アスモデウスの悪戯

ミナト碧依

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41.取り戻した記憶と出生の秘密

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 最後の相手の動きを封じたところで、DEAの捜査官に引き渡した。最後は手ごわくて相手の腕を折るという強硬手段に出てしまった。嫌な感触が手に残っている。それを振り払うようにふうと息を吐き、呼吸を整える。やはり妊娠前より腕も体力も落ちている。現場を離れて長いのだから当然といえば当然だが、トレーニングを増やすべきか。日本に戻った後そんな時間と必要があるだろうかとぼんやり考えた。
 周囲を見渡すと、あらかた片が付いていた。ジョン――ボスの護衛であったであろう男たちは大半が逮捕され、或いは射殺されていた。ジョンはまだ生きて抵抗しているが、それも時間の問題だ。
 沙羅さらはそれよりも気にかかることがあった。忙しなくあたりへ視線をやる。その中に沙羅を見つめる青い双眸を見つけて駆け寄った。
崚介りょうすけ!」
 沙羅は衝動のまま崚介に抱き着き、そのままキスをした。触れ合った唇が冷えてかさついている。沙羅のぬくもりが少しでもこの人を温めればいいと願った。
「……怪我は?」
 名残惜しく唇を離して尋ねると、疲れた表情ながら崚介は笑みを浮かべた。
「ない。今のキスで疲れが吹っ飛んだ。君こそ怪我は。囮なんて危険な任務をするなんて」
 崚介は沙羅を気遣うように頬を撫でた。たった数日なのにもはや懐かしさすら感じる。無事でよかったと心から安堵した。
 そのときだった。
「私の娘に触れるなぁぁぁあ!」
 ジョンが突然雄たけびのような声を上げた。
「何⁉」
 咄嗟に崚介が前に出て沙羅を庇う。その周りを更にウィルたちが固めたが、ジョンは動揺した隙にほかのFBI捜査官に拘束された。
 驚きながらその様子を見つめていた沙羅と目が合うと、ジョンは人が変わったように柔らかい笑みを浮かべた。先ほどの形相との落差が恐ろしいほどだ。
「私は君の父親だ、サラ」
「聞くな沙羅!」
 崚介が叫ぶ。ウィルが「そいつを黙らせろ」と言ったが、ジョンは話し続けた。
「もう三十年も前になるんだね。サオリの研究が、ちょっとした事故を起こした。ラボで試薬の入った瓶が割れたんだ。それは彼女の研究の副産物で、性欲を増幅させる作用があった」
「それはまさか」
 沙羅が短く問うと、ジョンは嬉しそうに頷いた。
「ああ。アスモデウスの前身となった薬物だよ。あの日私と彼女は二人でラボにいた。そして飛散した薬品を二人とも吸い込み、私は彼女と関係を持った。君はそのときの私たちの愛の結晶なんだ」
「母をレイプしたのか」
「私は彼女を愛していた。そして彼女も。翌年、サオリは君を出産した」
 沙羅は天を仰いだ。そうしないと涙が溢れてしまいそうだった。
「……そういうことか」
 思わず日本語で漏らした。長年の疑問がすべて繋がっていく。
「私が思うに、君の両親は男女の関係ではなかった。研究者とその助手。不仲という訳ではないが、夫婦らしさはまったくなかったからね。助手として渡米するための仮面夫婦だったんじゃないかな」
「わかったように私の両親を語るな!」
 沙羅は崚介から離れ、ジョンの前に立った。
「一つ言っておく。私の父は確かに早坂はやさかあきらではない」
 崚介や周囲が戸惑ったのが気配でわかった。沙羅はジョンを見据えたまま、努めて冷静に続けた。
「今も生きている。だがそれはあなたじゃない」
「強がりもほどほどにしたまえ。君は私の娘だ」
「違う。あなたの言うことが事実だったとしても、母はもうそのとき私を身籠っていた。私の実の父は日本にいる。DNA鑑定もしたから間違いない」
 DNA鑑定という言葉に、ジョンは「馬鹿な」と表情を消す。腐っても科学者だ。その根拠だけは否定できないらしい。
「母はあなたなど愛したりしない。それに私も思い出したことがある」
「なんだ」
「両親を殺した犯人の顔を」
 ジョンが驚愕する。
「あの日、警察に通報したのは私だ」
 ジョンは初めて絶望をその目に浮かべた。項垂れ、そのまま連行されて行った。

 生存者の拘束が完了し、沙羅は崚介を救護車両に連れて行った。緊急性が高い負傷者から搬送され、崚介は毛布にくるまって順番待ちしている。沙羅もそれに付き添っていた。囮役を務めたとはいえ、FBI捜査官でもDEA捜査官でもない沙羅にできることはあまりない。
 満身創痍の崚介は、しかし沙羅を労わるように質問をした。
「思い出したのか。ご両親が亡くなった夜のこと」
「うん。ジョンの話を聞いて、思い出した」
 崚介ははっとした。
「もしかして目が覚めていたのか?」
「拉致されたとき、薬品で気を失ったのは本当だけどね。銃声で気がついたんだ。そうしたらジョンが十九年前の話を始めたから」
 崚介は慰めるように沙羅の肩を抱いた。
「あの翌日、日本に帰国するはずだった。けれどあの夜、私が熱を出して寝込んでしまって。来客があって、母が対応した。父が私の看病をしていたから。一階から何かが落ちるような音がして、父は私に『部屋を出ないように』と言って様子を見に行った。そしたらすごい音が……銃声がしたんだ。怖かったけれど、こっそり様子を見に行った。そうしたら両親がキッチンに倒れていて、血の海だった。そこにジョンが」
「沙羅。もう言わなくていい」
 崚介は止めたが、沙羅は吐き出してしまいたかった。
「私は911に電話をした。でも、言葉が出てこなくて、なんて言っていいのかわからなくて。熱もあって意識が朦朧としていたから、夢だと思い込みたかったんだ。電話をそのままにして、自分のベッドに戻った。目が覚めたときは、警察官に顔を覗き込まれていた」
 込み上げてくる涙に耐えていると、崚介に抱きしめられた。
「ご両親は、きっと君を誇りに思ってる」
 その言葉と温もりに慰められて、少し冷静さを取り戻した。
「そういえば、母が残したメッセージビデオを見つけたよ。ジョンがレヴィアタン――ナーヴェのボスだという証拠も一緒に」
 そう言うと、崚介は沙羅の顔を上げさせた。頬を包み目元を親指で撫でる。まるで涙を拭うかのように。
「一人で観たのか」
「ウィル達と観たよ」
「傍にいられなくてすまない」
「どうして崚介が謝るんだ」
「日本語がわかるのは君の他には俺だけだし、何より俺自身がそのときの君のそばにいたかった」
 どうしてわかるのだろう。一人じゃなかったのに寂しくてたまらなくなったこと。崚介や怜に会いたくなったこと。
「どういうことか聞いてもいいか。その、君のお父さんのこと」
 控えめに質問した崚介に、沙羅は頷いた。
「私の実父は神崎かんざきしげる。神崎の父だ」
「でも彼は君の伯父さんだと」
「さおりと茂は再婚の連れ子同士で血縁関係はないんだ。それでも外聞を気にした祖父に禁じられ、二人は結ばれなかった。母が渡米した理由のひとつは、茂との関係を断ち切るためだったらしい」
 というより、それが一番の理由だったのではないかと沙羅は思っている。だからさおりがパターソン科学研究所に招かれたということを失念していた。その結果時系列を見誤り、アズモスの研究が日本にいた頃から進められていたものだと気づけなかった。両親が絡むと沙羅はどうにもから回ってしまう。
「それもビデオに?」
「父親のことを最初に知ったとき、私はまだ十代だった。高校に入ったばかりのころ、神崎の父と母が話しているのを聞いてしまって。神崎の母……百合子ゆりこも、当時は私が茂の実子だと知らなかったらしい。けれど私がどんどん茂に似ていくものだから、こっそりDNA鑑定をした。そして私と茂の親子関係がわかって、一時は離婚の話も出たようだ」
 仲のいい義父母が珍しく口論をしていた。不安がる弟を抱きしめて聞かせないようにしながら、沙羅は自分の出生の秘密を知ったのだった。
「晃は日本にいたころからの母の助手で、母を好いていた。晃はすべてを知った上でさおりと一緒になったそうだよ。両親が渡米した翌年、祖父が亡くなった。葬儀のために一時帰国したさおりは、父親を亡くして憔悴する茂と関係を持ってしまった。そのときできたのが私だ。アメリカに戻ってから妊娠に気づき、そのまま私を産んだ。茂とはそれきり会っておらず、私のことも知らせていなかった。茂はさおりと晃が亡くなって初めて私の存在を知ったんだそうだ」
「だから君のお母さんが妊娠していたと聞いたとき、すぐさま父親を確認したのか」
「うん。私が覚えている晃は優しい人だったよ。両親の仲はとても良かったように思うし、二人とも私のこともとても可愛がってくれた。だから本当の父親は別にいると知ったときはかなりショックだったな。どんな気持ちで私を育てていたんだろうと」
 自分が不義の子だと知ったときは辛かった。父として警察官として清廉だと尊敬していた茂を、初めて嫌悪した。
「……自分が生まれてはいけなかったと、思った」
「そんなこと」
 否定を口にしかけて、崚介は途中で口を噤んだ。労わるような視線が沙羅に向けられる。
 それは過去の沙羅の話で、そう思って傷ついたことは変えようのない事実だった。そのことを察して否定しないでいてくれるこの人の優しさが、胸にしみる。
「留学したのはたぶん、消えてしまいたかったからなんだ。この国を選んだのは自分の世界の外に行きたかったから。そして両親を殺した国だったから」
 そうして危険と隣り合わせの仕事を選んだ。
「死にたいと思ったことはなかったつもりだけれど、私は緩やかに自殺しようとしていたのかもしれないね」
 この国が沙羅の存在を消し去ってくれることを無意識に望んだ。
「留学前、茂は晃の日記を見せてくれた。日記というより茂に当てた手紙のようなもので、さおりや私の様子がどうだったかを書き留めてあった。いつか茂に私たちを返す可能性をずっと視野に入れていたようだった」
 晃は結婚前のことも結婚後のことも知っていて、それを不義だとも思っていなかったようだ。けれど沙羅がそれを受け入れるには、長い時間が必要だった。
「その日記には私が生まれてすぐにDNA鑑定をしたとあった。それがずっと不可解だったけれど、ジョンとのことがあったからだとわかったよ」
「不可解か?」
「日記から得た推察だけれど、たぶん結婚して数年は、両親に男女の関係はなかったんだと思う。ジョンと同じ意見なのは悔しいけれど、日記を最初に読んだときからそう考えていた」
 結婚当初から沙羅が生まれたあとも、恋人ですらなかったような印象を受けた。異国の地で生きるための同志。朔人さくととルームシェアしているとき、早坂の両親はこんな感じだったんじゃないかと思ったことがある。そのとき、やっと少しさおりと茂を許してもいいかと思えた。
「そうか。晃との肉体関係がないなら、調べる必要がないな」
「うん。ただ亡くなる前の両親は愛し合っていたと思う。祖父が亡くなった後、反対する人もいないはずだったのにさおりは茂の元には戻らなかった。離れるためだけなら籍を入れる必要もなかったはずだ。さおりはさおりなりに晃を愛していた。生まれてこられなかった弟か妹のことは残念だけれど、それを証明してくれたような気がする。私が覚えている両親が嘘じゃなかったとわかって、少し嬉しかった」
 娘の怜をもし産めなかったらと思うと胸が締め付けられる。沙羅は崚介にもたれて甘えた。
 すっかり体重をかけてしまったあとで、沙羅ははっとした。
「ごめん、崚介の方が疲れているのに。病院に行くよね?」
 離そうとした体が引き戻される。崚介の青い瞳が、まっすぐに沙羅を見つめた。
「俺の前では強がらないでくれ」
「でも」
「君が俺を頼ってくれるのが嬉しいし、この役目は誰にも渡さない」
 胸の奥からじんわりとあたたかいものが込み上げて、視界が揺れた。
 沙羅は抱き寄せられるまま崚介の胸に顔を埋め、少し泣いた。
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