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9.逃走
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崚介は自宅マンションのベランダで煙草に火をつけた。プライベートではほとんど吸っていないそれが、崚介の心情のように肺を黒く汚していく。元々組織に潜入するために吸い始めたものだが、今の気分には似合いだった。
ついにシズカがドラッグに落ち、ザックが独房に向かったと聞いた。ドラッグのことはおそらく演技だろう。沙羅は動いたのだ。そして、今夜。
それを想像するだけでどす黒い感情が渦巻く。それは物理的な健康被害のせいなのだと思い込むように煙を吸い込んだ。
長く息を吐き出すと、夜空に煙が白く映った。
悪い考えが止まらない。結局は気休めにもならず、さほど短くなっていないそれを折り、灰皿に押し付けてねじ消す。その時、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。FBIとの連絡用のものだ。
「はい」
嫌な予感を抱きながら電話に出る。上司のウィリアムからだった。
「電話なんて珍しいな、ウィル。緊急事態か」
『わからん。が、彼女が動いている』
「は?」
『GPSがウェストタウンに向かっている』
「とうとう動いたのか。ウェストタウンにラボが?」
『可能性は否定できないが、どうも動き方を見ると徒歩だ』
「どういうことだ。盗聴器の音声は?」
『直前までザックと一緒にいたことは間違いないが、「最中」に壊れた』
「……っ」
ウィリアムの言葉に自分でも驚くほど動揺した。わかっていたのに、想像してしまう。沙羅がザックに犯される姿を。盗聴器が壊れるほどの何かがあったことを。
そんな崚介をよそに、ウィリアムは淡々と続けた。
『GPSの動きは逃亡しているように見える。彼女、逃げ出したんじゃないのか』
「そんな馬鹿な」
『五年前だって、ザックの愛人になる前に逃げ出したんだろ』
「あれはやむにやまれぬ事情があったからで……ちょっと待て、ウェストタウン? どのあたりだ」
『今五番街のあたりだな』
「俺を探しているのかもしれない」
『なんだって?』
「昔リチャード名義で借りてた部屋がその先の七番街にある。彼女も一度だけ来た事があったはずだ」
『お前、まさか彼女と』
かつてシズカとはともに行動することが多かった。同じ国をルーツに持つ者として当時から必要以上に気にかけていた自覚はある。それはFBIにも知られていて一人に肩入れしすぎだと注意されたこともあったし、彼女との関係を邪推されたこともあった。ウィリアムの推測はそこからきている。崚介は即座に否定した。
「そうじゃない。移動中に忘れ物を取りに俺だけ寄ったことがあるだけだ。なにかあったんだ!」
勢いのまま電話を切ると、崚介は走り出した。
守ると約束した。もう後悔はしたくない。
沙羅は追手を気にしながら懸命に走った。とにかく崚介かFBIと合流しなければならない。引きちぎられたネックレスを拾う隙がなかった。盗聴器もなく、連絡の手段がない。
とはいえ状況は知れているだろうし、それでFBIが沙羅を探しに来てくれることを祈った。今はとにかく安全な場所に身を隠さなければ。思いつくのは崚介のもとくらいだった。
リチャードが部屋を借りていたのは五年も前だ。今の隠れ家を知らない。けれど所持金もない今、FBIのオフィスに行くには遠すぎる。それに暗いとはいえ近くで見れば返り血もわかるし、裸足だ。公共の交通手段を使えば目立つ。とにかく走った。
あと1ブロックでリチャードの部屋が見えてくるはず。その時だった。
「沙羅!」
路地に声が響く。たった五日なのにもはや懐かしい。車から降りてくる彼の姿を見つけて泣きたくなった。
「崚介……!」
顔を見た途端、安心感に胸が温かくなる。そのまま崚介の腕に飛び込んだ。勢いづいて痛がらせてしまったかもしれない。だが崚介は沙羅を抱き留めてくれた。
「何があった」
呼吸が荒くなって、すぐに答えられない。その内に崚介がレザージャケットの内側のシャツが破れていることや肌が血に染まっていることに気づいた。
「怪我を⁉」
「わ、私のじゃ、ない」
「本当か? 逃げ出すほどの何かがあったんだろう⁉ 靴も履いていないじゃないか!」
「ザックが、襲われた。多分死んだと思う。私は無我夢中で逃げ出して」
「とにかく病院に行こう」
「大した怪我はしてない」
「だが熱がある」
「……アスモデウスを打たれただけだ」
「打たれたって、まさか静脈注射されたのか⁉︎」
乱暴に注射針を突き立てられたので正確な静脈注射ではないが、沙羅は頷いた。
「最初は体質のこともばれていなかったみたいで少量を飲まされていたが、とうとう効いていないことがザックにばれて。走ったし、流石にちょっと、影響が出てる」
薄く笑うと、崚介はますます語気を強めた。
「笑い事か!」
素早くスマホを取り出してどこかに電話をかける。相手はワンコールで出たらしかった。
「もしもしカレン、沙羅がアスモデウスを摂取させられた。量はわからないが、今から病院に向かう。君も来てくれ!」
電話を切ると、崚介は沙羅を横抱きにした。
「崚介、私歩けるから」
「そんな足で歩かせられない」
崚介は紳士だ。裸足の女をそのまま歩かせはしない。沙羅は反論を諦めた。見上げると横顔が怒っているようにも、泣きそうにも見えた。そんな顔をしなくてもいいのに。そう思いながら、沙羅は崚介に身を預けて目を閉じた。さすがに疲労感が強い。
ついにシズカがドラッグに落ち、ザックが独房に向かったと聞いた。ドラッグのことはおそらく演技だろう。沙羅は動いたのだ。そして、今夜。
それを想像するだけでどす黒い感情が渦巻く。それは物理的な健康被害のせいなのだと思い込むように煙を吸い込んだ。
長く息を吐き出すと、夜空に煙が白く映った。
悪い考えが止まらない。結局は気休めにもならず、さほど短くなっていないそれを折り、灰皿に押し付けてねじ消す。その時、ポケットの中でスマートフォンが鳴った。FBIとの連絡用のものだ。
「はい」
嫌な予感を抱きながら電話に出る。上司のウィリアムからだった。
「電話なんて珍しいな、ウィル。緊急事態か」
『わからん。が、彼女が動いている』
「は?」
『GPSがウェストタウンに向かっている』
「とうとう動いたのか。ウェストタウンにラボが?」
『可能性は否定できないが、どうも動き方を見ると徒歩だ』
「どういうことだ。盗聴器の音声は?」
『直前までザックと一緒にいたことは間違いないが、「最中」に壊れた』
「……っ」
ウィリアムの言葉に自分でも驚くほど動揺した。わかっていたのに、想像してしまう。沙羅がザックに犯される姿を。盗聴器が壊れるほどの何かがあったことを。
そんな崚介をよそに、ウィリアムは淡々と続けた。
『GPSの動きは逃亡しているように見える。彼女、逃げ出したんじゃないのか』
「そんな馬鹿な」
『五年前だって、ザックの愛人になる前に逃げ出したんだろ』
「あれはやむにやまれぬ事情があったからで……ちょっと待て、ウェストタウン? どのあたりだ」
『今五番街のあたりだな』
「俺を探しているのかもしれない」
『なんだって?』
「昔リチャード名義で借りてた部屋がその先の七番街にある。彼女も一度だけ来た事があったはずだ」
『お前、まさか彼女と』
かつてシズカとはともに行動することが多かった。同じ国をルーツに持つ者として当時から必要以上に気にかけていた自覚はある。それはFBIにも知られていて一人に肩入れしすぎだと注意されたこともあったし、彼女との関係を邪推されたこともあった。ウィリアムの推測はそこからきている。崚介は即座に否定した。
「そうじゃない。移動中に忘れ物を取りに俺だけ寄ったことがあるだけだ。なにかあったんだ!」
勢いのまま電話を切ると、崚介は走り出した。
守ると約束した。もう後悔はしたくない。
沙羅は追手を気にしながら懸命に走った。とにかく崚介かFBIと合流しなければならない。引きちぎられたネックレスを拾う隙がなかった。盗聴器もなく、連絡の手段がない。
とはいえ状況は知れているだろうし、それでFBIが沙羅を探しに来てくれることを祈った。今はとにかく安全な場所に身を隠さなければ。思いつくのは崚介のもとくらいだった。
リチャードが部屋を借りていたのは五年も前だ。今の隠れ家を知らない。けれど所持金もない今、FBIのオフィスに行くには遠すぎる。それに暗いとはいえ近くで見れば返り血もわかるし、裸足だ。公共の交通手段を使えば目立つ。とにかく走った。
あと1ブロックでリチャードの部屋が見えてくるはず。その時だった。
「沙羅!」
路地に声が響く。たった五日なのにもはや懐かしい。車から降りてくる彼の姿を見つけて泣きたくなった。
「崚介……!」
顔を見た途端、安心感に胸が温かくなる。そのまま崚介の腕に飛び込んだ。勢いづいて痛がらせてしまったかもしれない。だが崚介は沙羅を抱き留めてくれた。
「何があった」
呼吸が荒くなって、すぐに答えられない。その内に崚介がレザージャケットの内側のシャツが破れていることや肌が血に染まっていることに気づいた。
「怪我を⁉」
「わ、私のじゃ、ない」
「本当か? 逃げ出すほどの何かがあったんだろう⁉ 靴も履いていないじゃないか!」
「ザックが、襲われた。多分死んだと思う。私は無我夢中で逃げ出して」
「とにかく病院に行こう」
「大した怪我はしてない」
「だが熱がある」
「……アスモデウスを打たれただけだ」
「打たれたって、まさか静脈注射されたのか⁉︎」
乱暴に注射針を突き立てられたので正確な静脈注射ではないが、沙羅は頷いた。
「最初は体質のこともばれていなかったみたいで少量を飲まされていたが、とうとう効いていないことがザックにばれて。走ったし、流石にちょっと、影響が出てる」
薄く笑うと、崚介はますます語気を強めた。
「笑い事か!」
素早くスマホを取り出してどこかに電話をかける。相手はワンコールで出たらしかった。
「もしもしカレン、沙羅がアスモデウスを摂取させられた。量はわからないが、今から病院に向かう。君も来てくれ!」
電話を切ると、崚介は沙羅を横抱きにした。
「崚介、私歩けるから」
「そんな足で歩かせられない」
崚介は紳士だ。裸足の女をそのまま歩かせはしない。沙羅は反論を諦めた。見上げると横顔が怒っているようにも、泣きそうにも見えた。そんな顔をしなくてもいいのに。そう思いながら、沙羅は崚介に身を預けて目を閉じた。さすがに疲労感が強い。
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