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35.疑惑
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沙羅はルイスを休憩室に誘った。
大して美味しくもないコーヒーを飲みながら、かつての同僚に話しかける。
「いつから捜査官に?」
「去年からだよ」
ルイスは誇らしげに答えた。彼が捜査官になりたがっていたのを沙羅も知っている。
「そうか、やっとだな。おめでとうと言いたいけれど、君ほどの科学者に言ってもいいのか」
「言ってよ。僕はずっと捜査官になりたかったんだから。マイクを説得するの大変だったんだぜ」
かつての上司の名が出て、沙羅は少し迷いながら尋ねた。
「マイクはどうしてる? 私が辞めた後、彼はどうなった」
真剣な表情の沙羅に、ルイスは呆れたようにため息をつく。
「彼を心配してるの? 彼にクビにされたも同然だったのに」
「彼は私のためを思ってそうしてくれたんだ。やり方が強引だったとは私も思うけれど」
マイクは差別や理不尽な命令はしない。それでも強引に沙羅をクビにしたのは、そうしないと沙羅が危険だと判断したからだ。当時は歯がゆい思いもしたけれど、今となっては感謝している。
「分かり合っちゃってまあ。コールマン捜査官が嫉妬するんじゃない?」
「崚介が? どうして?」
「僕が面白くないから」
「どういう意味だ?」
ルイスはそれには答えず、またため息をついた。
「当時はアスモデウスの捜査から外されたよ。あと一時的に減給くらいにはなったんじゃない?」
「そうか……」
「その後例のウイルスのパンデミックで、危険度の高い潜入捜査が一時中断されたんだ。アスモデウスの件も、それ以外もね。だから君が辞めなくても、この件はやっぱり今も捜査が続いてたと思うよ。起こらなかった過去の事象を検証してもしょうがないけどね」
裏社会で感染予防というのがどれほど対策されたものか。特に欧米では医療現場以外でマスクをつける習慣もなかったから、捜査員の危険は格段に上がってしまう。
ニューヨークではロックダウンが行われた。感染症に対する不安、予防のための規制、ロックダウンによる不自由さ。そんなストレスは、しばしば人を堕落へと導く。そうしてドラッグを求める者が増えるのだ。
「あのパンデミックでドラッグの流通やジャンキーが増加したから、表の捜査が忙しくなった。だからマイクもなんだかんだ忙しくしてたよ。そのときバンバン検挙率上げてたから、給料や待遇もすぐ戻ったんじゃないかな?」
ルイスの下手な慰めに、それでも救われた気持ちになる。マイクは沙羅のためにいろいろなことを飲み込んでくれた人だからだ。
「当時局全体で人手が足りなかった。それでやっと僕もクアンティコのアカデミーに行かせてもらった。まあ、結局パンデミックが落ち着くまで現場には出してもらえなかったけど」
捜査官としては新人のルイスを普段よりも危険な現場に放り込むことなどマイクは絶対にしない。妊娠した沙羅を即現場から外し、帰国させるような人だ。
「パンデミックも落ち着いてきて日常が戻って来たけど、アスモデウスの中毒死と思われる事件がまた起きてね。でも捜査は芳しくなかった。君が奪取したサンプルが一番の成果だったから、当時の担当だったマイクが返り咲いたってわけ。その分析をした僕もね」
五年前の沙羅の仕事が、少しでもマイクの立場を守ってくれたのだろうか。そうだと信じたい。
「ねえ、君の娘の父親がコールマン捜査官だってこと、DEAに話しても平気?」
急に話題を変えたルイスに少々戸惑いながら、沙羅は答えた。
「うーん、FBIや崚介に迷惑がかかるのは避けたいかな」
妊娠をきっかけに沙羅は捜査を中断することになった。プライベートなことだし沙羅の責任だが、沙羅の相手がFBI捜査官と知れるのは、DEAとFBIの関係を悪化させかねない。両者はライバル関係にあり、手柄の横取りだ管轄違いだのという諍いがたびたび起きているからだ。
「じゃあ『当時密かに付き合っていた日系人の恋人が相手で、ザックは違った』って報告なら平気かな?」
「それくらいなら平気だと思うけど……というか、DEAにはザックとは関係してないって報告はしてあったはずだが」
沙羅はもうDEAの職員ではない。今更そんな報告に意味があるのだろうか。
「そうなんだけどさ、ザックの件は口実で、君の娘の父親が日系人だったってことを印象付けたい。あの頃下世話な想像をする奴が多くてさぁ。マイクの左遷はそれも影響してたと思う」
「下世話って?」
「君の娘の父親がマイクなんじゃないかって」
「え」
寝耳に水とはこういうことだろうか。予想もしなかった内容に、理解が追いつかない。
「元々その手の噂があったんだよ。君たち妙に親密だったから」
「親密って、そんなまさか……あ」
「なに」
「噂の原因については心当たりがないわけではない、かも」
「え、なにさ」
「それはマイクのプライベートだから、私からはちょっと」
実はマイクは当時、朔人の恋人だった。マイクは同性愛者であることをオープンにしていないクローゼットゲイである。秘密を共有する者の空気感が、他者には親密そうに映ったのかもしれない。
朔人の恋人として顔を合わせたことがあったマイクと、上司としてDEAで再会したときには本当に驚いた。その後カムフラージュの意味もあって三人で食事をすることもあったし、沙羅と朔人はルームシェアしていたから、どうしてもマイクと職場以外で顔を合わせる機会は増えていったのだ。
「でも私とマイクはなにもないから」
共通の友人がいた、くらいは話してもいいのだろうか。だが当時沙羅はゲイの男性とルームシェアしていたこと自体は隠していなかった。吹聴するようなものでもないから気づく人は少ないだろうが、どこからマイクのセクシャリティがばれてしまうかわからない。アウティングは避けたい。
濁した沙羅を、ルイスは不満そうに見つめたがそれ以上の追及はしなかった。その様子や先ほどの言動から沙羅は「もしかして」と思ったが、それ以上は野暮な気がして口を噤む。
「まあ、そんな状況で君が急に妊娠して潜入捜査は中止、しかもほとんどマイクの独断でDEAをクビになって君は姿をくらませた。マイクが君を妊娠させたあげく、自分の保身のために君を日本へ追い返した、なんて信じがたいう噂が流れたんだ」
「馬鹿げた噂だ。信じる人がいたなんて」
「まったくだよ。でもマイクも君のためかなんなのか、いつも以上に無口になっちゃうもんだからさあ、噂が独り歩きしちゃったんだよね。なんで否定しないかな」
沙羅は手の中のカップに視線を落とした。
「それは、多分私や娘の名誉のためだ」
「どういうこと?」
「マイクには、相手がナーヴェの関係者であることは話した。彼もまたFBIの潜入捜査官だったことなんて知りもしなかったし、私が犯罪者の子を身籠ったことが知れるよりは、自分が泥をかぶろうとしてくれんだろう」
「マイクらしいけど、なんでそこまでするんだか」
多分朔人のためだ。朔人は沙羅を家族同然に大切にしてくれている。沙羅の帰国後に朔人はニューヨークで勤務していた病院を辞めて追いかけるように帰国した。沙羅の出産に備えるためだ。
朔人の帰国と同時に二人が別れてしまったと聞いたときは、本当に申し訳ない気持ちになった。
「マイクは、私と会ってくれるかな」
「そんな機会もあると思うよ。合同捜査だし――」
「サラ!」
慌てた様子でウィルが休憩室に駆け込んできた。
「どうしたんだ」
「ミスター・アイハラが遺体で見つかった」
「なっ……⁉」
「誰? アイハラって」
「私の両親の顧問弁護士だった日系人だ」
「ああ、リチャードが聞き込みに行ったって相手?」
相原氏の元に崚介が聞き込みに向かったのは昨日のことだ。
「崚介は⁉」
「連絡が取れない」
「そんな……捜索は⁉」
「もちろんしている」
その言葉は沙羅を少しも安心させなかった。手がかりについてはなにも言われなかったからだ。無事でいて欲しいと心の底から願った。
「ねえその捜索って、被害者としてなの?」
「ルイス? なにを言っているんだ」
「だっておかしいでしょ。D.C.の弁護士が亡くなってすぐにFBIに、それもニューヨーク支局に情報が入るなんて。テロでも起きたの? 違うよね」
FBIは州を跨る犯罪やテロなどの凶悪犯罪の捜査を行う。そうでなければ殺人事件はその州の警察が担当する。今回のケースであればコロンビア特別区首都警察の管轄の筈だ。
にもかかわらずFBIのニューヨーク支局にこんなにも早く情報が回ってきたということは。
「リチャード……コールマン捜査官の痕跡がなにか現場にあったってことだよね? FBIの捜査官だとすぐにわかるなにかが」
「防犯カメラと面会者リストの記録からリョウの名前がすぐ捜査線上に上がった」
「そんなの、聞き込みに行ったんだから当然じゃないか」
沙羅の言葉にルイスも頷く。だがウィルは頷いてくれなかった。
「犯行に使われたのはリョウの銃だ。線条痕が一致した」
神妙な面持ちで続けられた言葉に、沙羅は目を見開いた。
「え⁉」
「上はリョウを容疑者として手配した」
「馬鹿な!」
あり得ない。こんな推測は馬鹿げている。
頭に血が上った沙羅とは対照的に、ルイスが冷静に告げた。
「リチャードは六年に渡って組織に潜入してきた。寝返ったとしても不思議じゃあないよね」
沙羅はルイスを睨みつけた。
潜入捜査は過酷で孤独だ。沙羅とてそれを経験している。潜入先の思想に染まってしまう捜査官が過去にいたことは知っているし、同じ潜入捜査官として同情も抱いた。
だが崚介に限ってそれはあり得ない。沙羅は彼の公平さと正義感をよく知っている。
「ウィル。あなたは崚介のことを私よりもよく知っているはずだ。それなのになぜ⁉」
「サラ・カンザキ。君を日本から連れて来たのはリョウだ」
「あれは私が組織に見つかったから、だからFBIに協力して渡米したんじゃないか!」
「君が狙撃されたあの日、リョウはFBIへの帰還を引き延ばしてる」
「崚介が私を足止めしたと? だったら私を殺さない理由がないだろう」
「脅しだ。君は大事な情報源だった。万が一にも狙撃手が君を殺さないようにボディガードは必要だった」
「あり得ない! だって彼は」
「五年前のあの日、君をモノにするつもりだったとしたら?」
「は……?」
「リョウがザックではなくボス側の人間だったとしたら、アズモスのキーを握るかもしれない君をザックから遠ざける必要があった。だから君と寝たんじゃないのか。君の妊娠は予想外だったろうが、先日のザック襲撃事件だってリョウがボスに情報を流していたとすれば説明がつく。君とまたベッドを共にしたのだって、君の愛情を利用するために――」
「ウィル! ……自分が、何を言っているのかわかっているのか」
「ああ、わかってるさ。ミスター・アイハラは貸金庫の管理者だった。アズモスのコアの保管場所を知っていた可能性がある。リョウはそれを見つけ、彼を殺して奪い取った! もう君にもFBIにも用がないから、二重スパイが露見しても構わなくなったから!」
「あり得ない。全部状況証拠だろう!」
「リョウの部屋から、コカインと現金が見つかった」
「なんだって?」
「戸棚の奥、リョウが好きなバーボンの箱に」
「そんな」
そのバーボンの箱は沙羅も知っている。崚介の『とっておき』だ。二人で飲み干してしまったあと、崚介が未練がましく空き瓶と箱を取っておいていたものだった。空だからそれを飲もうとすることはないし、あれから開けていなかった。コカインなんていつ仕掛けられたのか。
それに崚介がD.C.に向かったのは昨日のことだ。家宅捜索が早すぎる。まさか疑いは以前からあったのか。沙羅を崚介の部屋に帰さなかったのも、このために。
「いつから疑っていた? もしかして私のことも?」
「あらゆる可能性を疑うのが私の仕事だ」
――気を付けて。
別れ際の言葉と、ほとんど触れもしない挨拶のキス。まだ娘を抱いてもらってもいないのに。
「崚介……っ」
胸元のカメオを握りしめて、無意識に呼んでいた。崚介が二重スパイだなんてあり得ない。連絡が取れないということは何かに巻き込まれているに違いないのに、助けにも行けない。
「それで、サラはどうなるのかな?」
ルイスが場違いな楽しそうな声で尋ねた。
「ここで彼女にこの話をしたのは、サラの疑いが晴れたから? それとも置いて行かれた愚かな女が、情報を渡すことを期待しているのかな」
「不躾な言い方をするな、バッカス捜査官。サラ・カンザキの疑いについては一旦保留だ。容疑者ではなく協力者として扱う。行動は、これまでより制限がかかるが」
「完全に疑いは晴れていないってことだね」
ウィルは否定も肯定もしなかった。
「サラ。君には娘がいる。リョウの娘だ。もしかしたら接触があるかもしれない」
「……わかった。方針が決まったら教えてくれ。囮でもなんでもやってやる。ただし娘を利用するのはやめて欲しい。あの子は四歳だ。悪だくみに加担するには早すぎる」
「ああ。大使館経由で監視はつけさせてもらうが、それは護衛の意味も兼ねている」
「助かるよ。ありがとう」
それについては心の底から礼を言った。父の茂は退官したとはいえ元警察官だし、実家の道場で教えているという点では現役だ。沙羅のアメリカでの仕事も知っているし、突然の沙羅の失踪について十分に警戒しているだろう。父を信頼しているが、それでも警戒しすぎることはない。
沙羅は「頭を切り替えろ」と自分に言い聞かせた。今は崚介を救い出すことを考えなくてはならない。二人で怜に会いに行くために。
大して美味しくもないコーヒーを飲みながら、かつての同僚に話しかける。
「いつから捜査官に?」
「去年からだよ」
ルイスは誇らしげに答えた。彼が捜査官になりたがっていたのを沙羅も知っている。
「そうか、やっとだな。おめでとうと言いたいけれど、君ほどの科学者に言ってもいいのか」
「言ってよ。僕はずっと捜査官になりたかったんだから。マイクを説得するの大変だったんだぜ」
かつての上司の名が出て、沙羅は少し迷いながら尋ねた。
「マイクはどうしてる? 私が辞めた後、彼はどうなった」
真剣な表情の沙羅に、ルイスは呆れたようにため息をつく。
「彼を心配してるの? 彼にクビにされたも同然だったのに」
「彼は私のためを思ってそうしてくれたんだ。やり方が強引だったとは私も思うけれど」
マイクは差別や理不尽な命令はしない。それでも強引に沙羅をクビにしたのは、そうしないと沙羅が危険だと判断したからだ。当時は歯がゆい思いもしたけれど、今となっては感謝している。
「分かり合っちゃってまあ。コールマン捜査官が嫉妬するんじゃない?」
「崚介が? どうして?」
「僕が面白くないから」
「どういう意味だ?」
ルイスはそれには答えず、またため息をついた。
「当時はアスモデウスの捜査から外されたよ。あと一時的に減給くらいにはなったんじゃない?」
「そうか……」
「その後例のウイルスのパンデミックで、危険度の高い潜入捜査が一時中断されたんだ。アスモデウスの件も、それ以外もね。だから君が辞めなくても、この件はやっぱり今も捜査が続いてたと思うよ。起こらなかった過去の事象を検証してもしょうがないけどね」
裏社会で感染予防というのがどれほど対策されたものか。特に欧米では医療現場以外でマスクをつける習慣もなかったから、捜査員の危険は格段に上がってしまう。
ニューヨークではロックダウンが行われた。感染症に対する不安、予防のための規制、ロックダウンによる不自由さ。そんなストレスは、しばしば人を堕落へと導く。そうしてドラッグを求める者が増えるのだ。
「あのパンデミックでドラッグの流通やジャンキーが増加したから、表の捜査が忙しくなった。だからマイクもなんだかんだ忙しくしてたよ。そのときバンバン検挙率上げてたから、給料や待遇もすぐ戻ったんじゃないかな?」
ルイスの下手な慰めに、それでも救われた気持ちになる。マイクは沙羅のためにいろいろなことを飲み込んでくれた人だからだ。
「当時局全体で人手が足りなかった。それでやっと僕もクアンティコのアカデミーに行かせてもらった。まあ、結局パンデミックが落ち着くまで現場には出してもらえなかったけど」
捜査官としては新人のルイスを普段よりも危険な現場に放り込むことなどマイクは絶対にしない。妊娠した沙羅を即現場から外し、帰国させるような人だ。
「パンデミックも落ち着いてきて日常が戻って来たけど、アスモデウスの中毒死と思われる事件がまた起きてね。でも捜査は芳しくなかった。君が奪取したサンプルが一番の成果だったから、当時の担当だったマイクが返り咲いたってわけ。その分析をした僕もね」
五年前の沙羅の仕事が、少しでもマイクの立場を守ってくれたのだろうか。そうだと信じたい。
「ねえ、君の娘の父親がコールマン捜査官だってこと、DEAに話しても平気?」
急に話題を変えたルイスに少々戸惑いながら、沙羅は答えた。
「うーん、FBIや崚介に迷惑がかかるのは避けたいかな」
妊娠をきっかけに沙羅は捜査を中断することになった。プライベートなことだし沙羅の責任だが、沙羅の相手がFBI捜査官と知れるのは、DEAとFBIの関係を悪化させかねない。両者はライバル関係にあり、手柄の横取りだ管轄違いだのという諍いがたびたび起きているからだ。
「じゃあ『当時密かに付き合っていた日系人の恋人が相手で、ザックは違った』って報告なら平気かな?」
「それくらいなら平気だと思うけど……というか、DEAにはザックとは関係してないって報告はしてあったはずだが」
沙羅はもうDEAの職員ではない。今更そんな報告に意味があるのだろうか。
「そうなんだけどさ、ザックの件は口実で、君の娘の父親が日系人だったってことを印象付けたい。あの頃下世話な想像をする奴が多くてさぁ。マイクの左遷はそれも影響してたと思う」
「下世話って?」
「君の娘の父親がマイクなんじゃないかって」
「え」
寝耳に水とはこういうことだろうか。予想もしなかった内容に、理解が追いつかない。
「元々その手の噂があったんだよ。君たち妙に親密だったから」
「親密って、そんなまさか……あ」
「なに」
「噂の原因については心当たりがないわけではない、かも」
「え、なにさ」
「それはマイクのプライベートだから、私からはちょっと」
実はマイクは当時、朔人の恋人だった。マイクは同性愛者であることをオープンにしていないクローゼットゲイである。秘密を共有する者の空気感が、他者には親密そうに映ったのかもしれない。
朔人の恋人として顔を合わせたことがあったマイクと、上司としてDEAで再会したときには本当に驚いた。その後カムフラージュの意味もあって三人で食事をすることもあったし、沙羅と朔人はルームシェアしていたから、どうしてもマイクと職場以外で顔を合わせる機会は増えていったのだ。
「でも私とマイクはなにもないから」
共通の友人がいた、くらいは話してもいいのだろうか。だが当時沙羅はゲイの男性とルームシェアしていたこと自体は隠していなかった。吹聴するようなものでもないから気づく人は少ないだろうが、どこからマイクのセクシャリティがばれてしまうかわからない。アウティングは避けたい。
濁した沙羅を、ルイスは不満そうに見つめたがそれ以上の追及はしなかった。その様子や先ほどの言動から沙羅は「もしかして」と思ったが、それ以上は野暮な気がして口を噤む。
「まあ、そんな状況で君が急に妊娠して潜入捜査は中止、しかもほとんどマイクの独断でDEAをクビになって君は姿をくらませた。マイクが君を妊娠させたあげく、自分の保身のために君を日本へ追い返した、なんて信じがたいう噂が流れたんだ」
「馬鹿げた噂だ。信じる人がいたなんて」
「まったくだよ。でもマイクも君のためかなんなのか、いつも以上に無口になっちゃうもんだからさあ、噂が独り歩きしちゃったんだよね。なんで否定しないかな」
沙羅は手の中のカップに視線を落とした。
「それは、多分私や娘の名誉のためだ」
「どういうこと?」
「マイクには、相手がナーヴェの関係者であることは話した。彼もまたFBIの潜入捜査官だったことなんて知りもしなかったし、私が犯罪者の子を身籠ったことが知れるよりは、自分が泥をかぶろうとしてくれんだろう」
「マイクらしいけど、なんでそこまでするんだか」
多分朔人のためだ。朔人は沙羅を家族同然に大切にしてくれている。沙羅の帰国後に朔人はニューヨークで勤務していた病院を辞めて追いかけるように帰国した。沙羅の出産に備えるためだ。
朔人の帰国と同時に二人が別れてしまったと聞いたときは、本当に申し訳ない気持ちになった。
「マイクは、私と会ってくれるかな」
「そんな機会もあると思うよ。合同捜査だし――」
「サラ!」
慌てた様子でウィルが休憩室に駆け込んできた。
「どうしたんだ」
「ミスター・アイハラが遺体で見つかった」
「なっ……⁉」
「誰? アイハラって」
「私の両親の顧問弁護士だった日系人だ」
「ああ、リチャードが聞き込みに行ったって相手?」
相原氏の元に崚介が聞き込みに向かったのは昨日のことだ。
「崚介は⁉」
「連絡が取れない」
「そんな……捜索は⁉」
「もちろんしている」
その言葉は沙羅を少しも安心させなかった。手がかりについてはなにも言われなかったからだ。無事でいて欲しいと心の底から願った。
「ねえその捜索って、被害者としてなの?」
「ルイス? なにを言っているんだ」
「だっておかしいでしょ。D.C.の弁護士が亡くなってすぐにFBIに、それもニューヨーク支局に情報が入るなんて。テロでも起きたの? 違うよね」
FBIは州を跨る犯罪やテロなどの凶悪犯罪の捜査を行う。そうでなければ殺人事件はその州の警察が担当する。今回のケースであればコロンビア特別区首都警察の管轄の筈だ。
にもかかわらずFBIのニューヨーク支局にこんなにも早く情報が回ってきたということは。
「リチャード……コールマン捜査官の痕跡がなにか現場にあったってことだよね? FBIの捜査官だとすぐにわかるなにかが」
「防犯カメラと面会者リストの記録からリョウの名前がすぐ捜査線上に上がった」
「そんなの、聞き込みに行ったんだから当然じゃないか」
沙羅の言葉にルイスも頷く。だがウィルは頷いてくれなかった。
「犯行に使われたのはリョウの銃だ。線条痕が一致した」
神妙な面持ちで続けられた言葉に、沙羅は目を見開いた。
「え⁉」
「上はリョウを容疑者として手配した」
「馬鹿な!」
あり得ない。こんな推測は馬鹿げている。
頭に血が上った沙羅とは対照的に、ルイスが冷静に告げた。
「リチャードは六年に渡って組織に潜入してきた。寝返ったとしても不思議じゃあないよね」
沙羅はルイスを睨みつけた。
潜入捜査は過酷で孤独だ。沙羅とてそれを経験している。潜入先の思想に染まってしまう捜査官が過去にいたことは知っているし、同じ潜入捜査官として同情も抱いた。
だが崚介に限ってそれはあり得ない。沙羅は彼の公平さと正義感をよく知っている。
「ウィル。あなたは崚介のことを私よりもよく知っているはずだ。それなのになぜ⁉」
「サラ・カンザキ。君を日本から連れて来たのはリョウだ」
「あれは私が組織に見つかったから、だからFBIに協力して渡米したんじゃないか!」
「君が狙撃されたあの日、リョウはFBIへの帰還を引き延ばしてる」
「崚介が私を足止めしたと? だったら私を殺さない理由がないだろう」
「脅しだ。君は大事な情報源だった。万が一にも狙撃手が君を殺さないようにボディガードは必要だった」
「あり得ない! だって彼は」
「五年前のあの日、君をモノにするつもりだったとしたら?」
「は……?」
「リョウがザックではなくボス側の人間だったとしたら、アズモスのキーを握るかもしれない君をザックから遠ざける必要があった。だから君と寝たんじゃないのか。君の妊娠は予想外だったろうが、先日のザック襲撃事件だってリョウがボスに情報を流していたとすれば説明がつく。君とまたベッドを共にしたのだって、君の愛情を利用するために――」
「ウィル! ……自分が、何を言っているのかわかっているのか」
「ああ、わかってるさ。ミスター・アイハラは貸金庫の管理者だった。アズモスのコアの保管場所を知っていた可能性がある。リョウはそれを見つけ、彼を殺して奪い取った! もう君にもFBIにも用がないから、二重スパイが露見しても構わなくなったから!」
「あり得ない。全部状況証拠だろう!」
「リョウの部屋から、コカインと現金が見つかった」
「なんだって?」
「戸棚の奥、リョウが好きなバーボンの箱に」
「そんな」
そのバーボンの箱は沙羅も知っている。崚介の『とっておき』だ。二人で飲み干してしまったあと、崚介が未練がましく空き瓶と箱を取っておいていたものだった。空だからそれを飲もうとすることはないし、あれから開けていなかった。コカインなんていつ仕掛けられたのか。
それに崚介がD.C.に向かったのは昨日のことだ。家宅捜索が早すぎる。まさか疑いは以前からあったのか。沙羅を崚介の部屋に帰さなかったのも、このために。
「いつから疑っていた? もしかして私のことも?」
「あらゆる可能性を疑うのが私の仕事だ」
――気を付けて。
別れ際の言葉と、ほとんど触れもしない挨拶のキス。まだ娘を抱いてもらってもいないのに。
「崚介……っ」
胸元のカメオを握りしめて、無意識に呼んでいた。崚介が二重スパイだなんてあり得ない。連絡が取れないということは何かに巻き込まれているに違いないのに、助けにも行けない。
「それで、サラはどうなるのかな?」
ルイスが場違いな楽しそうな声で尋ねた。
「ここで彼女にこの話をしたのは、サラの疑いが晴れたから? それとも置いて行かれた愚かな女が、情報を渡すことを期待しているのかな」
「不躾な言い方をするな、バッカス捜査官。サラ・カンザキの疑いについては一旦保留だ。容疑者ではなく協力者として扱う。行動は、これまでより制限がかかるが」
「完全に疑いは晴れていないってことだね」
ウィルは否定も肯定もしなかった。
「サラ。君には娘がいる。リョウの娘だ。もしかしたら接触があるかもしれない」
「……わかった。方針が決まったら教えてくれ。囮でもなんでもやってやる。ただし娘を利用するのはやめて欲しい。あの子は四歳だ。悪だくみに加担するには早すぎる」
「ああ。大使館経由で監視はつけさせてもらうが、それは護衛の意味も兼ねている」
「助かるよ。ありがとう」
それについては心の底から礼を言った。父の茂は退官したとはいえ元警察官だし、実家の道場で教えているという点では現役だ。沙羅のアメリカでの仕事も知っているし、突然の沙羅の失踪について十分に警戒しているだろう。父を信頼しているが、それでも警戒しすぎることはない。
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