アスモデウスの悪戯

ミナト碧依

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37.悪魔の救済

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 十九年前の惨劇を、崚介りょうすけは目を見開いて聞いていた。あの日沙羅さらは二階にいたはずだ。銃声に気づかなかったはずはない。だとしたら十歳だった彼女は銃声に怯え、必死で息を殺して部屋に潜んでいたのではないか。前後の記憶がないと言っていたが、両親が殺される音をずっと聞いていたのではないか。そのせいで記憶を。
 崚介は悔しさを押し殺して一つの疑問を尋ねた。
「どういうことだ。沙羅が早坂はやさかあきらの娘じゃないって」
「三十年前、私たちは確かに愛し合った」
 まさか本当に不倫関係だったのか。
「だが世間的にはアキラの妻だったサオリはそれを気に病んだ。そして妊娠し、私を避けるように産休に入ったんだ。私は彼女の意思を尊重し、一度は身を引こうとした。私にも妻がいたしね。けれどサオリへの愛を忘れることができなかった。妻が死に、サオリとサラを迎えに行くことにしたんだ。しかしアキラのせいでサオリが死んでしまった。待機させていたザックに命じたが、サオリの研究資料も探し出せなかった」
 ジョンは自分が犯した殺人を、晃のせいだとのたまった。転嫁ではなく本気でそう思っているようだ。話が通じない、と崚介は恐怖を覚えた。
「銃声のせいか、やけに警察の到着も早くてね。あの場を去るしかなかった。まさかあの場にサラがいたとは。もう少し時間があれば、サラだけでも救い出せたものを。その後サラの消息は掴めなかった。研究所で再会したときは神に感謝したよ。だがサラは母であるサオリと同じように望まぬ男の子を身籠り、それを一人で産み育てていた」
 憎しみの籠った目が崚介に向けられる。
 ――そうか。
 このために今まで生かされたのだと悟った。この男が自身の手で殺すために。
「今度こそ、父である私が救い出してやらねばならん」
 咄嗟に身をよじった。すると崚介がそれまで転がっていたその床に銃弾がめり込んでいる。同時に崚介は自分の手足が拘束されていなかったことに気づいた。薬かなにかのせいで体を動かせなかっただけらしい。
 わずかに痺れが残る体でやっと起き上がり、ほとんど反射的にホルスターから銃を抜く。それをジョンに向け狙いを定めた。
 ようやく目が慣れてくる。どこかの廃墟のようだ。何もない空間のため倉庫かなにかかと思っていたが、家具のほとんど置かれていないロッジのようだ。窓はない。天井が壊れて光が差し込んでいるから、まだ昼間だとわかる。
 そこで奇妙なことに気づいた。崚介は拉致された。おそらく長い時間気を失っていたはずなのに、どうして銃を身に着けたままだったのか。
 銃口を向けられているというのに、ジョンは恐れや怯える素振りなど微塵も見せなかった。それどころか愉快そうに口の端を吊り上げる。
「その体で下手くそな銃を撃つなよ。彼女にあたるぞ」
 ジョンの背後に目を凝らすと、陰になっている場所に一脚のソファがあった。三人掛けほどの大きさがあるそれに、黒髪の女性が横たえられている。崚介は目を疑った。
「沙羅⁉」
 呼びかけても返事がない。それどころか先ほどの銃声にも反応しなかった。沙羅は無事なのか。暗くて怪我をしているのかどうかわからない。
「薬で眠っているだけだ。だが君の出方によっては彼女を死なせることになる。彼女の首が見えるかい?」
 横目でちらと沙羅を見ると、首元に赤いランプが光っているのが見えた。なにかの装置が首につけられている。
「沙羅に何をした!」
「毒針が仕込んである。私がこのボタンをおせば針は彼女の首に突き刺さる」
 この男は科学者だ。沙羅が眠らされていることを考えても、沙羅にとっての致死量を把握している可能性が高い。
「救い出すと言ったあの言葉は嘘か⁉」
「これは救済だよ。彼女を君という男から、君という男の子を産んだ体から解放されるための」
「イカれてる……!」
 どこまで人の尊厳を踏みにじれば気が済むのか。
「銃を捨てろ」
 ジョンがリモコンをちらつかせながら警告する。崚介は仕方なく銃をゆっくりと床に置いた。
「その銃をこちらへ向かって蹴ろ」
 崚介はその指示に従うことにした。ただし半分だけ。
 ジョンから離れた方へ銃を蹴った。銃を手に入れるつもりだったジョンは、そこで少し動揺を見せる。崚介はその隙にジョンにとびかかった。もちろんリモコンを奪うために。
 だがそれを予期していたように、ジョンは崚介の腹部に膝を叩きこんだ。
「ぐっ」
 動きは見えていた。だが避けられず、もろにみぞおちに食らった。まだ体の自由が完全に戻っていない。
 崚介はその場にくずおれ、膝をついた。すぐさま体勢を立て直そうとするが、すでに距離を取ったジョンが勝ち誇ったようにリモコンを掲げる。
「やめろぉぉぉおお!」
 崚介は叫ぶしかなかった。男は無情にもにやりと笑って、――そのボタンを押した。
 沙羅を振り返る。首のランプか緑色になり、びくりと肩が揺れた。針が刺さったのだ。そしてそのまま、動かなかった。
 崚介は全身の血が沸騰するような、あるいは全身が凍るような、まったく相反する錯覚を覚えた。それは、絶望。
「こっの……クソ野郎‼」
 崚介はジョンに殴り掛かった。この男を殺してやりたいと心底思った。
 何度目ともわからない拳を振り上げたとき、右手が痛んで我に返った。力任せに殴りつけたらしい。もしかしたら骨が折れているのかもしれなかった。崚介はジョンに馬乗りになり、ジョンは崚介の下で鼻血を流してした。自分の荒い呼吸がやけに耳に響く。
「りょ……すけ……?」
 か細く呼ぶ声が耳に届く。
 振り向くと、黒い双眸が崚介に向けられていた。
「沙羅⁉」
 それは確かに沙羅だった。困惑する表情で、それでも確かに目を開けている。崚介を見ている。崚介は無神論者だが、神に感謝したくなった。
 ジョンを放って駆け寄ろうとした。だがその隙を突かれ、今度は崚介が床に引き倒される。立ち上がろうとすると、ジョンが崚介の足にかじりついていた。
「放せっ……」
「サラ! 逃げなさい!」
「ジョン⁉ 一体なにが……ここはどこ⁉」
 沙羅が周囲を見回しながら、困惑したように叫ぶ。
「君と私はコールマン氏に誘拐されたんだ。彼はミスター・アイハラを殺したとさっき告白した!」
 ジョンの嘘に、沙羅が悲しみの表情を浮かべる。
「そんなまさか」
「彼はナーヴェの二重スパイだったんだ。君が持つサオリの資料を狙っている。それを解析できる私を一緒に誘拐したんだ」
 崚介は察した。これが真の目的だったのか。崚介を殺人犯だと、二重スパイだと沙羅に信じ込ませることが。であれば沙羅に投与されたのも毒薬ではなく、あのタイミングで目を覚まさせるためのもの。
「そんな、崚介」
「そんなのはもちろん嘘だ! 騙されるな」
「信じていたのに。FBIがあなたを疑っても、あなたは事件に巻き込まれただけだと」
 ジョンの言葉に、沙羅が大袈裟なほど嘆いた。そして側にあった崚介の銃に気づき、それを拾い構える。
「沙羅、やめるんだ」
 崚介は訴えた。しかし沙羅は銃口を崚介に向けている。まさか沙羅までも崚介を疑うなんて。
「崚介、ジョンから離れて。両手を挙げて、下がって!」
 一旦沙羅の言葉に従うことにした。ジョンが足から手を離したので、そのまま彼から離れ数歩後ずさる。両手を頭の高さまで上げて降伏を示した。
「サラ。コールマン捜査官をを撃つんだ」
「崚介には生きて償ってもらいます」
「彼は君の首の装置のリモコンを持っているんだ! 毒薬の装置だ! 早く撃つんだ!」
 その言葉に沙羅は自分の首に取り付けられた装置に気づいたらしく、はっとして機械に触れた。やや表情を険しくする。
 そうか。ジョンはさおりがやらなかったことを沙羅にさせようとしている。子の父親を殺すということを。
「沙羅。俺は君に何もしない。不安なら手錠をかけてくれていい。だがそのときはその男も一緒だ」
「サラ、撃つんだ! 君が殺されてしまう!」
「崚介は手に何も持っていない。不審な動きをすればすぐ撃ちます。この距離なら相打ちくらいにはできます」
「サラ! 君が犠牲になることはない!」
「私は退職したとはいえDEAの捜査官でした。日本では警察官の娘として育ちました。恐れていません。この男に罪を償わせます」
 ジョンが絶望に目を見開く。憎々しげに崚介を一瞥する。そのとき、崚介はジョンがベルトのあたりを探ったのを見た。まさか、銃をもう一つ隠し持っているとしたら。
「沙羅、駄目だ。そいつから離れろ!」
 崚介が焦って叫んだのと、ジョンが背中側から銃を引き抜いたのは同時だった。銃口が崚介へと向けられようとしている。
「――わかってる」
 そう言って沙羅は口元に微笑を浮かべた。泣き笑いのような、胸が締め付けられるような表情だった。
「え?」
 そのとき、勢いよく扉が開くと同時に知った声が叫んだ。
「FBIだ!」
その宣言とともになだれ込んでくる捜査官たち。防弾ベストにはFBIのほかにDEAの文字もあった。
 一瞬気を取られたその瞬間、ジョンの体が床に引き倒された。ジョン本人だけでなく崚介も、何が起きたのかわからないという顔をする。その中で沙羅だけが、冷徹にジョンを見下ろし銃口を彼に向けていた。その立ち姿は気高く、毒々しいほどに美しかった。
「沙羅……?」
 崚介が呆然と呼ぶ。
 状況を飲み込めないジョンと崚介に反して、沙羅は動揺一つ見せない。それどころかジョンが落とした銃を蹴り、崚介に寄越した。困惑しながら、それでも崚介はすぐさまそれを拾ってジョンに向ける。警戒しながら周囲を見渡すと、仲間の銃口はすべてジョンに向いていた。
 足音がやみ、一瞬の静寂を錯覚する。
 その静寂に沙羅のやや不機嫌そうな声が響いた。
「まだ合図してないよ、ウィル」
「仲間が危険だと判断した。もう少しでリョウが撃たれるところだったんだぞ!」
「そんなことはさせない。信用されていなかったのは悲しいよ。突入が一瞬早かったら、危うく距離が詰め切れないところだった」
 応酬の間も沙羅の視線はジョンから外されなかった。
 沙羅は最初からジョンを捕えるつもりだったのだ。彼の嘘を信じたふりをして、徐々に距離を詰めていた。手が届くところまで。
「サ、サラ。これは」
 沙羅はジョンを見下ろし、冷ややかな声で宣言した。
「終わりだ。ジョン・パターソン。いや……――レヴィアタン」
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