アスモデウスの悪戯

ミナト碧依

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16.十九年前の殺人事件

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 翌日、いつものようにラボの事務仕事を手伝っているとカレンに呼ばれた。
 カレンのオフィスに行くと、崚介りょうすけが神妙な顔をして待っていた。なにか悪い知らせがあるのだと察する。まさか娘になにか。沙羅さらは最悪を考えた。
 ソファに座るよう促され、崚介が隣に、カレンが向かいに座った。
 結論を言うと崚介の話は娘のことではなかった。けれど沙羅を驚かせるには十分だった。
「両親の件が、殺人……⁉︎」
「本当に知らなかったのか」
 崚介の言葉に沙羅は首を振る。この二十年近く、ずっと両親は事故死だと信じてきたのだ。疑いもしなかった。
 けれど言われてみれば思い当たることがないでもなかった。
「私、あの事件の前後の記憶が曖昧なんだ」
「記憶が?」
「帰国したときや葬儀のことも、実はあまり……神崎かんざきの父は両親を亡くしたショックだろうと言っていた。確かに彼から事故死だと言われた以外の情報はない。どんな事故だったかも聞かなかった。どうして疑問に思わなかったんだろう」
「殺人だと知らなかったとはいえ、君らしくないな」
「防衛本能だったかもしれないわ。記憶を失ったのも自分の心を守るためよ。無意識に知ることを拒絶していたのかもしれない。沙羅。あなたは現場にいたの」
「私が⁉」
 驚く沙羅に、崚介は申し訳なさそうに告げた。
「現場は、早坂はやさか家の自宅だったんだ」
「あの家で……」
 当時、早坂一家は郊外の一軒家で暮らしていた。
「君が目撃したのかはわからない。発見時、君は子ども部屋で眠っていたと」
「その調書、私にも読ませてくれないか」
「そういうと思って、上の許可は取ったわ」
 カレンが調書を差しだした。それを受取ろうとした沙羅の手を、崚介が掴む。
「沙羅。やめたほうがいい」
「崚介も読んだんだな」
「あなたの母親はレイプ未遂で殺されたの」
「カレン!」
 咎めるように崚介が呼ぶ。けれどカレンは続けた。
「通報は二階にあった電話からで、おそらくアキラが通報した。けれどオペレーターと話すことはなかった。記録には銃声が連続して聞こえたとあったから、状況が悪くなって電話を投げ出してサオリを助けに行ったみたい。捜査官もすぐ駆けつけたけれど、二人はキッチンで亡くなっていた。状況から見てサオリがレイプされそうだったのをアキラが庇って二人とも殺された、というのが当時の捜査チームの結論よ。それと」
 カレンは一瞬迷う素振りを見せ、視線を下げた。けれどすぐに沙羅を見据えてそれを告げる。
「サオリは妊娠していた」
 その言葉に瞠目する。ひゅっと喉が鳴り、一瞬めまいを感じた。座っていたし倒れはしなかったが、心配した崚介が肩を支えてくれる。
「父の――あきらの子か?」
「ええ。それは間違いない」
「沙羅?」
「崚介。心配してくれてありがとう。でも読むよ。私は知っておかなくちゃ。もう守られる子どもじゃない。娘を守るためにここに来たんだから」
 崚介はしぶしぶといった様子でそれを受け入れた。
 時間をかけて調書を読んだ。日本人夫婦が殺された強姦未遂殺人事件。犯人は見つかっていないとはいえ、単純な事件だ。調書の内容もさほど量がない。移民ということもあって大した捜査は行われていないように見える。日々凶悪事件を扱うFBIにとっては市警が扱う小さな事件に過ぎないし、沙羅とてDEAの捜査官時代にもっと凄惨な事件に触れたことがある。
 それでも身内の事件だというだけで、沙羅の精神は大きなダメージを受けた。現場写真を見たあとなんでもない顔をしていたが、こっそりトイレで吐いた。
 夕方迎えに来た崚介は、憐れむような視線を沙羅に向けた。嘔吐したことを見透かされているような気がして居心地が悪い。沙羅の弱さに気づかないで欲しいと願った。
 会話が少ないまま帰宅した。
「夕食に何か作ろう。簡単なものしかできないが」
 崚介がわざと明るい声で言う。
 たまにしかこの部屋に帰ってこない崚介は、元々食材の類をストックしていなかった。冷蔵庫もほとんどオブジェだったが、沙羅がこの部屋で過ごすようになった今は人並みに食材が入れられている。
「私はいいよ。食欲がなくて」
「少しでも食べたほうがいい」
 何度か押し問答をして、その間に手を動かしていた崚介は、沙羅の前にパスタを置いた。これでもかというほどソーセージが入っている。
「本当はミートボールパスタが好きなんだけどな。今日は時短でソーセージだ」
「崚介、私は」
「要らなかったら捨ててくれ」
 残していいとか食べられる分だけとかそういう優しい言葉ではなかった。沙羅が手をつけなければ容赦なく捨てるぞと脅されている。もったいない精神を持つ日本人としてはこのまま処分されるのも忍びなく、フォークを持った。
 味なんてしないかと思ったけれど、温かくて優しい味がした。消えていた食欲が戻ってくる。
「食べられる……」
 何の気なしに言うと、崚介が少し不機嫌な顔になった。
「そんなに料理下手に見えるか?」
「あ、そういうことじゃ」
 料理そのものではなく沙羅自身の問題だ。そう弁明しようとしたら、崚介がにやりと笑った。沙羅の心境をわかっていて敢えておどけてみせたのだ。
 そのまま黙々とパスタを口に運んだ。その内に味覚もちゃんと戻ってきて、パスタが茹で過ぎなことに気づいた。それともこれが崚介の好みなのだろうか。今度沙羅の好みで作って出してみようと思った。崚介はどんな反応をするだろう。そう考えると、少しだけ気分が浮上した。
 食事の片づけをした後、沙羅は崚介に頼み事をした。
「強い酒が飲みたい」
 崚介はキッチンの戸棚の奥からバーボンを出してきた。実は隠すように奥に置いてあったのを知っていた。
 崚介はロック、沙羅はストレートにした。受け取ったグラスを一気に飲み干すと崚介がぎょっとした。
「おいおい、無茶な飲み方はよしてくれ。急性アルコール中毒なんかごめんだぞ」
「大丈夫だよ。私は酔わないから」
「そういえばそうだった……。いや、もっと味わってくれ。俺のとっておきなんだぞ!」
「味わってるよ。ちゃんと美味しい」
 グラスを差し出しながら沙羅は言った。崚介は不満そうにしながらもおかわりを注いでくれる。量はさっきの半分だった。
「やっぱりショックだったか」
 カラン、と崚介のグラスの氷が高く鳴った。
「いや、愚問だな。すまない」
「どうして崚介が謝るんだ?」
「君に伝えないという選択肢もあったから」
「私は知れてよかったと思っているよ。余計娘が恋しくなって少し困ったけれど」
 両親の「死」というものを目の当たりにしたからだろうか。無性に娘のれいを抱きしめたい。子ども特有の高めの体温をこの腕に抱いて、鈴を転がすような可愛い笑い声を聞きたい。
 三杯目をもらえるか怪しいので、沙羅はちびちびとウイスキーを口に含んだ。アルコールが喉に熱を感じさせ、鼻に抜ける香りがカラメルのように甘い。
「崚介の両親はどんな人?」
「普通よりずっとドライな夫婦だな」
 言いながらつまみのナッツを口に運ぶ。
「両親ともアメリカ生まれの日系人なんだが、周囲に言わせれば見た目も性格もすごく日本人っぽい。俺も日本人らしくないのは祖母譲りの瞳くらいだしな」
「おばあ様はアメリカ人?」
「イギリス出身。金髪碧眼で、若い頃は美人だったというのが口癖だ。自信家で元気なばあさんだよ」
 現在形ということは、健在なのだろうか。沙羅は本当の祖父母を知らないから羨ましい。
「両親は人前でキスどころか手もつながない。『レディファーストってなんだ?』ってくらい、母は父の三歩後ろをついて歩くような人で、よく祖母に『信じられない』って言われてた。こういうの、日本語でなんていうんだったかな。ええっと、てい、テイス……」
「『亭主関白』?」
「ああ、それだ。そんな感じで。日本じゃ普通なのかな」
「私たちの世代だと時代錯誤という意見が優勢じゃないかな。けれどまだまだ根深い考え方だと思うし、そもそも日本では人前でのスキンシップはあまり良しとされない。日本では一般的なご夫婦と言えるかもしれないね」
「やっぱりそうなんだな。仲睦まじいとも見えないのに、不思議と仲は悪くない。噛み合っているというか。父が母の味方になって矢面に立つのは当然だったし、母もそんな父の世話を焼くのを楽しんでいるんだ。もしかしたら案外仲のいい夫婦なのかもしれないと思うよ」
「素敵なご両親なんだな」
「そう思う」
 素直に褒めると、崚介は嬉しそうにはにかんだ。
「私の両親は、変な夫婦だった」
「変?」
「崚介のご両親とは対照的に、とても日本人らしくない夫婦だった。母は研究者で、父はその助手だった。当然母の方が収入は多かったと思うし、いろんな意味で我が家は母が中心だった。母は娘の私から見ても変な人だったよ。自宅で私に科学実験を見せるのはよくあることだったんだけど、加減を知らないというか、好奇心が勝ってしまうような人で。実験で部屋中泡だらけにしたこともある。家族の中で一番子どもっぽいというか、無邪気な人だった」
「君はとても日本人なのにな」
「うん。自分でもそう思う。たぶん神崎の父の影響なんじゃないかな。あの人は典型的な日本男児だから」
 神崎しげるは、沙羅を息子の誠也同様かそれ以上に厳しく育てた。警察官という立場に合う厳粛な家庭。祖父もそうだったらしい。茂とともに育った兄妹とは思えないくらい、母のさおりは自由奔放で明るい人だった。
「早坂の父はそんな母を怒りもせず、にこにこと眺めていた。一体何がそんなに楽しいのかわからなかったけれど、母が泡まみれにした部屋を掃除するときもずっと穏やかに笑っているんだ」
 茂ならば絶対に叱りつけていただろう。沙羅も一緒に部屋を片付けたが、正直うんざりしたものだ。
「キッチンでボヤ騒ぎを起こしたときだけは珍しく怒っていたな。怒りという感情が欠落しているのかと思っていたほどだったから、あのときばかりは驚いたよ。意外に心配性なんだと知った」
 顔を真っ赤にして母のために怒る父の姿を思い出す。怒ったのは心配故だ。怒りすら優しさから生まれる人だった。叱られるさおりはなんだか嬉しそうで、最後はそれに毒気を抜かれたらしい晃が少しすねて、両親の喧嘩は終わるのだ。
 こうしてゆっくり二人を偲ぶのは久しぶりだった。込み上げてくるものがあって、誤魔化すようにグラスを煽る。結局二杯目がなくなってしまった。
「母は妊娠を自覚していたんだろうか」
 グラスを置いてぽつりとつぶやいた沙羅に、崚介はなにも言わなかった。沙羅も言葉を期待したわけではなかった。ほとんど独り言だ。
 解剖報告書には妊娠初期とあった。自覚症状がなくてもおかしくない時期で受診記録もなく、それを知るすべがない。
 手慰みにグラスの縁を指でなぞる。それを崚介が目で追う。指を止めると崚介が視線を上げた。沙羅は強請るようにじっと青い瞳を見つめる。
 無言で何秒か見つめ合う。崚介はため息をつき、三杯目を注いでくれた。嬉しくて口元を緩めると恨めしそうに見られる。何かを諦めた様子で、ついでに自分のグラスにも注いだ。
 その夜、結局一瓶を飲み干してしまった。翌日、沙羅は当然崚介も二日酔いというわけではなかったが、とっておきを一晩で消費してしまったことにショックを受けていた。そのほとんどを飲んだ沙羅はさすがに罪悪感を覚えて、日本に戻って金が自由にできる状況になったら、ダースで贈ろうと決めたのだった。
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