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36.黒幕
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体が重い。酷く億劫な気分だった。
崚介はぼんやりとかすみがかかったような頭を必死に動かした。体も動かそうとしたが、手足が命令を聞かない。
なんとか瞼を持ち上げて周囲を見ると、周囲は暗かった。上から光が差し込んでいて、崚介はそこに横たわっているらしい。体に触れる硬い感触はコンクリートだろうか。目が慣れず周囲の様子がわからない。
「気分はどうだい?」
暗闇の中から声がした。音が反響してどの方向からしたのかはっきりとはわからなかった。どうやら広い倉庫のような空間であると察する。
「最悪だ」
崚介は悪態をついた。体が動かせないだけじゃなく、呂律が怪しい。なんとか目だけを動かして声の主を探すと、足音が近づいてきた。その人物は光のすぐ外側で足を止めたが、十分に顔が見えた。まるで崚介を虫けらでも見るような目で見下す男の顔が。
「ああ、やっぱりあんたか」
鈍く浮かび上がった男の顔に、舌打ちが漏れそうになる。余裕ぶって口元に笑みを浮かべながら、崚介は挑発するように下から男をねめつけた。
「ジョン・パターソン所長。いや、初めましてと言っておこうか。――レヴィアタン?」
「……君を侮っていたよ。コールマン『捜査官』」
崚介は悟った。やはり素性がばれている。ということは沙羅の居場所も知れてしまったのかもしれない。彼女は無事なのか。
「ここはどこだ? 居心地がいいとは言えないな」
「まさか私の正体に気づくとは。私はなにを失敗したのかな?」
崚介が拉致されたのは、ワシントンD.C.からニューヨークに戻る途中だった。崚介は相原弁護士を訪れたことで、ある推測を確信に変えた。沙羅にも話せていなかった推測。ジョン・パターソンがナーヴェのボス、レヴィアタンだという疑い。
「敢えて言うなら、俺を殺そうとしたことだ」
「ほう?」
「俺たちが研究所を訪れたあの日の狙撃事件、狙われたのは沙羅じゃない。俺だろ」
ジョンは顔色を変えない。否定しないということは肯定。崚介は拳を握りしめた。――つもりだったが、手が上手く動かない。
狙撃事件の際の惨状を沙羅は自分のせいだと落ち込んでいたし、崚介もそうだと信じて疑わなかった。まさか狙いが自分で、そのために民間人や優しい彼女の心を傷つけただなんて。目的は沙羅の誘拐だっただろう。それでも崚介がいなければ、あるいは沙羅を連れて行かなければ、あんな事件に発展することはなかった。
「あんたは沙羅の側にいる俺が邪魔だったんだ。麻薬ブローカーのリチャードのことを、レヴィアタンが知っていたとは思えないし、俺が捜査官だってことも知らないはずだ。それなのに研究所の帰りに狙われた。あんたの指示なら辻褄が合う。四年前に社屋が建て替えられたというのも時期が合いすぎるな。それに研究所から早坂さおりの研究資料が中途半端に盗まれたのに、今まで気付かなかったというのも不自然だった。私設研究所なんだから、あんたが第一容疑者になるのは当然だろう?」
「なるほど。素晴らしい推理だ」
「なんでザックを殺した」
「あれは勝手をし過ぎた。昔は私の忠実な犬だったが、私を出し抜こうとしていた。サラがアメリカにいることを、私はあの夜まで知らなかったんだ。サオリを死なせただけでなく、サラを手籠めにしようとするとは。あんなクズ、生かしておく価値などない。サラのことはあのとき保護するつもりだったのに、彼女は逃げ出してしまったんだ。可哀そうに。どんな酷い目に遭わされたのかと思うとザックを百回殺してやりたくなったよ。研究所で再会したときは無事な姿を見られて本当に嬉しかった。サオリに生き写しの美しい女性になっていたんだから。だがその隣には君がいた。その下品な手でサラに触れる君を、あの場で撃ち殺してやりたくなったよ」
崚介は察した。これは男の嫉妬だ。
「あんた沙羅に……いや、早坂さおりに惚れてたのか」
「そんな軽い言葉を使わないでくれ。私はサオリを愛していた。サオリもまた私を愛していた。出逢ったとき彼女はすでに結婚していたが、出逢うのが遅かっただけだ」
まさか早坂さおりと不倫関係だったとでもいうのか。
「なのにアキラがサオリと私を引き離そうとした。だから邪魔者を排除しようとしたのに、サオリがアキラの子を身籠ったというから、手元が狂ってしまった」
崚介は目を見開いた。沙羅の両親を殺したのはザックだと考えていた。だがザックはかつてジョンの忠実な犬だったとジョン自身が言ったばかりだ。ということはまさか。
「あんたが早坂夫妻を殺させたのか」
いや、先ほどこの男はなんと言った。「手元が狂った」?
「あんたが実行犯、なのか」
ジョンは口元を歪めた。それは、肯定。
「愛する女性は自分の手で救い出さねば。それが男というものだろう?」
「愛していたというなら、何故さおりまで殺した」
「アキラのせいだ。私はアキラを殺し、サオリとサラを救い出すつもりだった」
あの日は雨だった――と、ジョンは何故だか愛おしげに語り出した。
◇ ◇ ◇
その日は酷い雷雨だった。夕方だというのに夜のように暗く、郊外の住宅地には人影どころかあまり車も走っていなかった。
目的の家にたどり着く。車から玄関までの間だけでずぶ濡れになってしまった。玄関のブザーを鳴らす。雷雨の音にかき消されて聞こえないのか、家人はなかなか出てこなかった。男は焦れたよう玄関ドアを叩いた。
ドアを壊してしまおうか。そんなことを考え始めたとき、ようやく扉が開いた。小柄な日本人女性が姿を見せる。彼女は慌てた様子で出てきて、何かを言いかけた。日本語だったと思う。けれど男の姿を見て驚いたように目を見開いた。
「ジョン⁉」
予想した人物ではなかった。いかにもそんな様子で、彼女は夫が帰宅したと思ったのだろうか。それはジョンの嫉妬心と正義感を煽った。そんな心情をおくびにも出さず、ジョンは笑みを作る。
「やあ、サオリ」
「ど……うしたんだ、急に。ずぶ濡れじゃないか」
「ちょっと中で話してもいいかな?」
「それが、あんまり時間がないんだ。手短に済ませてもらえるかな?」
迷惑そうな彼女の様子に、ジョンは苛立ちを募らせる。
「何かあったのか?」
「ええと、沙羅が熱を出して、晃が病院に連れて行ったんだ。私もすぐ行かないと」
「そうか、それは心配だね。サラは今病院かい?」
「そうだよ。今この家は私一人だ」
やや強引にドアの内側に入ると、さおりは家の奥からタオルを持ってきてジョンに渡した。
「それで、用って?」
「サオリ。私は君を愛している」
単刀直入かつ簡潔に伝えると、さおりはジョンの予想に反して表情を険しくした。
「ジョン、なにを」
望んだ反応ではなかったが、彼女は世間的には既婚者だ。それも仕方のないことかもしれない。ならば自分が口実になってやらねばと思った。
「アキラは君を私の元から奪い去るつもりなんだろう?」
「なんの話だ? 私はジョンのものじゃない」
「私のものだ。君を愛している!」
さおりはまるで恐ろしいものでも見るかのように後ずさった。夫に遠慮しているのだろう。そんなものから守ってやるというのに。さおりは本当のジョンの力を知らない。東洋人のしがない研究助手の男など、どうとでもできる。
「私は晃の妻だ」
「それでも、サラは私の娘だろう」
「なっ……違う!」
「隠さなくていい。君だって覚えているだろう。あの夜のことを」
かつて一度だけ、ジョンはさおりと愛し合った。彼女はその直後「早めに」と産休に入ったのだ。
「あれは研究が起こした不幸な事故だった。あのことと沙羅は関係ない!」
「隠さなくていい。君とアキラの間に肉体関係はないんだろう?」
「ジョン、それは夫婦の話だ。君が立ち入る問題じゃない」
「私だって関係者だ。君を愛しているし、私はサラの父親だ」
「違うと言っているだろう。それに私は晃を愛している」
「もう嘘をつかなくていいんだ、サオリ」
ジョンはさおりの腕を掴んだ。
「嘘じゃな……んっ」
彼女を抱き寄せて、素直じゃない口を塞ぐ。夢にまでみた彼女の唇は、ジョンの理性を簡単に奪った。そのまま彼女の細い体の感触を味わう。砂漠で乾いた旅人がやっと一滴の水を口にできたような感覚だった。いつの間にかさおりの腰がキッチンカウンターにあたる。そのまま押し倒し、ジョンと彼女を隔てる邪魔なブラウスを引きちぎった。
「やめて、やめて!」
さおりの抵抗に、キッチンカウンターにあった食器が床に落ちた。陶器の割れる音が家中に響く。その一つが足に当たり、ジョンは痛みでついさおりを放してしまった。すかさずさおりが距離を取る。
「やめてジョン! 私は晃の妻だ。彼を愛してる!」
さおりが叫ぶ。唇が切れて血の味がした。ここまで来て仮初の夫に操を立てる必要がどこにあるというのだろう。ジョンは苛立ちをそのまま声に乗せた。
「そんなことはあり得ないだろう! 君は私を愛しているはずなんだ!」
「違う。私は、確かに晃を裏切ったことがある。けれど今は……」
さおりは後悔の表情を浮かべ、身を護るように己を抱え込んだ。少々急ぎ過ぎたかもしれない。ジョンは怒鳴ってしまったことを恥じた。冷静であれと自分に言い聞かせ、笑みを浮かべる。
「サオリ? 何故腹部を押さえているんだい? どこかぶつけてしまったかな」
「さおりさん! ――――」
割り込んだ声は日本語で、何を言ったのかわからなかった。けれどさおりを呼ぶ晃の声だということはわかった。彼女がここには先ほどいないと言ったはずの、彼女の夫。なぜだ。なぜさおりは嘘をついた。
晃は階段から降りてくるところだった。ジョンの姿を認めると、まるで幽霊でも見たように驚愕をそののっぺりとした顔に浮かべた。三十代だというが、どう見てもティーンエイジャーにしか見えない。この男がジョンは大嫌いだった。この程度の男が、形だけとはいえさおりの夫だなどと。
「パターソン所長⁉ さおりさんから離れてください!」
「晃、来るな!」
「どういうことだサオリ。アキラとサラはここにいないと……嘘か。私に嘘をついたのか、君が⁉」
「裏組織のボスに愛する家族を会わせるほど、私はお人好しじゃない」
ジョンは目を見開いた。さおりはそれを知っていたのか。知っていて、ジョンを拒絶するのか。まさか本当に、心から。
晃が近づいてくる。ジョンは咄嗟にさおりを羽交い絞めにし、持っていた銃を取り出した。
「さおりさん!」
「動くな。動けば撃つ」
銃口をさおりに向け、ジョンは冷淡に警告した。さおりを撃つつもりなど塵ほどもなかったが、晃をけん制するには十分だった。
だがさおりは違った。ジョンに拘束されながら叫ぶ。
「晃。私はいいから、このまま相原弁護士に合流して。沙羅は彼の元にいる。兄さんに頼れば、日本の警察が保護してくれる!」
それはさおりがついた咄嗟の嘘だった。そのとき沙羅は二階の自室にいたのだから。家の中にいる沙羅を探させないための嘘だとジョンが知るのは、ずっと後になってからだった。
「パターソン所長。妻を放してください。彼女は優秀な科学者だ。彼女の研究の価値は誰よりもあなたが知っている。彼女を傷つけるのは本位ではないでしょう」
「当然だ。私はお前を殺しに来たのだから。彼女たちをお前から救い出すためにね」
「わかりました。逃げませんから、銃口を彼女から外してください」
「晃、駄目だ!」
「さおりさん。あなたと沙羅以上に大事なものなんて、僕にはありませんよ」
「殊勝な心掛けだ。ああそうだ。いいことを思いついた。サオリ。君の手で彼を殺すといい」
「え……?」
さおりと晃の声が重なる。ジョンは名案を愛する女性に語った。
「君は優しい。だから十年もの間君の夫役を務めたアキラへ、多少なりとも情が生まれたんだろう。それを断ち切るんだ。なに、替え玉は用意するよ。捕まることも刑務所に入ることもないし、君は君の素晴らしい研究を諦めなくていい。もちろんサラも引き取ろう。大切な私の娘だ」
「パターソン所長? 何を言って」
男は愚かにも意味がわかっていないようだった。ジョンは勝ち誇ったように宣言した。
「サラは私の娘だ。君なんかの卑しい血なんて流れちゃいない」
少しだけ驚いたように晃は目を見開いた。だが意外にもその動揺は長くは続かず、諦めたように小さく笑みを零した。
「たしかに沙羅は、僕の娘じゃない」
案外素直に認めるものだと思ったが、そういえば肉体関係がないのだから、知っていて当然のことだった。
ジョンはさおりに自らの銃を握らせた。そのまま後ろから構えさせ、撃ち方を教えてやる。
「やめてジョン。晃、逃げて……」
さおりの声が震える。晃は物分かりよく微笑んだ。
「いいんですさおりさん。あなたは生きなくては。沙羅のためにも」
引き際はわきまえているということか。気をよくしたジョンは、最後の決断をさおりにさせようと手を離した。
のんびり鑑賞しようと思ったそのとき、さおりはその銃口をジョンへ向けた。
「サオリ、なんの真似だ」
「沙羅はあなたなんかの娘じゃない。私は沙羅のことも晃のことも愛してる。それに、この子のことも」
そう言ってさおりは片手を腹部にあてた。
「この子……? っまさか」
ジョンは察した。さおりがずっと腹部を庇っていたわけを。そして顔色を変えた晃を見て確信した。今度こそその子の父親は。
「駄目です、さおりさん。挑発しちゃ――」
「あなたに屈して愛する人を殺すくらいなら、私は家族を守って殺人者になっ……」
ジョンは隠し持っていた銃でさおりを撃った。脳内が沸騰したように熱い。考えるよりも早く手が動いていた。
「――さおりさん‼」
銃弾はさおりの腹部を貫通した。卑しい男の子を宿した腹など、壊れてしまえばいい。
色を失った声が響く。晃はそのままさおりに駆け寄ろうとした。そんなことはさせない。二発目は晃の太ももに命中した。無様に倒れこみ、耳障りな声を上げる。心臓や頭を狙わなかったのは、苦しめるためだった。
「さおりさん、だめだ、しっかりしてください!」
「あきら、ごめ……私、あな、たの子……産みたかっ」
二人が手を伸ばし合う。それが触れ合う前に三度銃声が響く。さおりの最期の言葉は、銃声に阻まれて晃には届かなかった。晃の顔が絶望に染まる。それはジョンの心を少しも慰めはしなかった。苛立ち、四発目を伏した晃の背に撃ち込んだ。そのまま感情に任せ、銃弾を撃ち切るまで引き金を引いた。シリンダーが空になり引き金がカチカチと無意味な音を立てるころには、晃だけでなくさおりまで、すでにこと切れていた。
◇ ◇ ◇
崚介はぼんやりとかすみがかかったような頭を必死に動かした。体も動かそうとしたが、手足が命令を聞かない。
なんとか瞼を持ち上げて周囲を見ると、周囲は暗かった。上から光が差し込んでいて、崚介はそこに横たわっているらしい。体に触れる硬い感触はコンクリートだろうか。目が慣れず周囲の様子がわからない。
「気分はどうだい?」
暗闇の中から声がした。音が反響してどの方向からしたのかはっきりとはわからなかった。どうやら広い倉庫のような空間であると察する。
「最悪だ」
崚介は悪態をついた。体が動かせないだけじゃなく、呂律が怪しい。なんとか目だけを動かして声の主を探すと、足音が近づいてきた。その人物は光のすぐ外側で足を止めたが、十分に顔が見えた。まるで崚介を虫けらでも見るような目で見下す男の顔が。
「ああ、やっぱりあんたか」
鈍く浮かび上がった男の顔に、舌打ちが漏れそうになる。余裕ぶって口元に笑みを浮かべながら、崚介は挑発するように下から男をねめつけた。
「ジョン・パターソン所長。いや、初めましてと言っておこうか。――レヴィアタン?」
「……君を侮っていたよ。コールマン『捜査官』」
崚介は悟った。やはり素性がばれている。ということは沙羅の居場所も知れてしまったのかもしれない。彼女は無事なのか。
「ここはどこだ? 居心地がいいとは言えないな」
「まさか私の正体に気づくとは。私はなにを失敗したのかな?」
崚介が拉致されたのは、ワシントンD.C.からニューヨークに戻る途中だった。崚介は相原弁護士を訪れたことで、ある推測を確信に変えた。沙羅にも話せていなかった推測。ジョン・パターソンがナーヴェのボス、レヴィアタンだという疑い。
「敢えて言うなら、俺を殺そうとしたことだ」
「ほう?」
「俺たちが研究所を訪れたあの日の狙撃事件、狙われたのは沙羅じゃない。俺だろ」
ジョンは顔色を変えない。否定しないということは肯定。崚介は拳を握りしめた。――つもりだったが、手が上手く動かない。
狙撃事件の際の惨状を沙羅は自分のせいだと落ち込んでいたし、崚介もそうだと信じて疑わなかった。まさか狙いが自分で、そのために民間人や優しい彼女の心を傷つけただなんて。目的は沙羅の誘拐だっただろう。それでも崚介がいなければ、あるいは沙羅を連れて行かなければ、あんな事件に発展することはなかった。
「あんたは沙羅の側にいる俺が邪魔だったんだ。麻薬ブローカーのリチャードのことを、レヴィアタンが知っていたとは思えないし、俺が捜査官だってことも知らないはずだ。それなのに研究所の帰りに狙われた。あんたの指示なら辻褄が合う。四年前に社屋が建て替えられたというのも時期が合いすぎるな。それに研究所から早坂さおりの研究資料が中途半端に盗まれたのに、今まで気付かなかったというのも不自然だった。私設研究所なんだから、あんたが第一容疑者になるのは当然だろう?」
「なるほど。素晴らしい推理だ」
「なんでザックを殺した」
「あれは勝手をし過ぎた。昔は私の忠実な犬だったが、私を出し抜こうとしていた。サラがアメリカにいることを、私はあの夜まで知らなかったんだ。サオリを死なせただけでなく、サラを手籠めにしようとするとは。あんなクズ、生かしておく価値などない。サラのことはあのとき保護するつもりだったのに、彼女は逃げ出してしまったんだ。可哀そうに。どんな酷い目に遭わされたのかと思うとザックを百回殺してやりたくなったよ。研究所で再会したときは無事な姿を見られて本当に嬉しかった。サオリに生き写しの美しい女性になっていたんだから。だがその隣には君がいた。その下品な手でサラに触れる君を、あの場で撃ち殺してやりたくなったよ」
崚介は察した。これは男の嫉妬だ。
「あんた沙羅に……いや、早坂さおりに惚れてたのか」
「そんな軽い言葉を使わないでくれ。私はサオリを愛していた。サオリもまた私を愛していた。出逢ったとき彼女はすでに結婚していたが、出逢うのが遅かっただけだ」
まさか早坂さおりと不倫関係だったとでもいうのか。
「なのにアキラがサオリと私を引き離そうとした。だから邪魔者を排除しようとしたのに、サオリがアキラの子を身籠ったというから、手元が狂ってしまった」
崚介は目を見開いた。沙羅の両親を殺したのはザックだと考えていた。だがザックはかつてジョンの忠実な犬だったとジョン自身が言ったばかりだ。ということはまさか。
「あんたが早坂夫妻を殺させたのか」
いや、先ほどこの男はなんと言った。「手元が狂った」?
「あんたが実行犯、なのか」
ジョンは口元を歪めた。それは、肯定。
「愛する女性は自分の手で救い出さねば。それが男というものだろう?」
「愛していたというなら、何故さおりまで殺した」
「アキラのせいだ。私はアキラを殺し、サオリとサラを救い出すつもりだった」
あの日は雨だった――と、ジョンは何故だか愛おしげに語り出した。
◇ ◇ ◇
その日は酷い雷雨だった。夕方だというのに夜のように暗く、郊外の住宅地には人影どころかあまり車も走っていなかった。
目的の家にたどり着く。車から玄関までの間だけでずぶ濡れになってしまった。玄関のブザーを鳴らす。雷雨の音にかき消されて聞こえないのか、家人はなかなか出てこなかった。男は焦れたよう玄関ドアを叩いた。
ドアを壊してしまおうか。そんなことを考え始めたとき、ようやく扉が開いた。小柄な日本人女性が姿を見せる。彼女は慌てた様子で出てきて、何かを言いかけた。日本語だったと思う。けれど男の姿を見て驚いたように目を見開いた。
「ジョン⁉」
予想した人物ではなかった。いかにもそんな様子で、彼女は夫が帰宅したと思ったのだろうか。それはジョンの嫉妬心と正義感を煽った。そんな心情をおくびにも出さず、ジョンは笑みを作る。
「やあ、サオリ」
「ど……うしたんだ、急に。ずぶ濡れじゃないか」
「ちょっと中で話してもいいかな?」
「それが、あんまり時間がないんだ。手短に済ませてもらえるかな?」
迷惑そうな彼女の様子に、ジョンは苛立ちを募らせる。
「何かあったのか?」
「ええと、沙羅が熱を出して、晃が病院に連れて行ったんだ。私もすぐ行かないと」
「そうか、それは心配だね。サラは今病院かい?」
「そうだよ。今この家は私一人だ」
やや強引にドアの内側に入ると、さおりは家の奥からタオルを持ってきてジョンに渡した。
「それで、用って?」
「サオリ。私は君を愛している」
単刀直入かつ簡潔に伝えると、さおりはジョンの予想に反して表情を険しくした。
「ジョン、なにを」
望んだ反応ではなかったが、彼女は世間的には既婚者だ。それも仕方のないことかもしれない。ならば自分が口実になってやらねばと思った。
「アキラは君を私の元から奪い去るつもりなんだろう?」
「なんの話だ? 私はジョンのものじゃない」
「私のものだ。君を愛している!」
さおりはまるで恐ろしいものでも見るかのように後ずさった。夫に遠慮しているのだろう。そんなものから守ってやるというのに。さおりは本当のジョンの力を知らない。東洋人のしがない研究助手の男など、どうとでもできる。
「私は晃の妻だ」
「それでも、サラは私の娘だろう」
「なっ……違う!」
「隠さなくていい。君だって覚えているだろう。あの夜のことを」
かつて一度だけ、ジョンはさおりと愛し合った。彼女はその直後「早めに」と産休に入ったのだ。
「あれは研究が起こした不幸な事故だった。あのことと沙羅は関係ない!」
「隠さなくていい。君とアキラの間に肉体関係はないんだろう?」
「ジョン、それは夫婦の話だ。君が立ち入る問題じゃない」
「私だって関係者だ。君を愛しているし、私はサラの父親だ」
「違うと言っているだろう。それに私は晃を愛している」
「もう嘘をつかなくていいんだ、サオリ」
ジョンはさおりの腕を掴んだ。
「嘘じゃな……んっ」
彼女を抱き寄せて、素直じゃない口を塞ぐ。夢にまでみた彼女の唇は、ジョンの理性を簡単に奪った。そのまま彼女の細い体の感触を味わう。砂漠で乾いた旅人がやっと一滴の水を口にできたような感覚だった。いつの間にかさおりの腰がキッチンカウンターにあたる。そのまま押し倒し、ジョンと彼女を隔てる邪魔なブラウスを引きちぎった。
「やめて、やめて!」
さおりの抵抗に、キッチンカウンターにあった食器が床に落ちた。陶器の割れる音が家中に響く。その一つが足に当たり、ジョンは痛みでついさおりを放してしまった。すかさずさおりが距離を取る。
「やめてジョン! 私は晃の妻だ。彼を愛してる!」
さおりが叫ぶ。唇が切れて血の味がした。ここまで来て仮初の夫に操を立てる必要がどこにあるというのだろう。ジョンは苛立ちをそのまま声に乗せた。
「そんなことはあり得ないだろう! 君は私を愛しているはずなんだ!」
「違う。私は、確かに晃を裏切ったことがある。けれど今は……」
さおりは後悔の表情を浮かべ、身を護るように己を抱え込んだ。少々急ぎ過ぎたかもしれない。ジョンは怒鳴ってしまったことを恥じた。冷静であれと自分に言い聞かせ、笑みを浮かべる。
「サオリ? 何故腹部を押さえているんだい? どこかぶつけてしまったかな」
「さおりさん! ――――」
割り込んだ声は日本語で、何を言ったのかわからなかった。けれどさおりを呼ぶ晃の声だということはわかった。彼女がここには先ほどいないと言ったはずの、彼女の夫。なぜだ。なぜさおりは嘘をついた。
晃は階段から降りてくるところだった。ジョンの姿を認めると、まるで幽霊でも見たように驚愕をそののっぺりとした顔に浮かべた。三十代だというが、どう見てもティーンエイジャーにしか見えない。この男がジョンは大嫌いだった。この程度の男が、形だけとはいえさおりの夫だなどと。
「パターソン所長⁉ さおりさんから離れてください!」
「晃、来るな!」
「どういうことだサオリ。アキラとサラはここにいないと……嘘か。私に嘘をついたのか、君が⁉」
「裏組織のボスに愛する家族を会わせるほど、私はお人好しじゃない」
ジョンは目を見開いた。さおりはそれを知っていたのか。知っていて、ジョンを拒絶するのか。まさか本当に、心から。
晃が近づいてくる。ジョンは咄嗟にさおりを羽交い絞めにし、持っていた銃を取り出した。
「さおりさん!」
「動くな。動けば撃つ」
銃口をさおりに向け、ジョンは冷淡に警告した。さおりを撃つつもりなど塵ほどもなかったが、晃をけん制するには十分だった。
だがさおりは違った。ジョンに拘束されながら叫ぶ。
「晃。私はいいから、このまま相原弁護士に合流して。沙羅は彼の元にいる。兄さんに頼れば、日本の警察が保護してくれる!」
それはさおりがついた咄嗟の嘘だった。そのとき沙羅は二階の自室にいたのだから。家の中にいる沙羅を探させないための嘘だとジョンが知るのは、ずっと後になってからだった。
「パターソン所長。妻を放してください。彼女は優秀な科学者だ。彼女の研究の価値は誰よりもあなたが知っている。彼女を傷つけるのは本位ではないでしょう」
「当然だ。私はお前を殺しに来たのだから。彼女たちをお前から救い出すためにね」
「わかりました。逃げませんから、銃口を彼女から外してください」
「晃、駄目だ!」
「さおりさん。あなたと沙羅以上に大事なものなんて、僕にはありませんよ」
「殊勝な心掛けだ。ああそうだ。いいことを思いついた。サオリ。君の手で彼を殺すといい」
「え……?」
さおりと晃の声が重なる。ジョンは名案を愛する女性に語った。
「君は優しい。だから十年もの間君の夫役を務めたアキラへ、多少なりとも情が生まれたんだろう。それを断ち切るんだ。なに、替え玉は用意するよ。捕まることも刑務所に入ることもないし、君は君の素晴らしい研究を諦めなくていい。もちろんサラも引き取ろう。大切な私の娘だ」
「パターソン所長? 何を言って」
男は愚かにも意味がわかっていないようだった。ジョンは勝ち誇ったように宣言した。
「サラは私の娘だ。君なんかの卑しい血なんて流れちゃいない」
少しだけ驚いたように晃は目を見開いた。だが意外にもその動揺は長くは続かず、諦めたように小さく笑みを零した。
「たしかに沙羅は、僕の娘じゃない」
案外素直に認めるものだと思ったが、そういえば肉体関係がないのだから、知っていて当然のことだった。
ジョンはさおりに自らの銃を握らせた。そのまま後ろから構えさせ、撃ち方を教えてやる。
「やめてジョン。晃、逃げて……」
さおりの声が震える。晃は物分かりよく微笑んだ。
「いいんですさおりさん。あなたは生きなくては。沙羅のためにも」
引き際はわきまえているということか。気をよくしたジョンは、最後の決断をさおりにさせようと手を離した。
のんびり鑑賞しようと思ったそのとき、さおりはその銃口をジョンへ向けた。
「サオリ、なんの真似だ」
「沙羅はあなたなんかの娘じゃない。私は沙羅のことも晃のことも愛してる。それに、この子のことも」
そう言ってさおりは片手を腹部にあてた。
「この子……? っまさか」
ジョンは察した。さおりがずっと腹部を庇っていたわけを。そして顔色を変えた晃を見て確信した。今度こそその子の父親は。
「駄目です、さおりさん。挑発しちゃ――」
「あなたに屈して愛する人を殺すくらいなら、私は家族を守って殺人者になっ……」
ジョンは隠し持っていた銃でさおりを撃った。脳内が沸騰したように熱い。考えるよりも早く手が動いていた。
「――さおりさん‼」
銃弾はさおりの腹部を貫通した。卑しい男の子を宿した腹など、壊れてしまえばいい。
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「さおりさん、だめだ、しっかりしてください!」
「あきら、ごめ……私、あな、たの子……産みたかっ」
二人が手を伸ばし合う。それが触れ合う前に三度銃声が響く。さおりの最期の言葉は、銃声に阻まれて晃には届かなかった。晃の顔が絶望に染まる。それはジョンの心を少しも慰めはしなかった。苛立ち、四発目を伏した晃の背に撃ち込んだ。そのまま感情に任せ、銃弾を撃ち切るまで引き金を引いた。シリンダーが空になり引き金がカチカチと無意味な音を立てるころには、晃だけでなくさおりまで、すでにこと切れていた。
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