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17.さおりの研究
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その日も崚介がラボまで送ってくれた。折角休暇なのだからのんびりすればいいと言ったのだが、FBI捜査官としては休暇ではないと返された。ワーカホリックだなぁと思いながらも、沙羅はそれ以上言うのをやめた。
潜入中ではないからか、いつもと服装が少し違う。普段はTシャツやカラーシャツにジャケット、ジーンズというラフな格好で、髪も崩していることが多い。けれど今はきっちりスーツを着込んで髪もセットしている。念のため顔を隠すためにかけたサングラスが青い瞳を隠してしまって少しもったいないが、それさえ憎らしいほど決まっている。
昨日と同じように助手席に座る沙羅は、コロンの香りも普段と違っていて落ち着かなかった。普段はもっとワイルドで官能的な香りだが、ライムのような爽やかな香りがする。崚介にはこちらが似合っていて、爽やかなのに何故かセクシーさが増している。
「ネクタイ、似合わないか?」
前を向いたままの崚介に尋ねられる。盗み見ていたことがばれてしまい、沙羅は気まずくなって視線を逸らした。
「そういうんじゃ……ただ、いつもと違うから見慣れなくて」
むしろよく似合っていると素直に言えばいいのに、可愛げのないことを言ってしまう。量販店で購入したラフな服装――FBIが用意した――をしている自分が、酷くみすぼらしく思えた。
「潜入中以外は、俺もちゃんとスーツを着るさ。似合わなくても笑うなよ」
「私もスーツにした方がいいかな」
「それは……」
「なんだよ。似合わないって?」
確かにもう何年もスーツなんて着ていない。それでも捜査官時代はちゃんと着こなしていたと思うが。
「逆だよ。まあ君は職員じゃないから、そのままで十分だ」
なんだかはぐらかされた気がしたが、ちょうど駐車場について話はそこでおしまいになった。
崚介に連れられてカレンのオフィスに行くと、カレンは二人を捕まえて興奮気味に言った。
「サオリのことを少し調べたの。サオリは薬物中毒の治療薬を研究していたそうよ」
「おはよう、カレン。依存症ではなく中毒症状の治療薬ということ?」
元DEA捜査官として沙羅も多少の知識は持っている。
依存症と中毒は似ているようで異なる意味を持つ。
中毒とは薬物やアルコールなどを摂取して体に有害な作用が現れることを指す。
対して依存症とはそれらが排出されたあとでもそれらを求めてしまうことをいう。
沙羅の指摘にカレンが頷いた。
「そうよ」
「症状を緩和させたり中和させる薬はもう存在するよね?」
「ええ。知ってると思うけど、普通中毒の治療としてはまず摂取した薬物を体外に排出させるところから始まる。薬物を中和させる、いわゆる解毒剤の投与も有効だけれど、基本は体が少しでも吸収させないようにするわけね。でもサオリは、完全かつ速やかにドラッグを分解する治療薬を研究していたのよ」
カレンはどんどんヒートアップしていった。ハイになっている。もしかして徹夜したのだろうか。
「これが成功していたら薬物中毒患者の治療が飛躍的に進歩するわ。現在の体外に排出させる方法だとどうしても医療機関を頼らなきゃならない。でも服薬で済むなら、流通さえすれば自衛ができるわ。アフターピルみたいにね。もしかしたら依存症の予防にも有効かもしれない!」
アメリカではアフターピル――緊急避妊薬が薬局でも購入できる。日常的に服用することで避妊効果を得る低用量ピルの市販も、近年認可されたと聞く。日本ではどちらも医師の処方なしに入手することができない。
「でも成功していないよね? していたらとっくに実用化されてる」
さおりが亡くなったのは十九年も前だ。そんな完全治療薬が存在していたら、元DEA捜査官の沙羅が知らないはずがない。
「ええ。確証はないけど未完成だったと思うわ。けれどこんな薬、マフィアやギャングが狙う理由にはなるでしょう」
カレンの言葉に崚介が顔色を変える。
「まさか早坂夫妻の事件の動機は、強姦目的じゃなく彼女の研究資料だと?」
「それを調べるのはあなたの役目」
「早坂さおりの研究については調書に記載がなかった」
「ええ。ただ窃盗の形跡がないことだけは確認されてる。だから当時の捜査チームも単なる強姦犯罪ってことに落ち着けたんだと思うわ」
単なる。遺族としてはその言い方は少々引っかかるが、沙羅も捜査官だったらそういう言い方をしたかもしれない。もしこれが窃盗目的であったら、母の研究資料が巨悪に利用された可能性があるからだ。
「確かに裏組織の犯行なら、現場の偽装くらいはやってのける」
崚介は頭を抱えた。
「十九年も経ってる。今更証拠なんて」
「ねえサラ。サオリの研究資料を見られないかしら。あなたが持っているの?」
「それなら両親が生前勤めていた研究所にあるはずだ」
「問い合わせてみるわ」
「二十年近く前の研究資料なんて残っているものなのか?」
「研究が引き継がれてるかはわからないけど、さすがに破棄はされてないんじゃないかしら」
そうは言うが、カレンも自信がない様子だ。
「寄贈したのは六年ほど前のことだけど、こういう資料の保管期限ってどのくらいなんだろう」
「寄贈? 六年前って、中途半端に最近だな」
「二十三の時に両親が残した信託財産を受け取ったんだ。私も日本の家族も存在すら知らなかったんだが、こちらでは子に信託財産を残すことは間々あるだろう?」
「まあ、ある程度の資産を持っている家なんかは聞く話だな。子どもが成人したら財産を受け取れるようにするとか」
「私の場合、二十三歳になったらという条件付きだった」
「中途半端な年齢じゃないか?」
「大学卒業の歳という意味で設定されたらしい。大学に行かない可能性も含めて二十三歳ということらしいよ」
「なるほど」
「それで弁護士から日本の神崎の家に連絡が入った。当時すでにニューヨークで働いていて、その弁護士事務所がD.C.だというから直接出向いたよ。その中に母の研究資料もあってね。資産はともかく研究についてはよくわからないから、母の元職場に寄贈したんだ。古い資料がどれほど役に立つかわからなかったけれど、私が持っていてもしょうがないから」
「研究途中の資料が信託財産の一部だなんて珍しいわね」
「貸金庫に一緒に保管されていたそうだから、そちらはバックアップ代わりだったんじゃないかな。弁護士の話だと毎年更新していたというし」
「君が娘に対して色々と用意周到だったのは、母親を真似たのか」
「まあね。特に私の場合は逃亡者だったわけだから」
「もしかして、早坂さおりも身の危険を感じていたんじゃないか? だから信託財産として保管していた」
崚介の指摘に沙羅はしっくりこなかった。
「確かに成功すればすごいと思う。でも現在に至るまで成功していないということは、誰も研究を引き継いでいないということじゃないか? つまり研究は上手くいっていなかったんじゃ」
「それは、内容を見てみないとなんとも言えないわね」
「なあ。君は研究になにか関わっていたのか」
「関わるってどうやって? 私は十歳だったんだぞ」
「そう、だよな。でも君のお母さんが研究していた薬は、まるっきり君の体質そのものだ」
崚介の言い分ももっともだった。
「研究資料がないから、今は空想しかできないわ。でも娘の体質から着想を得て研究していた可能性は大いにあるわよね」
「君は資料の内容を覚えているか?」
「いいや。何かの治療薬の研究らしいとは聞いたけれど、すべて英語だったし。さすがに研究用語まではわからないと思って読みもしなかった」
早坂の両親とは違って、沙羅は典型的な文系人間だった。研究者の道など考えたこともなかったが、両親にとって娘が論文を読まない、読めないというのは誤算だったのだろうか。
潜入中ではないからか、いつもと服装が少し違う。普段はTシャツやカラーシャツにジャケット、ジーンズというラフな格好で、髪も崩していることが多い。けれど今はきっちりスーツを着込んで髪もセットしている。念のため顔を隠すためにかけたサングラスが青い瞳を隠してしまって少しもったいないが、それさえ憎らしいほど決まっている。
昨日と同じように助手席に座る沙羅は、コロンの香りも普段と違っていて落ち着かなかった。普段はもっとワイルドで官能的な香りだが、ライムのような爽やかな香りがする。崚介にはこちらが似合っていて、爽やかなのに何故かセクシーさが増している。
「ネクタイ、似合わないか?」
前を向いたままの崚介に尋ねられる。盗み見ていたことがばれてしまい、沙羅は気まずくなって視線を逸らした。
「そういうんじゃ……ただ、いつもと違うから見慣れなくて」
むしろよく似合っていると素直に言えばいいのに、可愛げのないことを言ってしまう。量販店で購入したラフな服装――FBIが用意した――をしている自分が、酷くみすぼらしく思えた。
「潜入中以外は、俺もちゃんとスーツを着るさ。似合わなくても笑うなよ」
「私もスーツにした方がいいかな」
「それは……」
「なんだよ。似合わないって?」
確かにもう何年もスーツなんて着ていない。それでも捜査官時代はちゃんと着こなしていたと思うが。
「逆だよ。まあ君は職員じゃないから、そのままで十分だ」
なんだかはぐらかされた気がしたが、ちょうど駐車場について話はそこでおしまいになった。
崚介に連れられてカレンのオフィスに行くと、カレンは二人を捕まえて興奮気味に言った。
「サオリのことを少し調べたの。サオリは薬物中毒の治療薬を研究していたそうよ」
「おはよう、カレン。依存症ではなく中毒症状の治療薬ということ?」
元DEA捜査官として沙羅も多少の知識は持っている。
依存症と中毒は似ているようで異なる意味を持つ。
中毒とは薬物やアルコールなどを摂取して体に有害な作用が現れることを指す。
対して依存症とはそれらが排出されたあとでもそれらを求めてしまうことをいう。
沙羅の指摘にカレンが頷いた。
「そうよ」
「症状を緩和させたり中和させる薬はもう存在するよね?」
「ええ。知ってると思うけど、普通中毒の治療としてはまず摂取した薬物を体外に排出させるところから始まる。薬物を中和させる、いわゆる解毒剤の投与も有効だけれど、基本は体が少しでも吸収させないようにするわけね。でもサオリは、完全かつ速やかにドラッグを分解する治療薬を研究していたのよ」
カレンはどんどんヒートアップしていった。ハイになっている。もしかして徹夜したのだろうか。
「これが成功していたら薬物中毒患者の治療が飛躍的に進歩するわ。現在の体外に排出させる方法だとどうしても医療機関を頼らなきゃならない。でも服薬で済むなら、流通さえすれば自衛ができるわ。アフターピルみたいにね。もしかしたら依存症の予防にも有効かもしれない!」
アメリカではアフターピル――緊急避妊薬が薬局でも購入できる。日常的に服用することで避妊効果を得る低用量ピルの市販も、近年認可されたと聞く。日本ではどちらも医師の処方なしに入手することができない。
「でも成功していないよね? していたらとっくに実用化されてる」
さおりが亡くなったのは十九年も前だ。そんな完全治療薬が存在していたら、元DEA捜査官の沙羅が知らないはずがない。
「ええ。確証はないけど未完成だったと思うわ。けれどこんな薬、マフィアやギャングが狙う理由にはなるでしょう」
カレンの言葉に崚介が顔色を変える。
「まさか早坂夫妻の事件の動機は、強姦目的じゃなく彼女の研究資料だと?」
「それを調べるのはあなたの役目」
「早坂さおりの研究については調書に記載がなかった」
「ええ。ただ窃盗の形跡がないことだけは確認されてる。だから当時の捜査チームも単なる強姦犯罪ってことに落ち着けたんだと思うわ」
単なる。遺族としてはその言い方は少々引っかかるが、沙羅も捜査官だったらそういう言い方をしたかもしれない。もしこれが窃盗目的であったら、母の研究資料が巨悪に利用された可能性があるからだ。
「確かに裏組織の犯行なら、現場の偽装くらいはやってのける」
崚介は頭を抱えた。
「十九年も経ってる。今更証拠なんて」
「ねえサラ。サオリの研究資料を見られないかしら。あなたが持っているの?」
「それなら両親が生前勤めていた研究所にあるはずだ」
「問い合わせてみるわ」
「二十年近く前の研究資料なんて残っているものなのか?」
「研究が引き継がれてるかはわからないけど、さすがに破棄はされてないんじゃないかしら」
そうは言うが、カレンも自信がない様子だ。
「寄贈したのは六年ほど前のことだけど、こういう資料の保管期限ってどのくらいなんだろう」
「寄贈? 六年前って、中途半端に最近だな」
「二十三の時に両親が残した信託財産を受け取ったんだ。私も日本の家族も存在すら知らなかったんだが、こちらでは子に信託財産を残すことは間々あるだろう?」
「まあ、ある程度の資産を持っている家なんかは聞く話だな。子どもが成人したら財産を受け取れるようにするとか」
「私の場合、二十三歳になったらという条件付きだった」
「中途半端な年齢じゃないか?」
「大学卒業の歳という意味で設定されたらしい。大学に行かない可能性も含めて二十三歳ということらしいよ」
「なるほど」
「それで弁護士から日本の神崎の家に連絡が入った。当時すでにニューヨークで働いていて、その弁護士事務所がD.C.だというから直接出向いたよ。その中に母の研究資料もあってね。資産はともかく研究についてはよくわからないから、母の元職場に寄贈したんだ。古い資料がどれほど役に立つかわからなかったけれど、私が持っていてもしょうがないから」
「研究途中の資料が信託財産の一部だなんて珍しいわね」
「貸金庫に一緒に保管されていたそうだから、そちらはバックアップ代わりだったんじゃないかな。弁護士の話だと毎年更新していたというし」
「君が娘に対して色々と用意周到だったのは、母親を真似たのか」
「まあね。特に私の場合は逃亡者だったわけだから」
「もしかして、早坂さおりも身の危険を感じていたんじゃないか? だから信託財産として保管していた」
崚介の指摘に沙羅はしっくりこなかった。
「確かに成功すればすごいと思う。でも現在に至るまで成功していないということは、誰も研究を引き継いでいないということじゃないか? つまり研究は上手くいっていなかったんじゃ」
「それは、内容を見てみないとなんとも言えないわね」
「なあ。君は研究になにか関わっていたのか」
「関わるってどうやって? 私は十歳だったんだぞ」
「そう、だよな。でも君のお母さんが研究していた薬は、まるっきり君の体質そのものだ」
崚介の言い分ももっともだった。
「研究資料がないから、今は空想しかできないわ。でも娘の体質から着想を得て研究していた可能性は大いにあるわよね」
「君は資料の内容を覚えているか?」
「いいや。何かの治療薬の研究らしいとは聞いたけれど、すべて英語だったし。さすがに研究用語まではわからないと思って読みもしなかった」
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