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一章

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「湯浴みを!」

 控え室に入った途端、女王が踵の高い靴を脱ぎ捨て、洗面所に向かって裸足のまままっすぐ歩きながら声を張り上げた。
 レイチェルがやってきて、女王が次々と脱ぎ捨てる着物を受け取りながら急ぎ足で姫君の後を追う。
 その間も女王は、髪に挿したかんざしを次々に抜き取りながら、とうとう薄い下着だけの姿になってしまった。
 ひらひらした薄い着物の裾から覗く脚は、案外長くてスラリと形がいい。
 そして、湯の張られた洗面台に行くと、結い上げた髪を頭ごとざぶんとつけてゴシゴシと洗い始めている。

「もっと湯だ!」

 そう言われたレイチェルが、大きな水差しに入った湯を他の女官と二人がかりでじゃぶじゃぶ女王の頭にかけている。
 ラウルはあまりにも意外なその展開に、なすすべもなく呆然と見守るばかりだ。
 女王はあっという間に銀髪を洗うと、濡れ髪を布でゴシゴシ拭いながら言った。

「いやあ、すまないラウル。油で髪を結うと洗い落とすのが大変なので、砂糖水と果汁で髪を固めたのが間違いだった。おかげで羽虫を寄せ付けるとは計算外だ」
「甘い匂いに寄せられたのでしょう。だからあれほど言いましたのに。虫にたかられる姫など、見たことがありません」

 レイチェルの直裁な小言に女王がおかしそうに笑っている。

「な、なるほど…」

 ラウルはなんとも間抜けな反応を返すしかない。
 女王は今度は、顔に油を塗りたくってこってりした化粧を落としているが、油で溶け出した白粉やら、眉や目を描いていた墨やらが顔の中で混ざり合い、この世のものとは思えない顔色になっている。
 それをまた、洗面台の湯でザブザブ洗い落とすと、あれよあれよという間に、民が着るような粗末な衣装に着替えると、髪を隠すためか布で頭を覆い、すっぽりとフードを被るとまた短く叫んだ。

「シン!」

 窓の外に向かって一声そう叫ぶと、女王は大きく開いた窓枠に足をかけて、外に向かって一気に飛び降りたのである。

「う、うわああ‼︎」

 数十メートルの高さがあったはずだ。
 驚愕してラウルが窓枠にかじりついた途端、赤ん坊の頭ほどもある巨大な黄金の眼と眼が合った。

「──ッ!?」

 思わず飛びすさった。
 その虹彩は、縦に細長く切れている。
 全身が本能的に総毛立った。
 窓の外には、黄金の目に全身白銀色の大きな蛇のような生き物が空中に浮遊していた。
 銀色のたてがみが風になびいているが、翼はない。鋭い鉤爪のついた手足は短く、四本ついている。
 その巨躯は、大人の掌ほどもある鱗に空の色を映しとり、複雑に輝いていた。

 は、白龍だ‼︎

 ラウルは恐怖で全身を貫かれて動けないのに、その生き物の圧倒的な美しさに唖然と見惚れた。
 神龍の加護を受けた五大国の王族と言いながら、ラウルは故国の黒龍を一度も見たことがなかった。
 というか、今現存する王家の誰も、本物の龍を見たことがないのではないだろうか。150年ほど前まで頻繁に降臨したらしいが、今は神殿の地底深くで眠っていると言われている。
 だがラウルは、神龍を戴くなどと尤もらしい神話を捏造し、なぜか一族だけやたらと頑健な特異体質を利用して、王族の権威を誇っていただけだと思っていた。つまり、ただのおとぎ話の伝説だと。
 だが、今、ラウルが見ているこの光景は、あの伝説は本物だといっているのだ。

「本当に存在したのか……」

 枝分かれした頭部の銀のツノに捕まり白龍に跨った、見慣れない銀髪に灰色の瞳の女王が言った。

「なんだ、王族なのに龍を見るのは初めてか? 黒龍はどうしているのだ?」
「神殿の地底深くで眠っていると聞いたことがあるが、そもそも俺は、神殿すら子供の頃以来行ったことがない」
「あはは、神龍なのにひどいな。でもラウルはシンには会ったことがあるんだがな」
「え……?」
「ふふ、まぁ、覚えておらんか。私もずっと忘れていた」
「ケリー……」
「ララだ。本当の名前は、ララ・フォーサイス・シン。ケリーは偽名なんだ。すまない。もっと早く迎えに行くつもりだったんだが、なんだかんだと時間がかかってしまった」
「ララ……」
「さぁ……」

 ララが手を差し出した。
 ラウルは吸い寄せられるように、ララが差し出した手をしっかり掴んで窓枠を超えた。
 そして、思い切って白龍のうなじの辺りに足を乗せた。それぐらいではビクともしない白龍の硬い鱗は、よく見ると複雑な色合いに輝いている。
 ララはラウルがしっかり白龍に跨ったのを確認すると、白龍の首筋をポンポンと叩いてその耳に囁いた。

「シン、このまままっすぐ上に向かって駆け上がり、空の色に紛れろ」
「ララ……」
「うん?」

 銀髪をなびかせ、灰色の目を細めてララが微笑んだ。

「どこへ行く?」
「100年以上身を隠している黒龍に会いに行く」
「なんだって──?」
「今夜の宴までにはまだ時間がある! シン、行け!」

 白龍が首をもたげ、まっすぐ空に向かってすごいスピードで駆け上がった。
 その様子を遠くから見れば、晴れた空に一閃の稲妻が奔ったように見えただろう。
 そしてそれはまもなく、空に溶けて見えなくなった──


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