アスモデウスの悪戯

ミナト碧依

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18.パターソン科学研究所

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 カレンが問い合わせたところによると、早坂はやさか夫妻が生前勤めていたパターソン科学研究所で、現在も研究資料が保管されていることがわかった。だが研究資料は部外秘で持ち出しは不可能との返答だった。
 ただし研究者の親族である沙羅さらならばと閲覧許可が出た。そのため特別に沙羅に外出が許される。
 沙羅は崚介りょうすけとともにパターソン科学研究所に向かった。四年ほど前に社屋が建て替えられたばかりだという研究所は、白が印象的な近代的な建物だった。
 ガラス張りの応接室に通され、だだっ広いテーブルに落ち着かない。廊下を行く研究員の視線を感じる気がするのは、自意識過剰だろうか。
 そう思ったが、沙羅はナーヴェから追われる身だ。崚介も沙羅が人目につくのは好ましくないようで、研究所の中を見物するふりをしてさりげなく沙羅を隠す位置に立った。
 しばらく待ってドアをノックする音がした。
 入室してきたのはシルバーグレイヘアの男性だった。年齢は六十代ほどだろうか。3ピースのブラウンのスーツを着こなし、髪と同じ色の髭を上品に蓄えている。足取りは悠然としていかにも紳士だ。
 紳士は立ち上がった沙羅に目を留めると、琥珀色の目を見開いた。
「サオリ……!」
 まるで幽霊でも見るかのようだった。
 沙羅はたしかに母に似ている。だが日本では母を知る人は神崎の父や天谷の大先生くらいだった。幼い頃から日常的に顔を合わせる人たちがこんな風に驚くことはない。そのため紳士の反応は新鮮なものに感じた。
「母をご存じで?」
 沙羅が言うと、紳士は我に返った。
「あ、ああ。そうか、君は彼女の娘なんだね。驚いた。彼女に生き写しだ」
「じゃあ美人だったんですね」
 崚介の軽口に、紳士は表情を緩ませた。
「ああ、そうだね。当時は研究所にアジア人が少なかったから、神秘的な美女が現れて皆色めき立っていたよ。残念ながら人妻だったが。――ジョン・パターソンだ」
「早坂沙羅です」
 今の本名は神崎かんざきだが、沙羅は両親の姓を名乗ることにした。
「崚介・J・コールマンです。今日は彼女の付き添いで」
 崚介は本名を名乗ったが、捜査官だとは言わなかった。彼の潜入捜査は終わっていない。リチャードの正体がFBI捜査官であるとばれないように、なるべくなら明かしたくないのだろう。
 所長に促されて、一同は席に座る。
「パターソンというと、この研究所の?」
 崚介が尋ねると、パターソン所長は鷹揚おうように頷いた。
「ああ。ここは私の一族が代々経営する私設研究所だ」
「これほどの研究所を……すごいですね」
「寄付金も受けてはいるがね。パターソン家は元々海運業で財を為した一族で、過去に得た土地や財産があるんだよ。一族会社もいくつかあるしね。で、そんな商人一族の中では珍しく研究オタクだった次男坊が、実家の財を使ってこの研究所を立ち上げたのさ。初代所長だね。いまだにセレブの道楽と揶揄されることも多いよ。まあ否定しないが」
 はっはっはとパターソン所長が明朗に笑う。
「公的機関ではないから、才能さえあれば誰でも自由な研究ができるというのがうちのモットーだ。その分結果も求めるけれど」
 所長は茶目っ気たっぷりに綺麗なウインクをして見せた。そして天井を仰いで過去を懐かしむ。
「サオリは発想が柔軟でいつも驚かされたよ。突拍子もないことをしだすことがあるから時々心配したけれど、その辺りはアキラが目を光らせていたな」
 父の晃は妻さおりの助手だった。当然さおりが上司だったはずだが、それを聞くと立場が逆だったように聞こえる。もしかして助手というよりストッパーの役割だったのだろうか。正直上司部下の関係よりも、そちらの姿のほうが目に浮かぶ。
「パターソン所長は、私の両親と親しかったのですか?」
「当時は私も経営側ではなく一研究者だったからね。研究チームは違ったが、サオリとはよく議論したものだよ。華奢な見た目に似合わず、とてもパワフルで優秀な女性だった」
 世間話はここまでだった。パターソン所長は沙羅を見据え、本題を切り出す。
「それで、サオリの娘がどんな御用かな?」
「母の研究資料を見せてもらいたいんです」
「それは構わないよ。君は研究の成果を受け取る権利を放棄していないしね」
「そうなのですか?」
「おや、知らない? 研究そのものは寄贈という形だから我が研究所のものだが、君はご両親の遺産の一部でこの研究の利益に対する権利だけは買い取ったんだ。いわば出資者なんだよ。君が知らないということは、弁護士が優秀だったのかな」
 だから部外者の沙羅に閲覧許可が出たのかと納得した。
「当時はすぐに手放してしまいたくて。その、すぐ済ませたかったものですから」
 両親の遺産の現金についても、ほとんど寄付にあててしまった。それがそんな使われ方をしていたなんて。弁護士の勝手を怒るべきか、有能さを褒めるべきかわからない。
「どうして今更? 君は研究者にはならず、だからこそ資料を我々に預けたと聞いていたけれど」
「ご存じだったんですね。実は両親の事件のことがトラウマで、当時のことを思い出すものはすべて遠ざけていたんです。だから研究資料を相続した際も、ほとんど見ずに手放してしまって。でももう乗り越えなくてはとこちらへ来ました。どんな仕事をしていたのか分かれば、両親の人となりがわかるかと思って」
「そうだったのか……。あれは気の毒な事件だった。今更だけど、お悔やみを」
「ありがとうございます」
「にしても、どんな心境の変化だい? 二十年近くも経っているのに」
「それは」
 その理由までは用意していなかった。戸惑う沙羅の手に、不意に崚介が自分の手を重ねた。
「俺が彼女にプロポーズをしたんです」
「崚介⁉」
「でも彼女はずっとご両親のことで苦しんでいて、なかなか受けてくれなくて。それで話し合って、当時のことに向き合ってみようということになったんです。研究資料を見たいと思ったのも、ご両親のことが少しでもわかるかと」
 パターソン博士が困惑気味に沙羅を見る。沙羅は曖昧に微笑んだ。
 過去のトラウマと恋人との未来の間で迷う女性に見えただろうか。少しして所長は納得したように頷いた。
「そうか。ただトラウマというのは簡単なものではない。彼女と結婚したいのはわかるが、君も焦って彼女の気持ちをないがしろにしてはいけないよ」
「もちろんです。彼女がこうやって勇気を出してくれただけでも誇らしい」
 なんだか本当に恋人のように振舞う崚介に居たたまれなくなる。先日電話が鳴らなければキスしていただろう。崚介はあの日のことをどう思っているのか。沙羅は何度も思い出し、崚介のベッドで何度も自分を慰めてしまった。
 パターソン所長は研究資料だけでなく、当時の写真なども用意してくれた。
「やっぱり美人だな。君によく似ている」
 事件調書にも両親の顔写真は載っていた。けれど証明写真ではなく気の知れた仲間たちとの写真は、やはり生き生きとした表情をしている。目頭がつんとした。
 十歳というのは、我ながら微妙な年齢だ。多くないというほど両親との思い出を過小評価できないが、二十年近くも経っている。今の沙羅にとって両親を亡くしたことはただの事実でしかなく、心が乱されることもなかった。そんな自分は薄情なのだと理解していたくらいだ。まさか今になってこんな感情に出会うとは。
 さりげなく顔を逸らそうとしたが、崚介に肩を抱き寄せられる。
「我慢しなくていい。今は恋人役なんだから、自然だろ?」
 その言葉に甘えて、額を崚介に擦り付ける。静かに涙を流す沙羅の頭を、崚介が優しく撫でた。
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