部屋に戻った時に、これが扉の下に挟まっていて。これを見たので、私はここに来たんです」
黎名ちゃんが渡して来た別の封筒には、一枚の紙が入っていた。パソコンで打ち出された物のようだ。そこに書かれていたのは、こんな文章だった。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
烏丸黎名様へ
真実を求めるあなたの為に、作家朱華朱、本名等々力朱華の罪を暴く為の証拠品をご用意致しました。
どうぞ、ご利用下さいませ。
もしも、この手紙が信じられないのであれば、書庫へお越し下さい。
そこでなら、ここに記された物が決して嘘偽りで固められた紛い物ではない事が、ご理解頂けると思います。
そして、その時、あなたは知る事になるでしょう。
かつて栄光を手にした、あの魔女の正体を。
※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※
「ちょ……やだ待って。何これ……!?」
提示されたそれに、私は背筋が凍る想いだった。
私の罪って何だ。魔女の正体って何だ! それじゃまるで……私が、犯罪者みたいじゃないか。
「……念の為にお聞きしますが、朱華さん、この内容に何か心当たりは?」
「あるわけないじゃない!! そんなの!!」
「そう、ですよね……」
怒鳴り散らす私を余所に、黎名ちゃんは再び封筒に目をやる。そのまま考え込む彼女を前に、私は八つ当たりする自分が恥ずかしくなって来た。
気まずい心境で、私は椅子に座り直す。取りあえず、私の話は後回しだ。ここまで来たら、この際疑惑をはっきり否定してからの方が、私もスッキリ出来る。
「……ごめん。ちょっと取り乱しちゃった。それで、聞きたい事って何? まだ聞いていないよね?」
「そうでした。回りくどくてすいません。それでですね、朱華さん。この冊子を読んでみて下さい」
黎名ちゃんに言われ、私は改めて手の中の冊子を見る。はっきり言って、怖い。たった今見たばかりの怪文書が、不安を煽っているのだろう。
頭の中で、警報が鳴り響く。それでも、読まないという選択肢は、既に選べなかった。諦めて、私は冊子の最初のページを捲る。
「…………え」
最初の数文を読み始めたところで、私の指の動きが止まる。瞬間、本能的に感じた。“この小説は、読み進めてはいけない”と。それでも何故か、読まずにはいられない。どうしても、続きが気になる。そう思わせるような魔力が、この小説には宿っているみたいだった。
読み進む毎に、私の目には信じがたい物ばかりが、次々と飛び込んで来る。何なんだ、これは。こんなもの、知らない……!
物語は、三章までしか無かった。それでも、私を精神的に追い詰めるには十分過ぎた。身体が、全力疾走した直後のように、息苦しくなる。
簡潔に言えば、冊子の中身は作成途中の小説だった。しかも、一部の人物名が潰されている事を除けば、その内容の大半が“ユダの箱庭”に酷似していた。
いや、違う。これは、“ユダの箱庭”に酷似しているんじゃない。寧ろ、……今起きているゲームと全く同じ展開をなぞっている!
それに気付いた瞬間、私は思い出す。今朝、ジュンからのメールを受け取った時に感じた、あの違和感の正体を。
あの時のメールにあった台詞から、神楽さんは、作品内でのハルカである事は明白だった。ハルカは人狼だから、それ自体は変じゃない。
だが、“ユダの箱庭”では、ハルカが処刑されるのは終盤だ。こんなに早く退場する筈がないのだ。対して、この小説のハルカは、二回目の議論で処刑されている。
つまり、今の惨劇がなぞらえているのは、“ユダの箱庭”ではなく“芳香と咆哮”。つまり、この小説なのだ。そうでなければ、説明が付かない。
だがしかし、そう結論付けると、新たな疑問が浮かんで来る。何故、ここまで“ユダの箱庭”に酷似した小説が存在しているのか。
「如何でした? 朱華さん?」
不意にかけられた声に、思わず顔を上げる。酷く、感情を欠いた声音だった。視界に少女の顔が入り込んだ瞬間、硝子玉のような瞳と目が合う。
「私も、その小説を読みました。……そっくりですよね。今の、この状況に」
放たれた言葉に、びくりと肩が震える。まるで責め立てているような口調に、私は金縛りにでもあったかのように動けなくなった。
「というより、この惨劇は小説、“芳香と咆哮”になぞらえて行われている、と言った方が正しいでしょうか。人物名が消されているのも、その為でしょう。現実と同じ動きをしているキャラクターから、あてがわれた役を特定される事を阻止する、という目的ですね」
ぐりぐりと錐の如く、少女の言葉一つ一つが私の心を抉って行く。聞きたくない、と耳を塞ぎたかった。それでも彼女の追及は、容赦無く続く。
「……それでいて、あなたの“ユダの箱庭”にも、似ている点が多い。これは、どういう事でしょうか」
ねぇ、朱華さん。
気付きましたか? この原稿、最後のページに日付が記してあるんですよ。これ、あなたが“ユダの箱庭”を発表するより1ヶ月は前ですよね?
最初は、あなたの作った没作品なのかと思いましたが、あなたの反応を見る限り、それは無さそうですね。
なら何故、ここまで酷似した作品が、この世に二つも存在するのでしょう。偶然にしては、あまりにも似過ぎています。そして、“等々力朱華の罪”という言葉。
そこで、あなたにお聞きしたい。
「“ユダの箱庭”は本当に、あなたの手がけた作品なんですか?」
気付けば、私は走り出していた。
何も聞きたくなかった。これ以上語られたくなかった。だから私は、──逃げたのだ。
椅子を倒し、自室を目指して一直線に駆け抜ける。残した少女の表情は、見えなかった。というより、見なかった。あの無感情な眼が、ただただ怖かった。
先程告げられた言葉が、毒のように頭の中を回って行く。
“ユダの箱庭”は本当に、私の手掛けた作品なのか? そんなの、当たり前じゃないか。だってあれは、私が中学生の時に気まぐれで書いた作品だ。私の作品でなければ、誰の物だというのか。
あれは、“ユダの箱庭”は、……私の物だ!
“本当に?”
心の中で、誰かが問いかける。止めろ。煩い。黙れ!
頭を押さえ、髪を振り乱して、私は走る。早く、部屋に帰りたい……!
精一杯伸ばした手で扉を開け、室内へと飛び込む。そして、そのまま勢い良く閉めた扉に背中を預け、息を調えた。
ふぅふぅと呼吸を繰り返す中で、私はふと左手の違和感に気付いた。──何かを、掴んでいる?
不思議に思い、ぼんやりと“それ”に目をやった。
「………ひッ!」
例の冊子だった。手にしたまま、無我夢中でここまで来てしまったらしい。喉元までせり上がる不快感を抑え、私はそれを床に投げ捨てた。
ばさっ、という音と共に、床の一部が白く染まる。それは、あまりに異様な光景で、──気持ち悪い。思わず視線を外した私は、部屋に起きた異変を知る事となる。
(これ、……ホオズキ………?)
自室のベッドに散りばめられた、ホオズキの実。シーツと原稿によってもたらされた白に浮かぶ橙色は、恐ろしい程に目に痛い。
何で、こんな所にホオズキが?
いつの間に? 誰が置いた? 何の為に?
疑問だけが浮かび、私を翻弄して行く。
ホオズキ。……何か、誰かとそんな話をした気がする。誰だっけ? 少なくとも、今いるメンバーではない。でも、他に仲の良かった人間なんて、誰も……。
そう思った瞬間、私の頭に蘇った、一つの記憶。これまで覚えのなかった筈のそれは今、鮮明に私の脳裏に映し出されて行く。
──あ、ホオズキだ。もう、そんな時期かぁ。
──そう言えば、知っている? ホオズキの花言葉。
──初めて聞いた時、私、凄く成程ー、って思ったんだよね。
──教えてあげる! ホオズキの花言葉はね──。
思い出した。確か、ホオズキの花言葉は。
“欺き”と“偽り”
その記憶を最後に、視界は暗転。私の意識はぷっつりと途切れたのだった。
「……う。……あれ?」
気が付くと、目の前に広がるのは見慣れた天井だった。という事は、ここは自室か。じゃなくて。
どういう事なの? 状況が、まったく掴めないんですが。
状況を把握しようと頭を働かせて数秒。どうやら自分は倒れたらしい、という事しか判らなかった。あと、何か美味しそうな匂いがする。
「あ、良かった。気が付かれたんですね」
突然かけられた声の方を向けば、黎名ちゃんがほっとした様子で、こちらを見ていた。その瞬間、倒れる前に起きた事が、怒涛の如く蘇って来る。
「……何しに来たの」
横になったまま、私は少女を睨む。そもそも私がこうなったのは、ある意味この子のせいだ。つい、棘のある物言いになってしまうが、仕方無いだろう。
それでも、当の少女はただ苦笑するのみ。その余裕のある表情に、何だか、複雑な気分になってしまう。こんな時、どんな顔をすれば良いか判らないの。笑えば良い?
そんな私の心中など知るよしもない黎名ちゃんは、机の上に置いてあったトレーらしき物を持って来る。どうやら、美味しそうな匂いはあそこからするみたいだ。
「夕食、届けに来ました。……先程の事もありますので、私が立候補しました。……唯さんには、死ぬほど反対されたんですが」
そう言う黎名ちゃんは、少しばつが悪そうだ。色々思うところはあったけど、まずは腹拵えだ。私は、ミネストローネにパンの添えられたトレーを受け取る。
ふわり、と立ち上る湯気と、トマトの香りが食欲をそそる。更に空腹を刺激された私は、ありがたく頂く事にした。
数種類の野菜の甘みと、ベーコンの旨味がコラボする、その味わいが起き抜けの身体には優しい。ゆっくりと咀嚼しながら、私は黎名ちゃんに気になる事を聞いてみた。
「……私、どうしちゃったの? 全く記憶に残っていないんですケド」
「覚えていらっしゃらないんですね、朱華さん。あなた、あの後倒れたんですよ」
曰く、あの後黎名ちゃんは、逃げた私を追いかけて来たらしい。そして、私の部屋に来たところで扉をノックしたが、返事が返って来ない。
何度かノックしたところで、これはおかしいと思った彼女は、試しにドアノブを引いてみた。すると、扉が開いたので、恐る恐る入室したらしい。
そこで、私が倒れているところを発見した、という事だ。焦るあまり、部屋の鍵を閉め忘れていた事が幸いしたのか。何とも苦い話である。
「……私のせいですよね。本当に、すいませんでした。あなたを追い詰めるつもりは、なかったんです」
「あ、……うん。もう、良いよ。……気にしていないから」
殊勝に謝る黎名ちゃんに、私はそれだけを口にした。
事実、彼女が発見してくれなければ、私は長時間放置されていた事だろう。そう考えると、一概に彼女を責める事も出来ない。取りあえず、先程の事は水に流す事にした。今ここで、仲間割れをしたって仕方無いのだし。
「それよりも、色々、整理する必要があるよね。黎名ちゃん、協力してくれるかな?」
「え? よろしいのですか? まだ、ご気分が優れないようでしたら……」
「平気だよ。休んでる場合じゃないし。それに、腹括る覚悟は出来ているの」
食事と会話をして、心に余裕が出来たからだろうか。混乱していた思考が冷静さを取り戻してくれたようだ。ようやくクリアになった頭で、私は考える。それは、気を失う直前に見た、あの光景についてだ。
全く身に覚えは無いけれど、あれは間違い無く、私自身の記憶なのだろう。ならば、私はあの記憶について、きちんと向き合う必要があるのではないだろうか。もしかしたらそれこそが、今回のゲームの発端なのかも知れない。
そんな私の熱意が伝わったのだろう。黎名ちゃんはまだ私を気遣わしげに見ていたが、やがてふっ、と一息吐く。そうして軽く微笑むと、そのまま口を開いた。
「判りました。では、早速。朱華さんは、あの小説……“芳香と咆哮”について、何か心当たりは?」
「それが、サッパリ判らないの。本当に知らないのか、覚えていないのかさえ、ね……」
芳香と咆哮。突如現れた、“ユダの箱庭”に似て非なる物語。今、起きているゲームの展開を、そのまま描いたような物語。
黎名ちゃんが受け取った手紙によると、あの小説は私の罪を暴く証拠品らしい。けれど、私には“罪”と呼ばれるような悪行をした事など無い。
そもそもあの小説の存在も、その作者の事も、私はここに来て初めて知ったのだ。そんな物に、私が関わっている事など、……ある筈無いのに。
そこまで考えた時、誰かに「嘘つき」と言われたような気がした。その直後の事だった。
「う………!」
突然、覚えの無い光景が頭の中に流れ込む。と、同時に鋭い痛みがこめかみに走る。瞬間、テレビでも消すようにその光景はぶつりと途切れてしまう。
あまりの痛みに耐えきれず、私はこめかみを押さえたまま俯いた。すぐさま黎名ちゃんが私に近寄り、私の顔を覗き込んで来る。
「朱華さん!? 大丈夫ですか?」
「……大丈夫。……何とかね」
気にかけてくれた少女に対して、私はやっとの思いでそれだけを口にする。痛みは、長引かなかった。けれど、胸の疼きが治まる気配はなかった。
「……黎名ちゃん、私ね、……記憶に、欠落があったみたい」
「え……?」
「ずっと、忘れていた事さえ忘れていたわ。……おかしな事言っているよね? でも、そう言うしかないの」
そうだ。今の光景は間違い無く、私自身の記憶だ。どうしてずっと忘れていたのかは判らない。けれど、今こうして思い出した事には、きっと意味があるのだろう。
「前に、私に聞いたよね? 恨まれるような理由とか、何か事件に関わった事はあるかとか、そういうの。それについての答えは、変わらないよ。比美子以外の皆に会うのは久しぶりだから、近況とか知らないし、中学の時も何もなかったから。……けれど」
そこまで言うと、私は一度深呼吸した。これから話す事は、私自身の過去に巣食っているだろう“闇”に触れる行為だ。どうしても、緊張する。
だが、ここまで来たら逃げても仕方ない。覚悟を決めた私は、思い切って言葉を吐き出した。
「けれど、そうじゃなかった。一つだけ、……今回の事に関係あるかも知れない出来事が、あったのよ」
あれは確か、……そう、“ユダの箱庭”が正式に書籍化した日の事だった、と思う。あの時も、皆が私をお祝いする為に集まってくれたっけ。
六年前の、丁度今頃。ホテルの最上階スイートルームにて。相田先生と神楽さん以外のメンバーで、楽しく時を過ごしていた。
そこまでは、思い出したのだ。少なくとも、パーティの始まった頃までは。だけどその後、気が付いたら病院のベッドの上だった。
当時は、突然貧血を起こして倒れてしまったのだと告げられたが、今思うと不自然だった。その時の医者の様子も、皆の態度も。
あの時皆は、まるで何かを伺うような様子で、私を見ていたように思う。そしてその日以降、誰もパーティの話題は一切口にしなくなったのだ。
「……“あの日”の事、……どうしても思い出せないの。途中で記憶が、……途切れてしまって。無理に記憶を手繰り寄せると、いつも頭痛に襲われて断念するしかなかった。……これ、頭が拒絶しているんだよね。……思い出す事を」
それはつまり、その記憶が私にとって忌まわしいものである事を意味していた。そう考えると納得出来る。そしてそれこそが、このゲームの鍵なのだ。
ならば私は、早急に“あの日”の事を思い出す必要があるだろう。けれどそれは、謂わば私の抱える“闇”を暴く行為だ。その事に私は耐えられるのだろうか……。
「……事情は判りました。朱華さん」
つらつらと考え事をしていた私の耳に、届く声。ハッとしてそちらを見やれば、僅かに微笑む少女と目が合った。とても、強い眼差しをしている。
「今のお話は、とても重要な物です。恐らく、今回のゲームのキーポイントになるでしょう」
そう言いつつ、黎名ちゃんは私の手を取ると、そのままぎゅ、と握る。自分より高めの他人の温もりが、不安な心を勇気付けてくれる気がした。
「けれど、決して無理に思い出さないで下さい。そんな事をして、あなたに負担をかけるわけにはいかない」
「え……? でも、この先“裁判”で役に立つなら……」
「ゆっくりで良いんです。確かに情報は必要ですが、そのせいであなたが壊れてしまっては意味が無い」
「黎名ちゃん……」
黎名ちゃんの優しい言葉に感動していると、その余韻を台無しにするかのように、ケータイのアラームが鳴る。それが意味する事に気付いた私は、徐々に血の気が引いて行くのを感じた。
「ちょ、……っと待って! 今、何時!?」
「八時三十五分ですね。“裁判”開始十分前ですよ」
「やっぱりそうだよね、……じゃないでしょ黎名ちゃん!」
黎名ちゃんの緊張感の感じられない淡々とした声に、私は思わずツッコんでいた。いや、遊んでいる場合じゃない。
嘘。もう“裁判”の始まる時間なの? 私、どれだけ意識飛ばしているの? というか、全然考え纏っていないんですが。やばいんじゃないでしょうか。
と、色々焦ったところで、もう遅い。後悔先に立たず。零れたミルクに泣くな。こうなってしまったら、仕方無い。なるようになれ、だ。
「細かい事は後回しだ。行こう、黎名ちゃん。一先ず、今日も生き延びなくちゃ!」
「はい、朱華さん!」
食べかけの夕飯を急いで片付けて、私は立ち上がる。今は、くよくよしていたって仕方ない。例えこの先、何が待ち構えていようとも、私達は進むしか無いんだから。
──朱華ちゃん。あなたは、あなたらしく生きなさい。そのままのあなたが、一番輝いているのよ。
──そーそー。ウジウジしているなんて、らしくねぇんだからさ。いっその事、はっちゃけちまえよ。
(……そうだよね。私は、私らしく! 思いっ切りはっちゃけてやるわ!!)
思い出されるのは、神楽さんと聖の言葉。そうだ、私達は今、仲間達の犠牲の元にここにいるんだ。今更、後戻りなんて出来ないんだから!
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